猫屋敷律子の共感覚事件簿 5
地獄の持久走が終わり、僕は自分の教室に戻って来た。
制服に着がえて椅子に座ると、どっと疲れが押し寄せてくる。
僕は普段ミステリー小説は読まない。
探偵でも無ければ、ミステリ好きでもない。だからさっき上野が犯人だったと聞いて、僕は頭を抱えるしかなかった。
どうして上野が犯人なんだ? 証拠は? 動機は? そもそもブレスレットを盗めるのか?
普通のミステリーだと、証拠を見つけてから犯人が明らかになる。
でも今回の場合は、先に犯人が分かっていて、その後に証拠を見つけなければいけない。
猫屋敷は頭を使うのは無理だと自分で言っている。だから僕が証拠を探すしかない。
でも、分からん。上野が犯人である証拠って何だよ?
自分で頭脳担当とか言ったのが恥ずかしい。これならミステリーを勉強しとくべきだった。
だけどそんな事を言ってもしょうがない。今は分かっていることを整理するべきだ。
もぐもぐ。僕はチョコを食べて糖分を補給した。これで少しは頭が回る。
まずこのブレスレットの盗難は、体育の時間に起きた。
岡崎が一組の自分のロッカーにブレスレットを入れた。そして授業が終わり、着替える時には無くなっていた。だから岡崎が教室を出た後に犯人が盗んだわけになる。ここまでは大丈夫。
そして猫屋敷いわく、犯人は上野らしい。
正直、今でも僕は新井が怪しいと思っている。
それに上野にはアリバイがない。上野は体育の時間はずっと山本と行動していた。山本から聞いた話では教室に帰る時も、着替える時もずっと一緒だったらしい。
だから上野に岡崎のブレスレットを盗む時間はない。そもそもブレスレットを盗む理由が分からない。
あー、もうダメだ。気づいたらチョコを六個も食べていた。
「なんで僕だけこんな頭使ってんだよ。こんな時に猫屋敷は何やってんだ?」
ふと顔を上げると、真上に猫屋敷の顔があった。
「うわああああ!」
ここにいたのかよ。慌てて立ち上がったから、つい頭がぶつかった。
「犬井くん、声が大きい。あと、ぶつかった。ここ、ぶつかった」
彼女はぶつかったおでこをさすっていた。
「それはごめんよ。だけど、いるなら声くらいかけても良いじゃないか」
「集中してたわ。だから見守ってたの。ダメだった?」
顔が近い。近くで見ると彼女はほんとに人形みたいだ。
「ダメじゃないけど。まあ、その話はもう良いよ。それより君に聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと?」
彼女は顎に手を当てて、何やら考え込んでいる。
「バストサイズ?」
「違うし、二度と言うな。そうじゃなくてさ、感情の色が見えるんだよね? それなら上野の感情とかも色で分かったりするの?」
「分かるわ」
即答かよ。
「だったら教えてくれないか? 印象的な色とかでも良いからさ」
そう言うと彼女は突然、胸元のボタンを開けた。だからバストサイズは聞いてないんですけど。
「ちょっといい加減に!」
そう言いかけたら、猫屋敷は胸から一枚の紙を取り出した。彼女は純粋な目でこっちを見てた。
あ、紙を取り出したのね。いや、普通に考えて胸に紙は入れんだろ。紛らわしいことをするな。
「クレヨンで塗るから待って。…………出来た。はい、あげる」
「あ、どうも」
僕は気持ちを整えて、紙をじっくり眺めた。
「な、何だよこれ! 完全に子供のラクガキじゃないか!」
「ラクガキじゃないわ。見えた色をそのまま塗ったの」
確かにクレヨンでびっしり塗られている。それにしても共感覚だと感情がこんな風に見えるのか。
「それでこの赤と青は? ほとんど対極的な色なんだけど」
クレヨンには色んな色が塗られてたけど、赤と青が大きく占めていた。
「ブレスレットの話をした時、上野さんから強く見えたの」
「だけどこうも反対の色が見えるかね」
感情の色ね。
うーん。やっぱり嘘くさいよな。
「つまり上野はどんな気持ちなの? こんなの見せられても僕は分かるわけないよ」
「わたし、分かるわ」
「君は分かるかもしれないけど、僕にはさっぱりなんだよ」
いくら上野の情報が欲しいからって、猫屋敷に頼るのは間違いだったか。そもそもこんな非現実的な方法で解決策に繋がるとも思えない。
どうしたものか……。
机に伏していると、横から岡崎の声がした。
どうやら岡崎と新井が教室に戻って来たらしい。そう言えば購買に行っていたんだよな。
「あれ、猫屋敷さんも来てたのかい?」
こくりと彼女は頷く。僕は岡崎の恰好を見た。
「岡崎くん、どうしてまだ制服に着替えてないの?」
横の新井も体操服だ。
「そんなの決まってんじゃん。だって着替えてたら購買でパン買えねえだろ。競争率が凄いのなんの。こんなの常識だぜ。もしかして、犬井ってアホな感じ?」
新井がそんなことを言ってくる。正直殴りたいけど、それは今どうでもいい。
「いつも体育の日は着がえずに購買に行くの?」
「うん、昼を持ってきてない人はみんなそうしてるよ。だけどこれがどうかした?」
僕は総菜パンを持ってくるし、ずっと心理学の本を読んでいたから気付かなかった。
やっぱり視野が狭くなっていた——あっ、そうか!
これなら上野さんも岡崎のブレスレットを盗めるじゃないか!
体育はいつも四限目にある。
だからブレスレットを盗まれた日も、岡崎は体操服に着がえずに購買に向かったわけだ。
いつも岡崎が購買に行くことを知っていたなら、彼が教室にいない間に、上野さんがロッカーからブレスレットを盗むことが可能になる。
「犬井くん、笑ってるけど何かあったのかい?」
「あ、いや何でもないよ。ただの思い出し笑いだから」
「不気味だからその顔やめた方が良いぜ!」
岡崎たちにはまだ言わない方が良い気がする。二人が去った後、僕は猫屋敷にだけ説明した。
だけど彼女の顔は浮かない。ここは喜ぶべき時なのに、どうしてそんな顔をするんだ。
「犬井くん。わたし、何か見落としてる気がするわ」
「何を見落としてるんだよ。上野が盗んだ理由は確かに分からない。でも彼女にはブレスレットを盗むことが可能だった。これもすごい発見だろ。それに彼女が犯人だと言ったのは君じゃないか!」
「そうね……」
そんな顔をされたら、僕まで不安になるだろ。
まだ何か、僕は見落としているのか?
もしかすると重大なヒントを見落としているのかもしれない。こんな時にドラマの中の探偵なら気づくだろうが、僕はどこにでもいる高校生だ。そんな推理力とかを求められても困る。
約束通りに、僕は上野犯人説の証拠を集めた。ここまで猫屋敷に付き合ったんだから、逆に感謝して欲しいくらいだ。
「いや、それは考えすぎだよ。今日の放課後、上野に会いに行こう。これでブレスレットの問題は解決するよ」
「そうね……」
そう答える猫屋敷はまだ浮かない顔だった。だけどここで尻込みしても問題は解決しない。僕は一旦頭を整理するためにトイレに向かった。後ろを向いたけど、猫屋敷は付いてきていない。
これで少しは落ち着ける。そう思っていたら、後ろから走ってくる音がした。
「い、犬井君。ちょ、ちょっと待ってぇええ!」
振り向くとそこにいたのは山本だった。可愛い女子に追いかけられるなんて、なんか感激だ。だけど彼女の表情は切迫していた。
「そんなに急いでどうしたの?」
「あ、あの、あのね。私ね、さっきね、そのこれがね……」
「良いから落ち着いてよ。話はちゃんと聞くからさ」
山本は肩で息しながら、顔が赤くなっていた。もしかしてそれだけ急用なのかもしれない。彼女は深呼吸をしてどうにか落ち着いた。
「それで何があったんだ?」
「は、はぁい。その、実はさっき、私のロッカーの中にブレスレットが入ってたんです!」
「ブ、ブレスレット?」
「はい、盗まれたブレスレットです! さっき着替えている時に入ってたんです!」
山本はスカートのポケットから、盗まれたブレスレットを取り出した。
「こ、これがさっき入ってたんですけど……」
頭を押さえた。どういうことだ? このタイミングで岡崎のブレスレットが返ったのか?
でもどうして山本のロッカーに入れたんだ? 分からない。どうして今なのかも分からない。
もう分からないことだらけだ。トイレで頭を整理したかったのに、余計にこんがらがってしまった。
「でもこれでブレスレットは返ってきたわけだし、一件落着じゃないの?」
「そ、そうですけど、私はまだ納得できません! このブレスレットを盗んだ人が誰なのか、どんな思いでそうしたのか、はっきりさせたいんです!」
山本に抱いた第一印象はゆるふわ系女子だったが、どうやら僕は見誤っていたらしい。彼女はかなり心が強かったようだ。
確かにまだ不明な点は残る。上野が犯人だったとして、どうして山本にブレスレットを返したのか、白黒つけたい気もする。
山本の手の中にあるブレスレットと、彼女の腕についているブレスレットを見比べる。
「あっ、そう言えば、前にブレスレットが緩くなってたけど直したんだね」
以前、山本のブレスレットを借りた時、緩んでいたせいで腕から落ちたのだ。
「ほ、ほんとだぁ⁈ でも、私直したはずないんだけどなぁ。あれ、どうしてなのかな?」
彼女は不思議そうな顔で、自分のこめかみを押さえていた。やっぱり彼女は天然のようだ。
「いやいや山本さん、緩みが勝手に直るわけじゃないか。きっと自覚がないだけで直したに……」
「……どうかしたんですか? もしもーし、犬井君?」
いや、待てよ。あれ? 何だ、この違和感
は……。
おかしい。山本のうっかりミスだと思えば良いのに、何かが引っかかる。
『犬井くん。わたし、なにか見落としてる気がするわ』
さっき猫屋敷に言われたことが頭の中に反響する。こんな時にどうして彼女の言葉が浮かんだのか、それは僕にも分からない。
だけど、ひょっとしたら……。
「山本さん、ちょっと二つのブレスレットを見せてもらっても良いかな?」
「そ、そんなことで良ければ……」
受け取った二つのブレスレットを確認した。そうだったのか。この違和感はそのせいだったのか。
僕はずっと大きな誤解をしていたようだ。
「い、犬井君、どうして笑ってるんですか?」
「気にしないで良いよ。ただの思い出し笑いだから」
「で、でも人前でその顔は止めた方が良いですよ。ちょっと怖いですから……」
「あ、うん。ごめん」
僕の笑顔ってそんなに怖いのかな?
以後、気をつけよう。