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【ZERO2】Against The Wind  作者: 市尾弘那
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第2話(2)

「そういうわけじゃないです、けど」

「ふうん?」

「や、彼女と喧嘩しちゃって。ちょっともめてて」

「喧嘩あっ?」

 はは、と元気なく微笑んで見せた武人の回答に、ちょっとだけ拍子抜けした。

 武人ともあろう者が、その程度の理由でこうも憔悴しているというのが解せない。クロス一豪胆な神経の持ち主のくせして。

 ……けど、本人がそう言ってるし。

 全てではなくても、側面では真実なのかも知れない。そう納得して、持っていたノック式ボールペンの芯をカチカチと出したり仕舞ったりしながら頷く。

「相当な喧嘩なんだ」

「はあ。人生かかっちゃってるって言うか」

「人生がかかってる喧嘩ってどんなんだよ?」

「うーん」

 苦笑して背中を壁に預けて座り込むと、武人は小さく欠伸をした。少し考えるような表情を見せると、微かに顔を横に振る。

「俺、ちょっと寝て良いですか?」

「そりゃ別に良いけどさ。寝るとテンション下がりまくるんじゃないの?」

 再度コード譜に視線を落としながら一応忠告すると、武人は床に足を投げ出して腕を組みながら答えた。

「そんなもん、とっくの昔に地の底です」

「あ、そ。じゃあどうぞ」

 短く答えて俺がハードディスクレコーダーを再生した時には、武人は既に目を閉じて眠り始めているようだった。よほど疲れているのかもしれない。寝不足かな……。

 考えても仕方がないので、しばらく俺も目を閉じてイメトレに専念した。それぞれの楽曲で、ヴォーカルに求められているものが何なのか。伝えたいことは何だっただろう。

 そんなことを考えながら、完全に意識が現実と乖離していた俺は、十三時を回った辺りでふと我に返った。

(一矢、まだ叩いてるのかな)

 コントロールルームと続いている扉は、うんともすんとも言わない。そちらをちらっと見遣って、煙草を咥えかけた俺は、煙草をパッケージにしまい直した。

 もし今日歌うのであれば、喉は痛めたくないしな。

 プロのレコーディングって、どのくらいのペースで進めるもんなんだろ。その日の状態とかアーティストの腕とかにもよるんだろうけど……。

 未練がましく箱を手の中で弄びながら、広田さんの顔を思い浮かべる。

 豹変って、ああいう現象を指すんだな。全く別人だったよ。今なら亮さんの言ってたことがわからなくもない。

 武人は、すっかり本気で寝入っているようだ。ヘッドフォンを外した耳に、微かな寝息が届いた。

「終わったぞ……」

 息も絶え絶えに一矢が入ってきたのは、その時だった。後ろから和希が苦笑しながら続いて入って来る。

「おお、お疲れ」

「俺、もう死んじゃいそう。腕なんかもう全然あがんない。箸の一本さえ持ちたくない」

 防音扉をきっちりと閉めて床にへたり込んだ一矢は、恨めしげな顔でそうぼやいた。

「詐欺だ詐欺。あーゆー言い方? ねえ、あーゆー言い方するわけ? ああ、俺、人間的に自信喪失しそう」

 床にそのままべたんと転がり込んで、一矢が虚ろな眼差しで天井を見上げながらぼやく。俺は手元のコード譜を揃えながら、和希に問い掛けた。

「おっけーは出たんだろ? どうだった?」

「俺は良いと思うよ。……って言うかさ、あの人、ちょっと凄いかも」

 ウチのドラムは人間的に自信喪失しそうらしいですが。そこまで追い詰めた彼はそんなに凄いんですか?

 一矢の恨みがましい視線をどこ吹く風と受け流し、和希はパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。足を組みながら、隅に転がったままの武人に目を向ける。

「寝てんの?」

「うん。まじ寝してるみたい」

 俺の答えに頷くと、和希は再びこっちを向いて話を戻した。

「いや、確かに厳しいんだけどね。あの人、凄く耳が良いんじゃないかなあ。勘もめちゃめちゃ良いと思う。俺が聴いてて『あれ? 今のちょっと違うんじゃない?』って音とか、絶対聞き逃さないし。俺が気がつかなかったようなところとかも、多分バンバン聴こえてんじゃないかなあ」

「ふうん」

 伊達にサウンドプロデューサーじゃないってわけね。

「で、広田さんにもっとあーしろこーしろ言われてさ、一矢、実際どんどん良くなってたもん。最初よりかなり良くなったと思うよ、俺は」

「本当?」

 床に転がったままの一矢が、低い位置から声を投げ掛ける。切れ長の瞳を細めて、和希は鷹揚に頷いた。

「本当。あの人についてれば、俺らどんどんうまくなるような気がする」

「ふうん」

「天性のサウンドプロデューサーって感じだね。……怖いのは、楽曲が『広田さんの』カラーになってっちゃわないかってとこだけど……それは、今の段階ではまだ何とも言えないわけで。言い方ってのは確かにあるけど、意図的なんじゃないかなって気もしたり……」

 意図的?

 俺が首を傾げているのに気がつかなかったわけじゃないだろうけど、和希は敢えて何も答えずに「きりが良いのでこのまま昼食にしてしまって構わないらしい」と続ける。十四時からベース録りだ。

「弁当とかとっても良いけどって言ってたけど、メニューもらって来る?」

「んじゃお願いしちゃお。買いに行くのも面倒臭ぇし」

「じゃあ頼んでくる」

 和希が防音扉を押し開けてコントロールルームに姿を消すと、一矢が体を起こして武人に近寄った。軽く揺さぶる。

「武人、メシー」

「うん……」

 薄く目を開けた武人は、ぼんやりとした顔で一矢を見上げた。

「ああ、一矢さん……どうしたんですか」

「じゃなくてメシだってば。今和希がメニューもらってくっから。あんた何食うのって話でしょ」

「あ、はい……」

 眠い目をこすりながら壁から身を起こす武人は、まだ誰がどう見ても不調そうだ。

 果たして今日中に自分の番が回ってくるのか、俺はふと不安になった。


          ◆ ◇ ◆


 予想通り、武人のベース録りは、かなり難航した。

 俺も和希も一矢も、入れ替わりでコントロールルームから武人の録りを覗いてみるが、どうにも居た堪れなくなってリハスタへ戻る。

 最初は、口調こそ冷たいもののそれほどのことは言っていなかった広田さんも、次第に選ぶ言葉がきつくなり、モニターに映る武人も苛立ちを募らせていくのが見ていてわかった。

「そこ、もたつかせるなっ! 何度そこで引っ掛かってるんだ? 少しは学習ってものを覚えたほうが良い」

 ひえええええ。

「打ち込みのベースだってもう少しニュアンスを出せる。そんなベースならいらない」

 もう少し言葉を選ぶとかさああああ……とは思うものの、とても口を挟める空気ではない。空気が肌に突き刺さるようにピリピリしたコントロールルームをそっと抜け出してリハスタに戻ると、和希が一人、床に座ってギターを抱えていた。

「うあー、空気中にハバネロの粉がばら撒かれてるみたい」

「どういう表現?」

「空気が痛い。……一矢は?」

 一矢がいない。

 防音扉のロックを後ろ手でがしっと掛けながら尋ねると、和希は弦に目線を落としながら口を開いた。

「さっきOpheriaオフェーリアの京子ちゃんだっけ? すらっとしたギターのコ。そのコが来て、ちょっと前に一緒に煙草買いに下に行った。話し込んでるんじゃない?」

 Opheriaというのは、同じ事務所の女の子バンドだ。

 一年ほど前にデビューしているらしいけど、なぜか最初の頃に比べてどんどん演奏が下手になっている印象がある。

 逆にヴォーカルだけはどんどん伸びていて、あらゆる意味でちぐはぐしている感じがするし、楽曲も目を引くものがない。メンバーも、一人一人はそれなりに綺麗なような気もするけど、全員揃ってると「良くいる感じ」と言う印象になってしまう。

 しかしながら、一矢はしっかり粉をかけていたと言うわけだな。さすがだよ。

「誰か新しく女の子引っ掛けてんじゃないの」

 呆れながらそう答えたところで、廊下側の防音扉が開いた。一矢が入って来る。

「おかえり。遅かったじゃん」

「あー……うん、まあ」

 ひどく歯切れの悪い答えを口にして、一矢は困惑したような顔でドアのそばに立ち竦んでいた。なぜか俺と和希の顔を、交互に窺うように見る。

「……入れば?」

 不審に思って尋ねると、一矢は困ったような顔で俺からも和希からも視線を逸らした。

「あのですねえ……お客さん、拾っちゃったんですけど」

「お客さん?」

 俺と和希が同時に尋ねると、一矢は複雑な表情のまま頷いて後ろを振り返った。誰かに呼び掛ける。

「入って良いよ。……うん。俺らだけだから」

 その言葉に応じてドアのところに姿を表した人物を見て、心臓が強い衝撃を受けたように跳ね上がった。痛みを伴う鼓動に、表情が凍りつく。

「由梨亜ちゃん」

 動揺を顔に出すまいとすると、無表情になってしまった。羽村由梨亜ちゃんが、ふわりと髪を揺らして頭を下げる。

「何で」

「あの……スタッフの方にお弁当でも届けてもらおうかなと思ったら、その……一矢さんが」

 下で遭遇してしまったらしい。

 俺に気遣って和希がストップをかけたのか、寄りを戻してからは、由梨亜ちゃんは一度だけスタジオに来たきりだった。こうして会うのは二週間以上ぶりだ。

「お邪魔します」

 可愛らしい声でそう告げると、頭を下げて中に入る。手に持ったバスケットをこちらに示した。

「あの、これ、差し入れ……」

「……俺、ちょっと電話」

 由梨亜ちゃんの言葉が終わるか終わらないかのところで、俺は顔を背けて立ち上がった。

 今、俺はどんな表情をしているだろう。

 見られたくない。まだ、忘れられてない。

 顔を背けたまま、由梨亜ちゃんの脇を擦り抜けてスタジオを出る。早鐘のように鳴る心臓が痛く、呼吸が乱れた。激しく動揺したまま、足早に階段を駆け下りる。

 ニ階から一階へ続く階段の踊り場まで来て、足を止めた。階段を下り掛けたまま、壁に肘をついて片手を額に押し付ける。

 大人げないのはわかっている。でも、まだ無理だ。たかだか1ヶ月やそこらで忘れられるようなら、あんなに悩んでない。まだ笑顔なんて向けられる自信がない。もう少し……もう少し、時間をくれよ……。

「かっこ悪ぃ」

 背後に気配を感じて、俺はそう呟いた。

「啓一郎」

 俺の後を追いかけて来たんだろう。和希の声が背後から聞こえる。片手で覆った両目をぎゅっと閉じたままで、俺は低く告げた。

「謝るなよ」

「……」

「お前に由梨亜ちゃんのことで謝られれば、余計傷つく」

 俺の言葉に、和希は言葉を失った。

 由梨亜ちゃんの彼氏の立場で今の俺に声をかけるな、と言外に告げたその言葉は、自分でも驚くほど硬かった。それが一層自己嫌悪に陥らせる。

 少しそのままお互い動けず、俺は気持ちを落ち着かせるよう精一杯の努力をしながら、微かに振り返った。背後に立つ和希に向けた笑顔は、多分自嘲的なものだっただろう。

「かっこ悪ぃな」

 和希は何も答えない。まあ、「そうだね」と言える神経を持つ奴もなかなかいないだろうけど。

「和希、頭来ねぇの?」

 俺の言葉の意図が読めないように、和希は困惑した視線を投げかけた。俺の口に皮肉な笑みが浮かぶ。

「俺、お前の彼女に横恋慕してるんだぜ。いーかげんにしろよとか、そういうこと思わないんだ?」

 俺の言葉に和希はゆっくりとかぶりをふる

「思わないよ。……もしそうだったとしても、だとしたら啓一郎が俺以上に、自分に対してそう思ってるんだろうと思う」

 穏やかに返す和希に、俺は言葉の接ぎ穂を失った。

 負け犬の遠吠えって奴か? 一層自己嫌悪に駆られながら、俺はまた深いため息を落とした。

 何で、そんなふうに大人でいられるんだろう。ホント、自分が嫌んなるよ。自分のこの苛立ちが、何より嫌だった。情けない。

「……わかってるよ、由梨亜ちゃんは何も悪くない」

 俺も、ちっとは大人になれよな。少なくとも俺は由梨亜ちゃんより年上で、自分が惚れてる相手に変な気遣いや心配をさせるようじゃ駄目だろう。それじゃあ本当に、彼女にとって俺の想いそのものが迷惑以外の何物でもなくなる。

「けど」

「悪くないんだ別に。気遣ってメシ持って来てくれただけ。中に入れたのは一矢だから、由梨亜ちゃんが押し入って来たわけでもない。何も悪くない。……戻るよ」

「戻るのか?」

 階段の途中に止まったままの和希の横を擦り抜けて、階段を上りながら頷いた。

「戻らなきゃ、ますます由梨亜ちゃんを傷つけるだけだ」

「啓一郎」

「悪かったよ。……ちょっと、動揺しただけ」

 彼女の恋を応援してあげたのは、俺自身なのに。

 和希と連れ立ってリハスタへ戻ると、由梨亜ちゃんとニ人で残されてしまった一矢が、所在なさそうにおにぎりに手を伸ばしていた。もぐもぐと口を動かしながら視線をこちらへ向ける。

「おかえり。うまいよこれ。食えば?」

「うん。ばたばたしてごめんね、由梨亜ちゃん。俺ももらって良い?」

 泣き出しそうな瞳を向けた由梨亜ちゃんに、努めて穏やかな笑顔を向けて尋ねる。彼女の顔を正面から見るのは、それだけで努力が必要だった。

 俺の言葉に、由梨亜ちゃんの顔が輝く。それを見て、やっぱりまだ愛しさがこみ上げた。

 だけど、由梨亜ちゃんが選んだのは和希だ。由梨亜ちゃんの想いの強さは良く知っている。諦めると決めてるんだ。いいかげん、感情の方も理解しろよな。

 由梨亜ちゃんのバスケットが置かれた長机の脇にパイプ椅子を引き寄せて、おにぎりに手を伸ばす。会話を探して、俺は由梨亜ちゃんに目を向けた。

「武人ってさ、学校での様子、どう?」

「え?」

 由梨亜ちゃんがきょとんと首を傾げる。

「ええと……別に、普通ですよ?」

「そう?」

「うん。この前の小テストも実力テストも、相変わらずトップだったし」

 あれだけの顔色でトップを保つとはさすがだ。

 俺なんか、受験勉強で詰め込んだ中身はどこへやら、高校入学を果たした瞬間から成績は底辺を彷徨いまくっていた。羨ましい。……そうじゃない。

 あっさり思考の逸れた自分に呆れつつ、手にしたおにぎりの最後のかけらを口に放り込んだ時、由梨亜ちゃんが小首を傾げたまま続けた。

「あ、でも」

「ふん?」

「昨日、かな。ちょっと元気がなかったみたいだけど」

「何で?」

 プラスティックの小さなフォークにから揚げを突き刺した和希が、隣に座る由梨亜ちゃんに尋ねる。

「それは聞いてないけど」

「何で聞かないのさ」

 咎めるように言った和希に、由梨亜ちゃんがわずかに甘えるように口を尖らせた。

「だって……学校ではあんまり武人くんと話さないもの」

 そう言えば、美冴ちゃんもそんなこと言ってたな。

「そうなの? 何で?」

 煙草に火をつけて灰皿を引き寄せながら、一矢が問う。由梨亜ちゃんは、自分の前に置かれた缶のお茶に手を伸ばしながら瞬きをした。

「武人くんって、モテるんですよ結構。学年首席で目立つし、年上の人と一緒にいること多いせいか大人びて見えるし。でもちょっと近付きにくいみたいで、あんまり女の子と話したりしないんですよね。でも、わたしや美冴はこういう繋がりで時々話したりするでしょ? そうすると結構目立っちゃって。だからやたらと話さないようにしてるんです」

 ……年上の人。この場合、やっぱりバンドを一緒にやってる俺らやその周辺の人間だろーか。年だけ上で武人の方が大人っぽい部分がある辺り、果たしてそのせいかどうかは疑問だ。

 由梨亜ちゃんが説明を終えてお茶を一口飲んだところで、コントロールルームからのドアが開いた。げっそりした顔の武人が顔を覗かせる。

「あれ? 羽村……どうしたの」

「お疲れ。差し入れ持ってきてくれたの。終わった?」

 ほわほわと口から煙を吐き出しながら、一矢が尋ねる。武人は力なく首を横に振った。

「全然駄目です」

「あ、そう……。えーと、食ったら? うまいよ」

 一矢の言葉に武人はバスケットをちらりと一瞥し、やはり首を横に振った。

「ごめん、羽村。ちょっと俺、今は食えそうにないや」

「あ、ううん」

 見るからに顔色の悪い武人に少しぎょっとしたように由梨亜ちゃんが応じると、武人の背後から広田さんが姿を現した。先ほどまでの別人のような厳しい表情は完全に姿を消し、いつも通りのおっとりとした表情を浮かべている。

「お疲れさん」

 新たなおにぎりに手を伸ばしかけていた一矢が、びくりと肩を震わせて動きを止めた。ドラム録りですっかり広田さんに対する印象が恐怖の対象に変貌したらしい。

「お疲れ様です」

「うん? お客さん?」

「あ、勝手にお邪魔して、すみません」

「いやいや。誰かの彼女なのかな」

 俺と和希の確執を知らない広田さんは、あっさりとそんなふうに言った。由梨亜ちゃんが咄嗟に言葉に詰まり、「ええと、あのう……」ともごもごと答える。それから慌ててバスケットを示した。

「あの、良かったら召し上がって下さい」

「ありがとう。おいしそうだね」

 言って広田さんはおにぎりをひとつ取り上げると、その場のメンバーを見回した。

「今日はおしまいにしよう。帰って良いよ。ちょっとベースの音がね、調子良くないから明日にしようかと思うんだ。仮オケはあるから上モノやっちゃっても良いんだけど、どうも僕は土台をしっかり作ってからじゃないと嫌なタチでね」

 それから、恐る恐る手にしたおにぎりを口に運んでいた一矢に視線を落とす。

「もしドラムのオーバーダビングが必要だったらやっちゃうけど」

「えっっっ」

「僕はあれで良いと思うけど、どーーーーーうしてもシンバルの逆廻しを試しに上からかけたいとか言うんだったら、僕も少しは考えなくはないけど……」

 広田さんの言葉に一矢は勢い良く首を横に振った。

「ないです。全っ然ないです」

「そう? 意見が合って良かった。じゃあ明日はベース録りから始めるから。今日と同じ十時集合で良いかな。とりあえずみんなに来て欲しいんだけど、武人くん以外は多少遅刻しても別に構わないよ」

 そこまで一気に言うと、広田さんはドアに向かって足を出した。

「じゃあ僕は出かけるところがあるからお先に。おにぎり、ごちそうさま。お疲れ、また明日」

 穏やかな笑顔を浮かべてスタジオを出て行く。その背中に口々に挨拶を投げかけると、続いて武人が荷物を持って立ち上がった。

「すみません。俺も帰ります」

「ああ、お疲れ。大丈夫か?」

「ええ。何か、迷惑かけてすみません」

 覇気のない声で低く言うと、武人もスタジオを出て行った。おにぎりの一欠けらを口に放り込んで、一矢が慌てて立ち上がる。

「俺、武人送って来るわ」

「え? そうか?」

「うん。んじゃお疲れ」

 ジャケットだけ引っつかんで、一矢もスタジオを飛び出して行った。何となくその背中を見送りながら煙草に火をつけると、コントロールルームの方のドアが開いた。

「あ、お疲れ様です」

 顔を覗かせたのは、アシスタントエンジニアの辻川さんだ。人の良さそうな顔に、目だけがやや鋭い。笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げると、癖のない脱色した茶色い髪が額から滑り落ちる。

「お疲れ様です」

「楽器、まんまで良いですか? 鍵はかけますけど」

 俺と和希は顔を見合わせて頷いた。

「良いです。もうメンバーもニ人帰っちゃったし」

「わかりました」

 頷いていったん引っ込みかけた辻川さんは、何か思い出したように足を止めて、いたずらっぽい表情でこちらを見た。小さく微笑む。

「広田さんとレコーディングするのは初めてでしたっけ」

「はい」

「びっくりしたでしょう」

 豹変振りを言っているのだと気付き、苦笑して頷いた。

「かなり」

「普段がどっちかってーとほわほわしてますからね。なのに、スタジオにミュージシャン放り込むと鬼になる」

 辻川さんがそう言うってことは、いつもそうってことなんだろーか。ああ、嫌だ嫌だ。明日は我が身か。

「辻川さんは、広田さんとはよく一緒に仕事を?」

 既に温くなったお茶の缶を手元に引き寄せながら和希が問うと、辻川さんはポケットから取り出した煙草を咥えながら眉を微かに顰めた。

「広田さんがどれだけこういう仕事抱えてんのかわかんないから、良くって言って良いのかわかんないけど」

 火をつけた煙草を吸い、煙を吐き出しながら言葉を選ぶようにして答える。

「俺が一緒させてもらってんのは、CRYだけなんですよ」

「辻川さん、CRYの音、録ってるんですか?」

 同じ事務所の、最大の人気バンドの名前を挙げられて、興味深そうに和希が身を乗り出した。辻川さんは何気ない様子でうん、と頷くと身を乗り出して灰皿に灰を落とす。

「アシスタントですけどね。今日のスタッフはほとんどそうですよ。ディレクターの富岡さんって人だけは、俺も今日初めて会ったんですけど」

「へえ。CRYはディレクターは別の人?」

「いや、CRYはディレクターつけないんだ。桜沢さん自身がディレクターって言うか……どうせ連れて来ても喧嘩になっちゃうんですよね。ソリティアの方もそれわかってて。担当の三科さんと、あともう一人男性の人が来ますけど、それ以外は駄目。もめるだけで」

「へ、へええ?」

「我の強い人だから。桜沢さんも。音楽なかったら、すっごく迷惑な人ですよ」

 そう言って辻川さんは、おかしそうに笑った。言ってる内容の割には楽しそうだ。辻川さんはCRYのヴォーカルの桜沢さんのことが好きなんだろう。

「ま、ウチのスタッフはみんな桜沢さんもCRYも好きですけどね。やっぱ上手い人の録音は俺には勉強にもなるし」

「CRYの録音ってどんな感じですか」

 一口飲んだお茶をテーブルに戻しながら、和希が問う。灰皿にまだ長さを残した煙草を押し付けて、辻川さんは腕を組んだ。

「うーん。どんなって言うと?」

「大変ですか?」

「大変ですねえ。正直怖いですよ。広田さんもあんなもんじゃないし、桜沢さんは言われて黙ってる人じゃないから、完全な喧嘩ですよね。険悪な空気が当たり前で。見てるこっちがはらはらしちゃいますよ。でも良いものが出来上がるんだなあ……。時間はすっごいかかりますけどね」

 辻川さんはそう苦笑して、後片付けして来ます、とコントロールルームの方へ戻って行った。

 その背中を見送って、和希と顔を見合わせる。和希が、力が抜けたようにすとんと椅子の背もたれに背中を預けた。

「凄ぇプレッシャー」

「はは。そう言うなよ。そんなん言ったら、桜沢さん録ってる人に同じパートを録られる俺の身にもなってくれ」

 どんだけ滅茶苦茶な噂ばかりでも、CRYのヴォーカルは天才的だ。方向性が好きだとか嫌いだとかってのはあるにせよ、その才能を否定する言葉を、俺は未だかつて聞いたことがない。

 その音を当たり前のものとして録っている人たちに、明日俺は俺の歌を録ってもらう。俺は、もちろん自分のヴォーカルに自信があるからこそ頑張っていくつもりではあるが、そうは言ってもプレッシャーを感じないほど図太くもない。

 やりたいことは、たった一つ。

 今の俺たちにとって、最高のものを作り上げたい。

 今録っているこの一枚が、俺たちの名刺代わりになる。











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