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【ZERO2】Against The Wind  作者: 市尾弘那
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第12話(1)

 眠い。

 人混みの新宿駅東口のすぐ外、映画の看板に寄りかかってあくびを堪えた俺は、涙を浮かべた目で腕時計を覗き込んだ。

 十八時半。約束の時間ほぼちょうど。

(うぁー……眠ぃー……)

 日中から夜にかけて仕事が入ってるもんだから、勢いバイトを深夜に入る羽目になる。今日はバイト明けでスタジオだったせいで、睡眠時間がたんなくて寝不足。こんなに働いてるのにその収入の薄さと来たら泣きたくなる。嗚呼、貧乏。

 儚くたって給料くれるだけましなんだろうけど。

 もう一度あくびを噛み殺して俯いた俺は、目の前を華やかな装いで行き過ぎる人々に目を向けながら、和希のことを思い出していた。

 和希は俺にあまり多くを語らない。

 らしくもなく俺に頼って来たのは多分、他になつみとそれなりに親しくて和希が弱音を吐ける相手がいなかったからだろうし、俺が恵理と連絡を取るなんて言っていたせいもあるだろう。

 ……なつみと何かあったんだろう、とは思う。だけど何があったのかは知らない。

「啓一郎っ」

 ぼけっと和希となつみの顔を交互に思い浮かべていると、朗らかな声に呼ばれた。顔を上げるとなつみが笑顔でそこに立っていた。

「よう。何か久しぶりな感じ」

 とは言っても、前に会ったのはニヶ月前くらいだったっけ。そんなに凄い久しぶりってほどでもないんだろうけど、高校在学中からこっち、しょっちゅう顔をつき合わせてた感覚があるから、いきなりこうも間遠になると久々感がある。

 そう言うとなつみは「そうね」と目を細めて笑った。柔らかい笑顔には少し陰りがある。

 だけど、やつれてたりとか顔色がヤバかったりとか……そういうのはなさそうな感じだった。精神的には今落ち込んでるんだろうけど、健康状態は悪くなさそうな気がする。

 先日、「恵理と飲みに行くんだけど、なつみも良かったらどう?」と言うわけのわからない俺の誘いに、なつみは最初戸惑ったふうだったけれど、「和希と何かあったの?」と尋ねてみた俺の言葉に、だから誘ったのだと理解したようだ。少し躊躇してから、会うことを小さく了承した。

「啓一郎、また疲れた顔してる」

 おう。

「そんなことわないですよぉ?」

 ともすれば上下寄り添ってしまいそうな瞼を無理矢理押し上げて虚勢を張ると、なつみがそっと白い歯を覗かせた。小花の散った淡い紫の薄手のワンピースにさらりと羽織った白いカーディガンが爽やかで、笑顔のそのままファッション誌に載ってそうだ。春先の、日も落ちればまだ少し冷たい風がなつみの長い髪を煽る。

「無理してる」

「ぜぇんぜん……」

 明るさを装って笑ってみせるなつみの笑顔はどこか暗くて、本音を言えばそれは少し、俺を安心させた。

 和希と何かあったんだとしたら、落ち込むのが普通だ。落ち込んでるなら、なつみは普通の精神状態に戻っていることになる……気がする。少なくとも、わけのわからん電話をしてきた時みたいなハイテンションの様子よりは、遥かに。

 それに、今見る限りで言えば、最初に俺に電話を掛けてきた時みたいに病的でもなく……ごく普通の落ち込み方のような。

 何があったかは知らんけど、そういう意味で一時的にでも和希がそばにいてやったのは、良かったと言えるのかもしれない。健康状態も通常まで戻ったみたいに見えるし、精神的にも落ち込んでるだろうけどヤバくはないような。……和希の方のストレスはいざ知らず。

「でも、本当に良かったの?」

 まだ恵理がいないことを見てとったなつみが、俺の隣に寄りかかりながら首を傾げた。元々雑誌モデルをやっていたなつみは、女の子にしてはそこそこ身長がある。顔の位置は俺とほぼ同じくらい。

「何が」

「だって昔からの友達なんでしょう? 恵理さんて」

 はっはっは。

 友達ねえ……。

 なつみのことがなけりゃ俺の恵理に対する認識は変わらなかっただろうし、恵理と飲むなんてことも多分なかっただろうな。

 元々付き合いのあった頃から考えれば、今こうして俺と恵理が約束して会うなんて想像もつかない。

「それはそうと。卒業おめでとう。とりあえず」

 返答に詰まって苦笑いを浮かべながら、当たり障りのない話題をと思って舌に乗せた言葉は、どうやら当たり障りがあったらしい。なつみが不意に泣きそうな表情を浮かべた。

 しまった、地雷か?

「……うん。ありがとう」

「えーと、就職の準備とかそういうの、してるんだっけ?」

 こんなところで突っ込んで泣かれては困る。さりげなく話をスライドさせたつもりが、何だかなつみの表情がどんどん沈んでいった。墓穴を掘りまくっているらしい。もう天気の話くらいしか思いつかない。

「実は……」

「はーしやセンパイっ」

 なつみが言いにくそうに口を開くのにかぶるように、駅の方から人影が走ってきた。込み合う人の合間を慣れた足取りでするすると歩いてくる。恵理だ。

「おう……」

 あれえええ?

 応えて片手を上げかけて、少し驚いた。肩口まであった髪が、すっぱりとショートヘアになっている。こりゃまた随分さっぱりと切ったもんだ。

「どぉしたのお前」

「え? ああ、そーか。橋谷センパイに前会った時はまだ切る前だったっけ」

「うん」

「べっつにー。気分転換……って言うよりは、心機一転、って感じかな」

「心機一転?」

「うん。ま、いろいろとね」

 にこーっと少し意味ありげに笑った恵理は、けれどそれ以上触れることなくそのままの笑顔をなつみに向けた。

「どぉもー」

「こんばんわ。その節はみっともないところを見せちゃって。……ショートもとっても似合ってるわ」

「そう? ありがと」

 なつみの言葉に、恵理が素直に嬉しそうに白い八重歯を覗かせて微笑む。

「んじゃ行こ。どこがいい」

「どこでもー。橋谷センパイのオススメでー。この辺で遊び回ってんでしょ」

「……遊び回っとらん、別に」

 適当に近場の店に移動する間、なつみと恵理はヘアスタイルがどーだとかどこそこの美容師がかっこいいだのと言う話をしていた。振って広げてるのは恵理。だけど、いかにも『会話を繋いでます!』と言う空気感は微塵もなくて、まるで前から友達みたいな自然な雰囲気。

(……ふうん)

 仕方ないから俺の知ってる店に連れて行き、オーダーを済ませる。

 フレンドリーな空気は続いていて、恵理の、良くも悪くも気を使わないような空気になつみもつられたように、変な気を使うような感じじゃなかった。恵理と会話を続けているなつみの笑顔から少しずつ陰りが引いていってるような気がして、少しでも気分転換になれば、と思う。

 二人の会話は、それこそ『当たり障りのない話』だった。

 『かっこいい美容師』の話から話題は『カリスマ』へ移り、なぜかそのまま『地価』へと移った話題は『都内で店を持つのはどうなのか』などと言う、もはや何でそんな話をしてるのかさっぱりわからん話題をニ人は楽しそうに話していた。思いのほか、話が弾んでいる。

 ってゆーか、むしろ俺なんかいないで女同士しゃべってた方がいーんじゃん? だって俺、『都内の地価』なんか大して興味ねーもん。何で女の子ってこうも果てしなく意味不明な話題で盛り上がれるんだろう。

 とは言え、あからさまにぼーっとしてるわけにはいかんので、一応ところどころ口を挟んでなつみを笑わせながら、概ね俺は傍観者に徹してニ人の会話を聞いていた。

 サービス業のなせるワザ、かな。恵理の会話運びは巧みで、なつみから笑いを引き出しながら自分の体験混じりの考えを話し、なつみ自身の痛いところを聞き出したりすることないままに、なつみが欲しがっている言葉を与えているように見えた。恵理をなつみに会わせたのは、想像以上のナイスチョイスだったかもしれない。

 適当に飲んでしゃべっているうちに、次第に食べ物に箸を伸ばすこともなくなり、それぞれ数杯のグラスを空にして店を出た。もうじき終電がヤバくなる、というくらいの時間帯。

「んじゃあたし、西武新宿線だから。あっち」

「ああ……うん。今日は、さんきゅ。また連絡するよ」

「はーい。なっちゃんも連絡してね。ってかあたしするね」

「うん。またね」

 下落合に住んでいる恵理と別れ、山手線と丸の内線の改札の方へなつみと並んで歩き出した。

 今日は平日、それもまだ週半ばだけど、会社の飲みの帰りみたいなスーツ姿の人が新宿駅前にはごろごろしている。急ぎ足で、終電に乗り遅れまいと急ぐ人々。占い師が小さな自分の店に座って、道行く人々を眺めている。

「少しは、気分転換になった?」

 恵理の話を思い返してくすくすと「恵理ちゃんておかしーの」と呟いているなつみに、目を細める。待ち合わせで会った時より元気な笑顔、かな。今日は結構ばかすか飲んでいたから酔っているみたいで足が少しふらついてるけど、悪酔いしてる感じでもない。楽しく酔ってる……そんな感じ。

「え?」

「何があったかは聞いてないけど、卒業式の夜、和希の様子が何かおかしかったから」

 なつみが無言で顔をあげる。視線を頬に感じながら、正面を向いたまま続けた。

「だからなつみも落ち込んでんのかと思った」

 意表をつかれたように目を見開いたなつみは、そのまま人込みの中足を止めた。丸く見開かれた目が、俺を見つめながら少しずつ泣きそうに歪んでいく。……やべぇ、また地雷。

「もう……」

 声までもが潤んでいく。立ち止まったまま、なつみは顔を俯けた。

「優しくしないでよ。乗り換えちゃうわよ」

 無理に泣くのを堪えているのがわかる。震える肩を押さえながら涙混じりの笑顔を作るなつみに、なつみを待って足を止めた俺も笑いかけた。

「いつでもどうぞ」

 このくらいのリップサービスは許されるだろう。

 振り返ってなつみを待つ俺に、なつみは笑みを返してから逡巡するように視線を軽くさまよわせた。それから俺に視線を戻す。

「ねえ。良かったらもう一軒、つき合わない?」

「そりゃ構わないけど、帰れなくなるよ」

「タクシーで帰るわ。帰れない距離じゃないもの」

 俺なんかは、最悪歩いて帰れるからまあいーんだけど。

 俺の返事を待って微かに首を傾げて見つめるなつみに、お誘いを受けることにした俺は口元に笑みを刻んで頷いた。

 多分、話したいことがあるんだろう。

「じゃあ、軽く」

 俺の返事に、なつみはほんの少しだけ、切ない笑顔を浮かべた。


          ◆ ◇ ◆


「和希に嫌われちゃった」

 新宿西口からほど近い地下バーで、カクテルのグラスを両手で包み込んだなつみはぽつりと呟くように言った。

 客は、結構多い。

 だけど総じてオトナな雰囲気で、うるさい感じはしなかった。静かにジャズが流れている。薄暗い店内に、古い映画のポスターみたいなものが壁にセンス良く飾られていて、テーブルの上の間接照明がオレンジの光を柔らかく浮かべていた。

「何でそう思うの?」

 自分の前に置かれたジンライムのグラスの縁を人差し指で辿る。カラン、と液体の中で氷が崩れた。

「だって……そうなんだもの」

 壁際の低いテーブルを挟んだ向かい側で、グラスを手の中に包んだままのなつみが上目遣いで俺を見て、元気なく笑う。

「まさか」

「どうして?」

 ――なつみは俺の手には負えないよ……

 あれをそういう意味にとることも出来なくはないけど、ニュアンスとしてはちょっと違う、ような気がする。

 嫌いって言うよりは、どっちかって言うと……。

 ――俺もなつみも、最低になる……

 ……そう。どっちかって言えば、心配に近い感じ。

「だってそんなふうには見えなかったよ、俺には」

 なつみはまた視線を俯けて、ようやくグラスを手に取った。口をつけて、また上げた瞳が潤んでいる。

 酔っているせいなのか、思うところがあるからなのか、俺にはわからない。切れ長の潤んだ瞳に、俺たちのテーブルの隅に置かれた間接照明がきらきらと反射していた。

「そんなこと、言うわけがないじゃない。……和希だもの」

「そりゃあ……」

 俺だって和希が誰かの陰口叩いたりとかしてるのなんか、聞いたことはないけどさ。

 だけど、そういうことじゃなくて……。

「それとも、嫌われるようなことをしたわけ?」

 言いながら俺も自分のグラスに口をつけていると、なつみは少し迷うようにしてから頷いた。

「そう」

 嫌われるようなこと、ねぇ。

 尋ねて良いのか少し迷って、俺は敢えて追及するのをやめた。何かこう……微妙な話でも困るし。言いにくいようなこととか。

 なつみが自分で、自分の話したいところまで話すよう、沈黙したままでもう一度ジントニックを口に運ぶ。

「卒業、しちゃうんだなって思った」

 しばらく黙ってテーブルの揺れる照明を見つめていたなつみは、何かを思い切るように話し始めた。

「『卒業式』だから。わたし、和希を想い続けて過ごしたあの場所から、卒業しなきゃなんないんだなって」

「うん」

 何と答えて良いかわからず、とりあえず相槌だけ返す。

 なつみは目線をテーブルの上に定めたまま、どこか独白のように続けた。

「好きだった。高校入ってから、ずっと。和希だけいてくれれば、他に何もいらなかったのよ。……本当に」

 潤んだ瞳のまま、だけど泣き出すことはせずに言葉を繋ぐなつみが、かえって痛々しく見える。

「高校の三年間。大学の、四年間。……彼女にはしてくれなかったけど、ずーっとそばで和希を見てきて、和希も彼女作らなかったから、多分わたしが一番近くで和希を見つめ続けて来られた。ずっと、七年間、昨日よりも今日の和希が好きになったの」

 その言葉を聞いて、少しだけ和希が羨ましいような気がする。そりゃあいろいろ大変そうだし、和希にしてみりゃ「馬鹿野郎」かもしれないけど。

 だけど。

 一生の中で、これほど自分の存在を望み、想ってくれる人っているだろーか。俺はちょっと自信がない。

「それももう、卒業なのかなって感じがしたわ」

 俺の胸中など知るはずもないなつみは、どちらかと言えば淡々と続けた。指先でグラスの水滴をなぞる。

「卒業しちゃったら、和希とはもう繋がりがなくなるんだもの」

 どっちにしても四年の後半はろくに学校に行ってなかったけど、同じところに属していると言うそれだけで、何か安心感みたいなものがあるのかもしれなかった。それは、わかるような気がする。

 別に和希となつみの関係だったら、卒業しようがしまいが続けようと思えば簡単なことだろうとは思うけれど、口にはしなかった。

 そんなのはなつみだってわかってる。

 なのに敢えてそう言うのは、なつみ自身がわかってるからだろう。

 ……和希から、離れなきゃいけないことを。

 そんなふうに感じた俺の気持ちを察したように、なつみが小さく頷く。

「和希を縛ってるわけにはいかないんだってことは、わかってたのよ。……返してあげなきゃいけないんだってことも」

「……」

「わかってるけど……わかってるから……」

 そこでなつみの声が掠れていく。精一杯涙を押し隠すみたいに、言葉が少しの間、途切れた。

「だから、一層、感傷的になっちゃって」

「卒業式?」

「そう」

 やがて、声の調子を少し取り返してからなつみがまた続ける。

「みんなでね、飲みに行って。……和希も、来て」

「うん」

 感傷的だったせいか、必要以上に酔いが早かったような気がする、となつみはため息をついた。席を立つ頃にはべろべろで、まともに歩くことさえ間々ならないほどだったと言う。

「みんなは朝まで飲んでたみたいなんだけど、和希は次の日も仕事があるしって……帰るって言うから、わたしも帰ることにしたの」

 あの日和希は単車だった。

 そのせいで酒は飲んでいなかったものの、べろべろでスカート姿のなつみをバックシートに乗せて送るわけにはいかない。困った和希はとりあえず単車を店を駐車場に残してタクシーでなつみを送ることにした。

 そこまで話して、なつみがため息をつく。テーブルに肘をついた両手で顔を覆った。グラスの氷が溶けて、また小さな音を立てる。

「和希がね、あの病院の一件以来、時々連絡くれるようになって」

 両手で顔を覆ったまま、なつみが続ける。

「それはただの同情だってわかってるけど、それでも嬉しかったの。理由なんかもう、何でも良かった。そばにいてくれなくなるくらいだったら……そばに、いてくれるんだったら、わたしのこと好きになってくれなくても構わなかったの」

「うん」

「でもね、和希、わたしとニ人になるのを避けるのよ」

 あ、本当だったんだ。

 手で覆った顔を上げて浮かべた笑みは悲しげだった。間接照明が投げかける灯りが、右側からなつみの綺麗な顔に柔らかな陰を作る。

「そうだなぁ。ニ人になってくれたのって、図書館くらいかな。大学の」

 ははは……健全極まりない。

 つい苦笑しながら、和希の真面目な顔を思い浮かべる。由梨亜ちゃんて彼女がいながらなつみを放り出しておけない和希の、多分精一杯の由梨亜ちゃんへの誠意。

「ごはん食べに行ったりとか、遊びに行ったりとかしてくれたけど、いつも誰か一緒で。会えないよりは全然良かったけど、だけど、ニ人にならないようにしたり、そういう和希の行動の端々に由梨亜ちゃんの姿が見える気がした。いっつも。だから、多分やっぱりどこか寂しかったのよね……きっと」

 なつみをマンションの前まで送った和希は、そのままタクシーで単車を停めてある場所まで戻るつもりだったらしい。

 けれど「歩けない。部屋まで送ってくれなきゃいや」と駄々をこねるなつみに折れて、しょうがなく部屋の中……玄関まで送り届けた和希は、ドアの前でなつみの頭を軽く触れた。

「ごめんな」

 なつみの髪から手が離れるその一瞬、なつみは和希の呟く声を聞いたような気がした。あまりに酔っ払っていたから、本当にそう言ったかどうかは良くわからない。けど、見上げたすぐそばにある和希の少し憂いを滲ませた笑みに、和希への想いが膨れ上がった。

 卒業してしまう。和希にはこれ以上なつみのそばにいる理由がない。

 なぜなら和希は、別の人の彼氏だから。

 そう思うことが、抑制していたタガを外した。

「……らないで」

 なつみは、咄嗟にこちらに向けかけた背中を掴んでいた。

「帰らないで」

「なつみ」

「好きになってなんて言わない。もう、そばにいてなんて言わない。だから今だけ……今夜だけでいい。遊びで、構わないから」

 言いながら、多分なつみ自身和希が『遊べ』るわけがないことはわかっていたんだろうけど。

 和希は一瞬何を言われているのかわからなかったらしい。ぎょっとしたまま動きを止める和希の前で、なつみは卒業式に着ていったスーツの上着を脱ぎ捨てた。狭い玄関口、近い距離でそのままブラウスのボタンを外していくなつみに、和希ががんと背中をドアにぶつけた。

「なつみ、ちょっと待っ……」

 構わずにブラウスのボタンを全部外し終えた瞬間、和希が自分の両手で開きかけたブラウスを無理矢理合わせた。困惑した顔で、真っ赤になって。

「なつみ、やめよう。……やめて」

 ブラウスが開かないよう押さえつけたまま、和希が深くうなだれる。それを見てなつみは泣きたくなった。

「そんなに、わたしは、駄目?」

 和希は何も答えないまま動かなかった。ここまでして拒絶されることが悲しくて、堪えていた涙を溢れさせるなつみの耳に、押さえたような和希の声が下から届く。

「……じゃないよ」

「え?」

「そうじゃない。そんなことない。……頼むから、自分をそんな安売りしないでよ」

「だって」

「俺のせいで、そんなに自分を安く扱わないでよ。俺だって、流されそうな自分が怖いよ……」

「……」

「なつみが俺を想ってくれてるのを知ってて、曖昧に何年も放っておいて、傷つけて」

「……」

「頼むから、これ以上俺を、最低にさせないで……」

 呻くような和希の言葉に、なつみもそれ以上言えることがなく沈黙が訪れた。

 やがて、俯いたままでその沈黙を破ったのは和希だった。

「俺がいると、なつみが駄目になる。……俺も」

「……」

「俺の価値観が全てじゃないのに、俺がいるとなつみ、自分の判断を間違えてく気がするよ」

「和希」

 何と答えて良いかわからないなつみの前で、和希が顔を伏せたままなつみから離れた。

 前髪の間から覗く和希の顔は自責に彩られていて、苦い思いを押し殺しているような表情のまま……和希はそれきり無言で部屋を出て行った。

「ふうん……」

 じゃあその後、俺んトコに来たわけだ。

「馬鹿なことしたな、とは思うのよね」

 指先で自分の髪先を弾きながら、なつみが自嘲するように目を伏せて笑う。

「そんなこと言ったって、流されるとは思えないし。もしそんなことになったって……」

 つらく、なるだけだし……と呟くなつみの声が霞んでいく。

「ただ、もうこれで会ってもくれなくなるだろうなって言うのは、わかるわ」

「……」






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