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【ZERO2】Against The Wind  作者: 市尾弘那
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第3話(1)

 新高円寺はどちらかと言えば住宅街で、駅前に店はそれほど多くはなく、少し駅から離れるともう住宅ばかりになる。

 青梅街道沿いに自宅付近の新高円寺まで戻った俺は、軽く空腹感を覚えた。

(腹減ったなぁ)

 結局差し入れもほとんど食ってないし。

 駅前にあるファーストフードで食糧を入手することを決めた俺は、駐車場に一度単車を停めると、徒歩で青梅街道まで戻った。横断歩道の信号待ちで足を止める。

 俺の立っている真後ろにはパチンコ屋がある。そこから洩れる騒々しい音や車の通り過ぎる音、人々の話し声をBGMに、ぼんやりと空を見上げた。もうもうすぐ二十時になろうと言うこの時間帯、一月ともなれば寒々しい空気に包まれている。

(幸せそう、だったよな)

 由梨亜ちゃん。

 覗かせる表情や和希を見つめる視線の端々に、幸福が覗いていた。それを思うとやっぱり、こうなるべきだったんだろうな、とは思う、よな。

 ……良かったんだと、思うしかない。

(なつみの奴、本当に大丈夫なのかなぁ)

 それこそ忘れるしかない自分の内の苦い想いから意図的に目を逸らし、なつみに意識を切り替える。

 まるで生気のないやせ細った顔は見るからに病的だったけど、恵理の言葉を抱き締めて、少しは這い上がって欲しいもんだけどな。

 信号が変わり、人の流れに紛れて横断歩道を渡る。恵理のおかげで、一応はなつみの気持ちも上向きにはなったみたいだけど、それがそう続くとは限らない。こういうのは波がある。余り続けば鬱病にでもなりかねないし。

(放っておくわけにもいかねえよなあ)

 と言ったって、和希が気にかけるんじゃあ逆効果にしかならないわけだし、せめて俺くらい気にかけておいてやった方が良いだろう。

 ……俺には何も言わないけど、和希も多分、なつみのことは気にしてるだろうな。あれだけ仲が良かったわけだし、そうでなくても和希は優しいから。

 明日、なつみと会ったことくらいは伝えておいてやろうかな。

 ファーストフードショップに入って、持ち帰りでセットをオーダーする。アルバイトの女の子が準備する間、意味もなく天井近くのメニューボードに視線を定めたまま、小さく欠伸をした。

 そう言や今日、緊張して早く目が覚めちゃったんだっけ。今日でレコーディングの雰囲気も何となくつかめたし、今日はさっさと寝よう。

「お待たせ致しましたぁ」

 非常食を受け取って店を出る。また反対車線側に戻る為に、俺は横断歩道へ向かった。

 なつみも気になるし、武人もどうしたのか気になるし。

 俺自身だって、マインドコントロールしなきゃなんない状況でもあるわけで。『声』なんつーメンタルな道具でもって、明日仕事しなきゃなんないわけだし。

 顰め面でぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜて道路を渡る。さっきは背にしていたパチンコ屋の自動ドアががーっと開いて、中から携帯を片手に持った男性が出て来た。そのせいでパチンコ屋から洩れる騒音が盛大になる。

「あー、もしもしぃ? 俺ぇ? 今ぁ?」

『三十九番台、スタートです』

 ジャラジャラジャラジャラ……。

 うるさい。

 俺はパチンコに限らずギャンブルに総じて興味がないので、パチンコ屋なんかも縁がない、あんまり。付き合いで行ったことがないわけじゃないけど、結構ムキになるタチだから、ハマると危険だと言う自覚が自分である。ので近付かない。

 男が自動ドアの前を離れて完全に外へと出て来て、ドアが閉まると同時に騒音は小さくなった。その前を通り過ぎて脇道に入り、そこからすぐの自分のマンションに辿り着く。

 ポストを覗いてエロ広告を手の中で握り潰しながら、エレベーターに向かった。ドアが閉まると狭いエレベーターの中に、ハンバーガーの匂いがどことなく充満する。……ごめんよ、次に乗る人。

 部屋に戻ると、一日誰もいなかったこの部屋は、空気までがしんと冷えていた。一人暮らしは短くないけど、冬の夜に帰って来たその瞬間と言うのは何度やっても寂しげだ。一矢が一人の家に帰りたくないと言う気持ちも、時折わからなくはないなと思う。

「ただいまぁ……」

 そうでなくても、今日は決してテンションが高いとは言えない。

 むなしいとわかっていながらそう言ってみると、何だかむなしさが際立ったような気がした。

「……っざけんな」

 部屋に入った瞬間に目に飛び込んできた小さな光の点滅に、ますますげんなりした俺は思わず呟いていた。留守電だ。

「ばっかじゃねーの、もう」

 あー、やだやだやだやだ。

 ローテーブルにハンバーガーの包みを放り出し、電気が点るまでの僅かな時間で電話まで辿り着くと再生ボタンに指を伸ばす。

「十三件、です」

 ……。

「はぁっ?」

 ……俺、独り言の癖がついちゃいそう。

「何だよ十三件てっ?」

「一月七日午前九時十三分です……『……』……ピーッ……。一月七日午前十時二十四分です……『……』……ピーッ……」

 ああああああもう。頭くるなあああああああ。

 完全に腐った気分で、俺はほとんど中身なんか聞かずにひたすら消去ボタンを繰り返し押した。どんどん中身を消していき、最後のメッセージでふと指を止める。

「一月七日午後七時四十四分です……『……』……ピーッ」

(……?)

 遠くで、何か聞こえた。

 気になって、もう一度再生を押してみる。息を殺して思わず耳を澄ませた。

 メッセージ、じゃない。そうじゃなくて……BGM。たまたま後ろから入り込んできた、騒音。

 ――ジャラジャラ……『あー、もしもしぃ? 俺ぇ? 今ぁ?』ジャラジャラジャラ『三十九番台、スタートです』ジャラジャラジャラ……。

(えっ……?)

 これって。

 がたっと反射的に立ち上がる。そのまま部屋を飛び出し、マンションを駆け出た。……じゃあ今さっき、俺はこいつのすぐそばを、通ったっ?

 青梅街道沿いの道を駆け戻り、パチンコ屋の前まで来る。相変わらず中からはジャラジャラ言う音が洩れていた。さっきの携帯の男はもう姿はない。きょろっと辺りを見回すと、横断歩道のすぐそばに設置されている、今は寂れかけた感じの公衆電話が目に入った。

 ため息をついて、近づいてみる。……いるわけ、ないか。

 それとも携帯電話?

 いずれにしても、この辺りでかけていたことは間違いないのに。

(くそぉぉっ)

 凄く、チャンスを逃した気分だ。

 半ば八つ当たり的に電話ボックスのガラスを軽くグーで殴って、仕方なく踵を返す。駆けつけるなり電話ボックスを見て回れ右する俺に、信号待ちの人が少々不審な視線を向けた。

(こんな、近くに……)

 いるんだ。そいつは。

 誰なんだろう。何なんだろう。俺に、何が言いたいんだろう。

 さっき家へ向かって歩いた道を、また歩いて戻りながら、何だか気味が悪かった。見ず知らずの誰かに監視されている気分だ。

 しつこく無言電話なんかする奴だったりすると、で、俺の家のすぐそばに出没してたりするとすると……気持ちが悪い。

(あ、やべ)

 俺、すっ飛んできちゃったもんだから部屋の鍵かけてねぇや。

 そのことに気がついて慌てて飛んで帰ったが、とりあえず妙な奴の侵入はなかったようだ。安心しつつ、ついつい家の戸締りを確かめてみたりする。……だからさ……気持ち悪いじゃん。

 行き場のない『ムカつき』を抱え込んで、思い切りストレスがたまる。

 ぷるッ……。

 何だか何もしたくないような気になって床に座り込んだままの俺の耳に、電子音が響いた。

(また来たっ)

 しょーこりもなくっ。

「いーかげんにしろよなっ!」

 受話器に取りついて、思い切り怒鳴る。言葉を切って相手の反応を待っていると、沈黙が返った。やっぱり犯人か?

 と思ったら。

「随分と激しい電話の出方をするのね。それとも橋谷家ではそれが日常的な電話への応対だったりするの?」

 犯人はオマエだったのかっ、あゆなっ。……そんなわけあるか。

「悪い、間違えた」

「別にいーけど。何かあったの?」

「いや別に」

 わざわざあゆなに話すことでもない。適当に追及を避けて、あゆなの用件の方を聞くことにする。無関係のあゆなに八つ当たりしたってしょうがない。

「何?」

 受話器を握ったままで、俺はようやくもぞもぞと上着を脱いでハンガーに掛けた。しょうがない、忘れてメシでも食おう。ハンバーガーの包みに手を伸ばしながら床にあぐらをかくと、あゆなの盛大なため息が聞こえた。

「留守電って言う文明の利器を利用してる?」

 タイムリーな話題過ぎて答える気になれない。

「何それ」

「……留守番電話サービスって言ってね、電話に出られない状態にいる時にメッセージをね……」

 んなこたぁわかってんだよ俺の家の電話についてるんだからっ。

「馬鹿にすんなよ?」

「じゃあそういう問い返しはやめてくれる?」

「入れたのかって聞いたんでしょ」

「入れたのよ」

「何で? 珍しい。家の電話?」

「家の電話」

 あー……。

「俺、ほとんど聞かないでがんがん消しちゃった」

「……それは留守電の意味が全くないと思うのよ」

 返す言葉がない。

「ちょっとね。何入れたの?」

 がさがさとビニル袋の中から更に紙袋を取り出して床の上に並べていると、耳元であゆなが少し口籠もった。

「別に何ってほどじゃないけど。年が明けて、メールを送っても携帯にかけても音信不通だし、事務所ついたよって話からこっち、行方不明だったから」

「行方不明って。全然不明じゃないですけど」

「あんたって、携帯の電源、一日でどんだけ入れてる?」

「……別に、普通に」

 ああでも、時々切りっぱなしのまま放置プレイってことも間々あるかもしんない。

「携帯かけても電源入ってないか、不在着信で折り返しもないし。留守電入れても聞きゃしないだろうし。メールも返信ないし。家電だって繋がらないし。それでも家電だったらランプがつくとか物理的にメッセージの有無がわかりやすいから聞くだろうと思ってみれば聞かずに消したって言うし。何者なのあんた」

 ははははは……。

 またも返す言葉がない。

「んでだからどーしたの。用事、何」

 がさがさと紙袋に手を突っ込んでハンバーガーを取り出す。その耳元であゆなが妙にしおらしい声を出した。

「用事がなきゃ、いけないの?」

「は?」

「どうしてるのか、知りたかっただけよ……」

「え、ええ?」

 うわ。

 少しだけ、不覚にもどきっとした。普段じゃじゃ馬みたいなだけに、急にそんなふうに言われると焦る。前にあゆなが俺に言った言葉が、妙に現実感を伴って思い出された。

 ――わたし、啓一郎のことが、好き

「何で黙るわけ」

「珍しく可愛いこと言うじゃん、あゆな」

 わざとにやにやと言うと、「あったまきた」と呟くのが聞こえた。

「調子にのんないでよね」

 乗せてんのはあんたでしょ。

 俺の沈黙をどう理解したのか、さっきのしおらしいセリフの反動のように居丈高にあゆなが続ける。

「あんた今暇なんでしょ。出て来なさいよ」

「何で決め付けるかな」

「命令よ命令ッ」

 俺はお前の下僕か。

「ほほー。俺に会いたいと」

「……ばっかじゃないの? クロスがどうしてるのか報告しろってのよ」

「報告義務?」

 あなたは俺の上司ですか?

「出るってどこ? 『コースト』?」

「いつも『コースト』じゃあ芸がないわねー」

「んじゃあ普通に飲みにでも行きますか、たまには」

 芸をしてるつもりじゃなかったけど、確かに同じところばかりでも面白味がないので、取り消す。それから俺は、目の前の非常食に視線を落とした。どうしようか? コレ。

「じゃあ、たまには赤坂でもどう?」

「いーけど。俺、店全然知らない」

「わたし知ってるから。今二十時よね?」

「そう」

「じゃあ半に……」

「待った」

 言い掛けたあゆなを遮る。

「四十五分」

「いーけど。何?」

「俺、今からメシ食うから」

 あゆなが沈黙した。

「どーして今から飲みに行こうって話で、腹拵えしようって気になれるわけ」

 しょおがねえじゃん。買ってきちゃったんだから。

「冷蔵庫にでも入れておけば。冷凍とか」

「ハンバーガーですが」

 冷蔵だの冷凍だのをして後日改めて食う気にはなれん、悪いんだが。

 俺の返答にあゆなはさすがに苦笑いをして頷いた。

「らじゃー。じゃあ、四十五分後に、ね」


          ◆ ◇ ◆


 赤坂についたのは、約束の四十五分より十分近く早かった。丸ノ内線を見附で降りて改札へ向かう。

 『飲む』っつってんだから、さすがに今日は単車を避けて電車にした。

 スーツ姿の男性や水商売風の綺麗なお姉さんなんかに紛れて改札を抜け、エスカレーターに乗る。昇り切ったところでは人待ち顔の人が何人も退屈そうに携帯を弄んでいた。

「うす」

 その中にあゆなの姿を見つけ、声をかけながら近付く。ぼんやりと通りを眺めていたあゆなが、俺の声に顔を上げた。ファーのついた手触りの良さそうなベージュのハーフコートの下、ロングブーツに包まれた細い足がミニスカートから伸びている。

 いつも思うけど女の子って元気だよね。いや、ミニスカートが嫌いなわけじゃない。それは全然ない。でも、寒くないん?

 下ろしっぱなしのさらさらの髪が、通りから吹き込む風に緩く舞い上がった。

「早かったわね。侘しい夕食をしっかり食べて来た?」

 嫌味か? それは。

「何か久しぶりな気がする」

 実際はそんなことないんだろうけど。

 並んで歩き出しながら、ふとあゆなに違和感を覚えた。何だろう。何か、顔が違う。……じゃない。顔は同じなんだけど、ぱっと顔から受ける印象が違う感じ。

 でも何が違うのかわからなくてついついじろじろと見ていると、あゆなが微かに赤面した。

「な、何よ」

「いや、もしかして化粧、変えた?」

 どこがどうとか全然わからないけど、他に理由が思い浮かばない。通りに出て歩きながら言ってみると、あゆなはほんの少しだけ嬉しそうに口元をほころばせた。

「へえー? 啓一郎って、そういうのわかるんだ?」

「わかるわけねーじゃん。何か違う気がしたから、他に理由が浮かばなかっただけ」

 なぁんだ、と不満そうな声を出しながらも、その表情は機嫌が良さそうだ。

 あゆなって別に、化粧しなくても綺麗なんだけどな。口さえ開かなきゃ。

「どこ向かってんの?」

「食べて来たみたいだから、バーでいーでしょ」

「ああ、うん」

 前を向いたまま頷く俺に、横から視線を投げ掛けてあゆなは深々とため息をついてくれた。……何だよ。

「何?」

「別にぃ?」

 ちょっと弾むような足取りと、そこはかとなく嬉しそうな表情が、何だか少しくすぐったい。

 やだな、ちょっと意識してんのかな、俺。あゆなが……俺を好きだと言ってくれたことに対して。

「変な女」

 そんな自分がちょっと癪で、わざとひねくれた口を利く。あゆなが唇を尖らせて、俺を睨み上げた。

「何よそれ。自分を顧みてから言うのね」

「俺? 俺、変じゃないもん」

「顔が馬鹿なのは十分変って言うのよーだ」

「顔が馬鹿ぁ?」

 言い返す俺をあっさりと無視して、あゆなは道を逸れた。ビルとビルの間の細い路地。そこに隠れるようにして小さな看板が出ている。

「おう。アダルトーじゃん。良く知ってんね。さすがザル」

「誰がザルよっ。……今度別の女の子連れて来たら」

「そうしよ……いてっ」

 頷く俺に、あゆなが無言で蹴り飛ばす。自分で言ったくせに、ひでえ。

 あゆなに促されるままに中に入ると、外から受けた印象よりも中は広かった。薄暗い、いかにも『バー』って感じで、基本的に居酒屋かクラブにしか行かない俺にはあまり馴染みのない大人びた雰囲気だ。きちんとした身なりの男性がカウンターの内側から「いらっしゃいませ」と柔らかい声で言った。

「ニ名よ」

「ニ名様ですね。おニ階空いておりますので、そちらにご案内致します」

 その言葉が終わる前に、近くに控えていたボーイが近付いてきた。案内されたニ階もまた薄暗く、中央に良くわからない発光ダイオードみたいな青くきらきらしたオブジェが置かれている。各テーブルにもほの青いキャンドル風の小さなライトが置かれていて、やっぱりテイストとしてはオトナだった。ドラマでありそう、こんな店。

 幾つかあるテーブルには何組か客がいるが、総じて静かな雰囲気で、BGMのジャズが柔らかい雰囲気をかもしだす。

 案内された席でとりあえずオーダーして、煙草を取出しながら頬杖をついた。

「凄ぇ縁のない店に連れて来られた」

「たまにはいーでしょ。ここ、最近気に入ってるのよ」

 つっても、何か静かな雰囲気過ぎて落ち着かない。煙草に火をつけるその仕草を、両手で顎を支えながらあゆながじっと見ている。

「……何だよ?」

「べっつにぃ」

 やっぱり妙に嬉しそうに笑いながら目線を逸らすと、あゆなが小さな小さな声で言った。

「ちょっとはデートっぽくなるじゃない」

 お、おお?

 何だかちょっと今日は直球だ。

「へへん、俺とデートがしたいの?」

 くそ。どきどきしてなんかやるもんか……。

 そういう無意味な意地が、普段より態度をひねくれさせる。あゆなも、俺に向けてべえっと舌を出した。

「あんたとデートしたいわけじゃないもん。デート風なことがしてみたかっただけ」

「じゃあよそさまでしたらいーんじゃないすかねー」

「今日に限って暇人があんただけだったのよ」

 お互い、大概可愛げがない。

 ほとんど笑い出しながら、向かいの席に座るあゆなの足を、軽くつま先で小突く。あゆなが顔を顰めてみせたところで、それぞれのグラスが運ばれて来た。

 グラスを軽く合わせて、一口飲む。そこでようやく人心地ついた気分になって、俺は小さく息をついた。

「順調そう?」

 自分のグラスを指先で軽く弾きながら、あゆなが問う。伸ばされた爪に綺麗に塗られたパールピンクのマニキュアが、雫で濡れた。

 順調、か。

「どうだろな」

 火が点いたままの煙草の先で、小さなお洒落な感じの灰皿の中の灰を、無意味になぞりながら頬杖をつく。

 グラスと共に運ばれてきた、お通しらしいキスチョコを口に放り込んで、あゆなが首を傾げた。が、言葉に出しては何も言わない。

 一応悪いので、形だけオーダーしたミックスナッツが運ばれて来て、ボーイがテーブルを離れると俺は息をついて答えた。

「まだ、良くわかんないよ」

 始まったばかり過ぎて。

「今何してるの?」

「レコーディング」

「シングルの?」

「そう」

 煙草をくわえて、煙を吐き出す。煙の動きに合わせて、あゆなが俺の視界で一瞬霞む。

「それが終わったら、撮影と雑誌の取材と挨拶回りにプロモーション」

 と、聞いている。

「撮影? 何の?」

「とりあえずはアー写とジャケ写。それと、今回のシングルって映画の挿入歌に使うじゃん? 映画の宣伝と絡めたいみたいで、PVもちゃんと作ってくれるんだって。だからそれの撮影もあるし」

「……そう」

 あゆなは心なしか寂しそうな表情をした。

「結構、忙しくなりそうなのね」

「どうなのかなあ。あんまりスケジュール的なことって、まだ良く把握してないんだけど」

「声をかけてきた人って、結局何だったの?」

「広田さんて言うんだけど、ブレインの偉い人みたい。俺らのサウンドプロデューサーにもついてくれてて。で、プロデューサーもやってくれるらしくて」

 煙草に飽きて灰皿に押しつけると、その指でミックスナッツに手を伸ばす。アーモンドを口に放り込むと塩の味が効いていた。

「悪いんだけど、違いがわかんないわ」

 両目を閉じて糸みたいな目をして見せて、あゆなが言う。その言葉に俺も肩を竦めた。

「俺だって良くわかんないんだけどさ。サウンドプロデューサーってのはまんま音をプロデュースする人で。いわゆるディレクターとかさ。そういうのと変わらないみたいなんだけど。プロデューサーってのは戦略とかそういう……なんかもっと広範囲的な仕事するみたいだよ」

「ふうん?」

 両手でまた顎を支えるようにして俺の話を聞いていたあゆなは、目をぱちぱちと瞬いた。長い、綺麗にカールした睫毛が上下する。

「じゃあ、クロスに関しては何から何までその広田さんて人が面倒見てくれるってわけ? お気に入りってところ?」

 そんなことまで知らない。

「そっかぁ」

 吐息のように呟いたあゆなは、手を解いてグラスに手を伸ばした。その仕草が妙に儚く見えて首を傾げる。

「何。『そっかぁ』って」

「ううん。何だか、遠くなるような気がしただけ」

「そんなこと、ないだろ、別に」

「そう?」

「俺は俺じゃん。同じだろそんなの。大体売れると決まったわけでもないし、今なんかそれこそ本当に何してるわけでもないんだから」

 一般人だ。

「……そうね」

「別にあゆなは変わらず俺の友達だし」

 言ってから、少し口籠もった。

 『友達』。

 そう言ってしまって良かったんだろうか。でも、俺とあゆなの関係は、事実上他に表現のしようがなかった。

「由梨亜ちゃんのことは、まだ忘れられないの?」

 不意にあゆなが問う。言葉に詰まって、俺は黙ったままグラスを口に運んだ。

「……別に。忘れた」

 忘れようと決めてる。

 喉を潤してから言ったはずだったのに、声が擦れて、もう一度ジントニックを口に運ぶ。

「わっかりやすいったら」

「……んだよ」

「まだ全然忘れられてませーんって顔に書いてあるじゃないのよ。自分の顔がどれだけ馬鹿正直か覚えておいた方が良いわよ。頭も馬鹿で顔も馬鹿じゃどーしよーもないじゃないのよ」

 馬鹿ってゆーな。

 大体『顔が馬鹿』って何なんだよ。

「忘れてはないかもしれないけどっ。でもこれはもう決定事項なのっ」

 何となく、煙草をもう一本抜き出す。あゆなが手を出すので、パッケージごとそっちに滑らせてやった。

 マニキュアの指がそれを抜き取るのを眺め、ライターの火を近づけてやる。綺麗にルージュの引かれた唇に煙草を挟んだあゆなが炎に顔を寄せた。深い陰影が落とされ、テーブル上の青いキャンドルと相まって妙に魅惑的に見える。

「……ありがと」

「いいえー」

 そのまま、自分も煙草を咥えて火を点ける。あゆなの唇からふわりと煙が吐き出された。

 何を考えているのか、あゆなが黙ったままで俺を見つめる。何だかそれは妙に色っぽく、いつもは感じたことのない色香のようなものが漂って見えた。……何だよ。酔ってんのか、俺。まさか、この程度で酔うわけはないけど……。

「啓一郎って、不思議なのよね」

「何が?」







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