第10話(5)
「俺さー、多分この後あゆなと会うけど、一緒にメシくらい食ってこーよ」
一矢がきょとんとした顔をする。それからひょこんと眉を上げた。
「それ、あゆなちゃん、怒ったりしない?」
「あいつはいっつも怒ってる」
答えた瞬間爆笑で返された。笑ってくれると嬉しいけど、笑われたのかと思うと複雑だ。
「それは怒ってるんじゃなくて口が悪いだけでしょー? いつから付き合ってるか知らんけど、付き合い始めてからゆっくり会えてないんじゃないのー?」
自慢じゃないが、ちゃんと付き合おうってなったのがあの早朝だとすれば、あれから一度メシを食いに行ったきりだ。清らかなオツキアイこの上ない。
「うん」
新宿の西側の裏道は、オフィス街のせいかそれほど人混みじゃない。何本か向こうのでかい通り沿いは結構人混みだけど。
スーツ姿のサラリーマンに混じってゆっくり歩きながら頷くと、一矢が半ば呆れたような顔で頭に手をやった。
「だったら、ニ人でゆっくり会いたいんじゃないの? あゆなちゃんだって」
「別にメシ食うくらいいーんじゃん?」
朝まで食ってるわけじゃなし。
「いーんなら、俺は全然……」
「んじゃそーしよ。あゆなにメールしとくわ。連絡来るまでウチでコレ聴こ」
携帯を取り出しながらCDを示す。
「うん」
少しだけ上向いたような一矢の笑顔が嬉しかった。
◆ ◇ ◆
一矢と一緒に俺ん家に移動してあゆなからの連絡待ちをしつつ、『Crystal Moon』のシングルを聴く。
聴きながらあれこれ話しつつ、だらだらビールを飲んでいる間にあゆなが食材片手に押し掛け、食事を済ませて一矢が帰った時にはもう〇時近い時間になっていた。
「だいじょーぶなの? 一矢」
一矢を見送って玄関口に並んだまま、閉じた扉から目を離してあゆなが俺を見上げる。
「だいじょーぶじゃない? 別にまだ失恋したわけじゃなし。女に不自由する奴でもなし」
遊んでくれる女の子の数だったら、地味~な生活してる俺より遙かに多いんだから。
「……そーゆー問題でもないと思うけど」
鍵をかけて部屋に戻っていく俺の後ろから、あゆなの声がついてくる。
まあね……それはそうだけど。
(あいつ、壁作るからなー)
結構。人なつこく見せて、なかなか自分を見せない。心開かないつーか。
俺なんかはどっちかって言うと、誰彼構わず開けっぴろげなとこがあるから、そーいうとこ正反対かもしれない。
部屋に戻って床に座り込む。さっきまで座っていた俺の斜向かいにあゆなが座ろうとしたので、腕を伸ばしてこっちへ引っ張る。
「何?」
「いーからいーから」
そのまますとんと俺の前に座らせて背中から抱きしめると、あゆなが小さく吹き出した。
「何考えてんのよ」
「そりゃもう凄いことをいろいろと。聞きたい?」
「……あんまり聞きたくない」
考えるなって方が無理でしょ。
『あの日』以来何もないんだぞ。手を繋いで歩いただけ。清らかすぎる。
髪に口づけて背中から抱きしめたまま、あゆなの温もりに安心していくのを感じた。伝わる体温に愛しさを覚え始めて、こうしてると……意外に早く由梨亜ちゃんのことは忘れられそうな気がしてくる。
人の温もりは、人を安心させる。
他の誰でもないあゆなの温もりが、あゆなの匂いが、俺の居場所だと感じ始める。
「んー……くすぐったいよー……」
長い髪のかかる肩にこてんとおでこをくっつけて、前に回した手であゆなの耳たぶをいじっていると、あゆなが身じろぎをした。
「何か手つきがやらしい」
「ん。やらしいことさせて」
ばすッ。
「……暴力女」
「さあて。洗い物しなきゃね」
『彼氏』に肘鉄をかまして腕から抜け出したあゆなに、がくぅと壁にもたれながらぼやく。
「んなん、後でいーよ……」
「気になるからやーだ。そこで一人でごろごろしてれば」
冷血漢。
キッチンへ入っていくあゆなの背中を見つめながら、俺は彼女に伝えるべきことを考えた。
なつみに会いに行くこと、言っておいた方がいいんだろうな。まだ、はっきり決まってないんだけど。
躊躇いながら口を開く。
「あゆな」
「うんー?」
「俺、今週か来週のどっか時間が出来たら、多分なつみに会ってくる」
俺も和希のことは言えない。言わなきゃいーこと、言ってる。
「ごめん」
あゆながくるっと振り返った。動きに合わせて髪がふわっと広がった。
「何謝ってるのよ?」
「だってさ。元々、そんなにゆっくり会えてないのに」
「別にいーわ。まだ彼女、落ち込んでるんでしょ?」
そうなんだけど。
「友達でしょ? 心配くらい当然だわ。……気にしないで」
言ってあゆなは笑顔を浮かべると、くるんと背中を向けた。流しに向かう。無理させたのか、本音なのかは残念ながら俺にはわからない。
「来週末さ……」
「うん」
「俺、完全にオフなんだ」
「え?」
言いながら立ち上がった俺を、あゆながまた振り返る。テーブルの上の台布巾で簡単にテーブルを拭いて、あゆなの方に足を向けた。布巾を渡す。
「あゆな、仕事? ……だよね?」
「ありがと。日曜日?」
「うん」
俺から布巾を受け取ったあゆなが俺を見上げる。
黙って長い睫毛が上下に瞬くのを眺めていると、あゆなが何かに迷うようにぽつんと唇を尖らせた。
「……休んじゃおうかな」
「え?」
「仕事」
言いながら蛇口をひねって水を出し、布巾を濯いで絞る。俺を見上げて笑うあゆなに、ちょっとだけ照れた。
「だってせっかく啓一郎が空いてるのにもったいないじゃない」
「……うん」
照れ隠しに鼻の頭をかいてから心配になる。
「でも、いーの?」
「平気よ。これでもわたし、皆勤賞ものよ? たまには休んだって文句言われる筋合いないわ。シフトだけ、ちゃんとしとけば」
出来る限り俺と合わせて時間を作ろうとしてくれる気持ちが、嬉しい。あゆなに照れ笑いを返して、冷蔵庫に肩を預ける。
「ま、無理はしないで。そりゃあ、嬉しいけど」
「ん。……コーヒーでも入れようか?」
「うんー。いーや。ビールで」
言いながら、勝手に冷蔵庫からビールの缶を抜き出す。ぱたんと扉を閉めた俺の横で、あゆなが再び蛇口から水を出した。
「何か手伝いましょうか」
仕事終わりなのはあゆなも一緒だ。その足でここに来てメシ作らせて片付けさせてるんじゃ悪い気がする。
女系家族で育って来ている俺は、男が圧倒的に弱い立場に立たされてるのを見慣れており、食事こそ作れないものの片付けとかは押しつけられがちな傾向にあった。おかげで『後片付けは男がやる』もんだと言う、自分にとって大変ありがたくない認識を植え付けられている。
「別にいーわよ」
そろーっと言った俺に、あゆなが水を止めてスポンジで皿をこすりながら笑った。
「……あゆなさ」
「うん」
「今日、帰るの?」
何となく隣に突っ立ったまま、冷蔵庫に肩をもたせかけて直して缶のプルリングを引く。ぷしゅっと言う小さな音がして、開いた口からもこもことビールの泡が少しだけ上ってきた。
「……」
あゆなが黙って俺を見上げる。
「どぅしよぉかなぁ」
「……帰ればー。別にー」
意地が悪いあゆなの言葉にふてくされたような返事を返すと、手だけは忙しく動かしながらあゆなが答える。
「せっかくゆっくり会えるんだから、啓一郎が迷惑じゃなければ泊まってこーかな」
ぜひ。
「……ち。しょーがねーから泊めてやるか。一泊五万円」
「帰ろ」
「すみません嘘です」
あっさり白旗を挙げて、缶ビールを片手に部屋の方へ戻る。あゆなのくすくす笑いが背中の方から追いかけてきた。
それに俺も笑いながら、テーブルに缶を置いて煙草に火をつけると、それをくわえたままのそのそとCDデッキに近づく。
再生ボタンを押してみる。
(……)
流れ出す、聞き慣れた音。俺らのファーストシングルだ。
凄ぇ嬉しいとは思ってる。納得いく楽曲、だと思う。
だけど、やっぱり反省点がある。
(トラックダウン……)
行けば良かったな。やっぱり。
いや、十分良い音に仕上がっていると思う。手前味噌で悪いけど、「すげーかっこいー」って……「聴いて聴いて」って言えるくらいに。
だけど、全力で作った気がしない。だってわけわかってなかったから。
(ここの打ち込み、左右に振った方がもっと良くなるかもしんない)
(コーラス、もう一本かぶせたら広がりが綺麗かな。どんなんなっただろう)
こうして繰り返し聴いてみると、もっといろいろやってみたかったことがでてくる。もっと試してみたいことが。
次のレコーディングは、最中も、トラックダウンも……もっと積極的にいろいろやってみようと思う。
「熱心ね」
スピーカの正面でじっと音を聴いている俺に、洗い物を終えたらしいあゆなが口元に笑いを浮かべて戻ってきた。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
自分もビールの缶を片手に、俺の隣に座り込む。くわえてた煙草の灰を引き寄せた灰皿に落として、またスピーカに顔を向けた。
「どう思う?」
こう見えても楽器屋のあゆなはそれなりに音楽を聴いている。耳は悪くないはずだ。
「いいと思うわよ」
「ホント?」
「ホント」
そう言ってもらえて、何だかようやく安心したような気がした。
あゆなが缶のプルリングを引く。テーブルに置きっ放しだった俺の缶を差し出してくれるので受け取ると、目を細めて缶をコツンとぶつけた。
「カンパイ」
「……何に?」
「上出来なファーストシングルに」
上出来、か。
「うん」
そう言ってくれるのが嬉しくて、素直な笑顔であゆなを抱き寄せる。あゆなが少し慌てた顔をした。
「やだ、こぼれちゃうじゃない」
「やめて下さい、俺の部屋で」
「……あんたのせいじゃないのよ」
解放した俺に呆れたように言いながらビールを持ち直したあゆなが、抱えた自分の膝にこてんと頬を乗せた。
「良かった」
「え?」
「元気ね。……あ、そうだ」
急に何かを思い出したように呟くと、あゆなは缶を床に置いて自分のバッグを引き寄せた。雑誌を中から抜き出す。
……雑誌、じゃないや。楽器屋に良く置いてあるようなフリー冊子。
「LUNATIC SHELTERって、これよね?」
へっ?
あゆなからその名前が出ると思ってなくて、黙って目を見開く。
「泉にちょこっと聞いた。何か妙な噂あるよって」
「妙な噂?」
『Crystal Moon』、カップリングの『KICK BACK!』と『For LOVE』と収録曲全てが終わって、オートチェンジャーのプレーヤーが勝手に次のディスクをかけ始める。それを聴きながらあゆなの言葉を待った。
「そう、噂。クロスとぶつけっこしてるバンドがあるらしーよって。……啓一郎は、聞いてるんでしょ?」
「うん。まあ……」
ぶつけっこって……。
頷きながら、あゆなの手の中の冊子を受け取る。ぱらっとめくると、モノクロのメンバー写真と短いインタビューが載っていた。あと、ジャケ写。
黙って記事に目を落とす俺の横で、あゆなが床の缶を取り上げて口に運ぶ。
「だからね、嫌な思いしてないといいなあって思ったりしたのよ、ちょっと」
「ちょっとかよ」
「そう。ほんとーーーに、ちょこっとだけね」
冗談めかして言いながら、あゆながくすくす笑う。その鼻の頭をぴしっと弾いてから、また記事に目を落とした。
「ホントは少しだけ、へこんだりもした」
あゆなにだったら言っても良いような気がして、目で記事を追ったままぼそりと言う。
「こいつらのライブ、見たよ」
あゆなが隣で驚いたような顔をしたのが気配でわかった。
「どうだった?」
「勝ってるって思った」
「そう?」
「バンドとしては全然、ウチの方がいい自信がある。勝ち負けじゃないけど、敢えて言うなら。ギターもベースもドラムもクロスの方が上手いしかっこいい。……絶対」
「じゃあ」
「でもヴォーカルは、クロスの方が弱い」
クロスのヴォーカル――俺だ。
悔しい。
死ぬほど悔しいけど、多分客観的に事実だと思う。
好みの問題とかってのはあるだろうけど、それじゃ片づかない。
比較される羽目になるとしたら、『バンドの顔』であるヴォーカルが弱いのは多分キツい。
「俺は俺のようにしか歌えないけど、でも……」
何をどう出来るのかなんてわからないけど、もっと何とかしなきゃと思った。
俺の歌の良さってどこにあるんだろう? 俺の歌の良さって、何なんだろう?
さっき恋愛の話で一矢に言ったことは、今の俺自身に言った言葉でもあった。
比較して羨ましがってもしょうがない。真似したって、もっとどうしようもない。俺らしい俺のオリジナルで「負けてない」と思えなきゃ意味がない。
……こんな初っ端で、負けてられるか。
――競合して一緒に成長する相手
だったら……。
(……クロスは、ヴォーカルが成長しなきゃ)
生き残っていく為に、たくさんの人に聴いてもらう為に。
――――それは、クロスのメンバーの他の誰でもなく……俺に与えられた最初の課題だ。