第15話(2)
武人はゲネスタから直行で帰っているし、一矢も今さっき、帰っている。
本当は和希も帰りたいんだろうけど、俺がハマりこんでしまっているせいで、ついなし崩しに帰れないのか、あるいは和希自身ハマり込んでいるのか。
「まだやってんのぉ?」
ギターを抱えて和希と二人、あーでもないこーでもないとやっていると、不意にスタジオの扉が開いた。眠そうな顔をした美保が、完全なすっぴんでドアから顔を覗かせている。
「ああ、ごめん。気になる?」
ギターの弦を片手でミュートしながら振り返る和希に、美保は顔を横に振った。小さく笑いながら中に体を滑り込ませ、ぎゅっと力を込めて防音扉を閉める。
「ううん。気になるってことはないけど。音が漏れるわけじゃないしさ。ただ、体壊すんじゃないかなあって思ってさ」
言われてみれば、時間は二時半になろうとしていた。
俺、明日深夜のバイトあるしなあ。朝からスタジオと、次の『バンドナイト』の打ち合わせもあるし。
「そうだね。そろそろ帰ろうか」
とか言うわりに、かなり未練がましい感じでギターを抱え込んでいる和希が美保を見上げる。
「式の準備は順調?」
美保の結婚式は、もう来週に控えている。
とは言え、大企業の社長令嬢。式や披露宴などはお父上のお知り合いの格式高い連中ばっかりが来るような肩が凝りそうな感じで、あんまり美保の友人とかを招待できる雰囲気ではないらしく、俺たちも呼ばれていない。
なので、友人連中だけで日を改めて、パーティをすると言う話を聞いている。
「もうここまで来たらすることも大してないよ。エステに通うくらい」
「そういうもの?」
「雑用は他人にやらせりゃいーのよ」
何で俺の周囲には『女王様』が多いんだろう。
……もうひとりの『女王様』は、どうしてるんだろな。
「あゆなちゃん、元気?」
すとん、と和希の隣にしゃがみこんで両手で顎を支えながら、美保がキツ目の目を細めた。
考えを読まれたみたいで、微かに顔をそらしながら曖昧な笑いで答える。
「……うん。多分」
「多分? つきあってるんでしょ?」
「うん……」
「どしたの?」
曖昧な返事のまま沈黙してしまった俺を、和希と美保が揃って覗き込む。
「あ、いや、何でもない」
「うまくいってないの?」
美保がちょっと心配そうに首を傾げる。笑みを作って俺は顔を上げた。
「いや……そういうわけじゃないよ」
「そう?」
「うん」
「だって啓一郎んとこは、あゆなちゃんが啓一郎にどっぷりだもんね」
何も知らない和希がにこにこと言う。
「んなこと、ないよ」
「そうかなあ。あんまりそういうの気がつかない俺がわかるくらいだから、相当だと思うけど」
……。
「ま、うまくいってんならいーんだ」
ちょっと首を傾げながら立ち上がった美保は、そのまま大きく伸びををしてあくびをかみ殺した。
「さてと。あたしは寝るね」
「うん。……あ、美保さ、シングル発売前のライブって、出られない?」
立ち上がった美保に、和希が何気なく尋ねた。美保が目を丸くする。
「ええ?」
「一曲とかでいーんだ。ほら、なし崩しに事務所入るだのレコーディングだので……美保が抜けるって挨拶、お客さんにちゃんとしてないから」
「あー……そうだよねー……」
「だからさ。挨拶、ちゃんとした方がいいと思って。今まで俺たちがばたばたしてたから、美保にそういう機会を作ってあげられなくて悪かったと思うんだけど。でもまさか地方に連れて行くわけにも行かないし、大体東京で挨拶しないと俺らの場合、意味がないし」
ごめんね、と微苦笑を浮かべる和希に、美保は顔を横に振った。前より少し長くなったさらさらの髪が揺れる。
「ううん。和希たちのせいじゃないし。……わかった。じゃあ、一曲だけね」
「うん。じゃあその辺はまた、打ち合わせよ」
頷いて「じゃあおやすみ」と美保が出て行くと、和希は床にあぐらをかいたままで伸びをした。
「確かに眠いね。俺たちも行こうか」
「ああ、うん」
頷いて立ち上がりながら、パンツの汚れをはたく。つられて俺もあくびがこぼれた。
「いーなー。でも。うん、この曲、いいよね」
「え? うん」
「今度のワンマンで出来ないかな。……まだ、無理か」
「どうかなー。大体歌詞つけてないし」
「そうか。つけてよ、早く」
簡単におっしゃいますが。
「んじゃつけて」
エフェクターを片づける和希の代わりにケーブルを巻き取ってやりながら言うと、和希が無言で俺を見上げた。一瞬、虚を突かれたような表情を浮かべて俺を見上げると、そのままその顔に複雑な色が滲んだ。
「?」
「……啓一郎」
「うん?」
ケーブルを巻いてくるんと縛ると、それを和希に手渡しながら首を傾げる。
「何」
促す俺に、和希は躊躇うように微かに唇を尖らせた。それから迷うような目つきをそのままに、口を開いた。
「あのさ、相談したいことがあるんだけど、いいかな」
……。
「どうぞ」
促す俺に、和希は少し躊躇うような素振りを見せた。
それから彷徨わせた視線を俺に向けて、腹を決めたような目つきを見せる。
「実はさ……」
それから和希は、言葉を選ぶように話し始めた。
◆ ◇ ◆
楽器屋なんて来るのは、なかなかどうして久しぶりかもしれない。
がーっと自動ドアが開いて楽器屋特有の匂いを感じながら店の中に足を踏み入れると、視界の隅で店員ががたっと何かを取り落とすのが見えた。
……。
「店員さーん。気をつけて下さーい……」
たまたま出入り口付近で楽譜の整理をしていたらしいあゆなが、ピースの入った箱を叩き落としたようだ。
「なッ……」
完全に不意打ちした俺の登場に、動揺の余りか、あゆなの顔が赤くなる。しれっと顔を逸らし、俺は店の奥へと足を向けた。
平静を装ってはいるけれど、内心は結構どきどきだ。久しぶりに見る、あゆなの姿に。
「な、何しに来たの?」
「君は俺がバンドをやっていることをお忘れかい?」
「忘れちゃいないわよっ。忘れるわけないでしょっ? だけど……だって」
「ミュージシャンが楽器屋に来たら、買い物以外にないでしょが」
あゆなにお構いなしにすたすたと店の奥へと足を向ける俺に、あゆなが不満たらたらの顔でついて来る。
「本当に買い物に来たの?」
「本当に買い物に来たんだよ」
とは言え、広い新宿の中でわざわざこの店を選んだのは、あゆなに会いに来た以外にないわけだが。もちろん。
一応仕事中の身を気遣って、顔だけ見たら買うもん買って帰ろうとは思ってるんだが、ついてきてどーする。
「何、買いに来たの?」
あゆなが小声で尋ねる。
歩く順番から考えれば、どう譲歩しても店員に商品の場所を案内してもらってる客には見えないだろう。……いーのか? この店、結構うるさいんだろ。
「ストラップ」
ギター周りの物なんか買うのは随分久しぶりだが、置かれている場所は何となく見当がつく。
ギターが壁にぶら下がっている店の奥に足を向ける俺の後ろをついてきていたあゆなが、不意に足を止めた。
「……ストラップ?」
「そ」
多分この辺……あ、あった。
ピックなんかの小物が陳列された棚の間をすり抜け、小型エフェクターの棚の脇にぶら下がるストラップの前で足を止める。
後をついてきたあゆなが、俺の隣に並んで見上げた。
「どうするの?」
「……楽器屋の店員のくせにストラップの用途も知らんの?」
久々に手に取る。何となく、懐かしい気がした。
家にもそりゃあストラップなんかは何本もあって、使えるは使えるんだけど……。
心機一転もありかな、とか思ったりして。恵理じゃないけどさ。
「これ、他のタイプないの」
うーん、ギターにつける部分がもうちょっと補強してあるやつがいーんだけどな。でもデザインは悪くないなー。どうしようかなー。
悩みながら俺が手に取ったストラップを見て、店員あゆなは唇を尖らせた。
「このタイプのものは、これだけよ」
「うーん」
まあいーか。どうせ頻繁に使うものじゃなし。
「じゃ、いーや。これ下さい」
「……はい」
何か言いたそうな顔をして俺を見たあゆなは、だけど結局何も言わずに、俺からストラップを受け取った。レジへ向かう。
「2,100円です」
会計を済ませて商品を受け取ると「んじゃ」と出口に足を向ける俺に、あゆなが慌てたように顔を上げた。
「啓一郎」
「ん?」
「……何も言わないの?」
「……何言って欲しいの?」
あゆなの言葉に足を止める。振り返るとあゆなは、レジカウンターの内側で唇を尖らせた。
それから、別の店員が客を連れてレジへ向かってくるのを見て小さく息をつくと、カウンターから出てきた。何となく、一緒に店の出口の方へ向かう。
「何ってわけじゃ、ないけど」
「嫌われたのかと思ってました」
さっき受け取った包みをがさがさ言わせながら、店を出ようとする客について来てしまっているあゆなを見下ろした。あゆなが気まずそうに顔を伏せる。
「だけど、会って考えが変わった。俺、嫌われてない」
自惚れかもしれない。
だけど、自惚れさせるだけの何かをあゆなから感じる。目付きとか顔つきとか、そういうものが、あゆなの気持ちは今でも変わってないと伝えてくれている。……と、思う。
「それとも勘違い?」
尋ねると、あゆなは真っ赤になって思い切り顔を横に振った。
その顔が可愛くて、つい小さく吹き出した。
「それがわかれば、いーよ。何で会おうとしてくれないのかはわかんないけど、多分何か理由があるんだろ。……だったら、会ってやってもいーかなって気になったら、教えて。俺、もうしばらく東京いるから」
あゆなが泣きそうな表情を見せて俯く。
こういう表情をするってことは、何かあった、んだろうな。
俺に対して何か思うことが出来るようなことが。……俺のいない間に?
「本当に、何でもないの」
けれどあゆなは、メールで繰り返した言葉を、また繰り返した。
「そう?」
「うん」
何でもないことはない、と思う。
だけど、そう言い張るなら信じよう。
俺に言うことではないと、あゆながそう思うなら。
でも。
「限界が来る前に、俺に伝えて」
何があったのか、わからないけど。
あゆなを悩ませる何かがあるなら、今すぐにでも知りたいけれど。
俺の言葉にあゆなが、少し泣きそうな笑みを見せた。
「……うん」
「んじゃ。仕事、頑張って」
あゆなに背中を向けて、ひらひらと手を振りながら店を出る。地下街の中にあるこの店は、外に出ても屋内だ。
「啓一郎」
地下通路を通って駅に戻りかけた俺の背中を、あゆなの声が引き留めた。振り向くと、あゆなが小走りに駆けよってくるところだった。
「今日は、この後は?」
「和希とスタジオ」
「そう……」
会ってやってもいーかなって気になったと思っていーのかな?
振り向いた姿勢のまま、俺はあゆなに笑顔を向けた。
「仕事、終わったら連絡して。メシでも行こう」
二人で昼間っからずっとスタジオにこもりきっていた俺と和希は、俺にあゆなから連絡が来たのをきっかけにしてスタジオを出た。
美保の家の前でそれぞれの単車に跨る。
「んじゃ、あゆなちゃんによろしく」と和希がいなくなると、俺もあゆなと待ち合わせた新宿へ単車を向けた。
あゆなは、何か話してくれるだろうか。くれないかもしれない。だけど、とにかく、会ってくれるんだ。そう思うと、柄にもなく鼓動が速まった。
東口のロータリーの辺りは相変わらずの凄い混雑だ。単車を端に寄せてエンジンを切る。
あゆなの姿を探して、顔をあげた。
……と。
「お疲れさま」
「凄ぇ。目敏いなー」
単車に跨ったままでメットを外しながら笑うと、あゆなも白い歯を覗かせた。
「音で、わかるんだもの」
「音でぇ?」
「ホントだよ。『あ、啓一郎のバイクの音だなー』ってわかるんだもの」
結構な人込みで、車や単車だってひっきりなしだ。なのに、俺がつくと同時に俺の姿を見つけ出してくれるあゆなが、堪らなく愛しい存在に思えた。
あゆななら、どんな時でも俺の味方のような気がする。
「やだな。人前でべたべたするの、嫌いなんじゃないの?」