第二部:第四十三章 崩れゆく帝国
封印の儀式から三日後――。
中立都市ルセリアには、不穏な風が吹き始めていた。
それは風の音ではなく、遠く帝国ガルザーンから届いた、荒れ果てた叫び。
“黒いささやき”を依代にしていた将軍グレオスが崩れたことで、帝国は急速に統制を失っていた。
「首都では複数の貴族派閥が衝突を始め、内乱に近い状態になっているらしいわ」
研究所の地図に刻まれた赤い印を見つめながら、ラウラが淡々と説明する。
麻希は、その話を聞きながらも落ち着かず、ちらちらと直哉の横顔を見ていた。
「……わたしたち、行くべき、だよね」
そう呟いた彼女の声は、静かだけど揺るぎがなかった。
「帝国の民は、何も悪くない。きっと、ささやきに頼るしかなかった弱さが、あそこを蝕んでた。
なら、今度は……わたしたちの声で、あの場所を変えられるかもしれない」
直哉は少しだけ驚いたように彼女を見つめ、そして、穏やかに微笑んだ。
「そう思えるお前が、やっぱり……すごいな」
「え?」
「俺だったら、正直“もう関わりたくない”って思ってたかもしれない。
でも、お前の目は、全然迷ってない。今、この世界でいちばん強い目してる」
麻希はほんの少しだけ顔を背けた。けれど、耳まで赤くなっているのを直哉は見逃さなかった。
「そ、そんなの……わたしだって怖いよ。でも……」
彼女がふいに振り返り、まっすぐな瞳で見上げる。
「あなたが隣にいてくれるなら、怖くないって、そう思えるの」
“ドクン”と、心臓が跳ねた。
麻希のその言葉が、思いがけず深く響いたのだ。
「……麻希」
「な、なに……?」
ふたりの距離が、じわじわと近づく。
「今、キスしても怒らない?」
「えっ、い、いま……!?」
麻希の声が裏返った瞬間、直哉はそっと彼女の手を取り、胸に当てた。
「……今の俺の鼓動、すごく速いだろ。お前の言葉で、こうなったんだよ」
「……なおやのせいで、わたしも速くなったのに……」
彼女が、ほんの少し唇を噛んだあと、小さな声で続けた。
「……でも、いまは……もうちょっとだけ、見つめてて」
直哉は、驚き、そして嬉しそうに笑った。
「もちろん。見つめるだけでよければ、いくらでも」
「……ばか……」
その呟きは、どこかくすぐったくて愛おしい。
ふたりは向かい合ったまま、何も言わず、ただそのぬくもりと鼓動のリズムだけを共有した。
世界がまた荒れ始めているというのに――
この研究所の一角だけが、まるで切り取られたような静けさに包まれていた。
◆
そしてその夜。
ふたりは、ルセリアの塔から夜の街を眺めていた。
遠くの灯りがきらめき、風が涼しく頬をなでる。
「直哉」
「ん?」
「わたしね……この旅が終わっても、ずっとあなたと一緒にいたいと思ってる」
「……」
「戦いが終わったら、どこかに家を建てようよ。あの花の谷でもいいし……湖の見える丘とか」
「お、いきなり未来設計……」
「だめ?」
「いや。最高」
直哉が彼女の肩をぐっと引き寄せる。
「その未来、ぜったい叶えよう。……今度こそ、誰にも壊させないように」
「……うん」
麻希は、寄り添う彼の胸にそっと頭を預けた。
その温度が、世界でいちばん落ち着く場所だった。
――帝国の混乱は、すぐそこに迫っている。
だが今この瞬間だけは、ふたりの恋だけが、すべての闇を押し返す光となっていた。




