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【ZERO2】Against The Wind  作者: 市尾弘那
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第12話(2)

「だから、わかったでしょ? わたし、嫌われちゃったのよ」

「うーーーーん」

 やっぱりそれは違う気がする。

 気がするってゆーか、嫌ってはないだろ……。単に、困ってるとゆーか。

 それより何より、自分がそばにいることでなつみがどんどん……それこそ、今まで以上に形振り構わなくなって来てるのが見てられないんだろうし、あいつだって男なんだから『どんな状況下でも絶対に揺れません』とは言い切れないだろうし、そのくせ馬鹿真面目だからそうやって動揺する自分も許せないんだろうし。

 ……由梨亜ちゃんが、和希となつみが会うことを知っていて信じて許容してるから、多分尚更。

「自分が和希にとってとことん魅力ないんだなって思い知らされた。何か」

 話し終えて少しさっぱりしたように、すとんと椅子の背もたれに体を預けながら言う。

 その言葉を聞いて、いつだか和希が俺に漏らした言葉を思い出した。

 ――好きかもしれないな、と思ってたことは、あったんだ

 ――順番が違えば、違ったのかもしれない、とは思うよ……

 今のなつみにそんな和希の言葉を告げては傷を深くするだけだろうから言わないけど、少なくとも和希にとってなつみは、誰より大切だと言い切る彼女に我慢してもらってでも手を貸したくなる存在だった、んじゃないのかな。

 それが恋愛感情ではなくても、限りなくそれに近いような。

 そういう気が、する。

「わたしの頭の中は和希のことばっかりなのにね」

「でも……環境変わるんだし、なつみだって忙しくなるだろ」

 いつだか一矢と飲んだ時に、大手の旅行代理店に就職が決まったって言ってた。最初は慣れないだろうし、研修とかいろいろあるんだろうし、そうやって新しく忙しい環境になるのはなつみにとっては良いことだよな。

 自分が手一杯になっていれば、落ち込んでいる暇だってなくなる。

 そう思いながらグラスを口に運んだ俺の耳に、なつみがとんでもないことを言うのが聞こえた。

「就職、なくなっちゃったの」

 ……は?

 言われている意味を捉えかねて、グラスを片手に持ったまま目を丸くする。

 俺の無言の視線に、なつみは居心地が悪そうに指で髪先をくるくるといじった。

「何?」

「だから。……就職。前に決まったって言ってたでしょ」

「うん。なくなったって、何?」

「行かなかったの」

「何に?」

 わけのわかっていない俺に、なつみはふうっとため息をつくと開き直ったように言った。

「内定が決まって、本当は時々行かなきゃならなかったの。会社に。研修で」

「ああ、うん」

「ニ月に入ってからだったんだけど」

「うん」

「行かなかったのよ。それに。一回も」

「はあっ? 何でっ?」

 その言葉に半ば愕然としたように問い返して、「まさか、和希のことで?」と尋ねるとなつみは頷いた。

「なつみ……」

「わかってるわよ。馬鹿なこと、したって」

「だって、何で」

「その方が、和希に会えると思ったんだもの……」

 おいおいおいおいおい。

「それ、和希は」

「知らない」

 その答えに幾分か安心する。

 現状だって、なつみのことを振り回したのは自分なんだって自責の念に駆られているのに、これで更に就職まで蹴っちゃったんだなんてことになったら……和希、気が狂っちゃうんじゃないか? 人生、棒に振らせちゃったようなもんじゃないか。

 そりゃあなつみが勝手にやったことで、それは別に全然和希のせいじゃないけど、和希ならきっとそうは考えないだろうし。……ってゆーか、俺だったとしたって「あ、そう。でもそれはあんたが勝手に決めたことでしょ?」とは思えない。

「『その方が和希に会える』って?」

 グラスを口に運びなおしながら問い直すと、なつみもつられたようにグラスに口をつけながらまたため息を繰り返した。

「こんなことになると、思ってなかったから」

「うん?」

「和希って今、時間が不定期でしょ?」

「ああ」

「いつ時間作ってくれるのか予めわかってるわけじゃないし、和希が連絡くれてもわたしが就職してたら会える時間がきっとどんどんなくなっちゃうんだと思ったの」

「……」

「合わせられるんだったら、合わせたかったのよ。少しでも会いたかったの。ほんの少しのチャンスでも、逃したくなかったの」

「……それで?」

「そう」

 思わず言葉の出ない俺に、なつみは「今は、馬鹿なことしたなって、わかってるわよ」と言い訳するように呟いた。

「じゃあ、どーすんの。四月から」

 テーブルの上の煙草に手を伸ばしながら、背もたれに寄りかかる。なつみは小さく首を横に振った。

「何も」

「平気なの?」

「生活はしなきゃなんないから、バイトはするけど。……どうしたいのかもわからないわ」

 そう答えてから、なつみは顔をうなだれた。さらさらと滑り落ちた髪が、なつみの俯いた顔を覆い隠す。

「なーんか、自分に自信がなくなってく感じ」

 意識してか、少し軽い口調でぼやくように言うなつみに、かける言葉を見つけられないでいた俺は苦笑した。

「そんな必要、ないだろ」

「だーって。何やってるんだろ、わたし」

 今日もほろ酔いのなつみは、顔を上げて少し甘えて拗ねるように唇を尖らせた。

「自分がないんだもの。全部和希が基準で……自分で、呆れてるわ」

「ま、就職のことに関しては和希に振り回され過ぎって気はするけどさ。でもそれはもう今更言ったって済んだことはしょうがないじゃん」

「……うん。まあ、ね」

「和希も言ってたんだろ。なつみは自信なくすことなんか、ないよ。一人の判断が全ての価値じゃない。誰がどう思うかに重きを置く前に、なつみ自身が自分に価値を求めて認めてやんなきゃ」

「そんなの、無理よ。こうも完膚なきまでに振られちゃ」

「それは自分の価値を和希の価値観基準にしてるからだろ。基準値を自分の中に置き換えてみろよ。自分で自分の良いところ、褒めてやれよ。……今すぐとは、言わないけど」

 俺の言葉に、なつみはちらりと上目遣いでこっちを見てから小さく吹き出した。

「何」

「ううん。何だか『らしい』なあって思って」

 『らしい』?

「最近は、自分が駄目な人間だなって思えて……。恋愛ばっかりで、和希に寄り掛かりっ放しで就職まで放り投げちゃって。強く、なれなくて。……弱い人間なんだなって情けなくなるわ」

「……」

「啓一郎って、あんましこういうこと考えないんだろうなあって気がする」

「こういうこと?」

「自分に自信があるとかないとか。無意識で克服してそうな気がするもの。……強いって言うか。自分で自分の足場を持ってるような気がする」

「馬鹿言え」

 テーブルに頬杖をつきながら端的に言うと、なつみが視線の定まらない目できょとんと俺を見た。

「悩みまくりのへこみまくりだっつーの。足場なんかどこにもないし、そう見えるとしても根拠なんかどこにもないさ。ただの虚勢」

「まさか」

「俺だって別に、自信なんかどこにもない」

「そう?」

「そりゃそーだよ。……だけどへこみ続けてても、転機なんか訪れない。訪れてたって、目を向ける気がなきゃ気がつかない」

 反省は大切だと思うけど、自分を貶める為に落ち込み続けることに益はない。

 生きる以上は顔を上げて前を見なきゃ歩けない。

「もしもなつみの目に俺がそんなふうに見えるんだとすれば、なるのは簡単」

 言いながら笑うと、なつみも笑みを覗かせた。

「だって強くなんかないから。強くなりたい、強くなろうって、思ってるだけ。言い聞かせてるだけ。へこんだり弱かったりするのは、俺だってなつみと一緒。別に、なつみだけじゃない」

「……うん」

「だからそんなふうに自分を責めたり落ち込んだりする理由なんて、ないよ。……なつみは歩き出せるから、大丈夫だよ」

 少しでも俺の言葉が足しになればいーんだけど。

 そう思いながら言った俺に、なつみは幾分前向きな笑顔を見せてから頷く。

「酔った勢いでそんな馬鹿なことしたけど、後悔してるけど、だけど思い知らされたからもしかすると却って良かったのかもしれない……。もう、諦めざるを得ないって、思い切れるかもしれないもんね」

 ふっと一瞬寂しげに伏せた目を笑顔に変えて、なつみは顔を上げた。

 切なさを漂わせてはいたけれど、どこか、何かが吹っ切れたような……そんな顔だった。

「早く、和希がいないことに、慣れなきゃね」


          ◆ ◇ ◆


「あ、そうだ。和希くんに聞いた?」

 『バンドナイト』の収録が行われる『SHIBUYA MAX』へ向かう車の中。

 地味にまだ出演バンドのプロフィールをぶつぶつと暗記している俺の精神集中を、運転席のさーちゃんがそんな言葉で妨害した。

「何? ……『FREE STYLE』……××年結成……ジャズのコード進行を基盤に独自のメロディラインを編み出した……」

「……ごめん。俺が悪かったよ」

 何だよ、言いかけてやめないでよ。気持ち悪いぢゃん。

 原稿から顔を上げてさーちゃんに目を向けると、さーちゃんは面白そうに眉を上げてちらりと俺を見た。

「ひょっとして学生時代の試験前より勉強してる?」

 当たり前じゃん。

「俺、試験前に勉強したことねーもん。高校時代」

「おっと。余裕の発言。やるねぇ」

 やるんじゃなくてやってないの。なーんも。

「やったってわかんねーもん。……ヴォーカルKEIGOのせんしてぃぶで……さーちゃん、せんしてぃぶって何」

 ああ、本当に俺、こんなもんを五バンドも間違えずに言えるんだろーか。胃が痛い。俺がトチったり噛んだりしたせいで進行がストップしちゃったらどうしよう。

「んで? 何?」

「いや、後でいいや。しっかりカンペ覚えて」

「覚えてるよ。何?」

 しつこく繰り返すと、さーちゃんは笑いながらようやく続きを口にした。

「ウェブサイトが動き始めたでしょ」

「ああ、うん」

「掲示板に書き込みがちょいちょい来てるよ」

「へー」

 掲示板ねえ。

 俺自身はあーいうの、何書いて良いかわからないし、何か書くのも妙に恥ずかしい気がしたりして書かないから、その反動でクロスのサイトもあんまり見ない。

 俺の返事にさーちゃんが呆れたような顔をする。

「あのねえ、君らへのメッセージが書き込まれてるんだからちゃんと見てあげて」

 ああ、そうか。

「地方でライブやった成果も少しずつ出てるみたいだよ。遠征した地方の高校生とか結構書いてくれてる。東京がやっぱり一番多いけど、前からの固定ファンかなあ……親しそうな書き込みなんかもあるし」

 そうか。こういうところに少しずつ反映されてくんだ。

 確かに自宅から覗きに行けるウェブサイトはやっぱり手軽だし、書いてボタン押すだけの掲示板なんかは金かからない簡単な接触手段なんだろう。

「別に返事はしなくていいから……って言うか返事してると後々大変だから、いらないから。見てあげて。携帯でも見れるから」

「うん」

 カンペに目を戻しながら頷く。

 そういうの、そりゃあないよりあった方がいーけど、まだ見てないからどんな様子かわからなくて実感はあんまりなかった。前のサイトの時もライブの後とかに書き込んでくれる人はそれなりに……ま、半身内みたいな人が多かったけど、でも別に友達じゃないような人が書き込んだりはしてくれたし。……らしいし。

「あとね、ソリティアの配信サイトでやってる先行配信あるでしょ」

「うん」

「あれ、結構ダウンロードが出てきてる」

 言われて顔を上げる。

「今週に入ってからダウンロード数が急に上がったんだよ」

「何で?」

「俺も何でだろうと思ったら、ロードランナーのミニアルバムあるでしょ」

「うん」

「あれのおかげみたい。インディーズとかちょっとまだメジャーじゃないアーティストが好きなコとかに受けてるっぽいよ。ミニアルバムの楽曲がインディーズ配信サイトでそこそこ良い順位まで上がってって、それがカタログの実働に繋がって、その余波を受けてるんだな、『Crystal Moon』は。多分」

 そこまで言って、さーちゃんは俺に笑顔を向けた。

「実際のお金が動くにはまだ時間がかかるけどね。来月映画が公開されたら、きっとまた動きがあるよ」

「……うん」

 半ばぽかんと話を聞いて、ちょっとずつ嬉しくなる。少しずつだけど『身内』じゃない人が受け入れてくれる反応。

「やったぁ……」

 俺たちの曲、ダウンロードしてくれる人が、いるんだ。

 聴いて、きっと「いいじゃん」って思ってくれて、手元に置いておこうって思ってくれて……。

 そういう人が、ほんの僅かでもどっかにいるんだなって思うと、それだけで嬉しかった。

 ちょっとずつ仕事らしい仕事をしてるような気がするし、今もわけわかってないっちゃあないけど、前よりも少しは……知らない、会社組織の人と何かすることにも慣れては来たし。

 アマチュアとプロになることの違い――プロは、見えないところでいろんな人が俺らと関わっていて、俺らがしくれば損害が出る。

 『SHIBUYA MAX』について車を降りると、出入り口のところにスタッフ用のパスを首から紐でぶら下げたTシャツ姿の女の子が何人かたまっていた。車の音に気がついて顔を上げる。

「おはよーございまーす」

「おはようございます」

「よろしくお願いしまーす」

 挨拶をかわしながら歩いていくと、ちょっとぽっちゃりした女の子が近づいてきた。

「Grand Crossのヴォーカルさん、ですか」

「はい」

「お疲れさまです。ブレインの佐山です。こっちがコメンテイターの方を担当する橋谷くんで、僕はマネージャーなんですけど」

「フィールブラウンの畑山です。今日はよろしくお願いします。とりあえず控え室にご案内するんで、荷物とか置いてもらって」

 畑山さんに案内されて連れて行かれた控え室は、出演バンドと一緒くたらしい。

 五バンドのうちのニバンド――『LINK R』ってスリーピースバンドと『アンブレラ』って言うフォーピースバンドが俺と同じ控え室。

 『LINK R』は確か××年結成の……元々オルタナティブ系からスタートしているバンドで、インディーズアーティストの中では結構良いトコ行ってる『クロノス』ってバンドのアジアツアーのサポートとかもやってた。ベースヴォーカルの桜木くんが作詞作曲共に担当していて、重低音に重きをおいた重心の低い音作りの傾向がある。……おお。俺、覚えてるじゃん。

 貼られた張り紙を見て、頭の中で復習しながらドアを開けると、中にはまだ人の姿はなかった。バンド入りは俺たちより後になる。

「これ、タイスケ(タイムスケジュール)です。もう少しすると西織さんも来ると思うので。そしたら鎌田さんが多分声かけてくれると思います。それまで、ゆっくりしてて下さい。バンドさん来るの、まだ少しかかるんで、しばらく個室気分で」

 そう笑って畑山さんがいなくなると、控え室で遠慮なく休憩することにした。まだ何もしてないけど。

「『アンブレラ』……8ビートを基調とした正統派……」

 まだぶつぶつ言いながら、ジャケットを脱ぐ。

 西織さん……西織茜さんって言ったかな。彼女は結構ハイレベルなファッション誌の現役モデルで、今日のライブの司会をやるはずの人だ。

 俺は会ったこともなけりゃ女性ファッション誌なんか見るわけもないので、顔を知らないんだけど。

 イベントの流れ自体は、当たり前だけど、ライブ、転換、ライブ、転換になってて、基本的には転換の間の繋ぎを俺と西織さんですることになる。西織さんがステージ上で進行をして、ラジオコメントをやる俺は、ステージ左側に設営されてるはずのミニブースでライブ終わりのバンドにあれこれ突っ込みながらマイク越しに西織さんと何かしゃべって繋いで、転換終わったらステージが始まって……と言う感じだ。

 西織さんの声はラジオに繋いでないから、基本的にはバンドにインタビューしてる間は俺一人で繋ぐことになるんだけど、それが終わってバンドが引っ込んだ後のライブに繋げる間とかは俺と西織さんの会話の流れになるんだろうし、当然西織さんを交えて打ち合わせをしなきゃ話にならない。

 そんで、FM渋谷の担当者が鎌田さんだ。この人は、俺は前にFM渋谷での打ち合わせで顔を合わせている。三十代半ば過ぎくらいの、妙にキレ者的な空気を漂わせた目の笑わない人だ。別に悪い人じゃないんだろうけど。

「啓一郎くん、飲む?」

「ん? うん……」

 備え付けの冷蔵庫を覗き込んで言うさーちゃんに生返事を返しながら、手近にあった椅子に座ってしつこくバンドプロフィールを眺めていると、さーちゃんが俺の目の前にお茶のペットボトルを差し出した。礼を言って受け取りながら、資料をテーブルに放り出す。

「あー、何かもう復習してんのめんどくさくなってきた」

「いきなり投げ出さないでよ」

「もう覚えてんじゃん、俺。こんだけしつこくやってたら」

 鼻の頭に皺を寄せながらペットボトルのキャップを捻ると、さーちゃんが笑いながら俺の放り出した資料を手に取った。

「じゃあ俺が問題出してあげようか」

「そういう期末試験みたいなの、やめて」

「今日良い仕事したら、違う仕事とかもくれるようになるかもよ。次のライブは出してもらえるかもしれないし」

「あー、いーね。最近都内でライブやってないもんなぁ。出たいなぁ」

「出してくれるよ。頑張って自分で仕事取って、俺に楽させて」

 ウチのマネージャーはこんなことばっかり言ってるような気がする。

「もう、打ち合わせまでノーミソ休憩」

「うん。それがいいんじゃない? あんまり根詰めてると本番前にオーバーヒートしちゃいそうだもんね。啓一郎くんのノーミソ」

 どうせ許容量の少ない脳味噌ですよ。

「無事、済むと良いなぁ」

 一口飲んで蓋を閉めたペットボトルを太腿の上に乗せて、ずるーっとだらしなく椅子の背もたれに寄り掛かった俺は、天井を仰いでそうぼやいた。

 『ライブはナマモノ』。

 それは嫌というほど知っている。だからこそ面白いこともわかっているけど、収集のつかないトラブルが発生した時の怖さもわかっている。

 何が起こるかわからないから、どれだけ事前に心の準備をしてたとしたって、予測のつかない何かへの対処は事前の心構えじゃどうにもならない。普段の瞬発力、判断力。

「何が起こっても冷静にね。トラブルの大半は、頭がテンパってさえなきゃ回避できるものだって少なくないんだから」

 言いながら荷物を置いたさーちゃんは、控え室から出て行きかけながら俺を振り返った。安心させるように笑う。

「ステージもライブも、啓一郎くんはずぶの素人じゃない。大丈夫だよ」

「ん。……さーちゃん、どこ行くの」

「挨拶してくる。啓一郎くんはとりあえずここにいていいよ。後で打ち合わせ済んでから、リハ前に一緒に挨拶行こう」

「うん。行ってらっしゃい」

 さーちゃんが控え室を出て行って一人残された俺は、ペットボトルを玩びながら、手持ち無沙汰で結局また資料を手に取った。

 ぱーな俺でも覚えられるよう、何度も何度も繰り返し見たカンペはさすがにもう見飽きてきていて、半ば惰性で視線を落としながら軽く深呼吸をしてみる。

 怖い。

 俺に出来んのかなって言うのは、今も思う。この後に及んで。

 んだけど。

(……)

 指先で無意識にバングルを弾いた。まだまだ頼りないだろう俺を、きっと今も見守ってくれる人の姿。

 いつも俺の背後で背中を押してくれた幼馴染みの姿が浮かんだ。

 ――初めてやる時は、何でも怖くてアタリマエだろ。

 俺と克也がまだまだ子供の頃、あいつが俺に言った言葉を思い出す。

 ――何やるにしても、一回目から完璧にやれるやつなんかいないよ。でもやってみなきゃ、ニ回目が来ることは永遠にないんだぞ。

 それは何の時に言われたことだっただろう。多分、途方もなく下らないことだったに違いない。

 ――それで一回目にちゃんと出来なくても、ニ回目にやる時はましになってる。それは一回目の経験を乗り越えてるからでしょ。何をするんだって、始めはみんな『一回目』なんだから。

 こうして考えると、俺は克也の考え方の影響をひどく受けているんだろうな。

 なつみの目に俺が強く映るんだとしたら、克也の考え方を俺自身に強いているからなんだろうという気がする。

 いつも前を向いていた、その姿に憧れてたから。

(怖くて、アタリマエ)

 『不安に思うこと』を不安に思うことなんかない。不安で、当然。どうせやんなきゃいけないんだから、乗り越えよう。

 しくっても、うまくいっても、その『一回目』の経験値は、必ず今後の人生のどっかで生きるはずだ。

 言い聞かせながら俺は、持て余した時間を再び資料に視線を落とした。






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