第9話(5)
「やらなかった後悔、考えなかった結果の後悔はずっと残るような気がするんだ、俺。だって、たくさんたくさん考えて自分の最善を尽くした時って、後悔してもしようがないじゃん? 『こうすれば良かった』ったって、その時の俺の限界頑張ったんだったら、既に手一杯でどうしようもないんだから」
だから。
「だから、『今を精一杯生きるぞー』みたいな。そういう前向きな曲。そういうのが良い。前向いて走るしかない、今の俺たちみたいな」
「ちょっと自虐的」
「前向きでしょっ。……だけど、そうしようって思っててもさ、時々忘れるから。だから」
忘れないように、曲に変えて。
「言葉だと、うまく伝えられないことって結構たくさんあって」
和希も一矢も、黙って俺の方に視線を向けているのがわかる。ミュートしていた手を外して指先で一弦を開放弦で弾く。高い、Eの音。
「なのに、音が伝えることって凄ぇ多いじゃん。言葉にならない、人の……本音の深いところに響くのって音だったりするじゃん。……和希のメロディに乗せて、みんなの音に乗せて、俺の言葉がメッセージになるように」
あの日、和希が言ってた。
――人って、一生懸命生きれば生きるほど多分かっこ良くはなれないじゃん。悩んだり、壁にぶつかったり、泣いたり、時にはずるかったり汚かったり。
――でもそう言うダサくってかっこ悪いところが、結局優しさとか、誰かを大切にすることとか、そういうことに繋がっていくんだろうし。
――共感を得てくれる人が増えれば増えるほどに、優しい人が増えてくみたいなさ。自分を大事にして、周りの人を大事にして、誰かの痛みに気づいてあげられるような……そういう、音楽。
同じその時に和希が言っていたように、まだまだそんな深いものは作れない。
俺自身が、俺たち自身がまだまだ浅くて、悩んで、それこそダサくってずるくって。
でも第一歩になればいい。
歩き出さなければ、踏み出さなければ、始まらない。
痛む心を、悩む苦しみを知らない人はきっといないし、知らなければ優しくもなれないから。
自分の身に起こる良いことも悪いことも……その全てが、全部自分の糧になって、生きて、絆になって。
「そんな、イメージ」
結局うまく言えていないような気もするけれど、まだ頭の中の言葉を探りながら鼻の頭に皺を寄せつつ締めくくる。和希がどこか遠いような目付きで鍵盤に視線を落とした。
「言葉だとうまく伝えられない、か……」
「うん。俺、馬鹿だし」
そんな馬鹿が歌詞を書いているクロスは果たして大丈夫なんだろーか。勉強しよう、俺。
「そう? ……俺も、そう思うよ」
「でもこの曲、元気になる曲になれそうな気はするよねー」
一矢がさっきの俺のようにタカタカとほとんど惰性みたいにドラムを鳴らしながら、俺の方を向いて笑顔を浮かべた。
「どんどん元気が伝わるような。すげーかっこいーの、出来そう」
「お願いします」
「……何で突然他力本願なのよ」
「一矢センパイのドラムで何とか」
「一矢センパイってゆーな」
あ、恵理に電話しなきゃ。
俺と一矢のふざけたやり取りを、穏やかな苦笑を浮かべたままで見ていた和希が小さなため息をひとつ落とす。それに気がついて声を掛けようと口を開きかけた俺を遮るように、和希がこっちに向かって明るい声を放った。
「やろか。続き。啓一郎のコンセプトはわかったし、俺も賛成だし」
ため息のわけを聞くタイミングを完全に失って、小さく頷く。
何も気づかなかったように、一矢が片手でくるくるとスティックを回しながら口を開いた。
「作りながら、もっともっとさ……話し合ってこーよ。『Crystal Moon』の時みたいに。音だけじゃなくて、そのテーマとかコンセプトとか。ぶつかってもいいから、徹底的に話し合って。一つ一つの曲をもっと大事に、メンバーみんなが大好きでいるよーに」
一つ一つの曲に込める想い。
その全てが、俺たちの一歩一歩の軌跡になっていく。
いろいろ不安はあるけれど、俺たちは俺たちのようにしか出来ない。
そして、俺たちのようにしか……やりたくない。
「じゃあ第一段階の方向性としては、この曲の方向性はそんなコンセプトで」
……誰かを踏襲する生き方は、ごめんだ。
◆ ◇ ◆
さーちゃんが来て、武人も学校が終わって来て、そのままアレンジに没頭していると気づけば二十一時も近かった。区切りがついたところで解散する。ずっと同じ曲を聴いていると視野が狭くなるし、明日はまた移動だし。
「んじゃ、お疲れー」
あゆなと約束してるし、一足先にスタジオを出て携帯を取り出しながら、また微かに胸が痛くなった。
昨夜、ここで由梨亜ちゃんを見送ったことを思い出した。
(はーあ)
軽く頭を振って、取り出した携帯を開く。
あゆなからのメールが来ていて、それに視線を落としながら嶋村邸の敷地を出た。あゆなと会うから、単車をやめて今日の俺の足は電車だ。
「うわ」
「お疲れ」
敷地を出た瞬間、そこの向かいの壁にあゆなが寄りかかっていてびっくりした。
「何だ、来てたの?」
携帯を閉じてポケットに突っ込む。目を丸くして前髪に片手を突っ込みながらあゆなの方に近付くと、壁から体を起こしてあゆなが小首を傾げた。右側に一本にまとめて縛った長い髪が揺れる。
「うん」
「入ってくれば良かったのに」
「ん……でも、仕事中だし、悪いから」
「寒くなかった? どっか駅前の店とかでも良かったのに」
俺より頭一つ分くらい低い位置にある頬に手を当てる。ひんやりと冷たい。
「馬鹿だなー」
「馬鹿に言われると人生考えちゃうわ」
待て。
目を思い切り細めて、当てたその手でそのまま頬をつまんで引っ張る。ふにっと柔らかい感触と共に、あゆなの顔が茶目っ気のあるものに変わった。てか、変えてやった。
「やだやめてよ」
「『ごめんなさい』」
「許してあげるわ」
俺が謝ってるんじゃない。
「ぢゃなくてッ。『ごめんなさい』の言葉が欲しいなぁぁぁぁ?」
「はーなーしーてよっ、馬鹿!」
繰り返すかね……。
仕方なく放してやると、あゆなは解放された頬を庇うように両手で覆いながら俺から一歩離れた。俺を睨むその視線が、ふと後方にそれる。
「お疲れー。……と、あれー?」
声に振り返ると、一矢がちょうど単車を押しながら出てくるところだった。あゆなの姿を見て目を丸くする。
「何だ。あゆなちゃん?」
「お疲れ」
「どしたの?」
まだ何も知らない一矢が俺のすぐ隣に立つ。嶋村家の光源を遮られて、あゆなの全身に一矢の影が落とされた。視線をその顔の位置に向けながら両手をポケットに突っ込む。
「えーと」
口篭って、あゆながちらりと俺を見上げるのがわかった。
「あー……あゆなと、待ち合わせてて」
「は? 待ち合わせ?」
「まぁ……。メシ行こうって言ってて」
改めていちいち報告するのも何だか気恥ずかしくて、言いながらするーっと視線をそらす。一矢が、俺とあゆなを見比べて目を丸くした。
「え? あれ? って、は?」
「まあ、そーゆーことで」
「……いつの間に」
「……さて?」
曖昧な言葉と雰囲気で察した一矢が、垂れ目を見開いて思い切り真顔で尋ねる。それからにやーっと笑った。
「へぇ~」
「……何だよ」
「……何よ」
「いぃえ~? そんじゃ、短い逢瀬をごゆっくり」
あのなぁ。
「ほんじゃぁね~」
「とっとと帰れ」
単車に跨ってエンジンをかけながら冷やかすように言う一矢に、足蹴の真似をする。一矢がへろっと舌を出して単車を発進させた。背中を向けたまま、片手をひらっと振る。
その背中が完全に暗闇に消えてからあゆなと顔を見合わせると、あゆなは何だか少し照れたような表情で両手を顔に当てていた。
「もお……」
その表情に、昨日から痛む心の亀裂が、少し埋められるような気がする。
……俺は、間違ってない。
今、一番大切にすべきはあゆななんだって昨夜思ったことは、間違いじゃない。
「行こうか」
ポケットに突っ込んでいた片手を差し出す。
微かに俯けていた顔から目線だけを上げて、顔に当てた片手をあゆなが伸ばした。
その手をそっと掴むと、指先までひんやりと冷たい。包み込むようにあゆなの手を自分の手の平に閉じ込めながら、思わず呆れたような視線を落とした。
「すげー冷えてる」
「だって」
とりあえず駅の方向に向かって歩き出しながらあゆなを見下ろすと、小さく唇を尖らせるのが見えた。
「こっち、わたしが来た方が、少しだけ時間が長くなると思ったんだもの」
「……風邪ひいたりしたら、心配するだろ」
照れ臭い。でもそんなふうに思ってくれる気持ちが嬉しい。
多分俺は今、凄く照れた表情をしてるだろう。街灯しかない夜道で良かった。
「でも、さんきゅ」
きゅっと繋ぐ手に力を込める。そのまま俺の上着のポケットに突っ込むと、手の中であゆなの冷たい指先が俺の指先に絡められた。
まだ心の奥底で引き摺る想い。
でもきっとそれも、少しずつ癒されていく気がする。
君の存在に。君の気持ちに。
由梨亜ちゃんに抱き続けている想いは、俺自身には刃にしかならない。そのことは嫌というほどわかっている。
それでもまだ彼女に心を揺らさずにいられないけど、君が、そばに、いてくれるなら。
「何か、食いたいものある?」
ポケットの中の指先で繋いだあゆなの指先を軽く弾きながら尋ねると、あゆなが顔を上げて目を細めた。
「おいしーもの」
「そんな大雑把な」
「駅の反対側にね、おいしい豆腐料理のお店見つけたの。それともお肉とかの方が良い?」
「いや、いーよ。肉食うと酒飲みたくなりそう」
「豆腐って健康食材よ。どうせろくなもの、食べてないんでしょ」
「地方で凄ぇもん食ってるかもよ」
「地方限定カップラーメンとか?」
あゆなの言う駅の反対側を目指して、大通りから駅前に出る。昨日広瀬と遭遇したのと同じくらいの時間帯の割りには、昨日より人が多かった。信号待ちで足を止める。
「そう言えば、掃除してくれたんだ?」
一昨日帰った時、部屋がすっきりしていて綺麗だったことを思い出して尋ねると、あゆなが小さく頷いた。
「ん」
「ありがと。助かる」
青に変わった信号に歩き始めながら礼を言うと、あゆなが少し迷うような目つきをしてから俺を見上げた。
「あのね」
「うん」
「……電話が、凄く鳴ってたんだけど」
鳴ってましたか。やはり。
昨日の広瀬の話を思い出して、つい顔を顰めた。そんな俺の表情に、あゆなが首を傾げる。
「留守電になってなかったけど、一応そのままにしておいたのよ。しておいた方が良かった?」
「や、しなくて良い」
前を向いたまま、横断歩道を反対側まで渡る。
一斉に人が渡ったせいで混み合う道を、人を避けながらため息をついた俺に、あゆなが「どうしたの?」と目を瞬いた。
「そう言えば前、留守電聞かないで全部消したって言ってたわね。何かあったの?」
「……」
「わたし、あの時いきなり怒鳴られた気がするんだけど」
そう言や怒鳴ったな。タイムリーに電話かけてきたから。
「あー……」
地下通路に下りる階段の脇を通り過ぎて、また信号に引っ掛かる。駅はもうすぐ目の前だ。足を止めた俺の隣で、同じく足を止めたあゆなが返事を待って黙った。
「変な電話がずっとあって。昨日広瀬に……あ、同じ事務所のD.N.A.ってバンドのヴォーカルなんだけど……」
「啓一郎くんっ」
反対側の信号を見つめたまま説明しようとようやく口を開いたところで、突然あゆなと反対側の腕をくいっと引っ張られた。
ので、口を閉ざしてそっちを見る。
「あ、久しぶり」
「久しぶりー」
そこに立っていたのは、クロスのライブに時々来てくれるコだった。何度か話したことがあって、自分の友達とかも何人か連れてきたりしてくれるので覚えている。名前は『マキちゃん』ってことしか知らないけど。
今も、マキちゃんの後ろにもう一人女の子がいて、そのコの顔にも何となく見覚えがあった。多分ライブに来てくれたことがあるんだろう。ぺこりと軽く会釈する。
「ねー、最近どうしてるの? ウェブサイトとか動いてないし。ライブやってないの?」
くいくいと俺の袖を掴んだままで、ちらちらと俺の隣に立つあゆなに視線を送りながら尋ねる。それに気づいてあゆなが小さく会釈をした。
「や、ライブやってると言えば言えるんだけど、東京……つか、首都圏でやってなくて。あちこち地方とか行ってて」
「事務所ついたってホント?」
今までのクロスのウェブサイトはずっと和希が更新かけてたんだけど、最近それどころじゃないし、ブレインでウェブサイト作ってくれてるしで、今はトップページだけに簡単な文章と『移行中』って表示が出ている。
ブレインの名前は理由があるのか出していなくて、ソリティアとロードランナーのサイトのアドレスがその下にくっついてて、そっちのサイトに飛ぶようになってたはずだ。
ソリティアはともかく、ロードランナーのウェブサイトでは一応、細々とクロスの活動予定みたいなものも出してくれている。だけど正直わかりにくかったりもするし、雑誌やラジオなんかのメディア露出予定は載るけど、ライブの予定はほとんど告知していない。
「あ、うん」
「すごーい。良かったねー」
信号が青に変わって、周囲で同じく信号待ちをしていた人間が動いていく。マキちゃんはどうにもあゆなが気になるらしく、ずっとちらちらとそっちを見ながらも、そんなふうに言った。
「ありがとう。もーじきサイトも開通するし、そしたらまたよろしく」
「うん、もちろん。ラジオ聞いたよー。……クロスのライブで、物販やってた人?」
あゆなが俺の隣で曖昧な笑みを浮かべた。
角度的に多分マキちゃんに見えていない繋いだ手を引っこ抜こうとするので、半ば無理矢理それを掴んだまま少し躊躇う。
ファンの人の立ち位置や心理が、俺には正直良くわからない。
マキちゃんは多分、クロスのファンをやってくれていると認識していいんだろうと思う。それこそ先日の話じゃないが、クロス初動の頃からの。
――彼女ってやっぱどうしたって別モノじゃん。格が違うってゆーか……張り合ってもしょーがないって思うんじゃないの?
広瀬たちが『ペルソナ』と呼ぶファンの人と、出回ってる俺の電話番号。
前からクロスの音楽ってやつに共感を抱いてくれる人を、俺は信じたい。
こそこそバレていくくらいだったら、いっそはっきり紹介しちゃった方が良かったりしないんだろうか。
(でも……)
それであゆなに何かあったら? 俺がいない間に。
何かって何だか俺にもわからないが、嫌な思いをさせることになったら。
「……うん。物販やってくれてた。学生時代からの付き合いがあって」
「ふうんー。マキですー。よろしくー」
「あ、どうも……」
まだ俺のポケットから手を引っこ抜こうとしながら、あゆながぎこちなく会釈をする。あゆななりに気を使ってるんだろう。それはわかるんだけど。
仕方なく繋いだ手を緩めると、マキちゃんの目から隠すように、あゆなは手を抜いてさりげなく自分の後ろで交差させた。
「あ、じゃあ……また、ライブ行くね」
「楽しみにしてます」
マキちゃんの後ろにいたコが初めて口を開いて頭を下げた。
「ありがとう」
礼を言って微笑むと、変わり始めた信号にマキちゃんとそのコが慌てて走り出す。
ついそれを見送っていると、反対側に渡ったニ人が、振り返って手を振った。空いている片手でそれに応えている間に、また信号が赤に変わる。
「何ですぐ手を放してくんないのよ」
目の前を通り過ぎていく車の流れに目を向けたまま、あゆながむくれたような声を出した。
「何で放さなきゃなんないの」
「だって……ファンのコでしょ」
「そうだけど。……こそこそしなきゃなんないの?」
「だって」
それきりあゆなが黙る。
……隠すのは嫌だ。別に悪いことをしているわけじゃない。俺は芸能人なわけでもない。
反面、あゆなの言うこともわかるから、俺自身複雑な気がして言葉を閉ざす。
――元からのクロスのファンのコとか……必要以上に過敏になってるって言うか……
――啓一郎くんはヴォーカルだし露出も一番多いからターゲットになりやすい
「まだ、メジャーが決まって東京に出てきたばっかりのコとかと違って、啓一郎たちは活動本拠地が東京なんだから。ずっとここで活動、してんだから。他のアーティストの人とかよりも早い段階で東京って街を意識してないとまずいんじゃないの」
それは、そうかもしれないけど……。
こんなに人がたくさんいる街で、こうして声をかけてくれる人に偶然出会ってしまうくらいには、応援してくれている人が少しずつついているのかもしれないけど……。
今まであんまり深く考えてこなかった、応援してくれる人との距離感ってやつを考えなきゃいけないのかな。
「そんな、過剰に警戒するほどじゃないよ。俺らは」
車の流れが巻き起こす風に前髪を揺らされながら、俺はあゆなの手を繋ぎ直して笑顔を向けた。
「豆腐料理、食うんだろ」
――……何だか、遠くなるような気がしただけ。
「うん」
頷いて見上げたあゆなの笑顔が――あゆなの笑顔の方が、俺には遠くなるように見えた。