第2話(3)
◆ ◇ ◆
和希と由梨亜ちゃんを残して先に一人で事務所を出た俺は、受付の山根さんに頭を下げながら外へ出て、何気なく携帯電話を取り出した。
「あれ?」
不在着信が残っていた。操作して表示を呼び出し、少なからず驚く。
(なつみ……)
秋口くらいからすっかり音沙汰のなかった、秋名なつみだ。
和希を追いかけ続けて来たなつみは、和希と由梨亜ちゃんが付き合い始めたのをきっかけに潮を弾くように姿を現さなくなった。
元々俺となつみは、直接的に友達だったわけじゃない。高校時代に、俺が中学から付き合っていた当時の彼女と友達で、そこを通して知り合った。そんななつみがいつも一緒にいたのが和希で、俺と和希の学年を超えた付き合いはそこから始まっている。
だけど、俺と和希はバンドでギターという共通の趣味があったし、男同士で性格的にも合ったしでどんどん仲良くなって、気がつけば和希を通してなつみと友達をしていると言う感じに逆転していた。
なのでそれほど親しいわけでもないし、なつみだって和希がいるからクロスに出入りしてただけだ。和希を愛して止まないなつみは、クロスのことで何か用事があっても確実に和希を通すし、逆にこっちから何か頼みがあるとしても、その連絡は自動的に和希からされていた。
つまり、俺に電話をする理由なんかない。
どうしても和希がつかまらないとかそういう時だけ俺に連絡が来たことがある程度で、高校からの七年近く、なつみから俺に電話があったのなんか数えるくらいだ。
ここんとこ、いきなり音信不通になっちゃったから、今どうしてるのか、俺は知らないんだけど。
チェックしてみても留守電には何も残っていなかったので、停めてあった単車に跨りながら、とりあえずリダイヤルしてみることにした。数回でなつみが出る。
「あ、橋谷だけど」
「啓一郎。電話掛けてごめんね。久しぶり」
「うん……久しぶり」
答えながら、内心微かにショックを受ける。声を聞いているだけで、何だかひどくやつれた印象を受けた。
「珍しいじゃん、電話なんて。どうしたの」
「クロスが、どうしてるかなって思って。啓一郎しか……浮かばなくて」
「そりゃどぉも」
何も気づいていないような明るい声で軽く答える。
そう言えば、ブレインに所属するって話が来たのは、なつみが来なくなった後だったんだよな。
「俺ら、事務所ついたよ。CRYと同じトコ。一応、レコード会社も決まった」
報告の意味を込めて言うと、なつみは僅かな沈黙の後に溜め息をつくように、「うん、知ってる」と答えた。
「美保に、聞いたわ」
ああそうか。なつみは美保と仲が良いんだった。じゃあ多分美保が脱退するって話も聞いてるんだろうし、オーディションがどうこうで映画の挿入歌ってところも知ってるんだろう。
「美保、やめたんだってね」
「うん」
「『Crystal Moon』がデビューシングルになるって聞いたわ。ちょっとびっくりした」
クロス結成当初から知っていてスタジオにまで出入りしていたなつみは、当然のことながらクロスの曲を熟知している。
「うん。和希が突然引っ張り出してきて……」
言ってから、「まずかったかな」と少し後悔した。和希の名前は出さない方が良かっただろうか。俺の逡巡を正確に見抜いて、なつみが黙る。
「……和希、元気?」
やっぱりまずかったようだ。ただでさえ暗かった声音は地の底まで落ち込んで、『どんより』と形容できるような声質に変化を遂げる。
どう言葉を補おうか迷いつつ、俺も答えて口を開いた。
「元気だけど。学校とかで、会ってないの?」
「元々、学部は違うから」
「それはそうだろうけど」
そんなこと、ものともしないくせに。
また少しの沈黙を挟んで、なつみがため息混じりに口を開く。無理矢理作ったような明るい声が、却って俺の気分を暗くさせた。
「時々、由梨亜ちゃんと一緒に帰るのを見るわ」
「……そう」
それについては、俺だって他人事じゃない。複雑だよ。
城西大学と城西付属高校は同じ敷地内にあるからなー……。一応、高校生は大学の方には立ち入れないようにはなってるんだけど、それでも大して離れてるわけじゃないし、共用施設はあるわけだし。
俺にとっては懐かしい城西高の可愛らしい制服に身を包んだ由梨亜ちゃんが、笑顔で和希に駆け寄る姿が脳裏に浮かぶ。その時彼女が、どれほど幸せそうな顔をしているかは、想像に難くない。
「死にたくなるの」
そんなことをぼんやり考えてずきずきと痛む胸を堪えていると、暗い声音で洒落にならないことを言われてぎょっとした。
「なつみ」
「どうやって生きてって良いかわかんなくなるのよ。七年間、ずっと和希だけ見てきたのよ。七年よ? ……この先の人生のどこにも和希がいないのよ。気が狂いそう」
「……」
「この先何十年も、和希なしで生きてくのかと思うと、生きるのやめたくなるの。今まで続けてきた生活が、全部覆されるのよ……っ」
待て待て待て。
つらいのはわかるが、死ぬのはいかん。
「なつみ、今どこにいんの」
「今?」
「今」
「池袋……」
何でまた。
問い返すより先に、なつみが俺の疑念を感じ取って答えた。
「美保にね、会おうかと思ったんだけど。……結婚の準備で忙しいだろうし、幸せになろうって人に、この世の不幸みたいな顔して会うわけにはいかない気がして。やめたの」
「そうなんだ。じゃあ、俺、行くよ。今から」
「え?」
「そっちに。ちったあ、気分転換になるかもよ?」
敢えて軽い口調で言うと、なつみは電話越しに少し笑った。
「ありがと」
「いいえー」
もう少し詳しく場所を聞いて、携帯電話をしまう。単車にエンジンをかけて、俺は池袋に向かった。
七年間、と言う長さで人を想ったことは、残念ながら俺にはない。
和希のことだけ考えて、和希のそばに行くためだけに高校時代から生きてきたなつみの今の苦痛がどれほどのものなのか、俺には想像することしか出来ないけど。
(たかだか恋愛……されど恋愛ってところだよなあ)
失恋で命を絶つ人間はいつの世の中にもいるんだし、恋愛のもつれで人を殺す気になるやつだっているんだ。例え一過性のものであったとしても、それほど一瞬で人を激しく突き上げ動かす熱情と言うのは多分、恋愛をおいて他にないんじゃないかと思う。
池袋について、西口の芸術劇場のそばに単車を停める。中庭のようになっている敷地のベンチにぼんやりと座っているなつみを発見して、俺は単車を降りた。俺の気配に上げたその顔を見て、内心愕然とする。ちょ……何つー面変わり。
「お待たせ」
動揺を顔に出さないよう苦心しながら、近付いた。
まじかよ……ちょっとこの憔悴振りは、見るに耐えない。あれほど華やかで人の目を惹きつけずにいられない自信に溢れていたなつみはその姿を隠し、今は重く沈んだ空気だけが発せられている。まるで別人だ。
「驚いたでしょ」
俺の内心を読んだように、なつみが座ったまま、元気のない笑顔で俺を見上げた。肯定するのもためらわれて口篭る。
「痩せたね」
「ん」
正面に立った俺から視線を外して俯くなつみの前にしゃがみ込む。下から顔を覗き込むようにして、俺は尋ねた。
「食ってる?」
「……少し、拒食症っぽくなっちゃって。食べても戻しちゃうの。オレンジジュースとか、ヨーグルトとか……そういうので何とか栄養をとってる感じで……」
拒食症? それってちょっと……いや、かなりまずいんじゃないだろうか。
死にたいとか死にたくないとかって話じゃなくて、死んじゃうぜ?
「なつみ。つらいのはわかるけど、食わなきゃ駄目だよ」
「わかってる。でも、体が受け付けないの」
ですよね。わかってますよね、そんなこと。
でもなあ。ってなると俺、どうすれば良い?
かける言葉を見つけられずにいると、なつみが絞るような声を押し出した。
「わたしなんかいる価値ないんじゃないかって思っちゃって……そんなこと考えても仕方ないって思っても、どうしてもその考えに戻っちゃって」
「馬鹿」
「だって、生きてくのがつらいんだもん。どうしても和希のそばにいたいんだもん。和希がそばにいてくれないんだったら、わたし、生きてたって仕方がない」
ぽろぽろと瞳から涙を零したなつみに、キツくなり過ぎないよう気をつけて、そのおでこを人差し指で軽く押す。
「和希が全部じゃねえって」
「和希が全部なのよ」
すみません。
「わたしにとっては、和希が全てなの。他に何もいらないの。本当に何もいらなのよ。なのに、それがなくなっちゃった。今まで努力してきたこと、全部チャラよ。横から女の子が一人現れただけで。今までそんなことなかったのに。そんなこと考えちゃ駄目だって、考えても仕方がないって、わかってるわよ。わかってるけど、どうしたらわかるのよ?」
堰を切ったように吐き出すなつみの言葉に、黙って耳を傾ける。とりあえずは、吐くだけ吐かせた方が良いのかもしれない。ってゆーか、俺、何て言って良いかわからない。まじに。
「考えるだけで気が狂いそうだわ。和希の隣で笑うあのコの顔を思い浮かべるだけで、憎悪で胸の中が真っ黒になるのよ。自分がそんな人間だと思わなかったけど、どうしたらそれを止められるの? 自分で自分を憎む前に、生きるのやめちゃった方が楽になる気がするじゃない……っ」
両手で顔を覆うようにして、なつみはほとんど号泣だ。
下手なことすると一層追い詰めることになるんじゃないかと思うと、選ぶ言葉に苦悩する。俺、大して頭の回転が速いわけじゃねえし。
「あの、さ……」
「……」
「忘れられないのも忘れたくないのもわかるんだけど、でも、失恋なんて、自分で区切りつけるように努力しなきゃいつまでも引き摺るだけなんだぜ」
そう言う俺も、決して人のことなんぞ言ってる場合ではない。
「とことんまで落ち込むのも良いさ。傷口に塩ぬりまくって涙涸れるまで散々泣いたって良い。けど、『ここまで』って決めなきゃ這い上がれないだろ? ……一生こんなに人を好きになれないって思っても、きっとそんなことないんだ。きっと誰かを好きになっちゃうんだよ」
「そしてまたこんな思いを繰り返すの?」
うっ……。
自分で自分に言い聞かせながら紡いだ言葉に、なつみが短く反論する。それ以上言葉を返せずにいると、なつみは更に続けた。
「わたしだって頭ではわかってるわ。どうにもならないことなら、忘れなきゃ。こんなことしてても仕方がない。いつか良い人が現れる。……でも、感情が追いつかないの。他の誰かじゃ嫌なのよ。それじゃ幸せになっても意味がないの。幸せじゃないの。嫌なの。どうしたら良いの? どうしたら感情が理解してくれるの?」
「なつみ……」
「あれぇー? 橋谷センパーイ」
そこへ突然呑気な声が割り込んできた。がくっと肩を落としながら振り返る。
「恵理……」
会うのは、一矢の部屋以来だ。
相変わらず、ダウンジャケットにジーンズという飾り気のない服装の恵理が、軽い足取りでこちらへ向かって来るのが見えた。
なつみは、恵理とは面識がない。なつみが戸惑ったように俺と恵理を見比べる。
「女の子泣かしてんじゃーん。お取り込み中?」
人聞きの悪いことを言うな。取り込み中だと思うのなら、遠慮をしてくれ。
「取り込み中」
近付いてきた恵理に向かって言うと、恵理はしゃがみ込んだ俺の隣に立って、なつみと俺を見比べた。
「何してんだよこんなとこで」
「あたし? これからスナックに出勤。今度こそ橋谷センパイの彼女?」
そういう言い方は誤解を招くからやめてくれ。これが本当に彼女だったら、後でもめるところだぞ、この野郎。
「違うよ」
「ふうーん。……拒食症?」
あっけらかんと頷いた恵理は、驚いて涙が止まったようななつみの顔をまじまじと見て、小さく尋ねた。
「何で」
「何でってこともないけどさ。クロスのライブで物販やってた人でしょ。ちょっと急激にやつれ過ぎじゃないの?」
なつみは何も答えない。
言葉を失ったままの俺に構わず、恵理は俺と並んでしゃがみ込んだ。自分の両膝で頬杖をついて、なつみを下から覗き込むようにする。
「余計なお世話かもしんないけどさ。死ぬのって、結構損だと思うよ?」
なつみの表情が微かに動く。
俺にはどちらにしてもこれ以上何を言って良いかわからなかったので、俺も黙って恵理に場を譲った。女性同士の方が受け入れやすい部分もあるかもしれない。
「初対面みたいなもんで何だけど、どうしたのとか聞いても良い? 嫌だったら別に言わなくても良いけど」
ためらうように沈黙をしていたなつみは、俯いたまま小さく答えた。
「……ずっと想ってた人に、彼女が出来ちゃった」
短く恵理が頷く。はあっと深い息を吐き出して、恵理は殊更諭すような口調でもなく、さりげなく続けた。
「あたし、死のうとしたことあるんだ」
言って恵理は、頬杖をやめて左手を差し出した。分厚い時計のベルトを外すと、その下から今でも生々しい傷跡が姿を現す。赤黒っぽくなった、一直線の傷跡。それに付随するようないくつかの躊躇い傷。なつみが息を飲む。
「振られてさあ、ほとんど当てつけってーかヤケクソってーか。その場の勢いみたいなもんだったけどね。けど好きだったから、いなくなんのって考えらんなくってさあー。……この人が隣にいなくて、あたしこれから先どうすれば良いのって感じで。この笑顔が見られなくなって、この痛い気持ち抱えたまんま生きんの無理って」
恵理の言葉に、なつみが目を見開いて頷く。止まった涙が再び溢れてくる。
「何十年とかあるわけじゃん、このまま普通に生きてったら。気が遠くなるとか思うじゃん。やってらんねえって。生きるのって面倒臭ぇなあって思って」
「……うん」
「でも、今生きてんだよね、あたし」
恵理が厳かに言った言葉に、なつみが詰まった。構わずに恵理は、傷口を軽く撫でながら淡々と続けた。
「この世の終わりって思って、手首まで切って……いっぱい血が出てさ。びっくりするよ。脳味噌麻痺すんじゃないのってくらい痛くってさあ。……でも今、生きてんのあたし。しかも元気に。楽しく。……笑うでしょ」
「……」
「あの瞬間、あたしの人生この男しかいないとか思ったくせして、時間経ってみれば意外とおめおめ生きちゃったりとかして、普通に食って寝て笑ったりとかしてんだよね」
「……でも」
「うん。わかるよ。あの人いないんだったら、この先どんな楽しいこと待ってても別にいらないって思う。逆にどんなにつらい人生待ってても、あの人だけいればそれで良いのにって思う」
「うん」
「でもさあ、楽しい方が良いじゃん? やっぱ」
言いながら恵理は、右手で弄んでいた時計を再び左手の手首に嵌めた。ベルトを留めるパチンと言う音が、微かに聞こえる。
「楽しいことって、あんだよ。絶対。この先の人生一度も笑わないなんてこと、絶対無いの」
「……それは、そうかもしれないけど」
「人ってね、変わっちゃうわけ。どんなに変わりたくないって思っても変わっちゃうし、どんなに忘れたくないと思っても、忘れてくの。そうしないと生きていけないのかな。きっとそうなんだろうね。……だからね」
なつみを再び覗き込むようにして、恵理はその片手をなつみの膝に掛けた。
「残念ながら、この痛みも、忘れてしまうの」
凄ぇな、恵理。
ぞんざいな口調だけど、不思議なほど温かみと重みがあるのは、恵理自身の本音だからだろうか。そんなふうに思える。
昔は自分勝手でただただ攻撃的でしかなかった恵理だけど、人は変わるんだってことを恵理自身が証明していると俺には思えた。
「苦しいのって、続かないよ。ずっとじゃないよ。今だけ。こんなに苦しいの、人生の中でほんの何分の一の時間でしかない。だったら今頑張って、この後楽しい思いをする方がお得でしょ」
その言葉が、俺の胸に響く。
今でこそすっかり元気な俺だけど、数年前は生きることがしんどいと思う時期だってあった。
恋愛じゃないけど、俺にとってかけがえのない存在を失った時、俺は自分の人生の歩き方を見失ってた。
その時、ふらりと気紛れで入ったライブハウスの光景が、脳裏にフラッシュバックする。
新宿のライブハウス『Release』で歌ってたやる気のない歌、やる気のないメロディ、でも……俺を支えてくれたうた。
――人生なんかどうせ何十年。そんな単位で考えてごらん? 振り返ってみれば、今悩んでるその時間なんかたったの一瞬でしょ? 苦しんでる時間なんか、思ってるほど長くない。
……そんな内容の詞だったと思う。
あの時、あの歌と出会っていなかったら、俺は今音楽をやっていただろうか。
誰かを救いたいなんて、そんな偉そうなことは言えない。でも、俺は救われたから。確かに、救われたから。
「大丈夫だよ」
繰り返して説くように言った恵理の言葉はひどく優しく、なつみが泣きながら頷く。
「体が悲鳴上げてる。大事にしてあげなきゃね」
「うん。……ありがとう」
それから少し、普通の雑談なんかをしてなつみの顔に少し笑顔が戻り始めてから、俺はなつみと別れた。
送ると言う俺の言葉に、やっぱり美保の家まで行くからと言うので、何となくそのまま恵理となつみを見送る。
なつみの背中が完全に見えなくなると、俺は隣に立つ恵理を見下ろした。
「さんきゅ。助かった」
「別に。何か、前のあたしでも見るみたいでさあ」
「お前のおかげで、なつみ、少し元気を取り戻せるかもしれない。ありがとう」
素直に礼を言う俺に照れたのか、恵理はややひねくれた顔をして横目で俺を見上げた。
「嫌な女になったって言ったよ?」
確かに言いましたよ。すみませんでした。
「訂正します。ごめんなさい」
両手を上げて降参のポーズを取ると、これまた素直に謝罪する。それを見て、恵理は屈託なく笑った。
「あん時は、あたしも悪かったから。あのコ、一矢センパイの部屋にいたのかと思ったらムカついて。正直」
「彼女は一矢と何の関係もないけど」
美冴ちゃんのことだろう。
「わかってるけどー。それはそれで。単なるヤキモチってやつですよ」
苦笑した恵理は、ダウンのポケットに両手を突っ込んで、鼻の頭に皺を寄せるようにして苦笑した。
「あたし、またはっきり振られちゃった」
「……一矢に?」
うん、と少し視線を泳がせた恵理は、どこか寂しげな色を漂わせて行き過ぎる人にぼんやりとした視線を定める。
「橋谷センパイが帰った後、いろんな話して。今までのこととか話して……だけど、どうしても駄目みたい」
「ああ、そう……」
「うん。ま、あたしの場合はそれはわかりきってたし、別にそれで改めて落ち込み直してるわけじゃ全然なくて。ただ、あたしは一矢センパイの気持ちに関係なく、あたしが彼を好きだから。今は、そう思えてるだけでもいっかなって思ってたりする」
恵理の癖のない髪が、冷たい風に煽られて揺れた。
「焦って忘れようとしても、出来ないものは仕方がない。出来ないことをしようとすれば、人ってその分焦るもんでしょ? ほら、夜に寝なきゃいけないのに眠れない時って、『寝なきゃ寝なきゃ』って思うと一層眠れなかったりすんじゃん」
「それと一緒なの?」
思わず苦笑すると、恵理も俺を見上げて笑った。
「一緒じゃん。無理しなきゃ、いつか何とかなってるもんなんだって。だからあたし、自分の気持ちを大事にして、一矢センパイを好きな気持ちもそれはそれで取っとくつもり。当面は」
「おいおい。俺は一矢の友達として、それを見過ごしていーのか? 今」
「いいよ。大丈夫」
俯いた恵理が、小さく答える。
「もう、迷惑になることはしなから」
ああ……そういうことか。
自分の中だけで、自分の気持ちを大切にする分には、問題ないでしょって言ってるんだ。
一矢と恵理の問題ではなく、恵理自身の問題として。
「でも、忘れるつもり。無理に殺す必要はないけど、そのうち自然に忘れられる環境は自分で作ってやんなきゃいけないし、人の気持ちだけは努力すれば何とかなるってもんでもないから。そうやって踏み切らなきゃ次の幸せなんか見つけらんないし、あんのかもしれないのに気がつかないかもしれない。もったいないでしょ、それって。せっかく命拾ったのにさ」
言いながら、恵理は腕時計のベルトの上から、先ほどの傷をそっとなぞる。未だ生々しく見える傷跡が、彼女にとって人生の転機だったのかもしれない。
「別に恋愛だけが人生じゃないもん。好きな人なら、恋愛じゃなくたってたくさんいる。そういうところから大切にしてけばいい」
「そうだな」
何だか、俺が励まされているような気がした。小さく笑う。
それに応えて笑った恵理は、ダウンのポケットに両手を突っ込み直して俺から離れた。
「あたし、行くね。バイト遅れちゃったし」
「あ、そうか。ごめん。……ホント、助かった」
「ううん。一矢センパイに宜しくね」
「うん」
「元気でね」
「うん。恵理も」
俺の言葉に、恵理は八重歯を見せてにっと笑った。
もう会わないかもしれないし、また会うことになるのかもしれない。
それはわからないけど、今日この瞬間にここで偶然会えたことには、俺は素直に感謝した。
人の痛みは、経験した人間じゃないとわからない。
いや、同じ痛みはきっとないから、経験した人間だって、推し量ることしか出来ない。
でも、奈落からの這い上がり方は、可能性の一つとして受け入れることも出来るだろう。これで、なつみが少しでも自分の傷から立ち上がってくれたら。
――幸せがあるのかもしれないのに、気付かないかもしれない。もったいないでしょ。
そうだよな。
なつみだけじゃない。……俺も、立ち直る努力をしなきゃならない。
自分の単車に向けて歩き出しながら暗い空を仰ぐ。
それぞれの痛みには、結局、自分自身で立ち向かわなきゃなんないんだよな……。