第13話(5)
落ち着くのか?
「前にさあ」
あゆなと由梨亜ちゃんが笑いながらこちらに戻ってくるのをまだ遠くに見ながら、不意に和希が、少しだけ声のトーンを落として壁に背中を預けた。由梨亜ちゃんが幸せそうな顔をして手を振る。苦笑するようにそれに小さく手を振り返しながらも、和希は押さえた声音で続けた。
「啓一郎が言ってたこと、しみじみ思い出したりして」
「俺が言ってたこと?」
「うん。……『音楽がいろんなことを伝える』って。『言葉ではうまく伝えられない大事なところをメロディが伝える』って」
「ああ」
言ったかもしれない、そんなこと。
「映画見ながら、自分たちの音楽聴いて。人の感性に訴えるものってものを考えて」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……もしもーし」
途中で言葉を途切れさせたまま黙り込んだ和希にこけそうになる。
「投げっ放しかい!」
突っ込む俺に、そのまま自分の考えに沈み込んだみたいな表情をしていた和希は、我に返ったように微かな笑いを浮かべて顔を上げた。
「あ、ごめん。……そう。だからさ」
「うん」
……何だ?
まだ考え込んでいるみたいに、火のついた煙草の先をぼんやりと見つめる和希に、内心そっと首を傾げた。
「言葉ではうまく人に伝える自信がないことって、たくさんあるじゃん」
「うん。まあ」
「音楽で伝えることは、本当に可能だと思う?」
「……?」
何を意味しているのかが良くわからない。わからないけど、俺は頷いた。
「うん。思う」
「……」
「全部伝えられるものが作れるかはわからない。だけど、言葉で伝えきれないものは補える。逆に音楽だけで伝えきれない何かは、言葉が補える。……そう思う」
「……」
「伝わるものが意図しているものかどうかは、俺にはわからない。だけどきっとそれは言葉でも文章でも同じで、受け取った人がどう感じるかまではきっと永遠にわからない。……でも頭じゃなくて感覚で伝えるひとつの手段にはなってると思う」
奏でる音からこぼれる想い。
耳で聞いて、肌で感じて、理屈じゃないところで伝わりわかり合える何かが生まれると――『感動』を与えるところに、感性を揺り動かす何かが存在すると、そう信じてるから続けてる。……続けたいと、思ってる。
「だってさ」
見遣った視線の先で、あゆなが俺に向かってあかんべをする。……和希に小さく手を振った由梨亜ちゃんとこの違い。
それに同じ仕草で返してやりながら、煙草を灰皿に放り込んだ。あゆながこれみよがしに、手に持ったサンドイッチの袋を開けている。
「人の感情を表現出来ない音楽なんて、音楽じゃねーもん」
「うん……まあね」
「いろんな人がいて、いろんな想いや感情はあるし、それはそれぞれだけど……」
「……」
「人を本当に動かすのは金でも理屈でもないんだと思う。……思いたい」
かつて『音楽で世界は変えられないけれど、人の心を変えることは出来る』と言った海外の大物アーティストがいる。俺はその言葉に感動したし、共感するし、信じたいとも思う。
それはイコール……音楽が人の本当の想いを伝えるからに他ならないと思う。
「うん。……ありがとう」
少しの間、また考え込むように黙っていた和希は、やがて顔を上げて微笑んだ。まだ少し陰りのある笑みではあるけれど。
「お待たせ」
「参考になった」
「何のだよ。……あーゆーな。何当たり前のようにサンドイッチ食ってんだよっ」
「だってお腹すいたんだもの」
「俺も減ってんのっだから頼んだのっ」
油断も隙もありゃしない。
ほとんど残骸となりかけた最後のサンドイッチをあゆなの手から取り上げて口に放り込む。
「はい、和希さん」
「さんきゅ。……由梨亜、これは微糖のコーヒーとは言わないんじゃないだろーか」
「売り切れてたんだもの。和希さん、こういう変なの、好きでしょ?」
渡された『季節限定苺シェイク』と言う何やら怪しげな缶をしみじみと見つめて和希がため息をついた。
「やばかったら由梨亜のお茶と交換」
「え、わたしそんなの飲みたくない……」
「……自分で買ったものは責任とりましょう」
言いながらも缶のプルリングを引く和希に、由梨亜ちゃんがくすくす笑いながらこっちに向き直った。
「和希さんたらね、映画の間寝ちゃってたのに、挿入歌流れた瞬間がばって起き上がったんですよ。その前の話なんか何にもわかってないのに、ぽかーんって口開けて、画面見て固まっちゃって」
「あ、そうそう。これもそーだった。朦朧としてたくせに、立ち上がりそうな勢いだったもの、その時だけ」
「疲れてんのっだから寝ちゃったのっコレゆーなっ!」
言い返しながら、あゆなが買ってきてくれたコーヒーに口をつける。真面目に食べるまでサンドイッチで繋ごうと思ってたのに、大半はあゆなの胃袋に収まってしまった。飲み物でごまかすしかない。
「……っと。あんまり遅くなってもなんだし、そろそろ行こうか」
「うん」
「苺シェイク、どう?」
「飲み終わった」
「はっ?」
「意外に飲めるもんだったよ。……ゴミ捨ててくるよ。啓一郎、それも捨ててくる」
「あ、さんきゅ」
サンドイッチのゴミを受け取ってゴミ箱に歩いて行く和希の背中を見送りながら、コーヒーを飲み干す。今し方目を細めて笑っていた由梨亜ちゃんと、不意に目が合った。
「啓一郎さん。あのね、わたし、啓一郎さんに言おうと思ってたことがあって」
「はい?」
「謝らなきゃって思ってて。……わたし、泣き言言ってばっかりだった。でもそういうの、和希さんにも失礼だなって……啓一郎さんにあの時言われたこと考えて、思って」
「ああ、いや」
「わたし、強くなることに決めました」
目を丸くしている俺の隣で、あゆなも一緒になって目を丸くしている。わけがわからないだろうあゆなに向かって、由梨亜ちゃんが言葉を補足した。
「不安になって、わたし、スタジオに押しかけちゃったんです。一度」
「ああ。美保さんとこの?」
「はい」
あゆなの言葉に頷いてから、由梨亜ちゃんがまた俺に向かって言葉を続けた。
「もう、泣かないことにしました。決めて出来るかはわからないけど、誰に何言われても、寂しくても、わたしが和希さんのそばにいたいから、強くなることにしました」
前にスタジオで会った時に、半分自己保身の為に突き放すような言い方をしたことが蘇った。言葉のない俺の目に映る由梨亜ちゃんの瞳が、毅然とした光を浮かべている。
「何があっても。……もう、甘えたこと言ったりしません。啓一郎さんに泣き言聞いてもらってばかりだったけど、『誰もかなわないような関係』、築いてみせますから」
「何してんの。行かないの?」
出入り口付近のゴミ箱から和希がこっちを振り返って声を掛ける。
「はーい」
由梨亜ちゃんが身を翻して、和希の方へと小走りに向かった。笑顔で和希に何か声をかけている由梨亜ちゃんに、和希もまた優しい笑顔で応えるのが見える。
「……帰ろ」
「……うん」
うまくいってるんだな。あのニ人。
前よりも、ずっと仲良く見える。
振り返ってあゆなに手を差し出すと、その手を繋ぎながら頷いたあゆなの表情は、どこか……複雑なものが滲んでいるように見えた。
「んじゃまた明日。お疲れ」
「おう。お疲れー」
まだその辺に寄っていくと言う和希たちと別れて、あゆなと手を繋いだままゆっくりと最寄り駅の表参道駅に向かう。
「どーする? このまま俺ん家戻る? その辺で食ってってもいーけど」
「あ、うん……そうね……」
「渋谷駅まで歩いちゃおうか。乗り換えめんどくさいし」
表参道から渋谷なら大した距離じゃない。
渋谷は汚い街だなーと思うのに、そこから歩いて行き来出来るこの青山って場所は、何で急に歩いている人たちがお洒落な人たちに変わるんだろう。不思議だ。
歩く道すがら、片手に持ったままだった空き缶を目に付いたゴミ箱に捨てる。何食いたいかなあなどと星のない夜空を仰ぎながら考えていると、あゆなが繋いだ手をくいっと軽く引っ張った。
「ん?」
「和希と由梨亜ちゃん、うまくいってるのね」
「ああ……うん」
「わたし、少し意外だったな」
「意外? 何が?」
「由梨亜ちゃん。思ってたより逞しいコなのね」
「え?」
宮益坂をゆっくりと下って行く。この辺りの店はこの時間には閉まっているし、ネオンサインだとかが異様にあるわけでもないから、この辺りはぽつぽつとある街灯と車のライトだけで、少しだけ暗い。周囲もわりと静か。
「どゆこと?」
「もっと弱いコなのかなって、勝手に思ってた」
あゆなの言いたいことがまだ読めなくて、黙って続きを待つ。
「もっと……そうだなあ、例えば和希のファンに何かされたらすぐ泣いちゃいそうなね。泣きながら和希に訴えるんじゃないかって感じ」
「ふうん? そうは見えなくなった?」
俺にはよーわからんけど。
あゆなの、磨いた爪のつるつるした感触が何か気持ち良くて繋いだ指先でいじりながら首を傾げる。あゆなは少し考えてから「うん」と頷いた。
「和希のそばにいるんだって、それだけは信念みたいなものがあるような気はしたわ。そのことに関してだけは、折れないで負けない頑固さみたいなものが意外にあるような」
「ああ……」
前から由梨亜ちゃんって、とにかく和希一本だったもんな。和希しか視界に入っていない……それだけは一本筋が通っているみたいに。
俺は彼女に振られてるけど、それは俺だから駄目なのかもしれないけど、何かそうじゃないような気がする。
『和希じゃないから、駄目』――そんな感じ。
……そうじゃなかったら、それはそれで結構救われないが。
「うまく言えないんだけどね」
そこまで言って、あゆなは曖昧に笑った。
「わたしなんかほら、か弱いし」
「どの口が言うんだよ、そんなでたらめ」
「しっつれーね……」
「あゆなは強いでしょ」
強気に見えるあゆなが、意外なほど弱いことを……少なくとも俺に対しては意外なほど弱気なところがあることも、知っている。口には出さないで俺の気持ちや生活を自分の気持ちより先に大切にしようとしてくれていることも。
知っては、いるけれど。
「強気でいてよ」
「え?」
「由梨亜ちゃんがそんなふうに、思いがけず強く見えるんだったら。あゆなもそんなふうに強い姿勢でいて。……何があってもはね飛ばして一緒にいようってくらい」
由梨亜ちゃんを前にして、由梨亜ちゃんに遠慮するんじゃなくて、彼女面して横にいるくらい。
「『誰もかなわないような関係』って……あれ、あんたが言ったの?」
「言った」
「つくづく自虐的ねー……」
人をマゾみたいに言うな。
「そうであって欲しいんだよ」
「そう?」
「うん」
少しずつ渋谷駅が近づいて来て、上った歩道橋の上は人が急に増えたような感じがする。
でもハチ公口とかと違ってこっち側、南口の方はやっぱり全体的に暗い感じだ。
「歯がゆくて。……俺は和希を見てるから、和希が由梨亜ちゃんをめちゃめちゃ大切にしてるのを知ってるし、本当に凄ぇ好きなんだろうなあって思ったりもしたし……俺は、知ってるんだ」
「うん」
「なのにそれが、由梨亜ちゃんには伝わってない。それを見たら、和希が可哀想だった。俺は。……だから、揺れたりしないで信じてやれよって言っちゃった」
「……そう」
俺の言葉にあゆなは考えるように髪をさらっと揺らして口を開く。
「でも、由梨亜ちゃんが不安になるのはしょーがないわよ」
「何で?」
「だって……由梨亜ちゃんて知ってるんでしょ? その、なつみさんのこととか」
「うん」
階段を下りてすぐにある南口、東横線の辺りは真っ直ぐ歩けないくらいの凄い混雑だ。はぐれないよう、繋いだ手に力を込める。
「それに……和希、あんまり口にしないんじゃないの? 好きだよとか何だとかって」
「そりゃそうだろうとは思うけどさ。でも、なつみのことに関しては不安にはなるだろうし嫌だろうとは思うけど、何かあるならとっくにどうにかなってるよ。今まで双方フリーで何も起こらなかったものを、彼女が出来た今になって何かあるわけないだろ」
「そんなの、由梨亜ちゃんにしてみたらわかんないわよ。今までタイミングが悪かっただけかもしれないし、逆に彼女が出来ちゃったことでなつみさんが捨て身の行動にでたりしたらどうなるかなんかわかんないじゃない」
う。
実際なつみが『捨て身』と言える行動に走ったことを知ってる俺は、つい言葉に詰まった。
「でも気持ち伝えるったって、そう四六時中言ってなんからんないだろ。大体好きだからつきあってるんであって、一度や二度は和希だって口に出して伝えてるだろうし、それで十分じゃん」
「不十分だから不安になるのよ」
何だかいつの間にか『和希と由梨亜ちゃん』双方の立場に立っての援護合戦になっている。
「いつだって何度だって言って欲しいと思うわよ。だって人の気持ちなんて変わるものだし、わからないんだから」
「わからないものだから信じて欲しいんだろ。彼女なんて、一番の味方であって欲しいんだから。わからないものを信じることが難しくて、誰にでもしてもらえることじゃないからこそ、口に出さなくたってわかって欲しいよ」
「そんなの、わがままよ」
「……うん。わがまま」
言いながら気がついた。
和希と由梨亜ちゃんの援護をしてるわけじゃなくて……俺とあゆながそれぞれの立場を借りて自分のことを重ねてる。
改札間近、人の邪魔にならない柱のところでふと足を止める。つられてあゆなも足を止めて俺を見た。
「わがままだってわかってるけど、でも信じて欲しいじゃん」
「……誰の話?」
「……和希の話だろ」
「……」
「繰り返して口に出さなくたって信じられる――それが本当に『信じる』ことのような気がするし、自分が大事に思うなら尚更、そういう関係を築きたいよ」
「……うん」
「急には、無理でも。ゆっくりでも」
「……」
「喧嘩なんかいくらしたっていい。言いたいこと言えないでためこんでたら、限界が来た時に修復不能な亀裂を作ることになる。小さな喧嘩なら繰り返しても、そうやって信じられる関係を作りたいよ」
「……誰の話?」
「……和希」
あくまで言い張る俺にあゆなが吹き出す。俺も笑いながら、手を繋ぎだしてまた、歩きだした。
由梨亜ちゃんが不安に押し潰されそうになってた姿が、時々不安そうに見えるあゆなに重なる。例え言葉を尽くしたって人の気持ちや本音なんか伝えきれないのに、言葉を尽くすことさえなかなか出来ない。
だから、これは俺のわがまま。
だけど、わかって欲しい――
「何食いたい?」
「おいしーもの」
「だからそれじゃ大雑把過ぎるっつーの」
――夢を叶えたその時も、あゆなにこうして隣で笑っていて欲しいと、思ってる。