第8話(5)
和希が言葉にしてくれて、そうかもしれないと素直に頷けるような気がする。
俺が音楽を……音楽と言うものと真面目に向き合ったのは、俺自身の傷を音楽が拾い上げてくれたから。
ただかっこ良いだけのものを目指したいわけじゃなくて、伝わる『何か』を残せるものが音楽だと信じたから。
「でも結局、その為には売れなきゃなぁ」
さっきまで着てた服をリュックにしまいこみながらぼやくように和希が言うのを聞いて、思わず俺も苦笑を浮かべた。
「聴いてくれる人がいなきゃ伝えることも出来ないし?」
「うん。堂々巡りだよね、その辺。鶏と卵って感じ。『売れる』為に音楽をやりたくはないけど、そもそも売れなきゃどうにもなんないし、大体生活出来ないから活動そのものが怪しくなるわけだし。聴いてくれる人がいればそれでいいってもんでもないと思うし。まずは自分が楽しめて気持ち込められて……そっからなんだろうとは思いつつも」
「そうは言っても客がいなけりゃへこむしね。聴いてくれても、こないだみたいに攻撃されりゃあ傷つきもするわけで。どんなテンションでやってきゃいーのかわかんなくなったよ、こないだは」
「うん……あ」
俺の言葉に頷いた和希が、不意に何かに気づいたように動きを止める。
「あ」
きょとんとした俺も、すぐに理由がわかった。音楽が聞こえてくる。
アコギニ本、若い男の歌声。
「……いるんじゃん」
地元のストリートミュージシャン。
思わず、顔を見合わせて笑う。
和希が窓の鍵に手を掛けるのを見て、俺も立ち上がった。開けた窓から、冷たい夜風と共に歌が大きくなって流れ込んで来る。
隣に並んだ俺に、和希がちらっと視線を流した。眼下にはさっきの侘びしい商店街が見える。
相変わらず人のいない通りの、ちょうどこのホテルと向かい合う店のシャッターの前に、まだ高校生くらいの若い男がニ人、地面に直接あぐらをかいて生声で歌っていた。
「何か嬉しいな」
自分たちも今さっきストリートをやって楽しくて、その夜にストリートをやってる少年に出会うってのも、オツじゃないか?
一人が俺たちに気づいて顔を上げた。歌いながら手を振ってくる。
それに手を振り返したところで、一矢が戻って来た気配がした。
「何してんの」
「ストリートやってる」
誰もいないアーケード。
それでも自分たちの歌える場所を探して。
聴いてもらえる僅かな可能性に賭けて。
「行きたいって顔してる、啓一郎」
うずうずしたような俺の表情を読んで、和希が笑った。
「うん。行きたい」
話してみたい。何なら一緒に歌ってみたい。
彼らの姿は間違いなく、俺たちの姿と同じ――重なる。
「お子さまは元気ねー」
呆れたようにタオルを畳む一矢に蹴りをくらわせて、窓から身を乗り出す。一曲終えて和希が隣で拍手を送ってあげると、少年たちは嬉しそうな満面の笑顔を向けた。
「そっち、行って良い?」
手すりに両手をかけて、前のめりに体重をかけながら言う。叫ぶほどの距離じゃない。下のニ人が、声を合わせて答えた。
「歓迎ーっ」
「行くまで次の曲待ってっ」
言って窓から体を引っ込めると、上着を掴む。
楽しい。
――音楽やってて、嫌なことばかりじゃないはずでしょ?
良いことだけじゃないけど、良いこと悪いこと差し引き勘定でやっぱ結局たどり着く。
やっぱりどうしても、音楽が好きで、これからもそれをやり続けて行きたい。
「俺らも行きますか」
「しょーがないなあー」
部屋を飛び出す俺の背後から、和希と一矢の苦笑の声が、追いかけてきた。
◆ ◇ ◆
「……もしもし。俺」
和希の言う通り、とてもホテルの風呂とは思えないありさまの風呂から出て、部屋に戻る前に携帯を取り出した。
あの後結局、ストリートの彼らと一緒になって、二十二時が過ぎるまで遊んでしまった。和希なんか車まで行ってアコギ持って来ちゃうし。
……客がいなかったとしても、こんなに楽しめるんだって教えられた気がする。
伝える相手がいてこそではあるけれど、聴く人がいなきゃ自己満足でしかないってわかってるけど……『楽しい』だけじゃ駄目な立場に今は立ってるんだってわかってはいるんだけど。
だけど、まずは自分たちが楽しんで出来なきゃ、もしも見てくれる人がいたって何も伝えられない。どうして音楽を始めたのかを忘れたら、届く歌はきっと歌えない。
多分これからも当分の間、きっと何度もやるハメになるだろう人のいないライブでも、頑張れるんじゃないかって思えた。
いつかきっと、誰かがふと足を止めてくれるって、自分の中で信じてやることが出来そうな気がして。
「うん。お疲れさま。終わったの?」
受話器の向こうであゆなが答える。
「うん。ってゆーかさっきまで遊んでた」
「遊んでた?」
「うん。泊まってるとこの前の道でさ、ストリートやってる奴らがいて……何か、一緒にやったりして」
耳元であゆなが笑うのが聞こえる。
「馬鹿ね」
「すげぇ楽しくて。昼にもストリートやったけど、そっちも面白かったよ」
ホテルの中はしんとしている。本当に他に人がいないらしい。余りに静か過ぎてホテルの人もいないんじゃないかって気がしてくる。
それはないよな? さすがにいるよな……?
「へえ? お客さんたくさん来た?」
「ってゆーか、わざわざ高校生の通学路狙ってやったんだけどさ」
話しながら、どっか座れる場所でもないか探す。
けれどロビーのような空間がまるでないので仕方ない、階段に腰を落ち着ける。
「ノリいーねー、若い人は」
「オヤジ」
「うるせー、同い年」
俺がオヤジならお前だってばばーだぞ。
ストリートのことやラジオ収録のことなんかをぽつぽつと話していると、あゆなが何の前触れもなく吹き出した。
「……何?」
「だって、何だかおかーさんに1日の出来事を報告する子供みたいなんだもの」
あのなあ。
「馬鹿にしてる?」
「うん、馬鹿だなとは思ってる」
先日の殊勝さはどこへやら、すっかり元通りになったようで幸いだよ。
『今まで通りで良い』とか言うんじゃなかった。
「少しは、元気になったみたいね」
憮然とした俺の抗議の沈黙を無視して、あゆながふいっと優しい声音を出す。
「え?」
「一昨日は、やめたいって言い出しそうな雰囲気だったもの」
「まさか」
あゆなの言葉につい笑う。
やめたいなんて思うわけがない。
でも、へこんでたのは確か。
「あゆなが、来てくれたから」
「……」
「落ち込んでたのは確かだけど、あゆなが元気づけてくれたから。ありがとう」
「ふふ。もっと感謝感激していーわよ?」
「いや、遠慮しておきます」
「遠慮しなくていーのに」
その声を聞きながら立ち上がる。あんまり長話してるのもどうかと思うし、そろそろ部屋に戻った方が良いだろう。
「明々後日東京に帰るけど、多分夜遅くなると思うんだ。あゆな、今度スタジオに顔出せば? 時間あったら」
立ち上がって部屋の方にゆっくりと足を向けながら、誘ってみる。そうでもしないと多分、会う時間を捻出出来ないままで、またすぐ東京を離れてしまう。
受話器の向こうで、驚いたような沈黙の後にあゆなが尋ねた。
「いーの?」
「何で? いーよ。美保ん家のスタジオだから。どうせ。多分凄い仕事モードだから、あんまり面白くないかもしれないけど」
俺の言葉にあゆなが微かに口ごもる。
「でも……だって……何かと思うでしょ? その……和希とか」
ああ。『いーの?』ってそういう意味か。
「思わないよ。俺、和希に言っちゃったし」
「えっ?」
え?
「……言ったの?」
「……まずかったの?」
隠す理由がないんだが。
何を驚いているのかが理解不能で、足を止めながらあゆなの返事を待つ。
そんなに広いホテルじゃないから、話が終わる前に部屋についてしまいそうな気がして、足を止めたその場で壁に肩を寄りかからせた。あゆなが少し躊躇いがちに口を開く。
「だって。由梨亜ちゃんに『もうわたしから乗り換えたの?』とか思われるかもよ?」
ごん。
思わず寄りかかった壁に頭をぶつけた。
「クリティカルヒット」
「あ、ごめん。……でも、由梨亜ちゃんに知られるの、嫌なんじゃない? 和希に言ったら由梨亜ちゃんには筒抜けでしょ?」
仕方ないとは思うが、やっぱりどうしても由梨亜ちゃんが引っかかるんだろうな。
確かにまだ知られたくない気持ちがないと言えば嘘になるんだろーが。
「事実なんだから、隠したってしょうがないでしょー……」
「それはそうかもしれないけど」
「もし由梨亜ちゃんが和希から聞いてそう思うんだとしたって、俺の実際の行動なんだから、それにどういう感想を持たれたところでどうしようもないでしょーが。……それが、俺なんだから」
「……」
「隠すような理由なんかないよ。変なこと、気にするなよ」
呆れたように言いながら、再び部屋に向かって歩き出す。耳元であゆなが小さく頷くのが聞こえた。
「ま、スタジオ、考えといてよ。せっかく東京戻るのに少しも会えないんじゃ、その、なんつーか、だから、あの」
「……何よ」
……。
「だから。さびしーじゃん? 会いたいじゃん? 少しくらいはさ」
「……うん」
す、凄ぇ照れくさい。
「だからっ。……あーもういいや、俺もう部屋戻る」
あー恥ずかしい。慣れないことは言うもんじゃない。
思い切り早口に言って歩き出した俺に、きょとんとしているような間があった後、あゆなが笑うのが聞こえた。
「うん」
嬉しそうに頷くのを聞いて、優しい気持ちになる。
好きだと言ってあげられない分、違う言葉で、違う態度で、少しでもあゆなの不安を取り除いていきたい。
それがきっといつか、安定した関係に繋がっていくんだと信じて。
「また、帰る前に時間見つけて電話するから」
「ん。明日も頑張ってね」
……ちょっと嬉しいぞ、これ。
「うん。さんきゅ。……おやすみ」
「おやすみ」
通話をオフにして、携帯を閉じる。
お互いにまだどこかぎこちないような感じはあるけれど、慣れなくて照れくさいだけで、そう遠くないうちに多分慣れるだろう。
……それと一緒に、あゆなの中に残る不安と、俺の中にまだ消えずにいる由梨亜ちゃんへの想いが消えていけばいーんだけどな。
部屋に戻ると、一矢の姿はなかった。和希が一人で背中を壁に預けて、さっきの雑誌を繰っている。
「おかえり。遅かったね」
顔を上げて言う和希の笑顔が、少し元気がない。
「ああ、うん。電話。一矢は?」
「一矢も何か電話とか言ってたよ」
ふうん?
風呂で使ったタオルを、和希たちと同様にタオル掛けに干す。手櫛で濡れた髪を撫でつけながら、俺はちらりと和希を窺った。
「なつみ、どうだった?」
多分どっかのタイミングで和希も電話をかけてるだろうと思うんだよな。
さっきから表情にどっか元気がないのはそのせいじゃないかと思うんだけど……。
「もう家に帰ってた? 電話とかしたんだろ?」
「うん。……謝ってたよ。啓一郎にも謝っといてって。記憶飛んじゃってて良く覚えてないんだけどって言ってた。先生にも怒られたってさ」
「ふうん?」
その言葉を聞いて、少し安堵した。
良かった。じゃあ何かの意図があったわけじゃなくて、本当に服用の仕方を間違えちゃっただけ、なのかな。
一人で胸をなでおろしていると、雑誌に視線を落としたまま、和希が低く続ける。
「会いたいって泣かれた」
その言葉に顔を上げるが、和希の横顔には何の表情も浮かんでいなかった。何を思っているのかは、俺には窺い知ることが出来ない。
「悪かったな。啓一郎」
しばらくの沈黙を挟み、不意にぽつりと和希が呟くように言って、顔を上げた。
どっか無理矢理みたいな、ぎこちない作った笑顔。
「関係ないのに巻き込んで。いろいろ心配させて。……悪かったなと思ってる」
「……」
「俺が、何とかするから」
「会うの?」
「とりあえず、次に東京に戻ったら会いに行く。……行くしか、ないだろ」
それを聞いて迷いが生じる。
恵理に連絡取るとか、余計なことしない方が良いんだろうか。
和希がついててやるなら、それが一番良いような気もするし、逆に一番良くないような気もする。
「余計かもしんないんだけど」
「何?」
「前に、なつみと会ったことがある俺の友達がいてさ。その、女友達なんだけど」
「うん?」
「なつみ、そいつと話してて一時的とは言え、ほんの少しだけ元気になったんだよ。なつみのこと、わかってやれる奴のような気がして」
和希が目を上げる。
「良かったら連絡取ってみようかなと思ってるんだけど……」
「……」
「余計になりそうだったらやめるけどさ。そもそも連絡取れるかもわかんないし」
しどろもどろに提案してみる俺に和希が目を細める。
「あいつ、あんまり心を開ける女友達がいないから」
「そう?」
「うん……。だから、そういう人がいてくれると、なつみの為にも良いのかもしれない」
言って和希は、少し照れ臭そうに苦笑した。
「別に俺、お父さんじゃないんだけど」
「知ってるよそんなこと」
逆効果にならなきゃいーけどな。
……や、大丈夫か。前のままの恵理じゃない。どっかすれてんのは相変わらずだけど、強くなったし優しくなったから。
人は変われるんだって思わせてくれたから。
「わかった。ちょっと連絡取ってみる」
頷いた俺に、和希が呟くように頭を下げた。
「いろいろ心配かけて、ごめんな」
「……」
「……ありがとう」