第9話(2)
余計なことを言ってまずいことになったら……まずいじゃないか。
「あ、うん、あの……電話がね、繋がらないから……」
そこで一度言葉を切ると、無理に明るいテンションを作っているような声で朗らかに続けた。
「じゃあ、もう、なつみさんに会いに行ったんだ」
良かった。知らなかったらどうしようかと思った。
「うん……多分」
それきり由梨亜ちゃんが言葉を途切れさせる。俺も何を言えば良いのかわからず、沈黙が訪れた。
受話器の向こうから、車の走り去るような音が聞こえる。――外?
「啓一郎さん、今、どこ?」
どこにいるのか尋ねようと口を開く前に、由梨亜ちゃんから同じ質問が発せられる。胸に過ぎった予感が、俺の心臓の鼓動を加速させた。
「美保ん家の、スタジオ」
「じゃあ、灯りが点いてるのは啓一郎さんなんだ」
やっぱり……。
「うん」
「行っても良い?」
「……いーよ」
「今、すぐ前にいるの。待ってて下さい」
「うん……」
通話を切った携帯をしまって、背中を壁に預ける。
心臓が、痛いくらいに速い。
ずるずるとそのまま座り込んで片腕で頭を抱えていると、カタン……とスタジオのドアが開いた。
頭を抱えたまま、目だけ上げる。笑顔を作ろうと努力しながら、口を開いた。
「どうしたの? こんな時間に」
まだ二十一時前だから『こんな時間』ってほどでもないけど。
俺の言葉に、由梨亜ちゃんは無邪気ににこっと笑って中に入ってきた。答えずにスタジオをくるっと見回す。
「久しぶりに来た気がする」
「そう? ……そうなる、かな」
「何してたんですか?」
ふわふわの髪をニつに分けて縛って、それが妙に由梨亜ちゃんをあどけなく見せていた。白いピーコートとチェックのミニスカート。
「何してたってほどじゃないけど。時間が余ってたから、出来る時に作詞やっちゃおうと思ってて」
思って考えてるだけだけど。
まだアレンジに手をつけてない楽曲でイメージが直感的に湧きにくいから、何も出来てない。ギターで遊んでたし。
「ふふ。偉いの」
「和希の方がよっぽど偉いよ」
辛うじて笑顔を保ちながら、けれどそれ以上顔を上げることが出来ずに、同じ姿勢のままで会話を繋げる。
「美冴ちゃん、元気?」
由梨亜ちゃんがくすっと笑う。大きな目を細めて指で髪先をいじりながら、上目遣いで俺を見た。
「クロスの布教活動してますよ、何か。ウチのクラスで曲知らない人はもういないくらい。方宮くんが少し迷惑そうな顔してます」
「はは。あいつ、バンドやってるくせに人の視線集めるの好きじゃないから」
「最近東京でライブやらないから、次にやる時は何人かぞろぞろと行きそう。いいって言ってるコ、増えてきてますよ。ラジオとか、結構聞いてる人増えてるみたい、ウチの学校。メンバーの方宮くんが在籍してるし、目立つし、他のメンバーも先輩だしで」
ありがたい。
「……和希に会いに来たの? もっと早く来れば良かったのに」
ようやく立ち上がりながら、それでも僅かに顔を伏せる。胸が痛い。
由梨亜ちゃんの笑顔に、切ないものが滲んだ。
「その……もし、少しでも会えたらいいなって思ったけど……ちょっと来るの遅かったみたい」
「……」
「わたしね、バイト始めたんです。美冴と同じファーストフードのお店で。……それが終わってから来たから、間に合わなかったみたい、ですね」
何も気にしないふうに笑顔を作る由梨亜ちゃんが痛々しい。
冷蔵庫まで歩いて行って扉を開けると、俺は中から紅茶のペットボトルを取り出した。
「飲む? この寒いのにアイスで悪いんだけど」
「あ、嬉しい。ありがとう」
目を細める由梨亜ちゃんに近付いてペットボトルを渡してあげる。
息が詰まりそうで、そのままそこを通り過ぎて壁際にあるCDプレーヤーに足を向けた。電源を入れて、近くに転がっているCDを手に取る。プレーヤーの前の棚の上には、適当に誰かが持ち寄って置きっ放しのCDが乱雑に積まれたままだ。
「なつみが、気になる?」
「あ……な、なつみさんのことは、仕方ないって思ってるし。後から割り込んだみたいになったの、わたしだから……あ、あんまり気にしちゃいけないって、思ってるし」
健気に言う由梨亜ちゃんの声を背中に聞きながら、俺は無言でCDを選んだ。一枚をケースから抜き出してプレーヤーに突っ込む。
「明日会ったりとかしないの?」
明日は平日だけど、こっちだって体を壊したら困るから、多分今日と同じ時間くらいにはリアレンジも終わるだろう。その頃なら学校も終わってるはず。
再生ボタンを押して顔だけで振り返る。俺が渡したそのままのペットボトルを持って立っている由梨亜ちゃんは、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「明日、わたしが駄目なんです」
「駄目?」
「はい。明後日に親戚の結婚式があって、明日の夜から家族で出ちゃうんです。お父さんの実家の方で。四国……で……」
ああ、そうなんだ。それでそんな切羽詰ったみたいな表情をしているんだろうか。
由梨亜ちゃんがこっちに戻って来た時には、また和希が東京にいない。
「そう」
スピーカから流れ出した、敢えて雰囲気ぶち壊しのようなうるさいロックバンドの音に、俺の返事がかき消されそうになる。
コンポのディスプレイに浮かぶCDのランタイムをぼんやりと眺めながら、軽く握った片手を口元に押し当てて吐息をついた。
やっと会えると思ったら、なつみにとられちゃったわけだ。それは胸中穏やかじゃないだろうけれど。
「だから、その……なつみさんのとこに行っちゃう前に、少しだけでも顔が見られたらって思って来たんですけど。電話してみたら繋がらないし、その、それで啓一郎さんに電話しちゃって……」
彼女の言葉に今度は体ごと振り返ると、由梨亜ちゃんがごめんなさいと俯くところだった。
「いーよ、別に。和希除けば、俺以外に連絡先知らないでしょ」
「ええ……」
クラスメートとは言え、武人ともそんなに親しい感じではないし。
胸の痛みはおさまる気配がなく、由梨亜ちゃんが頷くとそれきり沈黙が訪れた。俺の真後ろのスピーカから流れる、うるさい音だけが空しく響く。
「和希、ちゃんと由梨亜ちゃんに言って行ったんだ」
「はい」
頷いて顔を上げた由梨亜ちゃんが、作ったままの笑顔で不意に涙を溢れさせた。
その、こみ上げる切なさを堪えるような……けれど堪えきれないでいる顔が、苦しいほど俺の胸に迫る。息切れしそうになるほど、胸を詰まらせる。
「あ、やだな、何泣いてるんだろ」
慌てたように言いながら、急いで涙を両手で拭う。けれど次々と溢れる涙は止まる様子を見せず、泣いている本人が焦っているのがわかった。
「やだな、別に、あの……ご、誤解しないで下さいね。和希さんがなつみさんと会うのが嫌だとかそういうんじゃなくて……付き合い長いんだし、心配してるのわかってますから。……た、ただ、会えないのが少しだけ、寂しくて。あ、でも別にほんの少しだけで、全然平気なんですけどっ……」
(キツイなあー)
キツイよなあ。
彼女にしてみれば、きっと俺の彼女への想いはもう過去のものなんだろう。
そして、大好きで大好きで仕方がない和希と付き合い始めて半年もしないのに、会えない寂しさで追い詰められてるんだろうこともわかる。
そんな自分を無理矢理納得させようと頑張ってるんだろうことも。
だけど、そんな健気な姿を見れば、何かしてやりたいと思わされるじゃないか……。
……忘れようとし、想いを眠らせようとするたびに心揺らされる。引き戻される。これじゃあいっこうに俺は先に進めない。
「いーよ。強がんなくて」
掠れた声で押し出すと、無理矢理言葉を募っていた由梨亜ちゃんが押し黙る。そして、諦めたように小さな吐息を落として、目線を逸らした。
耳に優しい、柔らかく細い声で小さく呟くように再び口を開く。
「眠れなくて」
「そうなんだ」
「はい。何度も同じ夢を見るんです……」
「夢?」
「和希さんが悲しい顔で『ごめん』って。『俺、なつみのそばにいてやらなきゃ』って」
「……」
「夢だってわかってるけど、ホントになりそうな気がして怖くなります……。変な誤解をしてるつもりはないけど、和希さんにとってなつみさんは大事な人だってわかってるし、だったら……」
涙を溢れさせたまま、精一杯笑顔を保とうとしていたその表情がくしゃりと崩れた。続きを口にするのが怖いと言うように噤む。
それから改めて、口を開く。
「好きになればなるほど、今の幸せがいつか消えてしまうような気がして。会えない日が続いて、このままどこかへ行っちゃうような気がして、怖くなります……」
由梨亜ちゃんは、胸を突かれるような寂しい顔で俺を見つめた。思わず手を差し伸べたくなる。涙に濡れた淡いブルーの瞳が、切ない顔が、忘れようと押し込めている想いを揺り動かす。
言葉を紡ぐことが出来ず黙ったままの俺に、由梨亜ちゃんは堪えきれなくなったように両手で覆った顔を伏せた。細い肩が震えている。由梨亜ちゃんから溢れる寂しさが、フローリングの床に涙のしみを作った。
(頼むから……)
忘れさせてよ。
手を差し伸べたくなる衝動と、忘れたいと願う痛みに目を閉じて吐息をつきながら口を開いた。
「泣かないでやってよ」
俺には、あゆながいる。
今最も大切にすべきは、あゆなだ。
「あいつ、由梨亜ちゃんだけは泣かせたくないって言ってたよ」
「……」
「だから、泣かないでやって」
両手で顔を覆ってうつむいていた由梨亜ちゃんが、涙で濡れた瞳を上げる。それと入れ違うように、俺は視線を逸らした。
「あいつも多分、精一杯なんだ。俺もなつみに会ったけど、和希の立場じゃほっとくわけにいかないだろうなって俺も思う。そりゃあその分会える時間が削られて寂しい思いはするかもしれないけど……でも、それはあいつも一緒だと思うよ」
俺の言葉に、由梨亜ちゃんの長い睫毛が瞬いた。俺の言葉に縋ろうとしているのが、その表情を見てわかる。和希への想いを持て余し、不安で崩れそうな自分を支える為の言葉を俺に求めている。
「あいつだって、少ない時間の中で会いたいのは由梨亜ちゃんだと思うから。寂しいのはあいつも同じだと思う」
「そう、かな……」
「そりゃそーだよ」
和希も馬鹿だよな。言わなきゃこんな思いさせることもないのに。
「黙ってりゃバレないものを、わざわざ由梨亜ちゃんに言った気持ちを考えてやって」
「……」
「なつみに会うなんて言ったら不安になんのなんかわかりきってて、敢えて由梨亜ちゃんに言ったのは、嘘や隠し事を由梨亜ちゃんに持ちたくなかったからだろ。自分のことを信じてくれるって信じたからだろ。……あいつなりの、精一杯の誠意なんだと思うよ」
「……」
「……泣かないでやってよ。知ったらあいつ、傷つく」
真っ直ぐに言った俺に、由梨亜ちゃんがまた目を伏せる。細い肩が微かに震える。
「あいつが由梨亜ちゃんを想う気持ちに嘘はないよ。だから、不安にならないで信じてやって。追いつめないであげてよ」
何で。
……何で、俺に、言うのかな。
彼女の仕草の一つ一つを、表情を、また心に刻みつけてしまいそうな自分が怖くて目をそらす。
忘れようとしているのに、そんな手を貸したくなるような顔を見せないでくれよ……。
「わたし、わがままなのかな」
涙に掠れた声が小さく聞こえる。目線をそらしたまま、俺は言葉を選んだ。
「恋愛してる時なんて、みんなわがままなんじゃないの。由梨亜ちゃんが不安になるの、当たり前だと思うしわかるよ。でもあいつ、そういう奴だから。器用に見えて全然器用じゃないし、女の子の気持ちとかも多分全くわかってねえし、だけど」
和希だって由梨亜ちゃんを不安にさせていることくらい理解してる。
だから多分、一番苦しいのは和希のような気がする。
「だけど、その分誠実なはずだから」
「うん……」
「そういうあいつをわかってやってよ。和希のそばにこの先もいるんだったら、その上をいく人になってよ。誰もかなわないような関係築いてよ。……不安に揺れたりしないでよ」
半ば突き放すように言って、それきり言葉を閉ざす。
恋愛ごとに無頓着で、自分が異性受けが良い自覚に欠けてて、他人の痛みを自分のことのように放っておけない奴だから、いちいち不安になっているときりがない。
でも、肝心の和希が由梨亜ちゃんしか見てないのは端から見ててもわかるから、だから揺れないで欲しい。
俺の勝手な願いだけど。
どうせだったら、誰も入り込む余地がどこにもないような、そのくらいの関係を築き上げてよ……。
(キツイなあー)
何やってんだかな、俺。
心の中で繰り返す。背中を壁に預けたまま、腰に回した自分の腕に片肘をついて、前髪をかきあげるように顔を覆った。顔を上げてらんなかった。
苦痛でこっちが泣きたい。
忘れたいのに。忘れさせて欲しいのに。
そんな自分の中でぎりぎりの時に、何で俺に助けを求めるんだよ……。
「ごめんなさい」
顔に滲んでいたのかもしれない。不意に由梨亜ちゃんが、消えそうな声音で呟くように言う。
「啓一郎さんに言うことじゃないですよね……」
「……」
「駄目だなあ。ごめんなさい。いつも甘えて……頼って」
「……へーき」
自分で自分を追い込まないと、また引きずられる。
顔を覆ったまま、由梨亜ちゃんの泣き顔を視界に入れないまま、俺は言葉を押し出した。
――『もうわたしから乗り換えたの?』とか思われるかもよ
そう思うなら思ってくれ。
……むしろ。
頼る気にならないくらい、呆れるとか嫌うとか、してもらって構わないよ……。
じゃないと、俺の中から君の姿を消すことが出来ない。
「和希から聞いてない? 俺、今、あゆなとつきあってるんだ」
視界の外で由梨亜ちゃんが顔を上げたのがわかる。
「だから、前に俺が言ったことだったら、もう気にしないで。……平気だから。今は、あゆなを、一番大切に思ってるから」
押し出すように、一言一言はっきりと告げる。その自分の言葉に、胸が抉られた。
その言葉を本当にしようとは思っているけれど、そう簡単に気持ちなんて切り替えられない。……これ以上、そばにいたくない。
壁から体を起こす。床に散らばったままの譜面を拾い上げた。
「もう何とも思ってないから、俺は大丈夫」
本当にそうだったら、どんなに良いか。
手の中で譜面を揃えながら笑顔を向ける俺に、由梨亜ちゃんが少し複雑な笑みを返した。和希、由梨亜ちゃんに言ってなかったんだな。
「あゆなさんと……」
「うん」
「良かった」
ぐさ。
「……」
「あ、や、そういう意味じゃなくて。あの、啓一郎さんも幸せになって欲しいから。お兄ちゃんみたいに思ってるし」
ぐさぐさ。
「はは……どぉも……」
痛いなー。拷問ですよねー、これー。
「もう、帰りなよ。遅くなるから」
「あ、はい」
由梨亜ちゃんを促して、一緒にスタジオを出る。
俺は戻るつもりだから防音扉は開けっ放しのまま、外に続く短い廊下を抜けると、澄んだ夜空に星が瞬いているのが微かに見えた。振り返ると淡い色の由梨亜ちゃんの髪が風にふわりと揺れる。
「一人で平気?」
「はい、平気です。ごめんなさい、わたし、邪魔しちゃいました?」
「そんなことないよ。まだ、しばらくやってくつもりだったし」
バイトまではまだあと一時間以上ある。
スタジオの入り口で足を止めて見送る俺を振り返って、由梨亜ちゃんが顔を上げた。
「でも、聞いてもらって、少しだけ楽になりました」
「……そう」
「和希さんもきっと、寂しいって思ってくれてますよね」
「うん。今日はもう会えないかもしれないけど、でも後で電話くらいはしてみたら」
「そうですね。声聞くと、もっと会いたくなるかもしれないけど」
どこか遠くを見るような目をして由梨亜ちゃんが呟く。
「和希ってあんまり電話とか、しない?」
「ん……そう、ですね。ニ日とか三日おきくらいにくれる、かな」
まあ、あんまりべたべたってタイプでもないもんな。
そりゃあ俺は和希と付き合ったことがあるわけじゃないんで、どんな付き合い方をするかまでは知らんが。家いても、曲とか作ってたりするとそういう気も回らなくなるだろうし。……って、俺はそうなんだけど。結構。
「くれても短いし。……優しいけど、他の人への優しさとの違いがわからなくて、本当にわたしのこと好きでいてくれてるのかわからなくなります」
「由梨亜ちゃん」
「今、一生懸命頑張ってるの知ってて……知ってる、けど。ファンの人がたくさんついたら、手の届かない人になっちゃいそうな気がして、怖くなります……」
はは……と、由梨亜ちゃんはきゅっと眉根を寄せて切ない笑顔を見せた。
いつだか、あゆなも言ってたっけ。
遠くにいっちゃいそうな気がするって。
「そんな悲しい顔、見せないでよ。クロスでもバンマスで、俺も悪いんだけど頼りっ放しで、由梨亜ちゃんのそばだけだと思うから。安らげるのが」
「……」
「追い詰めないでやって」
「はい」
繰り返した俺に、由梨亜ちゃんが笑顔を作る。
俺も笑顔に似せた表情を顔に作り上げて、手を振った。
ごめんね。送ってあげる気には、なれそうもない。
「気をつけてね」
「はい。ありがとう」
由梨亜ちゃんが敷地を歩いていく背中が木陰に見えなくなると、俺は踵を返した。彼女の切ない涙交じりの笑顔が胸に残ってまだ痛む。右に左に、心が揺れる。
スタジオに戻ると、まだCDだけが歌っていた。テーブルに揃えた譜面に手を伸ばすが、これ以上は何のメッセージも浮かんで来そうにない。
大きくため息をついて、手にした譜面を床に放り出した。まるで俺の心みたいに揺れながら、床に散らばっていく。……駄目だ。休憩しよう。
(メシでも買って来ようかな)
いつも同じ近くのコンビニじゃ味気ないし、少し夜風に当たりたい気もして駅前の惣菜屋を目指すことに決めた俺は、一度スタジオにロックをかけて外に出た。