第16話(1)
いろんなことを考えたり、やったり、しているうちに、時間が少しずつ過ぎていく。
いつの間にか季節は移ろい、春をも通り過ぎようとしている。
五月も、もう半ばに差し掛かった。
「あ、あゆな」
目覚ましに叩き起こされて、尚しぶとくロフトでとろとろとまどろみながら、俺はふと思い出してあゆなに尋ねた。
「俺のまともな服ってどっかで見かけた?」
「……何なのよそれ」
寝起きのすっぴんで、やたらあどけなく見えるあゆなが、俺の背中に腕を回しながら呆れたように笑う。
「だって最近、あゆなの方が俺の部屋に詳しい気がする」
「さすがにクローゼットの奥までは知らないわよ」
先月の終わり、美保が結婚式と入籍を終えて、晴れて人妻となった。
ご家庭の都合上、お祝いをしてやることの出来なかった我々下々の者たちは、本日の夜、改めて祝いの場にお呼ばれしている。
クロスの面々はもちろん、あゆなや由梨亜ちゃんみたいな周辺の人たちも含め、これはこれで結構な大人数になりそうな空気だ。
(なつみ、来んのかな……)
先日、高速のサービスエリアで電話を一方的に切って以来、音沙汰はない。
美保とは仲が良かったから呼ばれていないはずはないけど……なつみが来るかどうかは、わからない。
でも、さすがに来るよな? 嫌でも和希と顔をあわせることになるだろうとはなつみだってわかっているだろうけど、仲が良かった友人の結婚披露なんだ。来るだろ?
「来て欲しいんだけどな……」
こっちとしても。
小さく呟くと、あゆなが身動ぎをした。きょとんとした顔で俺を見上げる。
それには答えず、俺は黙ったままで先日スタジオで和希と交わした会話を思い出していた。
――実はさ……
「わたし、シャワー浴びてくるね」
「ああ、うん」
あゆなが俺の腕の中から逃れて、体を起こす。それから、俺に覆い被さるようにして唇を重ねた。ぐいっと引っ張ると、あっけなく腕の中に戻って来た。
「シャワー浴びるんだってば」
「わかってますよ」
くすくす笑いながら、もう一度、俺からキス。軽く触れるだけのそれを交わし、あゆなが間近で目を細めるのが見える。
このところ、あゆなと一緒にいる時間が急激に増えた。少しの時間でも、どんなに疲れていても、お互い、割ける時間の全部を相手に費やしていると思う。
そばにいたいんだ。
俺が。
過ごす時間が増えるごとに、あゆなの存在が俺にとって大切になっていく。
泣かせたくない、笑ってて欲しい、そばにいて欲しい。
そう思う気持ちは、前のようにあゆなが俺を想ってくれる気持ちに引きずられただけのものではなくなって来ている。……と、思う。
ほんの僅か、あゆなが疎遠に感じられたあの時――初めて、あゆなを失うことを、本当に、切実に、怖いものだと思ったんだ。
こういう恋愛もあるのかなって、初めて知った。
どきどきして、その誰かの前ではかっこつけてたくて、気合い入れていーとこ見せたくて……って言う、それだけじゃない関係。
かっこつけてたいのはそりゃそーだけど、それだけじゃなくて、かっこ悪くてもださくても情けなくても……俺のそのままを見せられる、安心する、関係。
元々俺がどっかあゆなに甘えてる部分があって、元々情けないとことか見せてるから、自然にそうなっていけている気がする。
先月彼女がなかなか俺に会おうとしなかった理由――何を悩んでいたのかは未だわからずじまいだけど、不安そうな顔を見せることは、最近はなくなった、んじゃないか、と思う。
「もう」
あゆなが再び体を起こしてロフトを下りた。シャワーへ向かう物音を聞きながら、ごろんと仰向けになる。
――今までのいろんなことを思い出して、俺の気持ちとか、なつみの気持ちか、これまでは深く考えようと思ったことがないことを考えざるを得なくて。
――そうして考えていると、俺はやっぱり、なつみに伝えたいことがたくさんあるような気がするんだ。
――彼女が望む形じゃなかったのかもしれない。だけど俺はなつみを大事に思っていたし、彼女との関係だって大切にしてきたはずなんだ。……なつみの期待する形ではなかったにせよ。
――……感謝、してるんだよ。
人間の愛情の形ってのは、一つじゃない。
だけど相手との関係――性別だったり、年齢だったり、立場だったり――によって、概ね芽生える愛情の形っていうのは定形がある。
一方が定形に則った愛情を期待しているにも拘らず、一方が定形から逸れた気持ちを抱けば、そこにすれ違いが生じる。
なつみが和希に恋愛感情を抱いたにも関わらず、和希のそれが恋愛と言う形に変わらなかったように。
だけど、同じ形にならなかったからと言って、存在しなかったわけじゃない。
和希の中でも、なつみを大切に思う気持ちは存在していたわけだから。
そして俺は、和希の友達だから、なつみの友達でもあるから、俺に出来ることなら何かしてやりたい。
二人の傷が、いつか修復出来るように。
「啓一郎」
バスルームから蛇口を捻る音と同時に水音が途切れ、カタンとドアが開く音が聞こえる。
「啓一郎も、浴びる?」
長い髪を片側に寄せてバスタオルでくるみながら、あゆなが浴室から出てきた。まだロフトに転がりっ放しの俺を下から見上げる。
「うん。あゆなが行ったら浴びる」
この後、あゆなはパーティの準備をしに、一度家に帰る。
俺の部屋に泊まることが増えたせいで、この部屋にあゆなのものが一挙に増えたが、さすがに普段使うことのない正装用の用意なんかがあるわけがない。
俺も多分この家には持ってきてねーだろなー。実家かー。めんどくさいなー。
ロフトの縁にもたれかかって、あゆなが俺のドライヤーを引っ張りだしているのを見ていると、階下に放り出された携帯が振動しているのが見えた。
「あゆな」
「うん?」
「携帯投げて」
ドライヤーを止めて、振動をやめた俺の携帯に手を伸ばしながら、あゆなが唇を尖らせた。
「どうせまた女の子なんだわ」
だろーねー。
へろへろと舌を出してみせながら、携帯を受け取る。
「察しのよろしいことで」
わざとにやにやしてみせるが、内実、げんなりしてるのは俺の方。
雅美ちゃんだ、多分。
俺の周辺では、用もなく無駄にメールをしてくる奴は女の子も含めてそうはいないし、用事があれば電話してきちゃう奴の方が多い。俺がメールだとろくに返事をしないせいもあるだろーけどさ。つまりメールは俺の周辺からはまず来ない。
さすがに彼女であるあゆなこそ最近たまにメールくらいはするけど、それだって頻繁じゃない。ってゆーかいるし。そこに。大体。
「ばーか」
あゆなの小さな悪態を聞きながら携帯を開くと、予想通り雅美ちゃんだ。
吐息をつきながら文面に目を落とし、ぎょっとする。――『彼氏と別れちゃいましたぁ』。俺に言わないでくれる? そんな重い話。
「はー……知らんし……」
「ばーか」
電源をオフにしたドライヤーを床に置いて、鏡の前で髪をブラッシングしながらあゆなが繰り返した。鏡越しに俺を睨むのが見える。
「ばーか」
「……何だよ」
ディスプレイから目を上げて鏡越しのあゆなを見ると、あゆなはするーっと視線をそらして続けた。
「ばーか。女たらし。すけべ」
待てコラ。
「あゆなちゃん? 俺のどの辺が?」
「ファンのコとしょっちゅうメールやってる辺りが」
「やってるんじゃなくて来るの。俺は受け身っ」
「ばーか」
囁くように繰り返すな。
「へっへーん。ヤキモチでもやいちゃってんのかなあー、あゆなちゃんてば。いやー照れるなー参ったなーさて何て返事しようかなあー」
ついつい売り言葉に買い言葉で、これ見よがしに携帯に向き直る。あゆながむっとしたように振り返った。
「好きにすればいーじゃないの」
「まあ、明日にでもゆっくり考えますよ……」
即返しすると喜ばせてしまうだろうから、敢えて返事は間遠にする。一応それで何かを察してくれることを期待しているんだが、今のところ察してくれる気配はない。
でも、ずっと放っておくわけにもいかない。
俺の返事に、あゆなは少しだけほっとしたように、また鏡に向き直った。
「そんな心配しないでよ。別に何するわけじゃないんだから」
「でも、仙台まで来たんでしょ? そのコ。あんたたちのこと大好きじゃないのよ」
「来たけどさ。でも大好きったって、ライブもまだ見てないんだし」
「なのに頻繁にメールが来るから、却って啓一郎狙いって感じじゃないの」
「絡まないで下さい。……そもそも俺が気軽にメールしたから悪いんだよ。気をつけますって、ホント」
閉じた携帯を布団の上に投げ出したままで、ようやくロフトを降りる。
きっちり身なりを整えたあゆなの後ろで、いかにも寝起きのまま壁に寄りかかった。鏡に映る二人の姿に、『今から仕事に行く彼女をごろごろして見送るダメ男』のよーな気分になる。……いやいや。めちゃめちゃ働いてるっつーの、俺。貧乏なのはそりゃそうなんだが。
「そーよホントに。『ちゃ~んす♪』とか言って気楽に連絡先を交換したりして来ないでよね」
「何だよ、『ちゃ~んす♪』って」
「可愛いからってファンに手を出したりしないでよね」
「しーまーせーん」
「よし」
唸るように答えると、偉そうに頷いたあゆなは満足げにブラシを置いて振り返った。くすっと笑って、小さなポーチをバッグから引っ張りだす。今度は化粧らしい。まったく女性はいろいろやることがあって大変だ。
ぼけっと眺めている俺の前であゆなは手早く化粧を終え、くるんとこっちを振り返った。
「さてと。わたしは行くわよ」
「ん」
「和希たちはどうするの? 何か聞いてる?」
「さあ。適当に行くんじゃない? ってゆーかあれだろ。和希は由梨亜ちゃんと一緒に行くんじゃないの」
「ああ、そーね。一矢は?」
「知らん。連絡してみる」
俺の返事に「わかった」と頷くと、あゆなはバッグを持って立ち上がった。床に座り込んだままの俺の額をぴこんと軽く弾く。
「じゃあ、鬼のいない間にゆっくりファンサービスのメールでも打つのね」
その口振りが、言うほどには心配しているように見えなくて、ほっとした笑みが漏れた。
「今日はしないってば。……んじゃあ、後で」
「ん」
あゆなが出ていくと、思い切り伸びをしてあくびをする。
あゆながいなくなった俺の部屋は、少しだけ寂しい。
「俺も行くかぁ……」
しょーがないなー。普段着で行くわけにはいかんのだし。
実家に正装を取りに行って来ますか。
◆ ◇ ◆
一矢とあゆなと待ち合わせた日比谷線の駅の出口でぼうっと突っ立ていると、どこからともなく音楽が耳に届いた。
近くの店から漏れ聞こえるラジオの音だ。
それをLUNATIC SHELTERのものだと認識して、俺は小さく息を漏らした。
今週に入った辺りから、LUNATIC SHELTERがラジオでがんがん流れ出した。
KIDSはどうやら、あっちこっちでパワープッシュの提携を仕掛けたようだ。金かけてるんだろう。まあ、真っ当な路線ですよね。ウチみたいに体育会系スパルタ路線に比べたら。
発売も、あっちの方が先。確か今週だ。
気にしてもしょーがないけど、気にならないわけじゃない。
俺たちが発売するに当たって、そのことがマイナス作用に働かなきゃいーんだけど。
そうは言っても、俺たちだって何の動きもないわけじゃない。
四月の後半には、ファースト・シングルを挿入歌にした映画『Moon Stone』が公開された。
だけど、映画も興行成績自体がさほど良くはないらしい。
つまり、見に行く人自体が大していないだけに、俺たちの挿入歌が良いも悪いも、そもそも耳にする人が大して増えたわけじゃないと言うことだ。
とは言っても見る人はもちろんいるわけだし、途中で席を立たなきゃ一応俺たちの曲は強制的に流れるわけだし、それがほんの僅かに試聴やダウンロードなんかに繋がってはいるみたいではあるんだが。
一方で、五月の頭に出させてもらった『MUSIC CITY』での効果はそれなりにあるらしい。
二日目の『ROCK PARTY』で野外ステージだったバンドの中で、最大の集客に漕ぎ着けることが出来たそうで、関係者からの打診が増えたと聞いた。今後の仕事に繋がる流れは、何とか掴むことが出来たみたいだ。
あとはそれを俺らがどれだけ掴んで活かせるか、ってところだな……。
夏の匂いを孕み始めた五月の風が、『LUNATIC SHELTER』の音と共に俺の前髪を舞い上げる。
少しずつ、前へ進もうと動き始めた夢。
追い風に変わってきているんだろうか。それともまだまだ、向かい風なんだろうか。
俺は目を細めて、自分の人生が少しずつ変化しているのを感じていた。
恵理は今日、アメリカへ出発するのだそうだ。
美保の結婚披露パーティと重なっているから見送りに行くわけには行かないけど、どっちにしても、俺が行ったところで恵理も嬉しくはないだろう。
落ち着き先が決まったら、連絡をくれると言ってくれたことが、何だか少しくすぐったい気持ちにさせた。
一度途切れていた、恵理との付き合い。こんなふうに再開するとは思っていなかった。
美保が結婚するなんてことも、半年前までは想像もしていなかった。
なつみと……こんなふうに、途切れることも。
何が起きるかなんて、頭で考えていたところで、本当にわからないもんだよな。
「お、啓一郎くん、ようやく七五三?」
なんてしみじみ感慨にふけっていると言うのに、デリカシーのかけらもない声が突然背後からかかる。
むうっと顔を顰めながら、俺は肘を振り被って振り返った。
「誰が七五三だよっ」
「け~ぇちゃん」
へろ~っと舌を出して階段を上る一矢が、俺の肘を受け止める。
「あんなぁ」
「持ってたんですか、正装なんて」
「うるせえよ。お前こそ六本木のホストかよっ」
「うーん、どっちかって言うとキャバクラのキャッチかしらん……」
「やってそう」
「あゆなちゃんは?」
ひとしきり俺を小馬鹿にしてくれた一矢は、階段を上りきってくるんと辺りを見回した。
「まだ」
「ふうん? ここまで一緒に来なかったの?」
「来なかった」
「何か変なカンジ」
俺の言葉に対する返事は特になく、一矢が人通りに目を向けながらポツンと呟く。目顔で問うと、一矢が苦笑して見下ろした。
「や、結婚ねえ……ってさ」
「ああ」
「そういうお年頃なんですかねえ」
変なカンジって、そういうことか。
俺も苦笑を浮かべる。
「まだ、そうでもないだろ。美保がちょっと早いってだけで。でも……」
身近な人間が、家庭を持って独立する。それは、確かに少し心に波紋を呼ぶ出来事ではあった。
なんか、ちゃんとしなきゃいけないんだなって気がする。やりたいようにやってればいいわけじゃなくて、ちゃんと考えて、大人になって、自分の居場所を作って。
周囲の誰かだけじゃなく、俺もしっかりしなきゃなんないんだなという焦りに似た何か。
「おおー?」
ちょっとした感傷めいた気持ちに浸っていると、やがてあゆなが姿を現した。途端、一矢が冷やかしに似た声を上げる。
「ごめんね、待たせた?」
「あ、いや……」
「やるねーあゆなちゃん」
ちょっと、彼氏として自慢したくなる化けっぷり。
「……何よ」
「いやいや、素材が良けりゃあ仕上がりもいーもんなのねー。男も女も素材は大事だぁねぇ……赤いおべべが素敵ー」
「何だか褒められてる気がしないんだけど、褒めてるの?」
「褒めてるでしょ?」
「馬鹿にされてる気がするわ。本当はどっか変だったりするの?」
拗ねたように唇を尖らせたあゆなに、一矢がにやにや笑いながらこっちを親指で示した。
「んなこたぁーございませんよ。あなたのダンナの顔見りゃわかるでしょ?」
「え?」
言われてあゆながこっちを見る。
大人っぽい抑えたワインレッドのワンピース、肩紐はなくて胸の辺りには緩やかなドレープが入っている。スカートの上の部分はタイトで、下の方は右上がりのフレアーになっていた。肩には洒落たストールを引っかけ、細い足首にアンクレット。
服装も見慣れないけど、髪型も見慣れない。
いつもさらさらのストレートの髪を下ろしっぱなしにしてることが多いけど、どうやら美容院に行ったらしい。柔らかいウェーブがかかっていて、左右一房ずつ高い位置にとった髪をシンプルな花飾りとリボンで後ろに緩やかにまとめている。ふわっふわの髪が肩の辺りで揺れていて、普段とはちょっと違うあどけない雰囲気があって……にも関わらず元が綺麗な感じの顔立ちなもんだから、妙に艶めいたトコもあったりして。
ちょーーーーっと、これは。
「可愛い……」
思ったことが、脊髄反射のように口をついて出た。ついぽろっと言って、口を押さえる。一矢が吹き出した。
「臆面もなく人前で彼女を口説くなよ」
「別に口説いてるわけじゃねーけどっ」
赤くなって口を片手で押さえてもごもご言う。
「やだなあ……」
いつまでも駅になんか立っていても仕方がないので、歩き出しながらぼそりとまた勝手に思ったことが口から出た。
「何?」
見上げるあゆながやっぱり可愛い。
「……何でもない」
今まであんまり考えたことなかったけど。
口も態度も大概悪いからつい気にしなかったけど。
大体、あゆなが俺のこと好きでいてくれてるのがわかるから思いつきもしなかったけど。
……あゆなって、美人なんだよ。変な奴にちょっかい出されたりしてないだろうなあー?
ない話じゃないぞ、良く考えたら。一矢だって前、本気じゃないとしたって『あゆなちゃん辺りいー感じ』とかぬかしてやがったし、楽器屋なんてあーぱーなミュージシャンが来るようなとこで働いてんだし、バンドやってる男なんか始める理由の七割が『もてたい』だったりするんだからな、危なくてしょーがねー。
……などと思ってみれば心配になった。
「あゆな」