第16話(4)
◆ ◇ ◆
真っ暗なステージ、客席。
ステージ袖から覗いてみると、客席は暗くさざめいて良く見えない。見えないけれど、人の気配。
――チケットは、当日まで含めて、SOLD OUT。
ステージから、静かなピアノの音が流れ出す。ゆっくりと美保の姿を照らし出すピンスポ。
事務所が決まってから俺たちを知った人たちに馴染みのない美保は、「誰だろう」と思う人も多いだろう。
だけど、俺らのメンバー。少なくとも、プロに漕ぎ着けるまで、一緒に俺たちと音楽を作ってきた仲間。
ステージでピアノ音質のキーボードを一心に弾くその姿は、まるでプロのピアニストみたいだった。音が流れるのと同時に最初湧き上がった歓声は、次第に美保の奏でるソロに引き込まれるように静かになっていく。
やがて、少しずつ打ち込みの音がそこに混ざり始める。完全な美保のオリジナルソロだった曲から、少しずつクロスの音――『FIRE』と言う曲のイントロへ、そしてそのキーボードアレンジへ。
「行くか」
美保の演奏をSEに、まだ暗いステージへまず一矢が、続いて武人、そして和希が出て行く。メンバーだと気づいた客の、ひときわでかくなる歓声。
久しぶりのぞくぞくした感覚。
自分らを待ってくれる客がいる会場でのライブだ。
メンバーが自分らの楽器をスタンバイしたところで、美保がひとり弾く『FIRE』が次第に音量を上げていく。
(――行くぞ)
ステージ袖で一人、首から提げたリングを握り締めて瞳を閉じていた俺は、追っていた音のタイミングでステージに出た。閉鎖された空間から出て行くような開放感。高揚感。爆音へと姿を変えていくキーボード。そして。
全てが揃ったタイミングで、ギターの、ベースの、ドラムの、キーボードの、全ての音の塊が圧力となって背後から叩きつけられ、それと同時に全開にステージを照らす照明。それに真っ向から向かい合うような、客席からの風圧のような熱気、圧力。
マイクに向かって歌う声が、客席に吸い込まれていく。ステージ上から見る光景は想像以上――こんなに人が、来てくれたなんて。
前の俺たちには集めることが出来なかった人。……前は、俺たちのことを知りもしなかった人たち。
まだ地元の人とかその友達、前から来てくれてる人が大半なのかもしれない。
だけど、少しずつ重ねてきた地方での動き、ブレインやロードランナーがしてくれたバックアップを受けて活動してきた雑誌とかメディア、地方でのライブで興味を持ってくれた人も多分いる。ソリティアが密かにフォローしてくれているウェブ告知や配信なんかも、多分。
「……ちょっと、びっくりしてます」
続けて二曲目まで終えて、息をつく。当たる照明が暑くて、何より人の熱気が……熱くて……額から汗が伝った。
「正直、こんなに来てくれると思ってませんでした」
俺の言葉に客席から拍手が起こる。
SOLD OUTって言ったって、会場の規模が規模だから、ステージ上から見回せば客の顔は結構見える。こうして見回す限り、多分知らない顔……ばっかり……。
「東京で……」
声が掠れそうになった。
泣きたくなった。
客が俺の言葉の続きを聞こうとしてくれているのが感じられて、一度切った言葉の続きを口にする。
「東京でライブをやるのは、久しぶりで……このところは地方へあちこち行って修行をしてました」
どこ行ったのー? と誰かが言うのが聞こえる。声の主が誰かは正確にはわからないけど、そちらに笑顔を向けて答える。
「どこ行ったかな。北は仙台、南は福岡まで。まだ北海道と沖縄は行ってません。……さーちゃん、よろしく」
冗談めかして言う俺に、ステージ袖から僅かに姿を覗かせているさーちゃんが片手を挙げた。
「マネージャーです」
笑いを含んだまま、客席に向き直る。また、拍手。今度のは多分、さーちゃんに。
「地方でそうやってやってて、全然こっち見てくれなくて、見てくれる人も少なくて……誰もいない場所でライブも……やって……」
フラッシュバックする光景。
『トサカ』くんが励ましてくれたライブでは、ステージから見えるのは床ばかりだった。そこを埋める人が、いなかったから。
「今、こうして人がいる場所でライブ出来るのが、嘘みたいです」
今だって、大して変わったわけじゃない。
やってる場所が違うから……活動拠点だからってだけで、今も多分地方のコヤでやれば場所によってはあの光景を目にするんだろうとは思うけど。
だけど、ホームグラウンドには、これだけの味方がいる。
「前からライブに来てくれてる人は良く知ってると思うけど、俺たちは事務所がつくよって話からまだ半年足らずで、わけわかってないまま、必死こいてやってて……」
広田さんが声をかけてくれたワンマンから五ヶ月。
だけど、あの時と今ではいろんなことが違う。
「俺たちの音楽に手を貸してやろうって人がいて、企業があって、いろんなことを教えてもらって、自分たちだけじゃ出来ないことをやらせてもらいました」
見回す会場は、まだ後ろの人まで顔が見える距離。
だけど、義理でもつき合いでもなく、自発的に来てくれた人たち。
「そうやってやってる中で、前から応援してくれている人たち、ありがとう」
ファン同士での諍いみたいなのも、あったみたいだけど。
「それから、俺たちを知らなかったのに、認めてくれてここに来てくれた人たち、ありがとう」
繰り返した人のいないライブ。バケツの水を被った時は、俺たちは認められないのかと思った。
「そして、俺たちを世間に認めさせようと頑張ってくれてるさーちゃん、ブレイン、スタッフの人たち。……ありがとうございます」
また、拍手。みんな拍手が好きだな……。
「この半年近くの中で、少しずつだけど、いろんなことが変わり始めてます」
仕事も、生活も――プライベート、も。
「その中で大きな変化として……キーボードの彼女」
軽く振り返って美保を片手で示すと、それに合わせて照明が動く。久々のライブのせいか、美保は少し高揚したような顔つきをしていた。
「彼女……美保は、クロスが結成した当初からずっと一緒に音楽やっててすげぇ大事なメンバーなんだけど……脱退することに、なってます」
俺の言葉を受けて美保にライトが当たる。
「こんにちわ。誰だろうって思ってる人もいるかもしれないけど、ちょっとだけ時間を下さい」
普段のガサツな様子を微塵も見せず、マイク越しに美保が客席に向かって微笑む。客席から「美保ちゃーん」と声が飛んだ。
「知ってる人は知ってるだろうけど、クロスでこないだまでメンバーとしてキーボードをやってました。いろいろあって……事務所がついたのをきっかけに抜けることにはなっていて。だからもうずっとこの半年くらいは、一緒に活動はしてなかったんだけど」
そこで美保が一度言葉を途切ると、誰かが「美保ちゃん、おめでとー」と叫んだ。美保が結婚したことを知っているらしい。それに応えて美保がはにかんだように笑う。
「ありがと。……あたしはもうメンバーとしてはクロスを支えてあげられないけど、これからはここに来てくれた人たちと同じファンとして、あるいは友人としてクロスが大きくなってくのを見てるから」
美保が振り返って言葉を聞いている俺をちらりと見て、こちらに向かって笑う。
「だから、大きくなってよね」
「……へーい。頑張ります」
「今までありがとう」
美保の言葉に向けられた拍手がやむのを待って、また俺がマイクへ戻る。
「次で、美保がクロスとして弾くのは最後です。知ってる人も知らない人も、元祖Grand Cross最後の曲。目に焼き付けて下さい。――『夢のかけら』」
◆ ◇ ◆
現状、クロスがライブでやれる曲は、正式には数少ない。
と言うのも、タイトルとして企業が咬んで出している曲数が凄く少なく、後の持ち曲は今後どれをどんなふうに戦略に絡めるかが不透明だから。
やって問題ないのは、ロードランナーでのVAの一曲とミニアルバム六曲、ファースト・シングルの二曲で計で計九曲。
さーちゃんや広田さんを含めて散々検討した結果、セットリストに設定したのは全部で十二曲。時間にして一時間半に満たないくらいだ。
「あ……ちぃ……」
本編そのものを十曲で終了し、ステージ脇へ戻ると滝のよーな汗が体中に纏わりつく。
調子に乗ってテンション上がりまくりで歌っていたせいで、体力の消耗が著しい。壁に寄りかかって床に座り込んだ俺に、さーちゃんが水とタオルを放った。
「息、整えて、服着替えて」
言いながら、俺だけじゃなくて他のメンバーにもばしばしTシャツを投げつける。着ていた汗だくのTシャツを脱いで投げ出すと、上半身裸のまんまでしばらく立てた膝に乗せたタオルに、額を押しつけていた。
荒かった呼吸が、少しずつ収まっていく。
瞳を閉じたままじっと座り込んでいる俺の耳に、客からの『呼ぶ声』が届いた。続きを望んでくれる手拍子。時折混じる、メンバーの名前を呼ぶ声。
「和希」
額を膝に押しつけたままで、すぐ近くに気配を感じる和希を呼ぶ。
「行けるか」
「行けるよ」
「……やれるか」
短い沈黙。
やがて、耳に届く声。
「やるよ」
ここからが、今日の山場。
和希からの……なつみへのメッセージ。
「……っしゃ。行くぞ」
大きくなる手拍子。最高潮に上がったテンションでも胃が痛いのは否定出来ない。多分和希も。
Tシャツを着て立ち上がった俺に、座り込んだままの和希が笑う。
「気合いで立ち上がったね」
「気合いで立ち上がったよ」
残り、二曲。
メンバーそして教授と片手を打ち合わせる。気合いの入れ直し。一人一人がステージに戻り、手拍子が拍手に変わる。
俺の立ち位置であるセンターのヴォーカルマイクに向かう前に、左側に位置する和希へ寄り道。その肩を軽く叩いてギターアンプの前に足を運んだ。
和希のマーシャルのアンプの横にセッティングされているジャズコーラス。
その前にもう一本のギター。……俺の、ストラト。
人前で弾くのなんか、何年ぶりだ。
手に取って肩から掛けると、ギターの重みが……いやに重く感じた。
「呼んでくれて、ありがとう」
点る照明に歓声が上がる。そこに、どよめきが混じった。
「えーっ? けぇちゃん、ギター弾くのぉぉぉっ?」
驚いてくれて嬉しいよ。
「今日は、ちょっと珍しいものを見せます」
これをきっかけに、俺自身はもしかするとギターを持つこともあるかもしれない。
だけど、それ以上に今後絶対見られないだろう、ステージ。
「ウチでやる曲ってのは、メンバーが誰か曲を書いて、歌詞は全部俺が担当してるんですけど」
言葉を切ってちらりと和希を見る。複雑な表情を浮かべた横顔。
「次にやる曲は新曲で、これまでどこでも全くやっていない、そして多分この先も二度とやることがない……今日、この場だけの限定です。ギターをやる俺も珍しいだろうけど、それ以上にもっと珍しいものが、見られます」
今日この日の為だけに作られた曲。
たった一人の人間に聴かせる為に。
この場を、借りて。
「作詞作曲、そして……」
和希が微かに嫌な表情を浮かべて俺を見た。
諦めたようなため息に、にやにや笑いながら片手で和希を示す。
「ヴォーカル――和希」
言い切って体を引くと、和希にあたるスポットが強さを増した。客席から驚くような「えぇーっ?」と言う声。
和希が、ライトの光に眩しそうに片目を眇める。
「こんばんは」
今更『こんばんは』はないだろう。
「えー……何、話そうかずっと考えてたはずなんだけど、緊張し過ぎて忘れました」
客席からさざめくような小さな笑い。俺の緊張だってかなりのもんだが、そうは言ってもかつてはギタリストとしてライブをやっていたんだから、俺の方がまだましだろう。
あの日、和希が俺にした相談。それを受けて俺が言ったこと。
――音楽で伝えられることがあるって……啓一郎が言ってたじゃん。
――うん。
――うまく伝えられなかったいろんなことを、伝える努力だけはしたくて……曲を作ろうと思ってるんだ。
――……
――曲から、詞から……。
――じゃあ、歌えよ。
――……えっ?
――伝えたいんだろ。……自分の声で、自分の言葉で、自分の音楽で……
――……。
――……伝えて、やんなよ。
初めてヴォーカルを取る羽目になった和希は、ここ数日凄ぇ緊張してて。
二人で、それぞれのパートについてアイデア出しながら、とにかく練習して練習して。
歌詞も、曲も……たくさん考えて。
……全部、なつみの為に。
「性別だとか」
少し、考えるような短い沈黙の後に、和希が言葉を紡ぐ。客に向かって――なつみに向けて。
「年齢だとか、国だとか……そういう違いが人と人にはあって、そこに共感を見出すこともあれば、逆に壁を感じたり。そういう違いによって、相手に抱く印象はさまざまで、自分が抱くものと相手が抱くものには違いがあって……すれ違ったり」
暗い客席に向かって和希が訥々と話す。
この中になつみはいるんだろうか。俺には見つけられていない。
「俺は、一人の人としてずっと大事にしてきた友人がいて……それはうまくその友人には伝わってはいなかったみたいだけど、ずっと手を差し伸べてくれて、励ましてくれて。だけど俺には、傷つけることでしか、返せなくて。……すれ違っていることがわかっていたのに、俺自身のエゴが、その人の傷を深くしてしまった」
言葉を選ぶように視線を彷徨わせた和希は、不意にどこか一点に視線を定めた。
「……だけど、傷つけたかったわけじゃない」
客は静かに和希の言葉を聞いている。
この言葉の意味が正確にいる人間がどれほどいるかはわからないけど、一人にだけ……なつみにだけ、ちゃんと伝われば。
「もう何もしてあげられなくて、俺にはどうしてあげたら良いのかがわからなくて、いろいろ考えたけど……俺は、ミュージシャンだから、これしか、思いつきませんでした」
和希がこっちを振り返る。それにメンバーが頷くのを見て、和希がまた客席に顔を戻した。
「マイク越しに……最初で最後のメッセージ。この場を借りて、これまでの謝罪と感謝と……お互いの、未来を、祈って。――『エール』」
遠くへ一人旅立つ君へ
心からのエール
いつもそばで応援してくれた
目指す道は別々でも
君のくれた優しさを忘れないよ
季節が変わり 空気が春の色に染まる
新しい靴を履いて 新しい一歩踏み出して
ざわめいた教室の隅 陰る西陽染める校舎
いつもはしゃぎ合って 笑い合って
足並み揃えて歩いていた仲間たち
夢を語り合った時間は短くて
今それぞれのスタートラインに立ったんだ
遠くへ一人旅立つ君へ
心からのエール
いつも君を応援してるから
忘れないで別々でも
君がいつも僕を励ましてくれたこと わかっているから…
そばにいることで 傷つけることしか
出来なかった僕の せめてもの気持ち
言葉では多分うまく伝えられない
だからこの歌が 君に届きますように
僕が自分を見失っていた時
僕が世界を失っていた時
顔を上げたそこにいたみんなとだから きっとここまで来られたんだ
遠くへ一人旅立つ君へ
心からのエール
いつもそばで応援してくれた
目指す道は別々でも
君のくれた優しさを忘れないよ
いつも君を応援してるから…
出会ってからの数年、いろんなことがあっただろう。
それは多分、端から見ている俺には図れない。
残念ながら和希にとって、なつみが異性として想う相手には一貫してなることがなくて、それがなつみを深く傷つけたんだろうけど、だけど……。
だけど、和希にとってその存在が浅かったわけじゃない。
『恋』と言う形で叶えられないと、そのまま自分の存在意義を疑ったり、自分の価値観を見失ったり、自己否定に繋がりがちだけれど……。
人にとって人の存在ってのはそれだけじゃなくて、いろんな立場や価値がある。
誰かの一つの見方だけに価値を求めると、見失っていく自分の存在意義。
でも、人にとって人の重さは、それだけじゃ図れない。
過ごす時間が長くなっていけば、関係だって変わっていく。
それは、恋と呼ばれるものだったとしても、形を変えて人としてになっていくかもしれないし、逆になっていくものもあるのかもしれない。
人は、変わっていく。傷を受けることもあるけど、立ち上がれる――必ず。
受けた傷さえ自分の糧にして、未来の自分に繋げて、優しさに変えて。
傷を受けた痛みは、受けた人間にしか、わからないんだから。
それを優しさに変えて、成長に繋げて、明日を歩いて強く生きて。
壊れそうになるほど泣いたことさえも。
過ごした時間を、暗い色に塗り替えないで。
「出会えたことに……ありがとう」
それが、和希からなつみへのメッセージ――――――……