1話『少女の好奇心』
聖戦より後の時代。
神々がその地より離れしばらく経ったのち、魔力を持つ者たちは
古代の文字を読み解き再び神と繋がる手段を得た。
しかしそれは魔術というものの衰退を招いたのだった——。
この日、ある魔術師の一家に生まれた女の子、
名をヴェロニカ・スルト・シルヴマルク。
彼女は産声を上げずに生まれ落ち、母の期待に満ちた眼差しに晒された。
魔術師であるのなら、いついかなる場合も己が利を追い求めるべきだ。
これはシルヴマルク家の当主、ヴェロニカの父が度々口にする言葉だった。
魔術界において幾つかの功績を上げた父の偉大さを
彼女は幼いながらに感じていた。
母は傲慢さを増していき、いくつか年の離れた兄は憧れを抱く。
だがヴェロニカはそんなものに興味は惹かれなかった。
◇◆◇
ヴェロニカが4歳の頃、家の中は以前に比べてとても騒がしい。
なぜなら新しく生まれた次男と三男が家中を駆け回り
使用人を困らせていたからだ。
ヴェロニカはそれを見下しながら思う。
何が楽しくてあれほど騒いでいるの……?
と。
それはもう不機嫌そうに項垂だれながら。
少しだけ静かにしてほしいと頭を悩ませる日々だ。
だがそんなヴェロニカにも心を踊らされるほど楽しい時間がある。
「ヴェロニカ、これが炎の初級魔術の呪文だ。読めるか?」
ヴェロニカに分厚い本を見せ優しく教えを説くのは
父や母、それに様々な魔術師から将来の期待をされている兄だ。
「えっと………これが、アルス?」
「ああ、惜しいな。これはアルゥス。
小さいや短いといった意味で使われる呪文だよ」
こんなふうにヴェロニカに愛情を向けてくれる人間は彼しかいない。
兄弟には世話を焼く召使いも、母でさえ彼女には軽蔑の目を向ける。
その理由はヴェロニカが生まれながらに魔術を使えないから。
魔力が無いわけではない。
魔力を放出するための出口が無いのだ。
例えるのなら口の無い瓶。
しかもその瓶の中にある水は時が経つにつれ増えていく。
それを止める術はない。
増していく水はいずれ瓶の限界を超え溢れてしまうだろう。
そうなるとヴェロニカに待っているのは確実な死。
母等が彼女に関わらず、父が魔術を教えようとしないのも納得がいく。
少なくともヴェロニカの頭にはそんな考えがあった。
「それじゃぁ……お兄様、これは何ですか!」
「どれだい……?
ああ、これはニグシス。火を表す呪文。
所謂4大呪文という有名なものだよ」
こんな学びに意味はない。
将来に続く道などありはしないのだから。
しかしヴェロニカは目を輝かせながら本の文字に触れる。
そして次の日も、そのまた次の日も兄に頼み込む。
父と兄が口に出してから覚えている
『魔術と呪文・翻訳版』という本の名を連呼して。
◇◆◇
ヴェロニカが5歳になったある日、
その痛みは突如として襲いかかった。
「うぐっ! ぐあっ…………!」
「ヴェロニカ! どうした急に……。
お、おいお前たち、ヴェロニカの手当てを………。
ど、どうした? 早くしろ!」
大量の血を吐き倒れたヴェロニカを抱え
使用人に手当てを命じるが誰も手を貸そうとしない。
兄は昔から感じていた皆のヴェロニカへの態度に憤慨する。
誰も妹のことを気にかけない。
まるで邪魔なものだと言わんばかりに倒れた妹を嬉々として見る。
この家は狂っている……!
簡単な治癒魔術をかけて落ち着いたヴェロニカをベッドに寝かせた兄は、
その頃から家族に対して嫌悪感を募らせていった。
そして密かに心の中で誓う。
ヴェロニカに魔術を使わせると。
それが自分のやるべきことだと——。
これもダメ、あれもダメ。そんなふうに様々な知識を取り込む兄。
しかし自分に出来ることを模索してもただ無力さに打ちひしがれるだけだった。
「くそっ………! いったい、どうすれば……………」
陰から兄の様子を見ていたヴェロニカは少しガッカリする。
最近は忙しいからと本を読んでくれないからどうしようと。
ヴェロニカにとってあの日から止まらない体中の痛みよりも
知的好奇心を満たせないことの方が苦痛だ。
母や召使い達は話を聞いてくれなさそうで、
下の兄弟はそもそも字が読めない。
父はそもそも論外だろう。
そんなわけでヴェロニカは独学で文字を覚えることにした。
まずは数冊の本を手に取り読める文字だけを確認する。
『詩人の歌〜精霊と夜の森〜』
『奇妙な旅人』
『感嘆する』
それぞれ手に取りさらっと中身を確認。
予想はしていた。
だけどあまりに読めない字が多すぎてヴェロニカは落ち込んでしまう。
ただ最後の、『感嘆する』という本は読める箇所が多くて嬉しかった。
ヴェロニカ自身本のタイトルである感嘆の意味が分からず、
取り敢えず「する」と読んでいたが。
そして分かったことが2つあった。
1つは『感嘆する』で出てきた「無能」という言葉は
他人を侮蔑するものだと言うこと。
もう1つは分かっている字を再確認したところで意味はないということだ。
「んん………どうしよう」
悩みながら朝食を食べるために食卓につく。
ヴェロニカの食事は意外なことに普通に用意されている。
別に毒入りというわけでもない。
これは以前に召使いの1人がふざけて水だけを持ってきたところ、
父に「きちんと仕事をこなせ」と怒られたからだ。
この発言には優しさというものはなく、
ただ単に仕事に私情を挟むなと言うこと。
「それで、2人は魔術の勉強をきちんとやっているのかしら?」
痩せ型の母が鋭い目をして次男と三男に尋ねる。
2人はビクッと背を正し張り詰めた声で、
「は、はい! お母様。順調ですよ」
「ぼ、僕もですお母様!」
と即座に反応するがヴェロニカは知っている。
2人は嘘をついていると。
なぜなら彼女は兄弟が勉強の時間
家の裏の森で遊んでいるのを見ているからだ。
ここでバラすつもりは無いが呆れるヴェロニカ。
同時にあれほど楽しいものは他に無いのに、どうして2人は
魔術の勉強を嫌うのだろうと疑問に思う。
——食事が終わるとヴェロニカはまた考え出す。
どうすれば文字の勉強ができるのだろうかと。
2階の窓から外を見れば誰よりも早く食べ終わり
外に出ていった2人が無邪気に遊んでいる。
あれの何が楽しいんだろう。
チラッと見てすぐ部屋に戻った。
持ってきた本を眺めながら彼女はふと思う。
無知な自分には教養を授けてくれる講師が必要なのだと。
「はぁ、もうどうしよう………………………」
部屋から見える青空がとても近く見えた。
好きなものはあれど、それを学ぶことのできない日々。
とても退屈で目に見える何もかもが遅く見える。
1日がとても長い。
こんな人生ならいっそのこと早く終わって仕舞えばいいのにと何度も思う。
「ヴェロニカ、ちょっと良いか?」
扉をノックしてそう呼びかけるのは兄だ。
ヴェロニカはどうしたのだろうと思いながら、もしかしたら魔術を
教えてくれるのかもと少し期待して扉を開けた。
「どうしたの? お兄様」
「ああ、その……。
さ、最近会えてなかったから…………。
入ってもいいか?」
「うん!」
部屋に入り椅子に座った兄は疲れている様子。
最近16の歳を迎えたがそれより老けて見える。
それは長い間ヴェロニカの体質を治すために根を詰めていたから。
しかし結果は芳しく無いようだ。
「お兄様?」
「ヴェロニカ、ごめん、俺は……俺は、お前を救えない……ごめん、ごめん」
涙を流しながら俯き許しをこう兄。
ヴェロニカにはこの状態の彼をどうしてやれば良いのか分からない。
だけど、そんなことはどうでも良いのは確かだ。
だからヴェロニカは兄に尋ねる。
「お兄様、そんなことよりココ!
この文字の意味を教えてください!」
「………そう、だな。ああ、いいぞ……。
この言葉の意味は祈り、だな」
兄はヴェロニカの無垢な気持ちを尊重したのだ。
だがヴェロニカは兄が思っているほど子供ではない。
自分の置かれている状況を曖昧ながらも把握している。
ただ、そのことと興味を追及することは別。
彼女にとって知的好奇心を満たしてくれるものは特別だ。
終わりが近いというのなら尚更。
「これは……ああ、『魔法と魔術について』か。
この本は結構前に書かれた本らしくて、
確か聖戦のすぐ後だったかな」
「どんなことが書かれているの?」
「ヴェロニカは魔法と魔術がどういうものか知ってるか?」
ヴェロニカは知らないと首を振る。
「そうだな、簡単に言えば魔法は
魔術師の力でない神秘のこと。
魔術はそれを使うことを言うんだ」
「うん?」
「あはは、ごめんな説明が下手で。
まあ、あれだ。魔法が大きな川で、
魔術はその川から水をすくいあげる行為だ。
ヴェロニカも水面を手で波立たせたことがあるだろ?」
外で遊んだことがないため頷くことが出来ないヴェロニカ。
兄は更に頭を悩ませる。
「ええっと………ま、まあ兎に角、
この本はそんな説を否定しているんだよ。
魔法というものは川から水をすくうことで、
魔術は自分の瓶から水を取り出すものって感じで……」
「ということは……この本では、魔術が魔法?」
「そうなるな…………………………。
魔術が、魔法か——」
「お兄様?」
「あ、ああ何でもない……他は? 何が知りたい」
ヴェロニカは好奇心の赴くままに兄へ質問攻めをした。
ただ兄の返事は何処か素っ気なくて、
ヴェロニカは少し不満な様子。
結局兄は考え事をしながら部屋を出ていった。
——数日ぶりに多少好奇心を満たすことが
出来て寝つきが良いヴェロニカ。
この日は慢性的な体全体の痛みも弱まりすぐ眠れた。
「う、うう………」
「起きたかヴェロニカ?
でもまだもう少し寝ていて良いぞ」
重い瞼を開いてモヤがかかるその顔を凝らして見る。
それは兄の顔だった。
どうやらヴェロニカは抱えられて何処かに運ばれているようだ。
なぜこんな事をと普段なら疑問を持っていただろうが、
今のヴェロニカは眠さが限界にきた獣人くらい頭が回らない。
「待ってろ。すぐお前を治してやる……」
そのせいでまた瞼が重くなってきた。
一体何をしようとしているの……?
そんな疑問が出始める頃にはもう夢の中だった。