表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

逢坂の関はゆるさじ ーー紫式部に転生してわかったことーー

作者: 杉下栄吉

ゲーム機や携帯ゲームの出現で若者の活字離れはエスカレートしている。しかし読書文化は大切なものであり、何とかしなくてはいけない。そんな社会への提言を作品の中でアピールできたらと考えて書き上げました。作中、清少納言や定子、藤原道長などが出てくる歴史好きには楽しめる作品だと思います。是非最後まで読んでいただき、評価や感想、ブックマークをお願いします。

1、出版不況

 

 若者の活字離れは深刻さ増している。スマートホーンの出現で小説も比較的短いデジタル小説が幅を利かせ、紙の出版物はほとんど売れなくなってきている。10万部売れたらベストセラーである。通常は初版で2000部ほどしか印刷しない。テレビドラマでも放送時間に合わせてみる人は少なく、アプリを利用したりサブスクを使ったりして時間のある時に倍速で視聴している。ゆっくりと時間をかけて小説を読むというスタンスが時代の流れに合わなくなってきているのだろう。


 東京、神田周辺には古本屋も多いが大手の出版社が数多く立地している。その中で講文社は老舗の出版社で、多くの有名作家を輩出してきた。現在の社長は一条徹也いちじょうてつや。文藝部編集長時代に駆け出しの推理作家、西野健吾を見出し、日本一の売れっ子作家に育て上げた。さらに映画やテレビドラマなどの映像化を実現し、会社に多大な利益をもたらしたことで社長にまで昇りつめ、10年が経とうとしている。現在は65歳。しかし、活字離れが始まり、印刷して宣伝すれば売れた時代は終わり、新しい出版業界の戦略を迫られていた。


 彼が社長就任前から社内で不倫関係にあったのが、彼の下で編集に携わり、彼の後を継いで編集長になった吉川定子よしかわさだこ、55歳だった。忙しい2人は毎週水曜日の夜、紀尾井町の決まったホテルの決まった部屋で会っていた。2人とも配偶者はいたが、20年前から編集長と部下という関係で、仕事上の同僚であり愛人としての関係が続いていた。


「遅かったじゃないか。今日は忙しかったのかい。」

一条社長が部屋のドアを開けて吉川定子を出迎えた。15階の1515室、15(いちご)が3つ。覚えやすいということで毎週水曜日、年間契約でこの部屋を押さえた。今日の定子は黒っぽいタイトスカートで白っぽい半袖のブラウスを合わせている。夏らしい服装だったが、年齢相応な感じで地味な感じは否めなかった。

「締め切りの仕事が重なって、なかなか出られなかったの。食事は済ませたの?」

と一条に聞くとグラスワインを飲みながら

「君が来るのを待っていたんだ。ルームサービスにするかい。」

と一条が言うと定子は

「そうね。ルームサービスって、すごく贅沢で非日常感がたまらないわ。」

と同意した。

彼女はビーフシチューとパンを、一条はカツサンドとサラダを、飲み物は白ワインを1本オーダーした。ルームサービスが来るまで一条社長が飲んでいた赤ワインのグラスをもらって飲みながら

「ねえ、会社の組織再編、どうなっているの?まさか文芸部を閉鎖なんかしないわよね。最近はヒット作がなくて会社に貢献できてないけど、講文社は小説や随筆のハードカバーの出版が主流だったはずよ。老舗出版社が文芸作品の出版をやめてしまったら日本の文学界はどうなるの?」

と問いかけた。一条社長は困った表情をしながら

「会社としても文芸作品は残したい。でも時代の変化が激しくてね。みんな活字を読まなくなっているんだ。新聞ですら読まないからって契約解除する家が増えているんだ。かろうじて売れるのはマンガと携帯小説くらいだからね。再編計画はいま、審議中だよ。」

と会社の経営の問題であることを強調した。しばらくするとルームサービスが運ばれてきたのでワインを継ぎ直して食事をした。ビーフシチューはこのホテルの看板メニューで牛肉の大きなブロックは柔らかくなるまで煮こまれていた。一条のカツサンドもパリッとした食感で、65歳の一条の歯でも柔らかく食べられる最高級の物だった。ゆっくりと食べながら合わせた白ワインはフランスのシャブリで、芳醇な香りだがしつこくなく、さらっとしたのど越しが素晴らしかった。

「おいしいわね、今日のワイン。高いんじゃない。」

「心配しなくていいよ。生きている間に美味しいものを楽しまなくては。」

折角一週間ぶりに来たホテルを満喫しようと促した。

食事が終わると2人はいつものように一緒にシャワーを浴びた。吉川定子は肌の張りは若い人にはかなわないが、55歳とは思えないようなスタイルで、スリムな体は若い時と何も変わっていなかった。一条社長はそんな定子を20年来、愛し続けていた。


 翌日、会社に小説家の清原納里子きよはらのりこが文芸部編集長の吉川定子を訪ねて来た。清原と吉川はかねてからのヒットメーカーコンビで何本もの小説が数十万部の売り上げを記録してきた。出版不況が進んできたこの10年で数十万部売り上げるというのは大変珍しいことであった。まさに売れっ子作家なのだ。一条社長に西野健吾がいたように、吉川定子を支えたのが清原納里子だったのだ。清原もまた吉川に感謝していて、自分が文壇にデビューできたのは吉川のお陰だし、ヒット作を連発できたのも時代の流れを的確に読む力を持った吉川のアドバイスだと公言していた。


 文芸部の部屋に入って来るなり清原が

「吉川編集長、お久しぶり。少しお話できませんか。」

と手に持ったドーナツの箱を吉川に手渡しながら大きな声で話した。吉川は手土産を受け取ると

「ドーナツ頂いたわよ。ここに置くからみんなで食べてね。」

と言って中央のテーブルに置くと、清原を隣の応接室に案内した。


 応接室に座った清原は開口一番

「文芸部が再編されるかもしれないって聞いたんだけど、吉川さん、本当ですか。」

とまくし立てるように一気に話した。吉川編集長が社長の言葉を引用しながら

「現在、検討中らしいわ。会社の経営のことを考えると、今の時代に合った組織に変更しようというのが方針ですって。私も文芸作品はこの会社の主力商品だったんだから、文芸作品を出版しなくなったら駄目よって強く言っておいたんだけど、どうなりますかね。」

と少し諦めたような弱気な発言をした。清原はそんな吉川に

「編集長、若者の活字離れだからって出版業界が文芸作品から撤退したら、ますます活字離れが進み、世の中、本も読まないバカばっかりになってしまいますよ。何とかしなきゃだめですよ。」

と元気づけた。そんな清原に吉川定子は

「こんな老いぼれに何が出来るって言うのよ。」

とふて腐れたような口調で言うと清原は

「そうだ、私、なんか面白そうなものを書いてみましょうか。昔、遠藤周作先生が晩年になって『狐狸庵先生○○記』とか連作で書いていたでしょ。ターゲットを中高生に絞るか、50代以上に絞るかはっきりさせて、面白おかしい随筆を書いてみるのはどうかしら。文学作品としての価値よりも、のり上げを上げて文芸部の存続を第1の目標にするの。売れれば社長も考え直すんじゃないかな。」

と意気込んだ。吉川編集長は

「売れれば随筆であろうと小説であろうとどっちでも構わないのよ。数字が大切なだけだから。この世の中を皮肉りまわすのは痛快かもしれないわね。」

と少し機嫌がよくなってきた。続けて清原も

「最近のデジタル小説や携帯小説は、短い高校生の作文みたいなものばっかりなのよ。作家になりたいという若者は多くて、書いていることは結構だし、作品をネット上にアップしてお互いに読みあっているのはいいんだけど、転生するものや時代をワープするもの、妖怪が出てくる物、御姫様が何回も生まれかわる物など、発想が誰も思いつかないことを生み出せばいいみたいな感じで、家族の軋轢とか恋人たちの駆け引きとか生き方を考えるとかそういう純文学のようなものは皆無なの。そんなのでいいと思う?日本の文学はどういう方向へ向かっているの。時代に抗うような文学作品が必要だと思いませんか。」

と威勢の良いことを並べた。吉川編集長は

「そうよね。私たちの仕事は儲けるためだけにやってるんじゃないわ。日本の文学界の発展と日本社会の悪しきものに抵抗するためにペンをとっているのよ。これまでの歴史の中で多くの先輩たちが、命がけで社会に抵抗して書き続けてきた。いわば社会の必要性に応えてきたんだ。清原さん、私たちは社会に、そして会社に抗いましょう。頼むわよ。」

と清原の肩を叩いた。威勢よく締めくくられた話し合いだったが、ここから清原の苦悩の日々が始まった。


 そんな清原と吉川を尻目に快進撃を続けているのが5年前に新設された現代小説部だ。編集長は上原彰子うえはらあきこ、45歳。マンガと共に講文社の利益を支えるデジタル小説を手掛ける部署だ。若者から絶大な人気を博し、映像化された作品も数多く残している。そんな上原編集長を支えるのが新進気鋭の人気作家、紫島葵しじまあおいである。紫島が書く恋愛小説は人気の漫画家の挿絵を豊富にとりいえ、デジタル小説としてネットにアップされると、瞬く間に10万ダウンロード以上が発売される。紙を使わないので印刷費もいらないし、とにかく経費が掛からない。紫島をカリスマ小説家に仕立て上げた上原彰子の手法は、30歳になったばかりの紫島を、現代の紫式部としてテレビに出演させたことにあった。紫島は20歳の頃から書いていたが、上原がゆっくりと育ててきた。題材の選び方、表現の仕方、読者のターゲットを絞り方など、売れる作家として必要なノウハウを伝授し、一人前に仕立ててきたのだ。そして何よりも紫島が美人だったことがテレビ関係者からもてはやされた。30歳という年齢の妖艶さとその美貌、そして彼女の作家としての知性。両面を兼ね備えた彼女が番組のゲストとして2,3回出演した段階で、知名度は一気に高まり、出演オファーが殺到したのだ。上原は紫島というアイドルタレントを売り出す、芸能プロダクションの営業マンのように働いたのだ。その甲斐あって、上原と紫島は出版業界で、最高のタッグを組んだのである。


 そうなってくると一条社長も積極的に関わってきた。まだ若い紫島には近づかないが、45歳の上原彰子にはアプローチをかけてきた。吉川定子がスリムでクールな印象の美人なのに対し、上原彰子は小柄ながら顔立ちが童顔で、いくつになっても若く見えるタイプだ。一条社長からのアプローチはまだ不定期で、吉川のように毎週水曜日に定期的にとまではいかないので、一条社長の中宮の座はまだ奪うところまでは達していなかった。


 紫島の新作が20万ダウンロードを記録したことから一条社長が上原編集長と紫島葵をホテルインペリアルの最上階の展望レストランへ招待した。上原彰子は高級ホテルということでドレスアップして入って来た。胸元を大きく開けた黒のドレスで、スカート部分はひざ丈より少し上で、彼女の童顔とアンバランスで、かえってセクシーに見えた。

もう一人のプリンセス、紫島葵は赤いミニのフレアスカートで白のブラウスを合わせている。35歳には少しきつく見えるが、高級ホテルではなぜか場に合ってしまう。窓際のテーブル席で2人が来るのを待っていた社長は、2人の美女を立ち上がって迎えた。

「やあ、今日は2人とも一段ときれいだね。」

と言って上原の手を引き寄せてハグした。紫島には手を伸ばして握手するにとどまった。やはり65歳の一条にとって35歳の紫島は若くて気が引けたるのだろう。

一条社長は

「飲み物はシャンパンからでいいかな。もう頼んでおいたから。それにしても紫島さんのデジタル新作、すごい売れ行きなんだね。有難いよ。社長としてお礼を言います。今日は思う存分に食べてください。」

と言って、来たばかりのシャンパングラスで乾杯の音頭をとった。


 優雅なスカイビューのレストランでコース料理を堪能して最後のコーヒーを飲み終えると紫島は

「ごちそうさまでした。私はせっかく都心に出てきたから、今から友達に会おうと思います。お先に失礼します。」

と言って先に出て行ってしまった。残された2人はお互いに顔を見合わせ、一条がポケットからカードキーと取り出して上原彰子に見せた。上原は彼を見つめて少し微笑んで、合意のサインとして無言で頷いた。そのまま2人は30階のレストランフロアから21階へ降り部屋に入った。ホテルを出たのは12時近くだった。



2、清原納里子 反撃の随筆


 一条社長と上原彰子がインペリアルホテルで密会をした次の水曜日、吉川定子はいつものように紀尾井町のホテルの1515室に行く予定を立てて、仕事を早めに終わる段取りでいた。副編集長に各種の小説の仕上がり段階を確かめ、部員のみんなにも無理な残業を言いつけず、率先して早く帰ろうとしていた。しかし6時過ぎに携帯電話にメールの着信音があった。カバンから携帯を取り出し、手にとって待ち受け画面を確かめると、一条社長からのメールが待ち受け画面に表示された。


『すまない。今日は行けない。また今度。』


というメールだった。吉川定子は何か冷たいものを感じていた。先週はホテルに行ったが、食事だけして社長は娘夫婦が尋ねてくるからと言って、早めに帰って行った。そして今週は会う事すらキャンセルになった。早く会社を出ようとしていたのに、用事が無くなってしまった。予定が開いてしまうと、家に帰るわけにもいかなかった。家では、毎週水曜日は仕事の締め切りがあるので、遅くなると言ってある。もしかしたら、夫も不倫相手を家に連れ込んでいるかもしれない。予定外の行動をしてしまうと、思わぬ修羅場になってしまう可能性もある。そう考えると時間をつぶさなくてはいけなくなり、彼女は銀座のすし屋に予約を入れ、清原納里子に電話をかけた。


「納里子、今は暇なの?執筆中だったかしら。私、急に時間が空いてしまったから、今から銀座に出ようと思うんだけど、あなたも出てこない?」

と言うと清原は

「どうしたんですか。めずらしいな。編集長が出て来いって言うんだから、行かないわけにはいかないでしょ。いつものすし屋ですか。」

と問うと吉川は

「そうよ。2丁目の寿司『与一』で待っているわ。」

と言って電話を切った。手荷物をまとめて部屋を出ると、エレベーターで地上階に降り立ち、会社の前の通りでタクシーを拾って銀座まで走った。


夕方で道は混んでいたが20分で銀座2丁目につき、寿司『与一』に直行した。この店は一条社長に教えてもらってから、いろいろな作家たちを接待するのに使ってきた馴染みの店だ。若手の作家たちには、会社の接待費で思い切り食べさせると、また連れて来てもらえるように努力するようになるし、文豪と呼ばれる作家たちを接待するには、このクラスのすし屋を使い、さらには2次会で銀座の高級クラブへ連れて行かないと満足してくれない。


 店の暖簾をくぐると威勢のいい職人たちの声で出迎えられ、カウンターの席に案内された。『与一』というのは店長の名前で、名字は田川と言うらしい。この大将とは20年来のつきあいだ。とりあえずビールをもらって一杯やっていると、程なく清原がぼさぼさの頭で入って来た。

「吉川先生、お招きいただきありがとうございます。」

と挨拶すると吉川は

「先生はやめてよ。あなたこそ売れっ子の大先生じゃないの。大将、この人のことを知っているでしょ。」

と大将に振ると大将は

「何回か来ていただいていますよね。確か清原先生でしたっけ。」

とうろ覚えだった。

「大将、ダメじゃない。こんな人気作家の名前をしっかりと覚えてないなんて。『忘れられない夏』で芥川賞を取って『刑事坂倉大吾』は映画化もされた大先生よ。しっかりご挨拶してね。」

と大将に紹介した。大将はしっかりとお辞儀して、丁寧にご挨拶をしたが、今日の清原の恰好はどう見ても大先生には見えない。頭はぼさぼさで、ついさっきまで頭を掻きながら執筆していましたという感じだし、洋服はスエット生地のパジャマのような感じで、化粧もほとんどしていなかった。吉川が服装についてどうしたのかと聞くと

「ごめんなさいね。吉川大編集長からのお呼び出しだったから、とにかく待たせないようにと思って、仕事部屋にいた時の恰好そのまま出て来てしまったの。銀座に来る格好じゃないわね。」

と笑っている。

 お任せで寿司やお刺身をたのみ、ビールから日本酒に替えて気持ち良く飲んでいた。しかし清原が今日が水曜日であることに気づき

「編集長、今日は水曜日だけどいいんですか。以前、『水曜日は誘わないでね』って言ってましたよね。」

と聞くと

「ボスが最近冷たいのよ。先週は娘夫婦が来るって言ってさっさと帰っちゃうし、今週は用事があるからって言ってダメなんだって。どうせ嘘かも知れないけどね。新しい女でも出来たのかな。」と酔いに任せて自虐的なことまで言い始めた。すると清原納里子は

「一昨日、作家仲間の三木谷さんと会ったんだけど、彼女が一条社長と現代小説部の上原彰子編集長と現代作家の紫島葵の3人がインペリアルホテルの最上階で食事していたのを見たらしいの。それで紫島葵はまだ若いからさっさと帰ったらしいけど、残った2人が随分怪しかったって言っていましたよ。」

と言わなくていいことを言ってしまった。清原は言ってしまってから口に手を当てて後悔していたが、吉川編集長は

「あの子、私より10歳も若いし、顔だって童顔だから、若く見えるでしょ。社長だって若いほうがいいに決まっているわ。」

と強がりを言って日本酒を一気に飲み干していたが、随分寂しそうにも見えた。

「でも、私たち20年よ。社長がまだ45歳で文芸部の編集長だったころからだから腐れ縁よね。そろそろ解消するべきかもね。お互いに家庭を大切にしたほうが賢明かもしれないわ。」

というと清原は

「それだけかな。確かに男は若い女の子には目がないかもしれないけど、それだったら紫島葵の方が若くて美人だと思うけど。問題は文芸部の売り上げ不振だと思うの。飛ぶ鳥を落とす勢いの現代小説部に比べて、ヒット作がほとんど出なくなった文芸部に組織再編の話をいつかしなくてはいけないから、社長としては編集長の顔を見るのが辛いのかもしれないわ。編集長、今度の随筆、私、頑張ります。どんな内容にするか、編集長と昔みたいに作戦会議をやりたいです。明日、朝から会社にお伺いします。」

と宣言してすし屋の会計をして、2人はカラオケ店で昔懐かしい昭和のアイドル歌謡縛りで若い人に遠慮することなく、思う存分歌いまくって英気を養って解散した。


 翌日、講文社では部長会議が朝9時から大会議室で開かれた。吉川定子は前日の清原納里子と深酒をした影響で、猛烈な二日酔い状態だった。会議が始まる寸前に会議室に滑り込み、一条社長はすでに席についていて吉川のことを眉をひそめて見ていた。

 この日の会議は各部からの近況報告だったが、営業部からの報告は辛辣だった。

「前期の各部ごとの売り上げですが、マンガアニメーション部は前年度比130%で堅調です。我社をけん引する売り上げでした。続いて現代小説部ですが前年度比120%こちらも大いに頑張っていただきました。しかし大衆雑誌部は前年度比95%、週刊講文の売り上げが他社に大きく水をあけられたようです。文秋社の週刊文秋は世間を騒がせる特ダネ続きで、駅売りの販売数が群を抜いています。我社もその影響を大きく受けたようです。一番大変なのは文芸部です。前年比85%。10万部以上売れた文芸作品が前期はありませんでした。活字離れは深刻ですが、現代小説部は同じような小説も扱っていながら、売り上げを伸ばしています。文芸部も抜本的な手を打って売り上げ拡大のために努力をお願いしたいと思います。」

と報告した。続いてマンガアニメーション部の部長から前期のヒット作と今期の見通しについて報告があり、現代小説部は上原彰子が報告した。

「現代小説部は前期、紫島葵のデジタル小説が3作品合わせて100万ダウンロードを記録しました。紫島葵が中高生から25歳までの若い世代の隅々まで浸透し、世代の旗手になった証だと思います。今後も短い周期で新作を出していこうと思います。」

と報告した。それから大衆雑誌部の報告があり、最後が文芸部の報告となった。吉川定子は針の筵に座らされているような心境だったが意を決して発言した。

「若者の活字離れは日本の文学界、さらには文化の世界において大問題です。明治以降日本の文学界で我社が果たしてきた役割は大きく、多くの文豪たちを輩出し彼らは日本の文学界を牽引してきました。長い歴史の中で今は出版不況、特に文芸作品は日の目を見ない時代かもしれないけど、文芸作品は日本人の心を涵養するものです。若干の赤字にも目を瞑らなくてはいけません。ただその赤字を埋めるべく、今期計画しているのは清原納里子による随筆を考えています。現代の風潮を鋭く批判し、次代に向けて日本人はどう変わらなければならないか。世界はどんな方向に進むべきなのか。世界を代表する知識人からの提言として売り出す方針を立てています。もうしばらく時間をください。」

と締めくくった。会場は重い雰囲気になったが一条社長が重い口を開いた。

「すばらしい方針を発表していただいて経営にも希望が見えてきた感じがしますが、倒産してしまったら出版もままならないんです。今、経営者委員会では文芸部を含めた組織の再編案を検討中です、来年度には文芸部を廃部にして現代小説部を2つに分けてネット小説部とネットマンガ部に分けてはどうかという案も出ています。吉川編集長、猶予は今期と次期の6か月ということで、数字を上げてください。文学界への貢献も大事ですが会社は利益を追求するのが使命です。清原さんの随筆、楽しみにしています。」

と発言して部長会議は1時間で終了した。


 会議終了後、吉川は部屋を後にした一条社長に廊下で詰め寄り

「猶予は半年、もしダメだったら文芸部は解散、私も解雇ですか。」

と問いただすと一条社長は普段ホテルの部屋で見せる笑顔ではなく厳しい顔つきで

「そう言うことだ。経営者としての判断だ。」

ときっぱりと言い切った。その様子をたまたま文芸部を訪ねて来た清原納里子がエレベーターを降りたところで見ていた。清原は吉川に歩み寄りうなだれる吉川の腰に手をまわして

「さあ、元気を出して。作戦会議ですよ。見返してやりましょう。」

と話しかけた。


2人は文芸部の部屋に入ると早速隣の小会議室に入り編集方針を話し合った。清原は

「私は現代の風潮に警笛を鳴らすような批判的な論説を新聞とかに連載して、書き溜まったところで集約して本に出来ればいいんじゃないかと思うんだけど。」

と当初考えていたことを話した。すると吉川は

「そうよね。現代人が知らない間に忘れてしまいそうな大切なもの、その大切さを問いながら、現代人に警笛を鳴らす。誰かがやらなくてはいけないのよ。そんな誰かに清原納里子がなるべきなのよ。そして時代は清原納里子を待っていると思うの。だから今こそ書かなくてはいけないのよ。ところで、その大切なものはどんなものにするつもりなの。」

と吉川が聞くと清原は

「そこが問題なんだけど、古い昔の大切な物ばかりだと年寄りの説教になってしまいそうよね。だから新しいものも大切だよって言わなくてはいけない。まず第一弾は『活字離れ』でしょうね。小中学生がゲームの画面に集中して本を読まなくなった。たまに本を読んでいると思ったらゲームの攻略本だったり、ゲームの世界を小説にしたものくらいだから。子供たちの感性を育てる絵本や青少年向け文学作品は学校の図書館の奥の棚に置かれたままになってるのよ。そんなゲーム世代はもう50代になっているわ。任天堂のファミリーコンピュータが発売になったのは1983年ごろだからその時に中学生で15歳だとしたら今55歳です。吉川さんよりも年下はほとんどみんなゲームをしたことがあって、読書の習慣に影響を受けていると言っても過言ではないと思います。かつてはテレビが出て来た時にも本を読まなくなったと言われていたそうですね。でも今の子たちはテレビも見なくなってしまっています。心の琴線に触れるような文学表現に触れることなく人生を終えるんでしょうね。」

と現代の風潮を嘆くと吉川が

「活字離れからの出版不況は小説家を志す青年たちの活躍の場も奪っているの。芥川賞を受賞しても第2弾、第3弾と順調に出版を重ねられるのはごくわずかで、第2弾でこけたらもう声はかからない。出版社は本にして出しても10万部売れたら大成功なんだけど、売れなかったら大赤字。初版で数千部印刷してそれで終わりの本は多い時代だから。」

と出版不況を嘆いた。そして言葉を続けて

「第2弾以降のアイデアはあるの?」

と問いかけた。すると清原は落ち着いて

「それをこの間から考えていたんです。昨日銀座の寿司屋に行った時も書斎でいろいろ考えていたからあんなに髪が乱れたままだったし、パジャマみたいな服だったでしょ。今日は少しおしゃれしてきましたよ。」

という清原はさすがは売れっ子作家だけあって上下高級ブランドの緑のスーツで決めているし、持っているバックも胸元に光る宝石もそれなりの物をつけている。

「それで第2弾以降なんだけど家族関係を取り上げようと思うの。古い家制度を残しましょうなんて言うつもりはないわ。もう後戻りはできないから。でも女性の地位が向上してきて社会進出が進むと共に、家事と育児が女性の前に立ちはだかるから、結婚しない人が増えて来たでしょ。LGBTの問題なんかも絡んでくるけど、個人の人権を大切にするために社会は変わらなくてはいけないわ。だから女性の社会進出と非婚化の解消のための社会の変化を取り上げたい。第3弾は高齢社会。親の介護の問題は60歳くらいの人には切実で、親を看取るとすぐに自分の介護問題が発生する。介護保険や健康保険、年金の問題も絡むから若い人たちにとっても切実な問題のはずなのよ。友達に聞いたんだけど親を老健施設とかに預ける費用と親が受け取る年金額ってほぼ同じなんですってね。つまり年金額は介護費用を超えない程度に抑えているということ。つまり生かさず殺さず。江戸幕府みたいでしょ。年金もらえるようになったら海外旅行へなんて考えていても、介護に明け暮れすぐに介護されるようになる社会なのよ。そして第4弾が引きこもりと不登校。ストレス社会で子供たちにもストレスが溜まり、いじめが発生し不登校につながる。社会は国際的な競争社会に対抗するため非正規雇用を認容してきたけど、大変な格差社会を作ってしまった。正規雇用を諦め非正規で働き続ける若者の中には、会社での不当な扱いに耐え切れず、引きこもった人も多い。そんな引きこもりの人が、社会への復讐のような形で犯罪を起こしてしまう。だからますます引きこもりに対する社会の目は厳しくなっている。そして第5弾が環境問題。それ以外にも原子力発電所の使用済み廃棄物の処理問題、日米安保と中国、北朝鮮、ロシアとの外交問題。いろいろ考えて来たけどどうでしょうか。」

とメモ帳に書いてきたことを並びたてた。すると吉川は

「どれも面白そうだけど、政治問題に介入すると読者はそっぽ向くかもしれないわよ。読者のそれぞれの家庭でも共通する問題だけど、どうしようもなくて諦めているようなこと、大きな声を上げたいけどどうしようもないことなど、みんな我慢している問題を掘り起こして、みんなで声を上げれば、何かを変えられるかもと、勇気を与えられるようなものが読者の心を打つと思う。だから第5弾までは面白いと思ったけど、第6弾以降はどうだろうね。読者にとって身近とは言いかねるから。」

と感想を述べた。清原は素直に認めて

「そうよね。テレビに出てくる政治評論家たちの受け売りでは私の立場がないしね。もう少し考えてみます。でも連載で新聞に発表していくのはうまくいきますか。」

と半信半疑で聞いてみると

「うちの会社は毎朝新聞系列よ。発行部数世界一。世界に誇る毎朝新聞にコラムを連載するのは作家としてのステータスよ。でもまだ決まってないの。毎日にすると他の仕事が出来なくなってしまうでしょ。一週間に一回のペースくらいで家庭欄に400字原稿用紙10枚程度ずつの連載なら向こうも乗ってくると思うわよ。何と言ったって今を時めく売れっ子作家の清原納里子よ。自信をもって!」

と太鼓判を押してくれた。


 毎朝新聞への連載の話はすんなり決まった。家庭欄ではなく文化欄で掲載ということになった。掲載日時はこちらの要望通り、2か月後の10月から毎週日曜日。4000字程度ということで、とりあえずの期限は半年ということで3月末まで。25回ということになった。25回書きとおせば一冊の本にはなるだろう。そこからは連載が伸びれば「続○○の○○」と続巻を続けて行けばブームを作れるかもしれない。ただタイトルがまだ決まっていなかったので、吉川は頭を悩ますことになった。


  

3、納里子の転生


 2か月後に迫った連載開始に向けて、余裕を持つために最低限5回分くらいは書き溜めておきたい清原だった。自宅の書斎にこもって第1弾の活字離れについて書き始めていた。書き始めるととても4000字では書ききれないようだったので、活字離れの章をさらにいくつかに分け、

(1)ゲーム機の出現と少年たちの読書量の減少、  

(2)テレビの出現と読書量の減少

(3)活字離れと出版不況 

(4)日本文化の行く末 

というふうに4つに分けることにした。執筆のベースは各家庭で共感出来ること。長い年月で当たり前になっていることを俯瞰的に眺め、文化論的に論説すること。そして清原は文体を50歳のおばさんがつぶやくようなものにして、10代から30代の若い人に語り掛けているように書くことだった。

第1章の活字離れの(1)の「ゲーム機の出現と少年たちの読書量の減少」の中で言いたいことを箇条書きにして、文章の構成を決め書き始めた。随分長い間書きたいと考えてきたことだったので、4000字は2日で書き上げ、自分でも読み直して直しを入れ、デジタルデータでメールに添付して吉川に送った。(2)の「テレビの出現と読書量の減少」も(3)の「活字離れと出版不況」もすらすらとそれぞれ2日で書き上げ、出だしは好調だった。


 しかし、(4)の「日本文化の行く末」になった途端、パソコンのキーボードを打つ手が鈍くなってきた。書く内容が陳腐な気がしてきたのだ。日本文化を語るのは自分はまだまだ未熟者であると認識していたからである。近代の文学史の知識は評論家ではないのでそこまで詳しくない。しかし新聞紙上に発表するとなると、それなりに研究してからでないと、いい加減なことは書けない。悩めば悩むほど手が止まって沈黙が続いてしまう。いっそ吉川編集長に悩んでいることを話して資料を送ってもらおうかとも考えた。


 しかし悩んでいるうちに、清原はパソコンに向かって座っていたが、いつの間にか眠ったようになってしまい目を閉じた。どれくらい目を瞑っていたのだろうか。5秒なのか10分なのか見当がつかなかった。一瞬にして深い眠りに入ってしまったのかもしれない。しかしそこからは、それまで体験したことのない不思議な現象が起きた。


意識はあるのだが自分の目の前には違った世界が見えている。そこは大きな和室で20畳はあるだろうか。襖の近くには御簾がかかり、襖が開いて御簾が開かれると美しい着物を着た女性が入って来た。その女性を見ているとこちらに声をかけてきた。


「どこに行っていたのですか、きよら様。明日の歌会にどんな歌を詠むか教えてもらおうと思ったのに。」


と話しかけていた。清原は自分がきよらと呼ばれていることに違和感を感じた。しかも自分の服装を眺めると12単衣を着ているではないか。以前、京都の祇園祭に行って着物体験で着せてもらったことがあったが、その時と同じくらい重さを感じた。するとまた別の女性が入ってきて


「あら、きよら様とれいこ様 定子ていし様がお呼びでしたよ。」


と言っている。清原は定子という名前に聞き覚えがあった。もしかして一条天皇の中宮である定子なのだろうか。藤原道長の兄である道隆の娘で天皇の中宮になった定子、平安時代の有名な皇后のはずだ。ということはここは西暦で言うと1000年前後の平安時代、京都の御所ということなのだろうか。

しかも定子のつぼね、確かそこには清少納言を筆頭に優秀な女官たちがいたはずだった。高校の日本史の時間や古典の時間に先生たちから教わったことを思い出した。そんなことよりも私は書斎で講文社の随筆を書いていたはずだ。寝てしまって夢を見ているということなのだろうか。それとも平安時代にタイムスリップしてしまったのだろうか。不思議な感覚のまま、呼ばれた定子のもとへれいこという女性の後について歩いていった。


局のすぐわきにさらに大きな部屋があり、その部屋は一段高くなっている。襖を開けて御簾をくぐると大きな広間があり、その広間よりさらに一段高いところにその女性は座っていた。おそらくこの方が中宮定子様なのだろう。

右大臣藤原兼家の長男道隆が関白になり、一条天皇がまだ東宮であった時に正室として入内し、一条天皇が即位すると中宮となり、道隆が後見人として権力を持つ時代のはずだ。

れいこに習って中宮の前に座り、挨拶をすると中宮定子は


「きよら、昨日こちらに参った時に『枕草子』の第1帖を持って来てくれたが、とても素晴らしい内容だと思う。先月、ここを出ていくとき『四季(史記)を枕に書きましょうか。』と言って紙を持って行ったが、四季のすばらしさを表現している。続きはまたここで書きなさい。」


という言葉を発した。清原納里子は短時間に頭の中でいろんなことを考えた。


『私が清少納言になっている。そしてここは中宮定子の局だが、藤原道隆の死去で清少納言は一旦は定子の局を出たが、戻った実家で枕草子の第1帖を書き、その評判を聞いた中宮定子が再び局に来るように要請し、その要請にこたえて戻ってきた清少納言に、中宮定子が枕草子の続きを書くように頼んでいる場面だ。定子は父が突然の病で倒れ、後見人を失った不安定な立場のはずだ。確か日本史の先生が詳しく教えてくれた。どう挨拶したらよいものか。』

と悩んでいたが場の雰囲気を読み取り低頭の姿勢を保ったまま、

「有難きお言葉、これからも励んで承ります。」

と了承することを示した。定子は笑顔を見せ笑い声をあげた。これには隣にいた女房も

「中宮様、久しぶりのお笑い声でございます。お元気で何よりです。きよら様のお力です。」

と持ち上げてくれた。清原は定子が悲しみに暮れ、ふさぎ込んで過ごしてきたことを推測した。


 中宮の定子の局は道隆が関白だった時は多くの優秀な女房を抱え、その女房達と華やかな歌会や漢詩を諳んじて競い合うために、貴族の高官たちが足繁く通ってきた。自らの局に優秀な女房を集めることは、局の主の重要な役目であったのだ。側室たちも局を組織して権勢を競い合ったが、まだこの時代、定子の局にかなうところはなかった。


 清原納里子は局にもどり、自分が書いたという枕草子の第1帖を手にとりじっくりと読んでみた。中学生の頃に暗唱して覚えた“春はあけぼの、ようようしろくなりゆくやまぎわ・・・”の一節から始まる有名な文章だ。第1段から始まる一連の章は日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」と呼ばれるものだ。また「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものづくし」の「類聚章段」と呼ばれる文章も出てきた。しかし、清原納里子が高校生の時や大学で勉強した時には、中宮定子やその周辺の宮廷生活を日記のように書いた「日記章段」と呼ばれるものがあるはずだった。しかしまだこの段階では書かれていないようだった。第2帖以降になるのだと感じた。


 ここまでじっくり読んで清原はここから自分が清少納言の枕草子の続きを書くということなのだろうかという疑念が湧いてきた。世界的女性文学者として名高い清少納言に成り切って書くということは、後世に大きな影響が出るのではないか。そんな思いが恐怖にかわって恐れ多いと思うと、早く現代に帰りたくなってきた。ただ現代に帰るにしてももう少しこの時代の清少納言がどういういきさつで、どんな意図をもってあの世界的名著の枕草子を書いたのか。現代に戻って制作中の随筆を書く手掛かりにするためにも、彼女について探ってからでも遅くないかなという作家魂に火がついてきた。


 それからというもの清原清少納言はこの時代のこの局が置かれた状況を正確に捉えようと努力した。まず中宮定子だが後見人である父親の関白藤原道隆が突然の病で死んで弟の道兼が関白になるが、わずか7日で病死したことになっている。これは周りの女房たちに聞いた話だが、道隆も道兼もその弟の道長か姉の栓子が毒を盛ったのではないかといううわさが宮中でまことしやかにささやかれているらしい。道隆の家系は中継ぎをしたということで中関白家と評されている。

現在は道隆の長男の伊周これちかと道隆の弟の道長が叔父と甥で実権を争っているらしい。しかし中宮定子の嘆き悲しみは激しい。まだ20歳と若く一条天皇の寵愛を受けているというのに、顔色が優れない。兄である伊周は後見人を継いでくれるかもしれないが、叔父の道長は定子よりも彼の姉の栓子との結びつきが強い。定子を守ってはくれなさそうだ。


 先日伊周が定子のもとを訪れると清原清少納言は初めて伊周の顔を見た。年の頃なら20代前半、定子の一つ上ということなので22歳といったところだろうか。定子の部屋で話しているのを聞いたところ


「一条天皇の母である栓子様は父道隆が強引に若い私を大臣に押し上げたことを面白く思っていないらしい。特に栓子様のご兄弟で私たちの叔父である道兼様や道長様を差し置いて私が先に大臣になったことが怒りに触れたらしい。」

ということを言っていた。定子様も

「父道隆亡き後、宮中における私たち兄弟の立場は危うきものになっています。」

と弱気な発言をなさっていた。道隆の死は宮中の勢力図を大きく変えてしまったのだ。一条天皇の伊周に対する印象は悪くなっていたようで、伊周はそのことも嘆いていた。


 まもなく裁定が下り、空席の左大臣に道長が一条天皇から指名された。これも女房達が廊下の隅で噂していたのだが、天皇のお近くに仕える女房が口元を隠して清原清少納言たち数名に


「聞いてよ。昨晩、帝が床に就こうとしているところに母君である東三条院栓子様が突然お越しになったの。そして次の政権を決して伊周の所には渡さないようにおっしゃっているのが聞こえたの。もうびっくりしちゃった。」


と言っている。昔も今も女の噂好きは変わらないなと思いながら聞いていると


「それでね、是非とも道長を指名せよと説得したわけ。でもね、帝は迷っていたの。中宮定子様との関係を考えると伊周様が一番近いし、官位からいっても道隆様が死ぬ前に伊周様を引き上げて、道長様より上の大臣にしちゃっていたから、一番若い伊周様が候補者の中で一番身分が上なのよ。だから帝は慣例によれば伊周様をご指名になるはずだったから迷われたんだけど、栓子様が言うには道隆様がご自分の御長男である伊周様を後継者にするために、強引に出世させたことが周りの貴族たちの反感を買ったから、伊周ではだめで道長の方が人格的に優れているとおっしゃっていたわ。」


と説明してくれた。寝殿で控える女房たちが聞いていたのだから間違いないことなのだろう。


 清原清少納言はここまでのことは知らなかった。激しい人事抗争の末に道長は政権を奪ったのだった。


 その後しばらく清原清少納言は枕草子の続きにどんな内容を書くか、構想を巡らしていた。しかしなかなか決まらず、書き出せずに悶々とした日々を送っていた。そんな中、大きな事件が起こる。


長徳2年(996年)、美女と言われていた藤原為光の四女の所に通おうとしていた花山法皇を、同じ為光の三女のところに通っていた伊周が、花山法皇が三女目当てで来ていると誤解して、道すがら待ち伏せて伊周の従者が放った矢が法皇の袖を突き通してしまったのだ。退位していたとはいえ上皇に向けて矢を放ったことは一大事となり、さらには東三条院栓子を呪うために、朝廷以外には許されていなかった大元帥法という呪詛を円融という僧を使って伊周が私的に行ったという上奏がなされたのだ。この重大事件が発覚して伊周は都を追われ、九州の太宰府に流された。いよいよ時代は道長の天下になっていった。


 そのころ中宮定子はどうだったかというと、長徳2年(997年)暮れに一条天皇の最初の内親王である脩子内親王を出産している。しかも道隆が死ぬまでは道隆が一条天皇に定子以外に誰も入内させなかったらしい。定子のみに寵愛が集中していたのだ。しかし道隆が死ぬと一条天皇は他の娘たちを何人も入内させ、定子は寂しい思いをしてきた。さらに定子は長保元年(999年)には一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産している。しかし同じ日に藤原道長の娘、彰子が入内している。定子と彰子は仲良く一帝二后が続いていたが、内裏は定子の時代から彰子の時代に移っていく転換期に入ったと言える。


 この頃の定子は中宮とは言え、帝のお渡りを待っているが、もっと若い側室たちの所へお渡りがあると聞くたびに寂しい思いをしている。


 清原清少納言は道隆が生きているころの中宮の様子は知らないが、同じ局の女房達によく話を聞いていた。れいこが教えてくれたのは


「定子様のお父上道隆様が生きていたころは、定子様はお元気で笑い声が絶えないほど明るかった。年齢的にも20歳前で、お美しく帝は定子様にぞっこんでした。また当時の定子様はしぐさもお美しく、廊下を歩かれると宮中の男性たちの視線を一身に集めたものです。」

というように教えてくれた。

 清原清少納言は定子様の変わりように衝撃を受けた。



4、現代への帰還


   清原清少納言は枕草子の続きで何を書けばいいのか迷っていた。局に用意された文机に向かって題材集めをしようとしても、題材が頭に浮かばなかった。

  「この時代の清少納言は何を感じて枕草子を書こうとしたのだろうか。執筆の意図とは何だったのか。」

  この問題を考え始めてしまった清原清少納言は袋小路に入ってしまい、思考が煮詰まっていた。隣りではれいこが歌会用の和歌の試作に頭を悩ましている。部屋には春の温かい日差しが差し込んできていた。2人とも考えてはいるのだが脳内の細胞は停止し、眠りに着こうとしていた。


   その時、清原はふと我に返り、この時とよく似た状況にいた自分を思い出した。

  「そうだ。自宅の書斎で随筆の続きを書こうとしていたら、ついつい寝てしまい、気がついたら平安時代の定子の局へ1000年のタイムスリップを経験したんだ。今はどっちかな。」

  と考え、目をこすりながら周りを見回した。


   壁には締め切りを示したカレンダー。その上には壁掛け時計。振り返ると鏡があり机は文机ではなく、高級なイタリア製の大きな仕事机で、椅子は最近買い替えた長時間座っていても疲れないゲーマー用の椅子に座っている。

  「書斎だ。私の自宅だ。帰って来たんだ。」

  思わず叫んだ。もう帰れないかもしれないと思っていたが、こうして生きて帰ってこられたことで清原納里子は安堵感に包まれていた。


   彼女はすぐに吉川定子に電話をして自分が行ってきた定子の局について話した。

  携帯電話を操作する指がまだふるえていることがはっきりとわかった。なかなかボタンが押せない。時間をかけてゆっくりと電話帳機能の履歴の中から編集長を探し出し、発信ボタンを押した。

  「編集長ですか。清原です。驚かないで聞いてください。私、書斎で仕事しているときに寝てしまって、気が付いた時にはタイムスリップしていて平安時代に行ってきたんです。しかも清少納言になっていたんです。少しそのことでお会いできませんか。」

  と言うと編集長は半信半疑な感じだったが、

  「いいわよ。今からこっちに来る?」

  と言うので、すぐに承諾して、清原は着替えも化粧もせずにタクシーを呼んで外に出た。


   タクシーは郊外の清原の家から都心の講文社のビルまで20分ほどで到着。興奮している清原は一目散に文芸部の部屋まで直行した。

  「編集長、聞いてください。私ね・・」

  と大きな声で話し始めたところで吉川が周りを気にしながら

  「会議室で話を聞くわ。」

  ということで2人は会議室に入った。突拍子もない話なので周りの編集者たちが変に勘繰ることを避けたかったのだ。


   清原は定子の局で経験したことを一気に話した。定子に呼ばれて枕草子の続きを書かなくてはいけなくなったこと。中関白家の藤原道隆と道兼の兄弟が相次いで病死し、伊周と道長が実権を争って北関白家の藤原道長の世になったこと。道隆が死んで後ろ盾を失った定子が、ふさぎ込んでいることなどを、まくし立てるように話しきった。


じっくりと話を聞いた吉川定子は

「話が出来すぎな感じはするわね。定子ていしつぼねでしょ。私、定子さだこの編集室みたいね。偶然にしては出来すぎよ。随筆を書かなくてはいけなかったから無意識に枕草子のことを深層心理の中で考えていたんじゃない。でも藤原道長が懇意にしていたのは中宮彰子の局にいた紫式部の方だったと思うわ。清少納言にとって藤原道長は反対勢力のはずよ。ずいぶん昔だけど、これでも私も文学部国文科卒業よ。少しは勉強したわよ。」

と教えてくれた。しかし実際にタイムスリップしたとは信じてくれてなさそうだった。清原は何とか信じてもらおうと

「編集長、私、本当にタイムスリップしたんです。私は文学部卒業じゃないから道隆とか道兼とか知りませんでした。経済学部卒業で、一旦会社勤めをしてそのOL生活を生かして作家活動に転職したんです。こんな私が道隆の子の伊周や定子と会ったんです。」と言ってもなかなか信じてもらえなかった。


そこで清原は態度を変え

  「信じてもらえないのは仕方ないかもしれません。私だって信じられませんから。でも今知りたいのは清少納言がどういう方針で、あの世界的な随筆文学を書こうとしたのか、執筆の意図を知りたいんですけど、どなたか詳しい方はいませんかね。」

  と編集長に依頼した。すると編集長は

  「そうね、清少納言研究は進んでいるからかなり専門家はいるわよ。しかもその研究はみんなが同じ方向性ではないから、誰を紹介したらいいかは分からないわ。」

  と頭を悩ました。しかししばらく考えると

  「一番良さそうなのは三橋先生かな。東大の先生もいいけど、女流文学はお茶の水なのよ。お茶大は私の母校でもあるんだけど、三橋先生は私の同級生で、清少納言を学部時代から現在まで研究し続けてきた人よ。電話してあげるわ。」

  と言ってその場で電話して、清原納里子が行くから話を聞いてやって欲しいと交渉してくれた。すぐ来いということだったので出版社を出て、タクシーでお茶の水大学へ向かった。文京区大塚なので講文社のある神田から15分くらいで着いた。キャンパスは広大で古い歴史を感じさせるが、昔は御茶ノ水駅のある湯島付近に学校はあったらしい。現在のキャンパスは護国寺や茗荷谷付近で文学の香りがするような街に立地している。


   三橋先生は文学部国文学科の教授で文学部1号館の3階に部屋があると聞いてやってきた。広いキャンパスだが案内掲示板は完備しているので、迷うことなく三橋研究室にたどり着いた。部屋のドアをノックすると中から

  「どうぞ、空いてます。」

  という中年の女性の優しそうな声がした。編集長と同級生ならば55歳のはずだ。清原よりも5歳年上のはずだ。失礼しますと小さな声で挨拶してドアを開けて中に入ると、教授の部屋らしく乱立する本棚が所狭しと立ち並び、奥の机に向かって座って本を読んでいる女性を発見するまでに時間がかかった。本棚と本棚の間に出来た隙間の道を前に進んで女性の前に行き挨拶した。

  「吉川定子編集長から紹介いただいた清原納里子と申します。先生が清少納言研究の第一人者とお聞きして、是非教えていただきたいことがあるんです。」

と話すと教授は

  「作家の清原さんですよね。私も先生の大ファンです。女流文学者としてご活躍する姿は現代の清少納言か紫式部と考えてきました。」

とお褒め頂いた。清原は恐縮しながら

「そんな大それたものではありません。毎日生きていくだけで精一杯なんです。」

と受け流した。教授は

「どんなご用件だったんでしょうか。」

と聞いてきたので、清原納里子は一呼吸してから話し始めた。

「信じられないかもしれないんですけど、私、昨日、平安時代にタイムスリップしたんです。しかも清少納言の体に入り込んで、彼女が勤めていた中宮定子の局に居たんです。しかも枕草子の第一帖を書き上げて定子の局に復帰した時なんです。つまり藤原道隆と道兼が相次いで病死した直後なんです。」

と言うと教授は信じられないというよりは鼻で笑っている感じだったが

「それで、道隆の死因は何だったの。」

とどうせ夢でも見たんだろと言いかけているような感じだった。清原は

「お酒の飲みすぎにより飲水病(糖尿病)と言われていましたが、女房達の噂話では後に実権を握る藤原道長と栓子の一派が毒殺したのではないか言われていました。」

と答えた。その答えを聞いて教授は

「やっぱりね。昔から一部の研究者の中でも毒殺説は言われていたの。でもそのことを聞いてきたとなるとタイムスリップ説も信憑性があるのかもしれないわね。」

と答えてくれた。少し信用してくれたところで清原は本題に入った。

「道隆の死因よりも私が知りたいのは、清少納言はどんな意図で『枕草子』を書いたのかということなのです。」

と聞いた。清原自身は自分自身が講文社から随筆を書かなくてはいけないことと、清原清少納言が枕草子の第2帖以降を書かなくてはいけないことを重ね合わせ、プレッシャーもあり、アドバイスが欲しかったのだ。

教授はしばらく考えて、本棚から本を一冊出して

「清少納言の執筆の意図についてもいろいろ研究されているのよ。季節のことや物について考察すところは、その当時の人たちの風流な生活や物の見方がわかって、とても興味深いわ。でも日記風の記述の場所は特に昔から議論されてきたの。第2帖以降が書かれたのは西暦で言うと995年から999年くらいで、定子の父親で後見人であった道隆が死んだ後だから、あなたが見てきたように、中宮定子はふさぎ込んでいることが多かったと言われているわ。でも、枕草子に描かれている中宮定子は明るく元気で、その振る舞いは実に美しく雅だと表現されている。だから研究者の中で言われているのは、995年以前の道隆が生きている当時の明るく元気な定子、を思い出して書いているのではないかと言われているんです。」

と研究成果を教えてくれた。しかし清原は納得できず

「だからそこなんですけど、あえて何年か前の定子のことを書く意図なんですが、何かあるんでしょうか。」と追及すると教授は

「そこからはいろいろ研究者の中でも意見が分かれるところなんだけど、995年に長徳の変で道隆の長男の伊周を退け左大臣になると、道長の世が始まるの。ぴったりと枕草子が書かれた時代とあてはまるでしょ。道長が実権を握った世の中を面白く思わない清少納言が道長への抵抗をあらわしたものだともいわれているのよ。」

そこまで聞いた清原は清少納言の思いが少しわかった感じがしてきたが、

「道長の時代になると何か変わったんですか。」

とさらに疑問をぶつけてきた。教授は

「999年に中宮定子が敦康親王を産んだおめでたい日に、藤原道長の娘の彰子が入内、すなわち宮中にあがって天皇に嫁入りしたの。そして翌年西暦1000年のことだけど、彰子に中宮の称号が与えられ、1人の天皇に2人の中宮と言うおかしな事態になったんだけど、道長はそれをごり押ししているの。さらにその年の暮れ、中宮定子が2番目の内親王である媄子内親王の出産直後に死ぬと、敦康親王は彰子が養育するようになるんです。でも敦康親王は即位することなく、その後彰子が産んだ敦成親王と敦良親王が後一条天皇、後朱雀天皇として即位することになる。まさに道長と彰子の時代でしょ。その背後には道長の姉の栓子もいるんだけどね。すべてが道長中心に回るようになっていくわけよ。」

と詳しく教えてくれた。清原は清少納言の気持ちになって考えてみた。そして

「清少納言は彰子のことは知らないけど、道長が宮中で権力を持ち、定子一族の中関白家が衰退していく様を目の当たりにして、耐えられなくなり道長への復讐のためにあえて定子が元気だった道隆の時代は、素晴らしかったと世間に発表したかったのかな。」

と教授に話して清少納言の執筆意図を想像した。教授は

「学会でもその考え方は増えてきているのよ。多くの研究者がその考え方を押しているわ。そう考えながら枕草子を読み直すと新しいものが見えてくるものよ。」

そう教えてくれた教授に丁寧にあいさつして、大学を出た清原は再びタクシーで自宅へ戻った。


 自宅の作業部屋に戻り、机に向かい平安時代にタイムスリップした時のことを思い出していた。あの部屋で清少納言はどんなことを感じていたのだろうか。藤原一族の争いに彼女はどう関わったのだろうか。そしてあの後登場してくる紫式部との関係はどうなのだろう。いろいろ思惑が頭の中をめぐっていたが、教授の所を訪れて、清少納言の枕草子に対する執筆意図は何となくわかった感じはした。しかし平安時代に戻れば役に立つかもしれないが、今は現代で清原は自分の随筆を書かなくてはいけない。

 そしてもう一つの謎は何がきっかけでタイムスリップして、またどうやって現在に戻ってこられたのかと言う謎である。これが解明されないとうたた寝も出来ない。もし迂闊にタイムスリップしてしまったら、帰る方法がわかってないので、一生平安時代で生きていかなくてはならなくなるからだ。

 その謎を解明すべく、タイムスリップした時のことを思い出していた。午後の温かい日差しの中、作業部屋で随筆の続きをどう書こうか、コンピュータに向かって、書こうとしていたが手が止まり、思考が停止してしまい眠りに襲われていた時だった。どれくらい意識が飛んでいたかは分からない。5秒なのか3分なのか覚えていないが、真っ暗な空間に沈み込んでいった状態だった。そんな中で一筋の光がさしてきて、目を開けると平安時代だったのだ。また逆に平安時代の彼女も同じように枕草子を書こうとしていて筆が止まり、思考が停止して眠りについた瞬間だった。その次に目を開けた時には作業部屋に戻ってきていたのだ。

 確実にこれだという物は分からないが、キーワードは『昼間』『原稿』『思考停止』『眠り』などが考えられた。未来の誰かがタイムマシンを作ってそれに乗せてもらって移動していたという事ではなさそうだ。

 とりあえず、再び時間移動できるかどうかは分からないので、この今の世界でやらなくてはいけない随筆の原稿作成に取り掛かることにした。


 平安時代にタイムスリップする前には第1弾「活字離れ」の

①ゲーム機の出現と若者の読書離れ

②テレビの出現と読書量の減少 

③活字離れと出版不況

までは書きたかったことが並んでいたので、流れるようにスムーズに書き上げた。しかし④の日本文化の行く末の段になって清原は突然筆が止まってしまったのだった。そしてどう書こうかを迷っているうちに袋小路に迷い込み、思考が止まり眠りに入りかけた時にタイムスリップが起きたのだ。その時のことを思い出して④の日本文化の行く末について考え直してみた。

 若者の活字離れが叫ばれてもう40年以上経つ。ゲーム機が発売になり小中学生がゲームに熱中して40年、彼らはもう50歳以上になった。読書する人たちもいるが、全体で見れば本を読まない人が増え、新聞さえも読まない人が増えたことは否めない。しかしその反面アニメ文化は、世界に誇る日本の文化として認知されてきている。日本の文化の行く末が、単純にアニメの方向に進んでいけばいいという物ではない。明治以降の近代文学では、若者の考え方を引っ張って来たのは文学だった。戦後の文学でも三島由紀夫や石原慎太郎が若者に与えた影響は計り知れない。また司馬遼太郎や松本清張が歴史や推理小説ファンをうならせてきた。しかし今は多くの作家たちが書いてはいるのだが、読者に受け入れてもらえていない。どうしたらいいのだろうか。



5、再び平安時代へ


 ここまでは前回もたどり着いたのだが、結局解決策が見いだせず、眠ってしまったのだ。何か解決策はないものかと考えていたが、やはり今回も自然と上瞼と下瞼が近づいてきた。その瞬間はやはり咄嗟にやってきた。眠りについた瞬間に稲光が光ったような衝撃が走り、目を開けることが怖かったが、気持ちを落ち着けてゆっくりと目開けてみた。すると予想通り前回来た時と同じ平安時代の宮廷内の定子の局だった。目の前には文机があり、手には筆を持って何か書こうとしているようだった。


きっと清少納言なのだろうということは予想できたが、時代がどこなのか。前回この時代に来た時のラストシーンならば996年ころで、清少納言が第2帖以降をどのような内容で書こうか迷っていたころだ。近くにいた女房にそれとなく聞いてみた。

  「定子様の御機嫌はいかがですか。」

  するとその女房は

  「2月前に道隆様に続き、直後に道兼様までお亡くなりになり、定子様はそれ以来御機嫌が優れなくてふさぎ込んだままです。きよら様におかれましては、定子様に枕草子の続きを読んで差し上げて、笑顔を取り戻させてください。」

  と語ってくれた。2か月前に道隆・道兼の兄弟が死に、道長は道隆の嫡男の伊周との争いの末、宮中での実権を握ったころのはずだ。清原は現代に戻った時に調べてきた知識で時代を想定した。

   清原清少納言は『定子様に直接会って心境を聞いてみたい気持ちもあるが、三橋教授の所で教えてもらった清少納言の執筆の意図を考えながら執筆をつづけてみよう。』そんな考えに落ち着き、とりあえず書き始めることにした。

しかしその時、周りにいた女房達の噂話が清原清少納言の耳に入って来た。

「きよら様は新しい左大臣の藤原道長様に呼ばれて、道長様にお会いになったとい

ではありませんか。」

もう一人の女房は

「きよら様は道長様の味方になったのなら、敵じゃないの。」

「道隆様が死んで定子様は辛い思いをしているのに、道長様は次はご自身の娘である彰子様を宮中の帝のもとへ輿入れさせると言われているのに。」

などと話している。相当やばい状況になっていそうだ。清原が現代に戻っていた間に、清少納言のもとに道長が興味を示してきたようだ。もしかしたら彰子が輿入れした時に新しく作る局に、彰子付きの女房として入るように要請があったのだろう。そのうわさを聞き付けた定子の女房達が、清少納言は敵になったと感じたのだろう。


 清原清少納言は周りから敵だと思われているということは、定子様からも敵と見られ心を開いていただいていないのではないか心配になった。すぐに定子様のいる奥の部屋に出向き、定子付きの女房を通じて定子様へのお目通りを願った。するとしばらく待たされたが、中に入るようにお達しがあり、中へ進むことが出来た。普通は定子様が局に来ていただければ自由にお話しすることもできるが、奥に居られるときに女房が勝手に中に入ることは許されないのだ。

 許しを得られた清原清少納言は中宮様の前での正式な作法などはよくわからなかったが、映画で見たことがあるような作法を真似て中宮の正面に正座し、低頭の姿勢でひれ伏した。奥から中宮が

「表を上げよ。どんな要件であるか。」

とお声をかけていただいた。清原清少納言は

「女房達の噂で、私に道長の息がかかり、敵側に寝返ったというようなことが耳に入りました。道長殿からお声がかかったことは事実ですが、私はきっぱりとお断りいたしました。私は一生涯、中宮様にお仕えする覚悟でございます。」

と定子の局で生涯を遂げる覚悟を宣言して、味方であることをわかってもらおうとした。定子は

「よくわかった、きよら。おまえの枕草子は宮中でも評判が高い。是非ともあの続きを書き上げてもらいたい。」

とお言葉を頂いた。清原清少納言はこのチャンスにと考え、以前から聞きたいと思っいたが口に出せなかった質問をしてみた。

「この後の執筆の参考にお聞きしたいのですが、中宮様の御父上、道隆様がお亡くなりになり、中宮様のお心の内はいかがでございますか。」

と聞いてみた。中宮様は

「父を失ったのであるから悲しいことは間違いない。この先のことを考えれば不安も一杯だ。しかしふさぎ込んでいてはいけないとも思っている。私が弱気になれば道長はさらに増長する。道長の思うようにやらせてはならない。せめて私だけでも道長の世に反対していたことを後世に伝えてもらいたい。」

と秘めた思いを述べられた。清原清少納言は三橋教授の言葉を思い出した。

『…道長が実権を握った世の中を面白く思わない清少納言が道長への抵抗をあらわしたものだともいわれているのよ。』

と言っていた。しかも三橋教授との話の中で清原自身も

『清少納言は、道長が宮中で権力を持ち、定子一族が衰退していく様を目の当たりにして耐えられなくなり、道長への復讐のためにあえて定子が元気だった道隆の時代は素晴らしかったと世間に発表したかったのかな。』

と述べたことも思い出した。

「中宮様、私は枕草子の続きを書きますが、中宮様が宮中にお入りになったばかりの頃の、お元気だった中宮様を書きたいと思います。私が書く枕草子は書い上げた部分から瞬く間に宮中の多くの人に読まれるでしょう。読まれた方々に定子様が宮中に嫁がれた当時のお幸せそうな様子を思い出させ、道長の時代への批判につなげていこうと思います。」

と執筆の方針を語った。中宮定子は清原清少納言の言葉に勇気づけられた。


 局に戻った清原清少納言は執筆に取り掛かろうとした。しかしすぐに書き始められるものではなかった。もう一つ考えたのは自分が書かなくても、自分が現代に戻ったら、本当の清少納言が枕草子を書き上げるのだろうということだ。現代の自分が枕草子を読んだ事実があるし、三橋教授たちが徹底的に研究し尽くしている。もっと深く考えれば、自分が清少納言に成り代わって枕草子の一節を書いて発表してしまうことは歴史の流れを変えてしまい、タイムパラドクスを起こしてしまうのではないだろうか。彼女の思考は前にも後にも進まず、壁にぶつかってしまった。

それにわたしは毛筆が限りなく下手なのだ。

「清少納言にかわって私が書いていいものか。それとも書かずに現代に帰ってから清少納言の執筆意図を参考に自分の随筆を書くべきか。」

そんな悩みが彼女の頭の中を埋め尽くした。

「後の世界で世界中に翻訳され、その一文一文が研究され、世界的女流作家として名高い清少納言の作品に手を付けることは、それこそ日本文化の行く末に汚点を残すことになるのではないか。」

考えれば考えるほど手を付けられなくなっていった。



6、随筆 逢坂の関


そうこうしているうちにまた不思議な眠気に襲われてきた。

   「そう言えばこんな感じの眠気で・・・・・・。」

   と考えているうちに一瞬眠りについたが、はっと気が付くと手首のあたりには12単

   衣の絹の衣ではなく、普段から着慣れた仕事着の綿のトレーナーの裾だった。足元も履きなれたコットンパンツでスリッパを履いている。

   「帰って来たんだ。いや帰ってこられたんだ。」

   第一印象は安堵感だった。帰ってこられなかったら死ぬまで平安時代で過ごさなくてはいけないし、局での生活は女の園だ。うわさ話や嫉妬、うらみなどが渦巻いていた。とてもまともな神経では務まらない状況だった。

    清原は帰ってこられた安ど感に浸って、しばらく遠くを見て呆然としていたが、気を取り直し、目の前の随筆に取り掛かった。

    清少納言が枕草子を書き上げた執筆の意図を学んだ今、その書き方を模倣して新しい随筆を書いてみようという気になっていた。道長の世になった悲しみ、恨みを直接的に表現するのではなく、道長の時代になる前の明るく元気だった社会のことを生き生きと描くことで、あえて現在の時代を風刺する。そんな事が出来るといいなと思っていた。


    第1章の(4)の「日本文化の行く末」の書き出しで停まっていたが、書き出しからゲーム機のなかった時代の子供たちの読書する姿を書き、さらにテレビがなかった頃にさかのぼって少年少女が余暇時間を読書にあて、本を読むことで想像を膨らまし、その夢は無限大だったことを書き上げた。読書するすばらしさを強調してまとめた。


    第2章は「家族」についてだが、この章は最初から昔の3世代同居の大家族の様子を描いていった。現在の核家族化のことや女性の社会進出のことはあえて触れず、家族の中心に主婦がいて、すべてを切り盛りしていたことなどを肯定的に書いた。それと同時に、現在の少子化が未来の日本社会の大問題になっているが、その問題の解決策を大胆に提言する内容を書いた。


    第3章の「介護問題」も第4章の「引きこもりと不登校」の問題も同様に現在のことを否定的に書くのではなく、問題が表面化する前の昔の明るい姿を中心に書き、終末に引きこもりの人たちの社会復帰に向けた取り組みを提言する内容で書き上げた。


 清原納里子は第3章までを1週間で書き上げ、吉川編集長に連絡を入れた。

「吉川先生、例の随筆、半分くらい書き上げたんですけど、一度見てもらえますか。」

と電話で告げると

「いよいよ始まるのね。10月から毎週日曜日の文化欄に囲みのエッセイとして掲載するから、まず半年間は紙面を空けてあるわよ。4000字で何週分くらいできているの。」

企画が実現しそうになってきたことで期待感が言葉に表れていた。

「3章までで12回分くらいです。とりあえず、明日、持って行きますね。」

と言って電話を切った。清原は電子データでメールに添付して送ってもいいのだが、あえて時代に抗うようにプリンターで印刷して12週分、120枚を準備して封筒に入れて、明日、会社に行く準備をした。


 翌朝、清原は気合を入れて洋服を選び化粧を整えた。吉川編集長だけでなく、一条社長にも会うつもりでいたからだ。清少納言のような12単衣と言うわけにもいかず、彼女の知性を象徴するように黒のスーツで、メイクは目元を黒の輪郭で強調して、強い女を意識した。


 会社に着くとすぐに文芸部の吉川編集長を訪ねた。吉川はまず清川を連れて一条社長の所へ挨拶するために、社長室に彼女を連れて行った。部屋のドアをノックして中に入るなり、机で書類を眺めている一条社長に向かって

「社長、作家の清原納里子さんが新作の随筆の第1稿を持って編集室に来てくださったので、社長からもご挨拶していただきたくてお連れしました。」

と紹介してくれた。初めて会うわけではなかったが、今回は文芸部の存続がかかっている大仕事ということで、清原も気合を入れて会社に乗り込んできていた。

「社長、お久しぶりです。今回は日本文化の行く末を案じる文学者の端くれとして、現代の日本の風潮や文化について思うところを書き綴れたらと思っています。毎朝新聞さんの協力で毎週日曜日に連載と言う形で、文章を投稿させていただき、書き溜めたところで講文社から単行本として出版できたらと考えています。本の売れ行きは新聞で掲載して行く内に世間で評判が上がって注目されるかどうかにかかっていると思います。是非、社長のお力添えもお願いいたします。」

と宣伝費を惜しまないようにくぎを刺した。社長は

「大人気作家の清原先生の随筆とあれば、この出版不況でも多くのファンが買ってくれるでしょうね。毎朝新聞の評判は私の方からも毎朝本社に働きかけます。日本の文化の行く末のためにも、いい作品を生み出していきましょう。」と力を入れてくれることを約束してくれた。


 文芸部に戻ると2人は会議室に入り、清原は持って来た原稿が入った封筒を吉川に渡した。吉川は

「あえてアナログな作品提出ね。今の世相に立ち向かっている感じがして好きだわ。でも編集のスタッフが原稿を共有するにはデジタルデータも必要よ。」

と言うと、清原はカバンからUSBスティックを取り出して

「持って来ていますよ。どうぞ。」

と言って手渡した。吉川はドアを開けて部下を呼ぶと、

「大切なデータだから慎重にコピーして私のホルダーに保存して置いて。」

と指示して渡した。そして封筒から大切そうに取り出した原稿を机に上にのせて読みだした。原稿は400字原稿の様式で印刷してあり、縦書きで右上をダブルクリップでとめていた。吉川編集長は時間をかけながら一枚一枚を丁寧に読み、時々頷き清原が書いた中身に気持ちが入っているようだった。

「校正は任せていただけますね。少し直さないといけないところもあるけど、中身を変えたりはしないわ。大作家の大切な原稿だから、中身に触れるようなことは出来ませんわ。」

と昔からのコンビの間柄だからこその皮肉も交えて語る口調は満足げだった。

「あなたが言っていたのはこういうことだったのね。年寄りの懐古主義で『昔は良かった。ゲームのなかった時代はみんな本を読んでいたから活字に親しんでいたけど、今は活字離れしたのはゲームのせいだ。だからゲームはやめるべきだ。』というような時代錯誤の指摘ではなく、ゲームが全盛になってしまった今、どうしたら活字離れせず、小説や随筆を読む文化を守れるか、ゲーム世代の人たちをどうやって出版業界は取り込んでいけばいいのかという視点で明確な提案をしているのね。これなら新聞で発表すると読者はみんな釘付けになっていくでしょうね。」

と最初の10ページを読んだ段階で確信したようだった。吉川編集長の評価を聞いた清原は自分の思いが作品にぶつけることが出来、その意図を編集長が読み取ってくれた喜びが込み上げてきた。

「編集長、ありがとうございます。時代の流れを変えたいとか、そんな大げさなことは言わないけれど、日本文化の行く末に一石を投じられれば、この随筆作戦も存在意義が出てきますよね。」

と顔をやや紅潮させながら相槌を打った。

「それじゃ、今回は特別だから他の編集者にはさせないで、私が直接読ませていただくわ。読み終えたら校正に回します。ここからがスタートよ。あなたはしっかりと続きを書いてね。新聞は10月からよ。締め切りに遅れないように頑張ってね。」

そう言って編集長は清原に握手を求めた。いよいよスタートである。



7、定子の死去


 講文社を出た清原は銀座から地下鉄で目黒に戻り、東急線で自宅のある武蔵小山駅までもどった。子供の頃から住んでいる町だが、山の手と言うよりはどことなく下町のような情緒がある。戸越銀座の商店街も近く2駅で目黒駅に行ける。“ムサコマダム”という言葉もあり、高級住宅地のイメージもある。治安はよく、町の雰囲気は落ち着いている。駅から徒歩5分の位置にある自宅は先祖代々この町で暮らしてきた清原家の持ち家だ。

 清原納里子はこの家で3人姉妹の長女として育ち、2人の妹は結婚して家を出ていった。長女の納里子は会社勤めをしていたが、35歳で応募した小説が入選して、小説家として活動し始めた。両親は既に他界し家には納里子と65歳のお手伝いさんと35歳の女性のアシスタントが住んでいる。鈴木志乃というお手伝いさんは掃除や洗濯、食事の世話をしてくれるし、山中瞳というアシスタントの女性は大学を卒業後、都市銀行に勤めたが小説家を志して清原家に書生として住み込んでいる。採用してくれと強引に乗り込んできて、小説の取材を手伝ってくれている。地方に出かけるときは彼女を同行させることも多い。

 家に戻ってきた清原はすぐに書斎に入った。吉川編集長から言われた

「ここからがスタートよ。」

の言葉が頭にこびりつき、書きたいという意欲がみなぎっていたのだ。

 部屋に入るとアシスタントの山中が

「先生、資料を集めて置くように言われていた引きこもりと不登校についてですが、ネットから集められるデータと図書館の統計資料から集めた資料を分析して、冊子にまとめておきました。」

と言って紙ファイルに綴じられた分厚い資料を手渡してくれた。いつもながら彼女の仕事は早くて正確だ。さすがに一流大学を卒業して都市銀行に就職していただけのことはある。退職しなければ将来を嘱望されエリート銀行員として活躍していたことだろう。しかし彼女は文学的な才能も持ち合わせていたので、迷うことになってしまったのだ。どうせ一度しかない人生なんだから自分のやりたいことを極めたい。彼女の口癖だった。

 わたしが彼女のまとめた資料を手にとって眺めていると

「先生、先生がお出かけしていた時に、少し書いてみたんです。お時間が出来た時に少し読んでみていただけませんか。」

と言って文字が印刷された白いA4用紙50枚ほどがダブルクリップで綴じられているものを差し出してきた。小説家を夢見ている彼女だから資料集めの傍ら、自分の作品を書き上げ、清原納里子の添削や指導を得て、入賞できる小説を書く書き方を身につけたいと考えているのだ。清原は彼女が作品を見せるたびに思うのは素晴らしい文章だし読んでいて少し笑ってしまうようなウィットにとんだところもある。だから彼女の才能は認めている。しかし、その文章にお金を出してまで読者が買いたいかどうか、時代がその文章を求めているかどうかに疑問を感じることが多かった。今回の作品も書き出しの部分と『放課後の恋人』というタイトルを見て

「この作品は高校生の恋愛ものなのかな。今、その作品は時代に求められているかな?」

と問いかけた。美しい恋物語かも知れない。しかしそこに何があるのか。作者がその物語を書く意図は何なのか。読者はその物語からどんなことをつかみ取るのか。時代がそれを求めているのか、よく考えて書いて欲しい。そんな意味で彼女に問いかけたのだが、少しきつく聞こえたかもしれないと思い

「とにかく読んでみるから少し時間をくださいね。」

と言って傍らに作品を置いて、彼女が用意してくれた資料を読むことに集中した。

 彼女が作ってくれた資料からは引きこもりの人数が年代ごとに分けられて柱状グラフになっている。全部で150万人くらいいるようだ。各年代ともに数が多いが、30年くらい前から引きこもりの問題が言われてきたが、その頃の20代の引きこもりの人たちが50代になってしまっていた。そして今新たな問題として80-50問題、すなわち80歳を超えた親が50代の引きこもりの息子や娘を養育している問題だ。資料によればコロナ禍で数が増えたともいわれているが、根本は小中学校で不登校になった生徒たちが、その延長で社会に出られなくなっていることが問題だと考えられた。

 清原はメモ用紙に問題を書き上げて相関関係を考えてみた。

「学校で不登校の問題が出始めたのは40年くらい前だったかな。」

とつぶやくとアシスタントの山中瞳は資料を確認して

「不登校、以前は登校拒否と言っていましたが、1980年代後半のバブル期のあたりから爆発的に数が増えています。特に90年代バブルの崩壊と共に社会の閉塞感が充満し、そこから日本の失われた30年がスタートしますが、この時期の社会に対する不満が子供たちの心にしわ寄せして、いじめや校内暴力も顕在化してきたと書かれています。」

と報告してくれた。

「すでに高校や大学を卒業した世代も、この頃リストラにさらされたり、不条理な会社からの圧力に心を病んだ人が多かったと言われている。またその頃大学を卒業した世代は就職氷河期を経験し、一流大学を卒業しても女子ということで非正規雇用に甘んじた人が多かったのもこの世代よね。ちょうど私たちの世代から下の子たちがそこにあたるわ。」

と清原が言うと山中は

「先生は一流企業に就職できたんですよね。でも途中で退職してしまったけど。やめるときは迷いませんでしたか。」

「それは迷ったわ。周りの友達や両親はせっかく採用された一流企業を辞めるなんてありえないと言ってたわ。ただ私は不況からの立ち直りのために、中小企業を切り捨ててたり社員をリストラしたりしていく当時の会社の姿勢を許せなかったし、そんな会社や当時の経済界を題材に小説を書きたくて会社を辞めたの。」

と当時を振り返った。

「それにしても引きこもり問題は80歳の両親が死んでしまったら50代の引きこもっていた子供は生きていけるんですかね。」

と山中瞳が心配して問いかけた。

「難しいわね。中学生の頃から引きこもっている人は、15歳の精神年齢のまま50歳になってしまっているから、せめて家から出られるようにならないと、飢え死にしてしまうんじゃないかな。両親の年金で生活してきた人の中には両親が死んでも、死亡届を出さず死体と共に暮らしながら、両親の年金を受給し続ける場合もあるというじゃない。これから30年、どんな問題が起こるか、予想もつかないわね。」

そんな風に考えていると解決策が浮かばず、思考が袋小路に迷い込んでしまった。2人の会話も停まってしまったのでアシスタントの山中は隣の部屋に行って更なる資料収集を始めた。一人になってこの問題について考え始めた清原は再び思考が停止し、軽い睡眠状態に入り始めた。

「あ、またこの感覚。」

そう感じた清原が目を開けるとやはり12単衣を着ていた。平安時代の清少納言だった。


 清原清少納言は文机に向かって筆を持ち、書き物をする体勢になっている。やはり枕草子の続きを書いているのだろうか。それとも枕草子は書き上げてまた別の作品に取り掛かっているのだろうか。筆を進めようかどうか考えていたが、もし枕草子の執筆中だったとしたら、世界的な文学作品を自分が書き換えてしまうことに躊躇があった。

 しかし周りで見ていた女官たちの一人が

「きよら様、今度はどんな作品をお書きになるんですか。また枕草子のような作品ですか。それとも物語ですか。」

と声を発した。前回平安時代に来た時、中宮定子の後見人だった藤原道隆様の突然の死後、清少納言が実家に戻っていた時に書いた枕草子の第1帖は評判が良かったが、今回戻って来た時には枕草子は完成していたようだ。宮中で多くの人に読まれ、高い評判だったので、周りの期待は大きかったようだ。しかしどう答えたらいいかもわからず

「今は次に何を書くか考えているところです。」

とだけ答えた。しかしその時、奥の中宮様の部屋の方から

「誰か、誰か来てください。中宮様が・・・。」

という叫び声がした。声を聴いて清原清少納言と女官たちは急いで中宮の部屋に駆け付けた。中宮は道隆様の死後、元気がなく臥せりがちではあったがまだ20代で若かったので、一条天皇のお子を授かり3人目の出産を迎えていたのだ。しかし大変な難産で産婆が慌てふためいていた。

中宮付きの女官は慌てた様子で息を弾ませながら

「中宮様は昨夜から産気づきましたが、なかなかお子様が出てこないので、中宮様自身のお命が危ない事態になっております。」

と困り切っていた。傍で見ていた清原清少納言は、定子が若くして死んでしまうことは知っていたが、それが今日なのかどうかと言う確信は持てなかった。

 そこからは見る見るうちに中宮の様子は悪化した。入れ替わり立ち代わり医師団が病状を見て、陰陽師が御祈祷をしたが熱は下がらず父である道隆様のお名前をつぶやいた。難産の末に何とか媄子内親王を出産したが、その3日目には介抱の甲斐なく中宮定子は息を引き取られた。


一条帝は前年(999年)すでに道長の娘である彰子を宮中に迎えていたが、この年(1000年)4月中宮に任じ、一帝二后の時代に入っていた。そしてその年の暮れ、定子が死亡したのだ。一つの時代が幕を下ろす象徴的な年となってしまった。


一条天皇は他にも側室が何人かいたので、定子一人に固執はしていなかった。しかし中宮の死去とあって内裏では盛大な葬儀がとり行われた。紫宸殿には幕が張られ弔意を示していた。中宮定子の死去に伴い局は解散になった。多くの女房達は実家に帰ったり他の局に移籍したりした。清原清少納言も局を出て実家に帰ることになったが、清原にとっては清少納言の実家の父や母はほとんどなじみがなかった。清少納言は再婚相手の摂津守藤原棟世の任地である摂津に下って晩年を過ごす予定であった。

このころ清原清少納言は34歳で、現代に帰りたいと思ってもなかなか帰れず、摂津の田舎で悶々とした生活をしていた。

はたして自分は現代の生活の戻れるのだろうか。戻れずにこの世界で老いていくとしたら、講文社から出版する予定だった随筆も書けずじまいだ。藤原棟世は藤原南家で道長や道隆らの藤原北家とは対立関係にあった。摂津守を仰せつかり、任地へ赴いたが清少納言が追いかける形になった。


しかし、才能ある女流文学者を世間は放っては置かなかった。その摂津に翌年、内裏の使いとして蔵人源忠隆がやってきたのだ。この使者は、清少納言夫婦の前に出ると、

  「きよら様、帝からの御命令でございます。今は亡き中宮定子様の遺児である媄子内親王と脩子内親王の養育をお任せしたいとおっしゃられています。」

  つまり学問も漢詩も歌の感覚も優れた清少納言に内親王の家庭教師を要請したのだ。

清川清少納言は大いに悩んだ。自分は清少納言のように博識ではないし、当時の必要学問の漢詩や和歌の才能がまるでない。外見は清少納言でも中身は現代人の小説家なので、期待に応えられない。しかしこの時代の天皇の近くで繰り広げられる権力闘争を目の当たりにしてみたいという気持ちも強かった。

結局、清川清少納言は再出仕を決意し、内裏にあがることとなった。



8、2人の対面


 清原清少納言が再出仕するのは1001年である。その前年の暮れ、中宮定子が出産に際して命を落としたが、その年の4月、道長の娘である中宮彰子が立后された。そしてその翌年、清少納言の再出仕と同じ年に彰子の局に天才的な女流文学者が入局する。あの紫式部である。

 清原清少納言が内裏にあがったのはその年の4月で、中宮定子の遺子である媄子内親王と脩子内親王の教育係としてだが、2人目で産んだ敦康親王は中宮の死後すぐに彰子を母代わりとして、彰子の局に預けられた。

 清原清少納言は2人の幼い内親王の部屋付きとなり、彼女たちに学問を指南したが、生活全般にわたっての指導も携わった。

 そして内裏での生活が数か月過ぎた頃、宮中に一冊の物語が持ち込まれ、女房たちを中心に回し読まれたものが評判となった。当時、女性が使用し始めたかな文字を使い、帝の息子でありながら母の身分が低いため、親王としてではなく源氏の子息として育てられた男性を主人公とした恋物語だという。

「きよら様、この本、面白いですよ。主人公の君がかわいくて」

と同じ部屋づきの女房が左手に本を乗せ、右手でめくりながら話している。恋物語が面白くて夢中になるなんてと思ったが

「内親王様たちがお読みにならないように気を付けてください。」

と清原清少納言は注意したが、紫式部の源氏物語である事は容易に想像できた。紫式部が源氏物語の第一帖を書くのは、彰子の局にあがる前であったはずだ。源氏物語の評判が道長の耳にも入り、道長が彰子の局にあがるように話を進めたと言われていたはずだった。だから清原清少納言はその本を読まなくても中身は大体わかっていた。しかし初版本を見たことはない。現代に残っているのは平安時代末期の絵巻物で、名古屋の徳川美術館に所蔵されているものを見学したことを思い出していた。江戸時代などに皇室や大名家の嫁入りにはきらびやかなひな人形と洛中洛外図、そして源氏物語絵巻が花嫁道具の一つに入れられたと解説に書いてあった。

 清原清少納言は文机の端に置かれていた源氏物語の初版本を手にとってみた。絵巻物ではないので文字だけが書いてあったが、当然印刷技術がまだ広がっていないので、印刷本ではなく手書きの写本である。しかし清原清少納言は書き写された美しく流れるように書かれたかな文字が読み取れなかった。毛筆の草書で書かれているので現代人には古文書解読をできる人にしか読み取れなかった。ただその紙質や文字の美しさ、製本の技術など現代人は見たことのないものを体験できたのだ。しかし現代に戻れたとしてもこのことを信じてくれる人はいないだろう。

 本はこの一冊だけで、まだ第一帖しか書かれていないようだった。このあと54帖まで続くはずである。同じ内裏内に紫式部がいると思うと、清原清少納言は会ってみたいという気持ちに駆られてきた。


 そのチャンスは意外と早く訪れた。お互いの部屋を行き来することは男性貴族なら出来るだろうが、女房達は自由に相手側の部屋に行くことは出来ない。しかし宮中で一条天皇の母である栓子上皇后が主催して歌会が催されたのだ。栓子は道長の姉であり、栓子と道長が権力を掌握していた時代だ。

 媄子内親王と脩子内親王にとっては栓子は祖母にあたる。幼い内親王だったが見学者として呼ばれたため、清原清少納言も同行していた。宮中の紫宸殿前の広場に設けられた席には多くの皇室関係者と藤原家関係者が集まった。

 歌会は歌人としても有名な和泉式部から始まったが、彰子の局の関係者たちが藤原道長と栓子を持ち上げるような歌を次々と歌っていく。紫式部もその中に加わったが、一人だけ「恋の歌」を歌った。

 歌会は終盤に入り、栓子が道長を指名した。道長はしばらく考えたが


「この世をば、我が世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思えば」


と詠んだ。この時は彰子だけでなく、妍子 威子も天皇に嫁ぎ、権力をほしいままにしていた時代だった。

 清原清少納言は道長のこの歌を聞いて、まさか本当に自分でこの歌を詠むとは考えていなかったので驚いた。高校生の時に学んだ時も、これほど傲慢な歌は誰か後世の人が道長の気持ちを誇張して、勝手に創作したものに違いないと考えたからだった。当時の授業を担当してくれた古典の先生もそう言っていた。しかし現実に目の前でその姿を見て、呆気に取られていた。

 すると栓子が

「今日は才女の誉れ高い“きよら”も来ているであろう。今日の歌会の感想を述べよ。」

と仰せになられた。突然の指名にびっくりして何も考えていなかったが、口から飛び出した言葉は周囲を驚かせた。

「今日の歌会は大変みやびで、美しい歌が多くございました。特に道長様は一家三后に迫る勢いで、歌を聞きながら望月が見えるかのごとく情景が浮かんで来ました。ただ私は亡き中宮定子様にお仕えしていた身でございますから、定子様がご存命だったらどんな歌をお読みになったかと考えてしまいました。」

と歯に衣着せぬ言い方で述べた。一瞬周囲は凍り付いたようになったがその中で対面する側に座っていた紫式部はこの時の清少納言のことを紫式部日記でこう述べている。

「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち真名書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬことおほかり。かく人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば(清少納言という人はとても自慢げにしている人です。賢そうに漢文など書いていますが、よく見れば粗が多いものです。このような人と変わったことを好む人は、必ず失敗し、行く末も危ないものです)」

と酷評している。2人の対面はこれ一回だけだった。

 内親王の部屋に戻り、本日の歌会の感想を内親王に聞いてみると幼い内親王は

「きよらの言葉にみんな驚いた様子だったが、どうしてですか。」

と聞くので

「内親王様のお母上は定子様で、定子様の御父上である道隆様は道長様や栓子様のご兄弟です。道隆様や定子様が死んでなければこの世はあなたたちの物だったかもしれないのですよ。」

と内親王たちに恨み言を注入した。

 夕方、食事をとり寝所で最近はやりのお伽草紙の読み聞かせをしていると2人の内親王はうとうとと眠りについた。しかし清原清少納言もいっしょに眠りについてしまった。今回は少し違った感じだったが、歌会での出来事の興奮から神経が高ぶっていたが、読み聞かせというのは聴く方だけでなく読み聞かせるほうの心も落ち着かせてくれる。ゆっくりと深い睡眠に入っていった。



9、活字文化復活へ


 清原が目を覚ますと再び武蔵小山の自宅の書斎だった。パソコンのキーボードに手を乗せ、手前に顔を右向きに乗せ右口びるから唾液を少し流していた。キーボードが汚れなくて良かったが、正面に掛けてある鏡を見ると右頬に顔の下敷きになっていたボールペンの跡がくっきりと付いている。いそいで右手で頬を撫でて血液を循環させ、跡を取ろうとしたがなかなか取れない。

 気を取り直して携帯電話を手にして日時を確認した。8月25日午後4時30分 平安時代にタイムスリップした瞬間の時間に戻って来たのだ。

 アシスタントの山中瞳は別室にいるのか見当たらないが、お手伝いさんの鈴木志乃さんは目を覚ました清原にお茶を持って来てくれた。

「随分長い時間寝ていましたね。寝言も聞こえましたよ。」

とお茶の湯飲みをテーブルに乗せながら教えてくれた。

「どんな寝言だったの。」

とお茶を飲みながら清原納里子が聞くと

「源氏物語とか初版本とか聞こえましたけど。」

と教えてくれた。清原は連作物の夢なのか本当のタイムスリップなのかよくわからなくなっていたが

「私、平安時代の京都で紫式部の源氏物語の初版本、手書きの写本だったけど、実物を見てきたの。それに私は清少納言だったの。信じられる。」

見てきたこと、体験してきたことを鈴木さんに話してみたが鈴木さんはまったく何のことかわからず、寝ぼけていると決めつけて

「いい夢を見ていたんですね。もう一回眠って続きを見ますか。」

とからかってきた。彼女の反応の方が普通だろう。誰に話しても信じてもらえる話ではない。

 気を取り直して講文社の吉川編集長に電話をかけた。

「編集長ですか、清原です。また平安時代に行ってきました。枕草子は完成していましたが、中宮定子が死んでしまい、時代は道長の時代に入っていました。定子の局は解散になり摂津に引き下がったのですが、内親王の教育係として再び内裏に入りました。そして歌会で紫式部に会いました。それに源氏物語の初版本を手にとって読みました。そうそう、歌会では藤原道長もいて、あの歌を詠んだんです。」

「あの歌ってあれのこと?」

「そうなんです。『この世をば、我が世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思えば』です。作者は道長ではなくて後世の人だと思っていたんですが、道長本人だったんです。」

と興奮気味に話した。

「今から出てこられる。銀座で話しましょう。」

と編集長が誘ってくれたので、夕方7時に銀座の寿司『与一』で会うことになった。

清川が銀座の『与一』につくと編集長は既に座ってお刺身をつまみながらビールを飲んでいた。

「すみません。遅くなりました。」

と清川が言うと

「私も今来たところよ。まだビール一杯目よ。気にしないで。」

と言ってくれた。

「それで平安時代はどうだったの。」

「今回は定子の死亡の場面と栓子主宰の歌会に遭遇したんです。電話でも言いましたが栓子の歌会で多くの参加者は道長と栓子を褒めたたえる歌ばかりだったんですが、紫式部は一人だけ『恋の歌』を歌いました。道長は例のあの歌を歌ったんですが、会場は道長を称える雰囲気でした。しかし私が詮子から最後に感想を求められたんです。そこで私は『素晴らしい作品が多くて感動した。でも定子様が生きていたらどんなことをお考えになっただろう』と言ってしまったんです。そうしたら会場中に沈黙が広がっていってしまい、清少納言の評判を落としてしまったかもしれません。でも確か紫式部日記で清少納言のことを酷評してますよね。あれってもしかしたら私のせいかもしれないんです。」

そこまで言うと吉川編集長は

「あなたは歴史を動かしてしまったのかもね。でも目の前の随筆の執筆に集中してよ。いよいよ会社は組織の再編に乗り出してきたの。半年猶予をくれるはずだったんだけど、来月から人員を削減して半分の職員は他の部署にとられるの。10月からの毎朝新聞での連載が勝負よ。気を抜かないでしっかり頼むわよ。」

寿司『与一』での決起集会は会場を移して、おばさん二人でのカラオケボックスでのアイドル昭和歌謡縛りの熱唱大会で幕を閉じた。


 10月5日(日)毎朝新聞での連載開始の日が来た。自宅に配送された新聞をお手伝いの鈴木さんが食卓まで取り込んできてくれた。清原はいつもよりかなり早く起きていた。鈴木さんが入れてくれたコーヒーを飲みながら新聞をめくり、文化面を探した。すると中央付近に文化面があり、囲みコラム風に清原の随筆が掲載されていた。タイトルには『逢坂の関はゆるさじ』と書いてあり、著者名に『清原納里子』と書いてある。囲みの下に記事として今日から連載が開始されることが書かれていた。

 清原は自分の随筆を読みながら、もっとこの部分を広げて書けばよかったとか、もう少し調べて書けば説得力あったかなとか反省しながら読み返した。するとアシスタントの山中瞳は横から覗き込んでいたが

「すいません、先生。少し私にも読ませていただけませんか。」

と言って横から手を出してきて清原から新聞を奪って隣に座って読み始めた。

「先生、すごい説得力ですね。ゲーム機の出現からの歴史になっているけど、ゲームを批判するのではなく今を生きる若者たちが読書に親しむにはどうしたらいいか。過去の資料の羅列ではなく、ゲームにのめり込んでる少年たちでも本を読む大切さに気が付いて欲しいとまとめてますね。今の時代に大切なことですよね。私、来週の掲載が楽しみになりました。」

と感想を述べてくれた。アシスタントの誉め言葉でもうれしいものだった。


 翌日夕方、毎朝新聞の文化部長から電話があった。

「清原先生ですか。今回随筆の執筆有難うございました。『逢坂の関はゆるさじ』というタイトルも良かったと思いますが、読者からの反響が大きくて、電話でも問い合わせが多いし、ホームページへの感想の書き込みも多数です。読者は来週以降も期待していますからよろしくお願いしますね。」

と語っていた。褒められて嫌な気はしないが、確かめて見たくて毎朝新聞のホームページをパソコンで検索した。

 『逢坂の関はゆるさじ』のコーナーが作られていて、感想を送るボタンと他の人の感想を見ることが出来るボタンがあった。清原は感想を見るボタンを押してみた。すると約2000件の感想が載っていた。順番に読んでいったが10個読んだところで終了した。清原の考えに賛同して書いてくれたものが羅列されていた。

 次週以降も連載は大きな反響を呼び、テレビでも取り上げられ毎朝新聞系のテレビ局のワイドショーに出演して執筆の経緯などを話させてもらった。。



7、2人の再会


 清原の新聞での掲載が好調で読者からの反響が大きかったことは、講文社の社内でも評判になり、社長室に吉川編集長が呼ばれた。

一条社長は手放しで吉川を迎え入れ

「よくやってくれた。すごい評判だね。日本の読書文化の行く末を危惧する有名作家の気持ちが読者に響いたんだ。ここからは初版本をどれくらい印刷するかが我が社としての利益に直結するから、発行部数をよく考えて印刷に回してくれよ。君はどれくらい初版で印刷するつもりだい?」

社長はかなりの鼻息ですでにベストセラーを決め込んでいる。

「あまり、過剰な期待をされると清原先生もプレッシャーがかかりますので、適当なところで押さえて置こうと思うんですが。」

と吉川編集長が答えると

「吉川部長、ここは強気で行ってくれよ。経営者の一員として考えて欲しいい。」

と追加してきた。

 結局、初版では10万部の印刷で押さえて、売れ行きを見て重版していくことになった。しかし、大きな計画が持ち上がった。社長は

「どうだろうね。現代の若者の旗手の紫島葵とベテラン人気作家の清原納里子の対談を雑誌に掲載すると雑誌も売り上げが伸びると思うんだ。僕の方から大衆雑誌部に話は通しておくからね。」

と対談の話が決まってしまった。


翌日、吉川編集長は清原納里子に対談の話を受けてくれるように電話をかけた。

「もしもし清原さん、新聞連載の随筆、評判がいいから社長も喜んでいたわ。出版する本も初版から大量印刷するって張り切っているわ。そこでお願いがあるんだけど、社長がベテラン人気作家の清原納里子と若者の旗手、紫島葵の対談をうちの会社の雑誌で実現させようと言っているの。貴方の本の売り上げにも直結すると思うの。引き受けてもらえるかな。」

と問いかけた。電話口で清原納里子は朝食のトーストを食べていたが電話をスピーカーにしてコーヒーに手をかけ

「紫島さんってデジタル小説で若者に大人気の作家でしょ。私も一度会ってみたかったの。彼女の作品はいくつか読んだことがあるわ。それでどんなテーマで話すの?」

と聞いてみた。前向きな返答だったので吉川は嬉しそうに

「あなたの随筆のテーマと関係性を持たせて『日本のこれからの読書文化』って感じで考えているわ。雑誌の対談だから電車の中吊りとか新聞の広告なんかでキャンペーンを張ることになるの。相当、関心を集めるわよ。進めて良いかな?」

清原は屈託なく

「良いですよ。いつになりますか。」

「紫島さんの予定は現代小説部の上原部長が調節に入るけど、来週の水曜日、午後2時、場所はインペリアルホテルの会議室を予定しているの。変更があったらまた電話します。当日は会社からハイヤーを自宅に回すから家で待ってください。」

「了解です。吉川編集長のお力になれたら私は何でもしますよ。頑張りましょう。」

と答えて電話を切った。清原は紫島葵についてコーヒーを飲みながら考えた。

『彼女はどうしてあんなにヒット作を連発させることが出来るんだろう。彼女の創作のヒントはどんなところから得ているんだろう。』

考えると不思議な人だなと興味が湧いてきた。


 対談の日は朝から忙しかった。何を着ていくかで悩み、メイクとヘアメイクのための美容室への予約は10時にしてあった。55歳の清原納里子だが、35歳の紫島葵に負けたくなかった。若さでは負けても、着ているものや持っているもので負けるのだけは許せないと思ってしまった。55歳でもやっぱり女だった。


 清原は準備を整えて家で待っていると、1時ごろに大きな黒塗りのハイヤーが家の前で停まり、運転手さんが玄関まで迎えに来てくれた。大きな車で目黒から六本木を通って日比谷のインペリアルホテルまで快適なドライブをして、1時30分には会場のインペリアルホテルに入った。ホテルのロビーで吉川編集長が待っていてくれた。簡単な挨拶をするとエレベーターに案内され、最上階にのぼった。対談が行われる会議室は、国際会議や首脳級の国賓との会談などにも使われてきた部屋だった。部屋の中に入ると最上階なので真下には皇居の緑が広がり、関東平野を一望できるロケーションだった。室内の調度品も一流で椅子もテーブルもイタリア製のマホガニーが使われている。

 1時45分には紫島葵さんが上原彰子部長と共に入って来て、清原を見つけると握手を求めて来た。

「こんにちは、紫島です。清原先生ですよね。学生の頃から先生の作品はたくさん読ませていただきました。今日はよろしくお願いします。」

と先制パンチを浴びせてきた。清原は落ち着いて彼女の目を見つめながら

「こちらこそよろしくお願いします。清原です。紫島さんの作品は私もいくつか読ませていただいています。若い感性が羨ましいわ。」

と笑顔で持ち上げながら、今日の彼女の服装やメイクをチェックした。負けてはいないが、流石人気作家である。一流ブランドの鮮やかな白のスーツを着ている。メイクもヘアーも相当気合を入れてきている。清原も気合を入れて洋服選びもしてきた。イタリアの高級ブランドの黒のスーツを着てきた。白と黒の対決になってしまった。

 週刊毎朝の担当者が対談の進行について説明し、時間になったので対談が始まった。

司会の担当者が

「今日はお集まりいただいて有難うございます。先日から始まった毎朝新聞文化欄の『逢坂の関はゆるさじ』が大変な評判を呼んでいますが、作者の清原納里子先生をお迎えして、対談していただくのはデジタル小説で若者のカリスマ的な人気を得ている紫島葵先生です。まずは清原先生、今日のテーマは『日本のこれからの読書文化』という事なんですが、今回の先生の作品も若者の読書離れや活字離れ、さらには出版不況などで日本の将来の文化、特に読書や文学の行く末を危惧してとお聞きしていますが、どのようなお考えで書かれていらっしゃるんですか。」と質問した。清原納里子はよく考えて

「テレビが出て来た時、子供たちが本を読まなくなったと言われました。ゲーム機が出て来てさらに本を読まなくなりました。ではテレビもゲームもなくなればいいでしょうか。今更なくすことは出来ないし、プラス面もたくさんあります。使い方を誤らずに節度を守り、読書することも忘れないようにしなくてはいけないと思うんです。」と答えた。司会者は

「では紫島葵先生、清原先生の新聞での連載は読まれていると思うんですが、どんな感想を持たれましたか。」と質問した。紫島は

「興味深く読ませていただきました。大変すばらしい目の付け所だと思います。日本文化はどのような方向に進むべきなのか、日本国民に教示を与える名著となりうる作品だと思います。」と褒めたたえた。司会者は

「ではここからはお二人でフリーにお話しください。」と言って聞き役に回った。

まず清原が口火を切った。

「私、清少納言の枕草子を研究したんだけど、彼女が仕えた中宮定子の後見人の藤原道隆が死んで定子はふさぎ込んでばかりいた時期に枕草子は書かれているの。でも枕草子の中の定子は明るく聡明で知識も豊富な才能豊かな女性に描かれているの。何でだと思う?」

「私はそこまで研究してないからよくわからないです。」

「私の考えなんだけど、道隆が死んで道長の世の中になって道長の独裁が始まると、定子も清少納言も道長を許せなかった。だから敢えて元気で聡明な定子を描き、道長の世を批判したのではないかと思うのね。そしてその書き方は世の中を直接的に批判するよりも効果的だったと思ったの。しかもそういう表現って現代にも応用できる。そう考えてこの作品を書いているんだけど。」と説明した。すると紫島葵は

「それは言えますね。清少納言が枕草子を書いていた時代、周りで読んでいた人たちは、定子が書かれている様子が現実と違うことに違和感を感じ、清少納言の意図を敏感に感じていたでしょうね。」

「私もそうだと思うの。世界的に有名な女流文学者で、優れた才能の持ち主の清少納言が仕組んだ文章なのだから、奥が深いのよ。」と言うと

「まるで平安時代に行って来たみたいな感じですね。清少納言とも話したんですか。先生が清少納言の書き方から学ばれたのなら、私も紫式部の書き方を学びたいと思います。」

紫島は意味ありげな話をした。時間も来たので司会者が

「それではこの辺で対談を終了しようと思います。お二人とも最後までありがとうございました。」と挨拶して対談は終了した。


 対談終了後、テーブルにコーヒーとケーキが出された。紫島と清原は緊張を解きテーブルに着きコーヒーを飲みながら話し始めた。

「なかなかいい対談が出来たわね。」と清原が言うと

「そうですね。先生の制作意図がよくわかりました。日本文化への貢献は大きいですね。」と紫島が答えた。清原は

「さっきあなた、私に平安時代に行ってきたみたいですねって言ったわね。実は夢だったのか現実だったのか、自分でもよくわからないんだけど、平安時代にタイムスリップしたみたいなの。しかも清少納言の体に入り込んでいたの。だから定子にも会ったし、紫式部にもほんの少しだけど会ってきたの。」と答えると紫島は真剣な目つきになり、周りを見渡して誰にも聞かれないように清原に近づいて小さな声で囁いた。

「私も実は平安時代にタイムスリップしてるんです。これで5回くらい行ってきました。私は紫式部の体内に入れるんです。栓子の歌会に先生も来てましたよね。あの場所に私もいたんです。あの時、清少納言の話し言葉を聞いて、違和感を感じました。話し方の中に現代言葉が混じってました。だからあの清少納言も私と同じタイムスリップしてきた人が中に入っているとわかったんです。」と解説してくれた。

「それじゃ、あなたのデジタル小説の中の恋愛物は源氏物語をモチーフにして書いているってことなの?」と問いかけると紫島は

「天才紫式部は多くの女流文学者が手本としていますから。あのストーリー性、創造性、的確な人間観察力。あんな文学者に少しでも近づけたらといつも思っています。」

と告白してくれた。意外な共通性を知って、彼女のことをより身近に感じた。

2人はホテルの部屋を後にして、家に帰ると再び創作活動に没頭していった。


3か月後、清原納里子の随筆「逢坂の関はゆるさじ1」が全国の書店で発売になり、好調な売り上げで、講文社では文芸部の人員は元に戻された。さらに翌年には一条社長は退任し、吉川定子が初めての女性社長に就任した。(完結)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ