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【ZERO2】Against The Wind  作者: 市尾弘那
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第2話(1)

 年末は限界までスタジオに入る生活が続き、年が明けて早々にレコーディングに取り掛かることになっている。

 三階まで事務所の階段を上ると、そのほぼ正面にはレコーディングスタジオのコントロールルームがあった。そのドアが豪快に開け放されていて、思わず足を止めてしまう。中に五人ほど、人がいるのが見えた。そのうち一人が、こちらを振り返る。

「ああ、啓一郎くん。おはよう」

「おはようございます」

「早いね。何そんなところに佇んでるの。おいで」

 そんなふうに言って、広田さんが手招きをした。招かれるままにコントロールルームへ足を運ぶ。

 レコーディングが始まるのは、今日からだ。

 間にさーちゃんとの打ち合わせを挟みつつも、シングルのタイトル曲となる『Crystal Moon』、カップリングとなる『KICK BACK!』『For LOVE』の三曲分のリアレンジをひたすら繰り返し、何とか間に合った。

 広瀬の方は、さーちゃんがスケジュール調整をしてくれて、クロスとは別録りでやることが決まっている。

「ええとね、あっちのBstがね。ここのコントロールルームと繋がってるから、レコーディングの間はそこを控え室代わりに使って。荷物とかそっち置きっぱなしで良いし。自分の録りがない時はそっちいてもいいしね」

「あ、はい。メンバーって誰か来てますか?」

「まだ誰も来てないよ」

 和希もまだなんだ? 珍しい。……いや、俺が早過ぎるのか。

 俺はぺこりと頭を下げて、指示されたBstへ向かった。ドアを開けると、やけにしーんとしている気がする。緊張しているせいかもしれない。

 妙に空気が乾いているように思うのは、俺だけだろーか。荷物を放り出してパイプ椅子を壁際から引き寄せて腰をおろすと、それとほぼ同時に閉めたばかりの扉が開き、和希が姿を現した。

「おはよう。早いじゃん」

「自分こそ」

 一応、まだ集合時間より二十分ほど早い。

 緊張してるんだよ、要するに。ちゃんとレコーディングなんて始めてするわけだし。

「何か、目ぇ覚めちゃって。和希は?」

「俺はレコーディング始める前に、ちょっとギターのリフで試してみたいなってのがあって。……そう言えば、入り口んトコで一矢と会ったよ」

「あいつにしては早ぇじゃん。何であがってこないの」

「何か紫乃ちゃんと話し込んでた」

「ふうん。……で? 試してみたいって?」

「あのねえ……」

 言って和希はギターケースからギターを取り出し、アンプに繋いだ。チューニングをしてアンプのレベルの調節をすると、そのままの姿勢でこっちを見る。

「ここね、こうなってるじゃん」

「うん」

「ここを……例えば」

 ギターに指を滑らせる。

「とかって言うのもありなのかなあとか。ちょっと歌の邪魔になる?」

「うーん。悪かないけど、俺は元のままの方が良い気がするなあ」

「ちょっと歌ってよ」

 和希に言われるままに、床にあぐらをかいたままで小さく歌う。それに和希が音を合わせる。

「邪魔んなるね、何かやっぱ」

「ちょっとね。フレーズ自体はかっこいいけど。あ、わかった。じゃあさあ」

 何となく和希がやりたいことがわかったので、和希のギターに手を伸ばす。受け取ってギターを抱え込むと、浮かんだフレーズを弾いてみた。和希が弾いたリフを、更に俺風に味付けして鳴らす。黙って耳を傾けていた和希が、再度俺の抱えたギターに手を伸ばした。

「したら、こうすんのは?」

 言って、俺が提案したフレーズにアレンジを加え、より『Crystal Moon』らしく仕上げる。俺のちゃちいアレンジを、安定したものに纏め上げて、俺をちらっと見た。

「うん。前のより良い」

「おっけ。じゃあこれでいこう」

 ご満悦な顔で頷くと、和希は俯いてギターの弦を覗き込むようにしながら、小さな声で呟いた。

「啓一郎さあー」

「うん」

「またギターやんない?」

「……はっ?」

 さっきの惰性で鼻歌みたいに『Crystal Moon』を歌っていた俺は、思いがけない不意打ち発言に力一杯問い返した。

 トーーーートツな。

 そりゃあ確かに俺は、元々はギタリストだよ? ヴォーカルとるのはクロスが初めてで、その前までやってきていたバンドではずっとギターを弾いていた。

 でもさ。

 俺、もう何年、人前でギターを弾いてないと思ってんの? つか、俺がギターをやめた理由、わかってる?

「何で。ウチにはいるじゃん、立派なギタリスト様が」

「いや、俺は俺としてさ。前みたいにツインでさ」

「いーやーだーってば」

 和希とは、以前一度だけバンドを組んでいる。高二の夏休みのことだ。双方の元々やっていたバンドがそれぞれの理由でなくなったので、「じゃあ一緒にやる?」ということになったんだけど。その頃はヴォーカルは別にいて、俺はサブギターというポジションだった。

「俺はあなたのギターと並べて音を出すのはもう嫌だってばさ」

「いーじゃん、こんな素敵なフレーズ思いついてくれてさ」

「元はあんたの音」

「俺、啓一郎のギターの音って好きなんだけどなあ……」

 そんな甘いこと言っても、嫌なものは嫌だ。

「……ま、いつかね」

「うん、いつかで良いからさ」

 げっそりと曖昧な約束をする俺に、和希も無理強いをするつもりはないようで、素直に頷く。それと同時にドアが開き、時計を見るとちょうど十時になるところだった。

「おお、早ぇ」

「早いっすねー」

 一矢と武人が揃って顔を出す。下で一緒になったんだろう。

「あれ?」

「え?」

「武人、寝不足?」

 ほんのわずか、疲れたような顔をした武人の顔色を見逃さずに、和希が問い掛けた。ぎくりとしたような表情を一瞬浮かべた武人が、はは……と乾いた笑いを浮かべる。

「いや、ちょっと……。大丈夫です」

「そうか?」

「はい」

「広田さんが、揃ったらこっち来てってさ」

 中に入って荷物を放り出した一矢が、親指でレコスタの方を示した。羽織っていたジャケットを放り出して、スティックケースを取り出す。

「あ、うん」

「楽器は?」

「持ってかなくてどーすんの。何しに来たのあんた」

 口々に言いながら出て行こうとすると、武人がリハスタの隅にあるドアを指差した。

「あそこから行けるんじゃないですか」

「あ、ホントだ」

 武人の示したドアを開けると、人一人が入れるほどのスペースがあり、そこにまた防音扉がある。開けると、果たしてコントロールルームの方に直結していた。

「こっから繋がってんだね」

「ああ、みんなそろった?」

 ひょこんと顔を出した俺たちを見て、広田さんがおっとりと微笑んだ。いつ見ても穏やかそうな顔をしている。

 前に、事務所の先輩に当たるBlowin’のヴォーカルの遠野亮とおのあきらさんが叱られたりもするようなことを言ってたけど、この笑顔を見ていると何か想像がつかない。この人怒ったことってあるのかなとか思ってしまう。

 そんなことを考えながらコントロールルームの中を見回して、俺の緊張は否が応にも高まった。

 巨大なミキシングコンソールの正面にある大きな二重窓からは、俺たちが入るスタジオが見晴らせる。そのサイドには、各エフェクター類やプレーヤーの類。

 前にインディーズレーベルのスタジオでレコーディングはしたけど、その時はこんなに立派なじゃなかった。

「とりあえず紹介しようか。今日ハウスエンジニアを務めてくれる中丸さんと、アシスタントエンジニアの辻川さん。それから、君たちのCDを出してくれるソリティアのディレクター富岡さんと、同じくソリティアの三科さん」

 こんなに人もいなかった。

 コンソールの正面の椅子に座った、どちらかと言えば細身の四十代前半くらいの男性がまず頭を下げる。彼が中丸さんだろう。その脇にセットされたマッキントッシュに向かうように座っている二十代半ばほどの男性が、アシスタントの辻川さんのようだ。

 そして中丸さんの真後ろ、テーブルに向かうように座っていたやや恰幅の良い男性がレコード会社のディレクター富岡さん、その脇にひっそりと控えめに座っている毅然とした印象の女性が三科さんと言うことだった。

「富岡さん。こっちが今日お願いするGrand Crossだよ。こっちからヴォーカルの橋谷啓一郎くん、ドラムの神田一矢くん、ギターの野沢和希くん、ベースの方宮武人くん」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いしますー」

 お互い頭を下げあう。広田さんが、手元に持っていた譜面をテーブルの上に丁寧に置きながら、和希に問い掛けた。

「レコーディングは初めてなんだっけ?」

「レコーディングそのものは初めてではないんですけど。ただ、こんな設備がきちんと整ったところでは初めてです」

「ああ、前にロードランナーでニ枚作ってるんだよね」

「はい」

「じゃあ、一応説明しようか」

 返事を期待してないような調子で呟くと、広田さんは俺らを手招きしてスタジオの方へ向かった。その後に続いてスタジオに入る。

 以前一度見学はさせてもらったけれど、やっぱりこうして改めて見ても立派なスタジオだ。既にレコーディングの準備は整っているらしく、各ポジションにマイクや譜面台などが設置されている。

 広田さんが連れて行ったのは、スタジオ内にいくつか置かれている小さなロボットのような形をした機械のところだった。足にはキャスターがついており、直径ニセンチほどの太い黒いケーブルが、その足元から伸びている。ケーブルは壁へと続いていた。頭にはヘッドフォンを乗せている。

「これがキューボックス。要するにモニターだね。チャンネルが八個あって、1chと2chはLRのツーミックス。全体の音をあっちでミキシングした、その音を返してる。全体が聴きたければ、ここを聴けば良い。他のチャンネルは各々ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムを返すから、自分の欲しい音を聴き良いように自分でレベルとっていいから。で、8chにはクリック(テンポ)が返してあるから、一矢くんはそれは聴いて」

「はい」

「で、これが譜面台。譜面なんかを乗っけておくんだけど」

「……」

「……誰か突っ込んでくれないと寂しいかも」

「あ」

 突っ込むところだったのか。そいつは失礼。

 広田さんが、何事もなかったように同じペースで説明を続ける。

「こっちに何かあれば、マイクに向かって話してくれれば別に聞こえるから。当然だけど」

「はい」

「で、見ればわかると思うけど、奥の大きいブースがドラム。一矢くんはあそこで録る。で、左手の小さなブースはギターアンプがあるから。ベースはダイレクトボックスでライン録りするからこっちのスタジオで。あとキーボードもこっち。それで、僕のいつものやり方だから覚えて欲しいんだけど、最初に仮オケ録って、その後一つ一つのパートを録っていくからね」

「仮オケ?」

 武人がきょとんと首を傾げる。広田さんはのほほんとした調子でゆったりと頷いた。

「そう。とりあえず全員でせーので音出して、録る。それから、仮にドラムなら、他のギターやヴォーカルなんかの仮オケ聴きながら、ドラムのパートだけ上書きで塗りつぶして録っていくような形でやるから。君たちも慣れたグルーヴ感を耳にしながら演った方がやりやすいだろうし」

「あ、はい」

「仮オケはどうせ潰しちゃうんだから、つるっと録ろうね。多少間違えても別に良いから。どうしても気になるってところがあれば直しても良いけど」

「わかりました」

「あとは、何かある? 聞いておきたいこと」

 ……と、言われても。

 何かあるのかもしれないけど、質問が浮かぶほど良くわかってないと言うか。

 一同が首を横に振ると広田さんは頷いた。

「録音始まってからでも、わからないことがあれば聞いてくれて良いし。自分の録音以外の時は、Bstとか行って時間潰してても構わないしね。ただしテンション下げないように気をつけて欲しいけど」

「はい」

 和希が頷いたところで、スタジオ内のスピーカから「じー」と言うわずかなハムノイズが聴こえた。

「すみません広田さん」

 アシスタントの辻川さんだ。トークバックを通して、スピーカから広田さんに話しかけている。

「うん?」

 手近なマイクに少し近づいて広田さんが応じた。

「カウントだけ教えて欲しいんですけど」

「ああ、そうか。ごめんね。和希くん、『Crystal Moon』ってテンポいくつにしとく?」

「ああ……」

 不意に尋ねられて、和希は考えるように顎に手を持って言った。

「八十くらいで。遅いようなら変えてもらえますか」

「だそうだ」

「おっけーです」

 簡潔に広田さんが伝えると、辻川さんも心得ている風に応じた。プツリとスピーカからのハムノイズが途切れる。

「あと、キーボードの音、どうする? MDかDATでもあれば、こっちで流しても良いけど」

「じゃあそちらでかけてもらえますか? シーケンスデータもあるにはあるんだけど……こっちでキーボード流して、ギターブースに駆け込むわけにもいかないんで」

「そりゃそうだ」

 肩に引っ掛けたままのギターケースのポケットを漁って和希が手渡したMDを受け取りながら、広田さんはおかしそうに笑った。それを手の内で玩びながら時計に視線を向ける。

「じゃあ……十五分後で良いかな。それまで、セッティングとウォーミングアップを適当にしててくれて良いから」

「はい」

 広田さんがスタジオを出て行くと、一矢と和希は各々あてがわれたブースへスタンバイしに行った。武人は、スタジオの壁際の方の椅子に座ってベースのチューニングを始める。俺は、コントロールルームを正面に臨むヴォーカルマイクがセッティングされたポジションに立ち、やや伸び気味の前髪をかきあげた。

 緊張する。

 ガラス越しに窺えるスタッフたちは、どちらかと言えばくだけた雰囲気だ。

 だけど、向こうはプロだ。俺たちと違って。

(大丈夫かなあ……)

 内心プレッシャーをひしひしと感じながら、当面自分に出来るウォーミングアップ――声出しをすることにした。とりあえず、ヘッドフォンのセットはやめておく。

 余計なことは考えないようにして、俺はしばらく発声練習に集中した。朝ということもあるだろうけど、緊張のせいか声がうまく出ていないようなのが気にかかる。

 コンソールの前で、しきりと手を動かしている中丸さんを何となく視界に納めながら発声をしていた俺は、喉を潤すため、足元に置いたミネラルウォーターのボトルに手を伸ばした。視界の隅に武人が映る。チューニングを終えたようで、既にチューナーからダイレクトボックス――DIにつながれたベースを抱えたまま、ぼんやりと椅子に座っていた。

 ……どうしたんだ?

「武人」

「……え?」

「どうした? 何かぼんやりしてるけど。体調悪い?」

 さっき、和希も、武人の顔色が悪いようなことを言っていたけど、確かにちょっと顔色が良くない。視線を向けた俺に、武人は口を開き何かを言いかけた。それから、スタジオ内の音がマイクで集音されていることを思い出したのか口篭る。

「……いや……ちょっと、緊張しているだけです」

 そうではないことはその表情を見ればわかるが、確かに全員に筒抜けのこの状況、しかもあと五分少々で録音も始まろうという場で話させることでもないのは確かだった。

 この様子で、音がちゃんと録れるんだろーか。とりあえず当面はそこさえクリア出来れば良いんだけど。まあ、仮オケだし何とかなるかな。

「そうか? なら良いけど。別に俺も緊張なんかバリバリしてるしッ」

 わざと気付かないフリで両腕を振り回しながら言うと、ようやく武人が小さく笑った。

「はは……。ま、何とか頑張ります」

「うん」

 頷いてマイクに再び向き直ったところで、スピーカから広田さんの声が聞こえた。

「さて、そろそろ大丈夫かな?」

「あ、はい。おっけーです」

「じゃあとりあえず一度、テスト録音してみよう。そっちもモニターのバランスなんかもあるだろうし。セッティング中に大体のバランスなんかはとらせてもらったけど、曲聴きながらこっちもいろいろ調整していきたいしね」

「了解です」

 ヘッドフォンをつけると、和希の声が耳に流れ込んできた。ギターアンプに立てたマイクからの声だろう。適当にモニターバランスをつまみで調整しながら、広田さんと和希の会話に耳を傾ける。

「じゃあ始めようか」

「宜しくお願いします」

 挨拶を口に乗せたところで、辻川さんがトークバックに割り込んだ。

「じゃあクリック八回聴いて九つ目でキーボード流します」

 わずかな間の後、ヘッドフォンにクリックが流れた。ややゆっくり目の、規則正しい音。きっかり九拍目でキーボードの音が流れ出す。

 緊張で少し速くなった鼓動を見ないフリで、俺はキーボードの音……そして救い上げるように被さっていくギターの音を追うことに意識を集中した。


          ◆ ◇ ◆


 テスト演奏とそれに続く仮オケの録音は、ニテイクだけ録って、広田さんの言の通りつるっと終了した。

 プレイバックしてみたら、俺自身歌えていない部分や他のメンバーのミスなどもあったけれど、それはとりあえず追及しないようだ。

 本録りの順番は一矢から。

 なので、一矢のみをブースに残して、俺らは一旦コントロールルームへと戻る。

「お疲れさん」

「お疲れ様です」

 広田さんは穏やかな笑顔を浮かべて入って来た面々に労いの言葉をかけると、コンソールに両手をついて身を乗り出すようにトークバックスイッチを押した。

「じゃあ一矢くん。とりあえず頭から流すから、録って行こうか」

「あ、はい」

 ややくぐもった感じで、コントロールルームのスピーカーから一矢の声が零れた。くぐもって聞こえるのは恐らく、複数立てたドラム用のマイクが各々一矢の声を拾っているせいだろう。コンソール正面に設置されたモニター画面の中で、大写しになった一矢が身動ぎする。

「じゃあさっきと同じ九拍目で流れます」

「はい」

 辻川さんがパソコンの画面に目を向けながら言った。

 その画面の中で、緑だのピンクだのの波形がいくつも表示されている。ハードディスクに録音された先ほどの音だろう。

 辻川さんがパン、とキーボードを叩くと、その波形が流れ始めた。和希が興味深そうな顔で画面を覗き込んでいる。

 仮オケと一矢がリアルに叩いているドラムの音が大音量で響き、広田さんはそのまま一曲まるまる、腕を組んで黙ってモニターの中の一矢を見ていた。

 そして、一曲終えて音が消えていくと、トークバックスイッチに手を伸ばした。

「駄目。丸ごとやり直そう」

 その冷え冷えとした声音に、思わずぎょっとして広田さんの方を見る。視界の隅で、和希も顔を上げたのが見えた。

 いや、やり直しがあるだろうことくらいはわかってるよ? 俺ら自身で録る時だって何度も何度もやり直すんだから。

 だけどさ、だけどでもさ……ええと、この人、こんな冷たい声出す人だったっけか?

「こんなんじゃ全然使えない。リズムだけ正確に叩けば良いってものなら、リズムマシーンの方が遥かにましだ。もう一度頭から通しで」

 広田さんは、策略を練るマフィアのインテリブレーンのような怜悧な瞳で、モニターの中の一矢に言った。思わず和希と顔を見合わせる。ちょっと待って下さい。先ほどまでとは別人のようなんですけど。

「駄目。学習しろ。この曲でドラムに求められてるものは、何なんだ?」

 また丸々一曲叩いて、まるごとNGが出る。

「そんな跳ねてるスネアなんかいらない。クリックはちゃんと聞いてるのか?」

 こ、こういう人だったのか……。

 まるでジキルとハイドだ。録音現場になると、こうも人格が変わるとは。

 何度もやり直しを要求される一矢を見ているうちに何となく背筋が寒くなっていると、一矢から視線をそらして広田さんが不意にこちらを向いた。

「ああ、適当にリハスタとか行っても構わないからね。もちろん、ここで見ていても構わないけど」

「あ、はい。……あ、じゃあ俺あっちに行くわ」

 立ち上がって和希に声をかけると、和希は自分はまだ残ると言った。やはりあちらに戻るらしい武人と連れ立ってコントロールルームから出る。狭い通路を抜け、リハスタに入ると、ようやくピリピリした空気から逃れられて生き返ったような心地がした。

「……詐欺だ」

 リハスタのドアががっちり閉まっているのを確認してぼそりと呟くと、武人が肩を揺らして笑った。

「あんな虫も殺さないような笑顔してんのに」

「豹変ってやつだ」

 このままだと、俺も相当痛めつけられる覚悟をしておいた方が良いかもしれない。

 壁際にへたりこんでそんなふうに思っていると、武人は自分の荷物を漁って携帯電話を取り出していた。

「ちょっと電話してきます」

「おう」

 俺は……どうしようかなあ。

 リハスタを出て行く武人の後姿を見送って考える。

 とりあえずヴォーカル録りは最後だから、今からやたら発声練習して却って喉を痛めたくはない。

 かといって、ごろごろだらだらしているのは気が引けるし。

 録る予定の三曲を聴きながらイメトレでもしてようかと、ディパックからポータブルプレーヤーとコード譜を取り出した。

 目を閉じて耳元の音楽に完全に全意識を傾けていると、やがて武人が戻って来る。悪かった顔色は、ますます蒼白だった。

「武人、どうした?」

「え? 何が」

「顔色が」

「……悪いですか?」

「それで良いって言うんなら、世の中の人間はみんな土気色してなきゃ嘘だろ」

 困ったように、武人はそっと頬を撫でた。防音扉に体重をかけて閉める。

 どちらかと言えば、武人は剛胆な方だ。恐らくクロスのメンバーの中でもピカイチだろう。その武人がこんな顔色をしているとなれば、相当気がかりなことがあるとみて間違いはない。

「ごめんなさい」

「いや、別に謝らせてやろうと思って言ったわけじゃないんだけど。別に」

「そりゃまあそうでしょうけど」

「言えないこと?」

 武人は少し思案するような顔をして、顔を横に振った。






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