第13話(1)
俺は、自分自身にヴォーカルとしての資質はあると思っているし、これまでだって別に下手くそだったつもりはない。
そうじゃなかったらヴォーカルなんてやってない。
だけど、あの時LUNATIC SHELTERに感じた敗北感……あれは一体何だったんだろう? いや、どうすればそれを克服出来るんだろう。
あいつに負けたくないと言ったって、あいつのようになりたいわけじゃない。
タイプだって全然違う。
だけど、負けたと感じたその感覚は、何なんだろう。
武人と待ち合わせた喫茶店で、パラパラと本のページをめくりながら、LUNATIC SHELTERのヴォーカルの顔を思い出す。あの時あいつ、確かに俺を見て笑った。……ような気がした。気のせいかもしれないけど。
「はよございまーす。……啓一郎さん、新しい呪いですか?」
遅れて到着した武人が、テーブルに頬杖をついて本を眺める俺に、おもむろにそうのたまった。
「……どういう意味かな、方宮くん」
「何か新しい試みしてるから。天気でも崩そうとしてるのかと思って」
これで天気を操れると言うのなら、俺は世界史上に残る偉大な魔術師と言えるだろう。……否。
「俺が本を読んでると変だとでも?」
「変です」
きっぱり言いながらカップの乗ったトレイをテーブルに置くと、武人は上着を脱いで向かいの席に腰を下ろした。
「だって啓一郎さんが本読んでる姿なんて、知り合ってから初めて見ますよ俺。教科書すら触ったことないでしょ?」
「んなわけあるか。まあ、本を手に取るのが数年単位で久しぶりなのは否定しない」
中学の読書感想文書けって言われた時以来じゃなかろうか、教科書を除けば。
「何だって本なんか持ち出したんです、唐突に」
「歌詞書いてんの俺だし、語彙を広げようかと思って」
「へえ。いーじゃないですか。……『世界のタブー』? 何かシュールなの読んでますね」
「姉貴の部屋に残されてたのを借りてきた」
「どうせならちゃんと参考になりそうなものを読みましょうよ。コレ読んでどんな言葉を取り入れようって言うんです」
それについては俺も謎。
「何時からでしたっけ」
ブラックのままコーヒーを口に運んだ武人が「あち」と微かに舌を出す。手にしていた本を閉じて煙草のパッケージに手を伸ばしながら、俺は腕時計を覗き込んだ。
「十八時開場、十九時開演だったかな、確か」
「LINK Rは何番目?」
「トリって聞いてる」
今日武人と待ち合わせていたのは半遊び、半仕事。先日『バンドナイト』で知り合ったLINL Rからライブの招待が届いたので、付き合いもあるから行っておこうと思って。
「今日和希さんと一矢さんが収録してる音楽配信サイトの特集って、いつからスタートになるんでしたっけ」
「来月の頭。俺も『バンドナイト』のコメント再録がなけりゃ行かされるトコだったよ。危ねー」
「行きたくなかったんですか」
「ってわけじゃないけど、LINK Rのライブに行けなくなるじゃん。行っときたいもん」
「いーなあ。俺もライブがやりたいなあ」
コーヒーの入ったカップの縁を指先でなぞりながら武人が呟く。
「いーじゃん。今週からまた嫌と言うほど出来るよ」
煙草をくわえながら言った俺の言葉に、武人は深いため息をついた。
このところ東京居座りでさぼっていた地方遠征が、また再開されるんである。
それも今度は二週間出ずっぱり。宿泊先は、日によっては車内になりそうだ。
車の中で寝泊りすると、疲れが取れなくて翌朝体中が痛い。そんな中でけろっとしてるのは和希だけ。
今回は、一日のうちでとにかく何本も場所変えて路上をやることになる。本当は何曜日のこの時間はここ、とか決めて定期的に出来ればベストなんだけど、他の仕事との兼ね合いからそれはやっぱり無理だし。
で、地方は地方でそんな感じで、都内での動きとしては明日からゲネプロが開始されることになっていた。
ゲネプロは要は……ま、リハなんだけど。ただの練習をリハって言うミュージシャンも少なくはないし、何か特定のステージに向けてのリハをゲネプロと言ったりするわけだが。
何のゲネプロかと言えば、五月頭に行われるイベント『MUSIC CITY』に向けてのゲネプロだ。俺らにしては単独では到底出来ない規模のライブになるし、見てもらえる良い機会になるし、これはぜひ頑張らなきゃなんない。
「嫌ってほどったって、路上じゃないですかあ」
「路上でも通行人全て持ち帰る気で頑張りましょう」
「うー……」
「いーじゃん。来週末……土曜だっけ? ハコライブのイベント」
「ああ。仙台」
「いー感じだったら夏のフェス呼んでもらえるかもよ」
「え? あのコヤ主催?」
「らしいよ」
「ふうん。そう言やLINK Rって何気に関西の方で人気凄いみたいですね」
「そうなの?」
「うん。隣のクラスの人が知ってた。関西のアマチュアバンドの追っかけやってる女の子で、あっち良く行くらしーんですよ」
「へえー。わざわざ行くんだっ? 凄ぇなー」
「そう。そっちで良く聞く名前だって言ってました」
武人のコーヒーが空になるまで、だらだらしゃべる。十八時を半ば過ぎたところで、せっかくだから他のバンドも見ておきたいし、ライブ会場に移動することにした。持ってた単行本をポケットに押し込みながら店を出たところで、携帯が鳴る。
「お。招待主。……もしもーし」
LINK Rの桜木だ。通話ボタンをオンにすると、耳元でざわざわした騒音が聞こえた。
「お。誰だお前」
電話してきたのはおめーだろが。
「あんたこそ誰にかけてんのよ」
思わず目を細めて言ってやると、桜木はけらけらと笑った。テンション高ぇなあ。
「今向かってるとこだろ? あ、それとももう会場かなあ」
「は? 何の話?」
話しながら横断歩道で立ち止まる。会場のすぐ傍の店にいたから、目的地は本当にもうすぐそこだ。ここからもう見える。表参道駅から徒歩十分弱の場所にある、わりとお洒落なライブスペース。
「俺らの楽しい楽しいライブだあーっ! バカおまえ、忘れてるとか言わさないぞっ」
おーおー、本気で焦ってる。つい噴き出しながら、青に変わった信号を渡り始めた。
「嘘だよ。もうすぐ。あと一分でつく。ウチのベース連れて来てるから」
「おお。焦らせるなよ」
「桜木、今どこいるの? 時間あれば紹介するけど」
「女の子をか?」
だからウチのベーシストをだよっ。
「男だオトコっ!」
なーんだ男かあ、と笑う声が少し揺れた。階段でも上がってる? んだろうか。
「今出入り口向かうわ。まあ女の子に囲まれて俺が動けないかもしれないから、かきわけてくれたまい」
「……はいはい」
通話を切って携帯をしまうと、武人が小首を傾げた。
「LINK Rですか?」
「そう。ベースヴォーカルの桜木くん。ウチのバンドにちょっといないキャラ」
「へえ?」
言いながら近づいてきた目的地を見遣ると、桜木の言葉じゃないがライブスペース『LOTUS』の扉の前には結構人だかりが出来ていた。そこそこ広いキャパを持つハコだから、スリーマンでも一杯になれば結構凄いと思う。
当たり前だがこの場合、ワンマンで渋公だの武道館だの、果てはドームだのをやるような売れ売れアーティストは念頭から外して欲しい。論外。比較対象はあくまで俺らレベルのアーティスト。
人が出入り口の辺りにたまっているので、どうしたもんかととりあえず取り出したチケットで軽く顎をひっぱたきながら悩む。汚い字で事務所宛に送りつけられて来たものだ。
「どーしよっか」
「どうって?」
「何か混んでるし。せっかくだから最初から見たいよね……」
「いーんじゃないですか? 強行突破しちゃえば。別にこれ、入る為に並んでるわけじゃないんでしょ?」
「ん。単にたまってるだけだと思う」
けど、女の子の壁と言うのはかきわけて入りにくい、何となく。
……と思っていると、逆に入り口の中から桜木が人をかきわけて出てきた。女の子たちが群がる。……おお。本当だ。
「よーう。橋谷ぁ。本当に来てくれたのかあ」
俺たちの姿を見つけて「はいはい、どーもね、どーもね、後でゆっくりね。あいつらさばいてくるから」などと言いながら人をかきわけてきた桜木の姿につい笑った。俺たちはこれからさばかれるらしい。
「本当にも何も、来なかったら強制連行の勢いだったくせに」
「おう。まあなっ。……いんてりじぇんすなぼっちゃん連れてんなあ」
俺の隣に立つ武人の顔を見下ろして桜木は目を丸くした。『いんてりじぇんす』と頭の悪そうな発音で評された武人は、複雑な表情で頭を軽く下げている。
「は、はあ」
「これね、ウチのベース。武人」
紹介しながら、いやに桜木がご機嫌なことに気がつく。ライブ前でテンションが高いってのもあるだろうけど、それだけじゃなくて『ご機嫌』って感じ。どうしたんだ?
「いやに機嫌良いね」
「んー? わかるかー?」
にやにやと顎をかきながら俺を見下ろす桜木に、首を傾げる。まあ別に俺はそんなに深い付き合いとか親しいとかじゃないから良くわから……。
「いやあー、今日がラブアテンションプリーズになると良いなあ、ハニー」
……日本語しゃべれよ。そんな言葉が通じる国は世界中のどこを探しても存在しない。
「何」
問い返しかけて顔を上げると、桜木の視線がふとそれた。途端、でれっとした顔になった。
「どーもー」
つられて振り返る。……って、あれえ?
「茜ちゃん」
「あ、こんにちわ。啓一郎くんも来てたんだ」
「うん。茜ちゃんも脅迫されたの?」
「バカモノ! 脅迫とは何事か! ジェントルメンにインヴァイト申し上げたんですよねえー」
……うん。わかったから日本語お願い。
頭痛を堪えながら、でれでれの桜木と華やかな茜ちゃんを見比べる。現れただけで空気が華やぐって凄いと思う。
カジュアルな黒の七分丈パンツに複数のチェーンベルトを組み合わせ、デザインTシャツとシャツワンピをさらっと身につけているが、何気にブランド品。ヒールの高い上品なサンダルと、さりげなくつけたアンクレット。外したサングラスもまた高級海外ブランド……さすが現役モデル。カジュアルでもお洒落。
「脅迫? 橋谷くんは脅迫されたんだ」
長い睫毛を伏せて、くすくすと笑う。小首を傾げると、サイドに緩くひとつにまとめた髪がふわふわと揺れた。
「お忙しい中すみませんね、こんな小汚いところに来てもらって」
鼻の下を伸ばしながら頭をかきかき、歩いてきた茜ちゃんに頭を下げる桜木に、武人がくいくいと俺を引っ張った。
「誰です?」
「あー、こないだのイベントで司会やったモデルのコ」
「ああ」
短く納得して武人がそれきり黙る。桜木は俺たちなんかそっちのけ、茜ちゃんに完全に向き直ってしきりと礼を述べていた。何てわかりやすい奴だ。
「……中、行こうか」
もう用済みらしいし。
武人に小さく言う声が聞こえたのか、やや腰が引け気味に桜木の猛攻もとい挨拶を受け流していた茜ちゃんが、こちらの言葉に食いついた。
「あ、わたしも一緒にいて良い?」
「ああ、うん。良いよ」
「そう。こういうとこ、来たことがあまりないから良くわからなくて」
……由梨亜ちゃんも最初に会った時、そんなこと言ってたな。そう言えば。
それほど前の記憶でもないけれど、軽い痛みと共にふとそんなことを思い出した。
タイプが似てる、なんて話をしてたけど、当たり前だが全然別人だ。由梨亜ちゃんはもっとどっか素朴で、めちゃめちゃ可愛いんだけど何て言うか……だから、可愛いんだよ。
茜ちゃんはやっぱり、ふわふわしてても現役モデルだ。正直ちょっと気後れする。いかにも『高嶺の花』的な、「どうせ最初から太刀打ち出来ましぇん」的な。果敢に挑む桜木はある種尊敬に値する。
ライブの前と後は、出演者は来てくれた客をさばくのに忙しい。LINK Rの客はやっぱり結構多そうで、茜ちゃんの気がこちらにそれた隙に、桜木の周囲にはファンらしき数人が押し寄せてきた。とりあえず桜木と別れて、茜ちゃんを連れて『LOTUS』の中に入ることにする。……そんな恨みがましい目で見るなよ。
「何か飲み物もらう?」
「飲み物?」
後方の壁際には背の高いテーブルとストゥールが数組用意されている。結構綺麗で広いライブスペースだ。
「チケット渡した時に、お金と引き替えにこれもらったでしょ」
ここのドリンクチケットは洒落てて、ピックに『1dr』とプリントされている。ひらひらと指で挟んだそれを振ると、茜ちゃんは自分の手に持ったそれと見比べた。
「あ、これ、ドリンクチケットなのね」
本当に来ないんだなあ……。
とりあえず俺たちも飲み物をもらっちゃうことにして、入り口からすぐのバーカウンターで引き替える。ドリンクを片手に、俺はライブスペースの隅のテーブルに足を向けた。まだ一バンド目のスタートにも早いみたいだ。
「いくつなんですか」
腰を落ち着けると、茜ちゃんがカウンターでまだメニューを見ているのが見えた。ここなら彼女もすぐにわかるだろう。
「俺?」
「そんなもん聞いてません。彼女。大体名前何です」
そんなもんって言うなよ。
「年齢は知らない。名前は西織さん。西織茜」
「ふうん」
未知の人間の知識を多少得て落ち着いたらしい武人は、それ以上突っ込むでもなくビールに口をつけた。桜木ほどがっつけとは言わないが、あれだけの美人相手にこれほど淡白なのも珍しい気がする。
「可愛いっしょ」
テーブルに頬杖をついてドリンクを受け取りながらバーの店員が茜ちゃんににやけているのが見えた。
「可愛いですね。良くもまあ、あれだけバランス取れて生まれて来たもんだと感心しますよ」
何か俺が期待してる反応と違う。
「それだけー? それじゃあ鑑賞物じゃん」
「みたいなもんじゃないですか。……啓一郎さんは好きそうですよね。ああいうタイプ」
「うん」
「でも、容姿の善し悪しってこの程度の年齢じゃ遺伝子に依存してるもんでしょ」
「でも良いに越したことはない」
「越したことはないでしょうけど、それだけじゃあんまり興味が湧かない」
「……武人って中身重視派?」
頬杖ついた視線の向こうで、こっちに向かおうとしている茜ちゃんがナンパに引っかかっている。
「どうですかね。でも俺、前に妃名さんと付き合ってたけど、中身知りませんでしたよ。だからそうでもないんでしょうけど」
「ああ。まあねぇ」
「何て言うのかなあ。雰囲気? 造形って言うより感じかなあ。見た目にだって人柄は表れるでしょ?」
「表情とかってこと?」
「かなあ。美醜じゃなくて、目つきとか表情とか? 造作が良くたって鼻毛出てたらどうかと思いますしねえ。髪型や服装が雑だとか手入れしてるとかってのも性格だから、そういうの含めて見た感じの印象かなあ」
ほうほう。
「新しいネタは最近ないの」
「俺の恋愛をネタにしないで下さい。しばらくはそういうの、いーですよ。こっちが手一杯であんなうるさい生き物に精神力割いてる余裕が俺にはありません」
生きてくので精一杯、といささか大袈裟な口振りで言ってから、目線がずっと茜ちゃんを眺めている俺を小突いた。
「あいて」
「あゆなさんにチクっちゃいますよ」
「チクれば? 自己申告済み」
武人が笑った。
「仕事相手が超好みって? 最低だなあ、啓一郎さん……」
うるさいな。フォローもちゃんと入れたよ。そんなことまで教えてやんないけど。
じろーっと睨むと、武人はビール缶を指で弾いてから口をつけた。
「つくづく和希さんも啓一郎さんも言わなくても良いことを口にするタイプ」
「そうかなぁ。黙ってんのって落ち着かないじゃん」
「黙ってるのが優しさってこともあるでしょ」
「そういうお前は余計なこと言わなさそうだよね……」
「俺は余計なことは口にしません。自分が不利になるなら一層でしょ。……和希さんの場合は馬鹿正直なのかなあって気がするけど、啓一郎さんは馬鹿なのかなあって気がしますよね」
「口の利き方を覚えろよな最年少」
目の保養くらいさせろ、と組んだ片足で武人の座るストゥールを蹴飛ばすと、武人はおかしそうに笑った。