第8話(4)
「……」
「ま、別にいーけど」
否定的な沈黙に肩を竦め、口に煙草を咥えたままで開きっ放しの雑誌に手を伸ばす。閉じて和希の荷物の上に放り投げると、立ち上がって冷蔵庫を覗き込んでみた。
「うぉー」
「え?」
「何もない」
持参品を入れろってか。
仕方ないので冷蔵庫の扉を閉じ、自分の荷物をあさる。飲みかけのペットボトルを引っ張り出した。キャップを捻って一口飲む。後でコンビニに行ったら飲み物も買って来よう。この建物の中に自販機を期待しない方が良さそうだ。
「じゃあさ。……じゃあ、もし自分がさ」
一矢が少し何かを躊躇うように……いや、言葉を選ぶようにセリフを途切れさせる。迷うような目つきで口を開きかけ、また閉じた。
「だめだ、うまく言えないなぁ」
「何だよ?」
元の場所に座り込んであぐらをかく。ペットボトルを床に置くと、そこにぼんやりと視線を定めた一矢がふうっと息を吐いた。
「啓一郎だからいーか」
「は?」
「言っても。……最近、気にかかる人がいて。彼女がさ、『幸せな結婚』って奴に憧れてるわけ」
「はあっ?」
結婚っ?
「…………………………………………」
何て現実味のない話なんだ。
頓狂な声を出したままぽかんとする俺に、一矢が慌てたような顔をした。
「啓ちゃん、煙草、灰」
「あ……」
忘れてた。慌てて、落ちそうになってる灰を灰皿に落としてから目線を上げる。
「ケッコン?」
「別に今すぐって話じゃないよ。……や、出来ればすぐとか早くとかが良いのかもしれないけど、あくまで『いつかは』とかって話で。夢って言うか。別に俺に要求されてるわけじゃ当然ないし」
ああ何だ。びっくりした。
「幸せな自分の家族に凄い憧れてるんだってさ。あんまし、幸せな家庭ってのに恵まれてなかったみたいで」
「ふうん」
誰の話、なんだろう。
煙草をくわえ、煙を吐き出す。そのまま灰皿に放り込んで前髪をかきあげながら、淡々と話す一矢を見つめた。
「結婚すると普通は両親が増えるでしょ? 相手にも親がいるんだから」
「ああ」
「『お父さんとお母さんが出来る』って嬉しそうに言うわけさ」
一矢の言いたいことがわかった。
「彼女がいつか夢見る結婚って奴には、ちょうど啓一郎んトコみたいな両親の姿があるんだよ。……俺、どう頑張っても無理じゃん? その夢だけは叶えてあげられないじゃん?」
一矢の両親は死んだわけじゃないけれど、母親は連絡先さえわからないし父親は所在がわかるとは言え……そのコが憧れるようなそういう関係を築くのは到底無理だろう、多分。
「したらさ、いくら未来の話、つきあってもないものを結婚がどうとかって話なんかそれ以前の問題だろって言っても、どんなにうまくいったとしても未来永劫彼女の望みを叶えてあげるのが不可能だってわかってて、俺の方を向いて欲しいなんてさ、言えないよな……」
「……」
「振り向いてくれるよう頑張るのさえ、間違いだろーな、とか」
言葉に詰まった。
『一矢のせいじゃないじゃん』なんて気休めを言うのは簡単だけど、そんなことは言わなくたって一矢だってわかってる。
自分が好きだと思う人には幸せになって欲しい。叶えられる望みなら、何だって叶えてあげたい。
だけど一矢には、戦う前から望みを叶えてあげられないことがわかりきっている。
一矢が問題にしているのは原因がどこにあるのかってところじゃなく、結果としてどうなのかってところだから、何を言っても慰めには多分ならないだろう。
そうは思うものの、何らかの足しになればともそもそと口を開いた。
「でも、そもそも結婚って相手の親とするもんじゃないし」
「それはそうだけど、でも夢が『それ込み』でこそ、でしょ?」
ですよね。
「彼女が望んでることがわかってて、それは俺には最初から無理で、だったら俺のこと好きになってくれるようそもそも頑張ったらいけないような気もしません?」
「うまくいきそうだったりすんの?」
無意味に、ペットボトルの蓋に指先を押しつけながら尋ねる。一矢は軽く肩を竦めた。
「気を許してくれている、ような感じがしないことも、ないけど……」
んでも、一矢が特定の誰かのことをこんなふうに話すのは久しぶりに聞くな。
不特定にふらふらしてるだけに、特定の誰かに心を許すようなことが最近はない。
「彼女のことを気に入ってる人ってのが、他にもいるわけ」
「へえ」
「俺なんかより、その方がずっといいんじゃないかって気もしたりする」
もし俺なら、どうすんのかな。
もし、自分だったら。
絶対に彼女の望む幸せを与えてあげられない自分を知っていて、それでも好きになってもらえるよう追いかけても良いのか。
でも……。
「こっち、向かせてみなきゃ話になんねーんじゃねーの?」
わかんないけど。
「好きなら、好きになってもらえるよう頑張って、そっからニ人で考えることなんじゃねーの?」
「……啓一郎なら頑張ってみる?」
少し考えて、頷く。
「俺、多分そんなに我慢きかねーもん。何も意思表示しないで諦めるのが出来ない気がする。……後悔、したくないし」
「……」
「相手が、由梨亜ちゃんみたいに確実に好きな人がいて、絶対俺の方なんか向いてくれそうになけりゃ黙ってるかもしんないけど。そのコ、好きな相手と既に見込みがないんだろ?」
「まあ……」
「気は許してくれてる感じなんだろ? だったら、俺だったら多分諦めつかないよ」
由梨亜ちゃんには言う気はなかった。
でも結局伝えちゃってるわけだし、俺には多分無理だろうなあ。
感情とか気持ちとかを抑制する力が俺は弱い。単細胞で結構。
一矢は少し何か考えるように視線を彷徨わせ、それからため息をつくと顔を上げた。苦笑を浮かべる。
「ま、ただの愚痴ざんす」
「京子ちゃんじゃないんだ?」
一矢は片手で髪をくしゃっとかきまぜながら、苦笑いをした。緩く顔を左右に振る。
「麻美さんでもなくて」
いつだかライブに連れて来ていた元モデルの人とは未だに続いているはず。
「麻美さんはそんな殊勝なタイプじゃありましぇん」
「あ、そ。……とそうだ」
それ以上は話したくなさそうだな。突っ込むのをやめてやるか、と思って、俺はふとなつみのことを思い出した。
そうだ、そう言えば……。
「そう言やさ、お前、恵理の連絡先って知ってる?」
くるっと振り返っておもむろに言った俺に、一矢ががんっと頭を壁にぶつけた。
「……何を唐突に恐ろしいことを」
「いや……」
以前、俺がなつみの呼び出しを受けた時、偶然現れた恵理の言葉になつみは素直に耳を傾けていた。
恵理自身、一度一矢と別れる時にぶっ壊れるような思い詰め方をしてるし、今はそれを越えて立ち直っている。経験した人間の言葉ならなつみの心にも届くかもしれないし、もしかするとあいつがなつみの力になってやってくれないかな、とか……思いついたに過ぎないんだけど。
「ちょっとさ、話したいことがあって」
そんなに恨みがましい顔をしないでくれ。
「携帯とかそういうんは、俺は知らない。今は。あれからあいつ、番号変えてるから」
あれから、と言うのは多分別れてからってことだろう。
「家の方はわかるかもしんないけど、引っ越してたりこっちも変えたりしてたらお手上げ」
言って携帯を取り出しながら、顔をしかめて俺を見る。
「ちょっと俺が連絡すんのはどうかと思うんですが」
「わかってるよ。番号教えてくれれば自分でやるから」
苦笑しながら言った俺に、一矢は渋々携帯を操作してこっちに差し出した。受け取ると画面には恵理の名前が表示されている。
自分の携帯を取り出してその番号を打ち込んでいると、和希が戻って来る足音がした。ドアが開いて、作業を続けたまま顔も上げずに声をかける。
「おかえり。遅かったね」
「ああ、うん」
「風呂、どうだった?」
床に座ったまま、一矢がずるずると移動する。
通過地点にいる俺が作業を終えて携帯を返すと、それを受け取りながら自分の荷物を漁る一矢に、和希が笑い混じりに答えた。
「凄かったよ」
……何か聞きたくない気がする。
「凄いってどんな」
一矢も察して嫌な顔で尋ねた。使ったタオルで頭をくしゃくしゃとやりながら、和希が笑いを含んだままの声で答える。
「普通に人ん家の風呂を借りてる気分だった。笑うよ。男湯も女湯もなくて、風呂って書いてあるとこのドア開けると脱衣所が一つだけあって風呂がある、どこの家にもある感じ。他にもあるのかちょっと探してみたけど、風呂と言えそうな場所はそこだけ」
「……」
「一応カランなんかは三つくらいあったけど、三人も入ったら悲惨の一言に尽きると思う、多分」
男湯と女湯が分かれてないの? ホテルなのに?
「更にそんなとんでもない状態にも関わらず、鍵が壊れてる」
絶句。良いのかそんな状態で。
唖然としたままの俺と一矢に、和希はまだ濡れた髪をかきあげながら肩を竦めた。
「でもこのホテル、他に泊まってる人いないよ多分。俺ら男だからいーけど、これ、女の子だったらキツイよね」
突然誰が入ってくるかわからん状況じゃあ気が気じゃないだろうな、確かに。
「って言ったって、そこしかないんでしょー? じゃあ行くしかないじゃんね……」
気を取り直したように一矢がまた荷物を漁る。
「俺行っていい?」
「どーぞ」
そんな狭そうなところに肩寄せ合って入る気にはちょっとなれん。
一矢に譲って、まだ握りっ放しだった携帯をポケットにしまう。
「今日さ、何か凄く良い感じだったね」
一矢が部屋から出て行くと、部屋を横切って隅に畳まれているタオル掛けを引っ張り出した和希が、タオルを掛けながら笑い混じりに言った。
「今日? ストリート?」
「うん。見てる人たち、凄い楽しそうだった。何かさ、ライブハウスとかでクロス見に来てくれたお客さんと凄い盛り上がるのとかとは全然種類が違うって言うか」
言いながら振り返った顔が、話している内容の割にどこか元気がない。
「アットホームな感じで楽しかったよね」
「うん。東京とか、ストリート、申請制じゃん。そういうとこがどんどん増えててさ、事務所ついたら今までみたいにバックれてゲリラライブとかやってるわけにいかないし。さすがに都内で。……ブレインが怒られるわけだしさ」
「うん」
「いろんな理由とか事情とかはあるんだろうから、一概に悪いとは言わないけど。俺は政治とかそういうの、良くわかんないし。でも、全県そうなったりしたら、こういうの……なかなか出来なくなるじゃん。場所取りとか順番待ちとか。俺らはともかくとしても、お金かけてライブ出来ないミュージシャンとかは、ストリートやるにも登録料かかったりしてると……全然出来なくなるの、寂しいよね。路上ファンの人とかきっと」
「そうだね」
「ライブハウスはライブハウスの良さがあるけど、それとは全然違って……聴くつもりがなかった人も突然巻き込んで予定外に楽しくなってくみたいなの、ストリートの良さだし。でもこれって、無名だからこそ出来る特権だと思わない?」
和希が肩を揺らしておかしそうに笑う。
「うん。CRYとかがやったらとんでもないことになるもんなぁ」
「でしょ? 今だから出来ること、だよね」
ごろんと床に仰向けに転がる。
そのまま目線だけ上げて言うと、荷物のそばにやってきて座り込んだ和希がリュックを開けながら苦笑した。
「いつかは出来ないくらいになんなきゃだけどね」
「そうだね」
「……『クボタくん』、ラジオ聞いてくれるかな?」
俺の言葉に和希が笑う。視線を荷物に戻しながらくすくすと頷いた。
「聞いてくれるよきっと」
ちゃんと俺は収録の最中に『クボタくん』との約束を守ったぞ。
「方向性としてはさ」
笑いを収めて和希が続ける。
「年齢層問わないような、そういう音楽を作りたいわけ。俺は。そういう意味では、あんまりターゲットを特定したくないなとか思ったりもする。素直に作りたいものを作りたいわけだし、ターゲット定めてると『この世代はこうじゃないか』とか考えてたら、違うものになってしまう気もするし。それにそういうのって、その世代を越えてしまったら、もう共感は出来ないものになるよね。懐かしがるしかなくなるって言うか」
「ああ。そうだね」
「全ての曲がそうじゃなくたって良いんだ。ただトータルして、今聴いてくれる人たちが三十になっても四十になっても、『あの頃』を懐かしんで聴くって言うよりずっと共感を持って聴き続けられるような、それが理想。いつでも等身大の自分でありたいし、感じることや伝えたいこと、それを形にして出していきたいよね」
「難易度高いなー」
「高いね」
天井を仰いで呟く俺の言葉に、濡れた前髪をつまみながら和希もため息混じりに同意した。
「『かっこ良さ』って、ある意味もう、出尽くしてるような気もするんだよ」
「……そう?」
「うん。いや、かっこいい音楽はまだ出るだろうけど、ほとんど確立されてきているような気がする」
「……」
「何をやっても、誰かの踏襲に過ぎないのかもしれない。俺が、見えてないだけなのかもしれないけど」
「うん」
「ただ、そうだとすると、俺たちが音楽やることにどういう意味があるのかなって。何を残せるのかな」
考えに神経がいっているように、和希の荷物を漁る手が止まる。俺も黙って言葉の続きを待った。
「男だから、かっこ良くいたいし、かっこ良いものを作り出したい。だけど表面繕った中身のないかっこ良さじゃなくて、かっこ悪さの中にあるかっこ良さとか強さみたいなものが本当は欲しいようにも思う」
……ごめん。イマイチわからん。
「人って、一生懸命生きれば生きるほど多分かっこ良くはなれないじゃん。悩んだり、壁にぶつかったり、泣いたり、時にはずるかったり汚かったり。でもそう言うダサくってかっこ悪いところが、結局優しさとか、誰かを大切にすることとか、そういうことに繋がっていくんだろうし。姿かたちじゃない、飾り立てた姿じゃない、生きる姿勢のようなものにかっこ良さが欲しい。……必死に生きるのって、何か泥まみれでかっこ悪いけど、かっこ良くない?」
ちらりと和希が目線をこちらに流す。
沈黙したまま、俺は体を起こして座り直した。
「共感を得てくれる人が増えれば増えるほどに、優しい人が増えてくみたいなさ。自分を大事にして、周りの人を大事にして、誰かの痛みに気づいてあげられるような……そういう、音楽。誰かの踏襲じゃない、俺たちが感じて考える生き方。残していくなら、そういうものにしていきたい。……理想論だけどね」
自分で言って苦笑しながら、和希は立てた片膝に肘をついて髪に手を突っ込んだ。
「アマチュアが必死こいて自分の全てを注ぎ込んで作った音楽は百枚も売れないけど、超有名アーティストが片手間で作った曲は一万枚売れたりして……全てとは言わないけど、そういうのがないわけでもないじゃん? ノリと勢い、知名度だけで一時ばーっと流行で売れるような。実際はその売れまくった曲がただの駄作でしかなくたって流行れば買うし、買うから売れる」
「うん」
「でも、伝わるものが実は何もないって気がついた時、名前や流行で買ったその一万人が十年後にまだそれを聴いて感動できるのかって言ったら、疑問があったりもして。……それだったら俺は、買った一万人が十年後に誰も聴いてくれないよりは、たった百人でも十年後にそのうち五十人がまだ聴いてくれるような、そんな音楽でありたいよね」
自分の中を探るように和希の視線が空を見つめる。
「年齢いってまた聴くと、また違う味が出るようなさ」
「スルメみたいな?」
「噛めば噛むほど味が出る?」
俺の表現に吹き出しながら和希が頷く。
「いつかは、だけどね。俺たちがまだ人間が浅いから、そんなに深い音楽はまだ作れないかもしれない。今共感してくれるのは中高生だけかもしれないし、そんな彼らも十年後には聴いてくれないのかもしれない。……でも、俺の目指す理想はそこだってこと、覚えておいて」
「うん」
クロスの目指す、スタンス。
残せる音楽の、立ち位置。