第7話(1)
ブレインが俺たちのバックについてくれるようになってから、これまでは漠然としか考えなかったことを考える。
……これから俺たちは、どうなっていくんだろう?
小さな活動を繰り返して、少しずつ少しずつでもいろんな人に知ってもらえるようになって、いろんな人に俺たちの音楽を聴いて貰うことが出来るようになって、認めてくれて……そうなって俺たちは初めて、この世界で『生きて』いくことが出来る。
でも、もしもこの先もずっとこのままだったら?
考えない。
考えても仕方ない。
けれど多分、その時には人生が狂っている。
公で活動を始めてしまえば、次に立て直すと言ったって、何もなかったことにはもう出来ない。それまでの実績如何で、もしかすると歌う場所さえもうないのかもしれない。一度でも滑ることを恐れて、メジャーを目指すバンドの中にはインディーズではやらないと言うスタンスで活動する奴らもいるくらいなんだから。
それほど、これまでの活動が今後にも影響する世界。
見ず知らずの人間に、憎悪される現実。足を引っ張ろうとする他人。
けれど逆に、もし名前が知られることが出来れば、その時はまたそれも増えていくんだろう。
売れなきゃ。のし上がらなきゃ。たくさんの人に知ってもらわなきゃ。
でも、その時には俺たちは、どうなっているんだろう……。
◆ ◇ ◆
あゆなが来たのは、電話を切ってから三十分もかからなかった。飛んで来てくれたのかと思うと、申し訳ないと思いながらも、小さな幸せと感じたことは多分事実だ。
「どうしたの……」
チャイムの音にドアを開けた俺の顔を一目見るなり、あゆなはそう呟いた。
「どうって?」
片手で開けたドアを支えながら尋ねる。するりと中に入り込んできたあゆなが、そっと俺の頬に手を当てた。
「何か、げっそりしてる感じ。凄く疲れて見える」
心配そうに眉根を寄せて俺を見上げるあゆなが嬉しくて、頬に伸ばされた手に自分の手を重ねる。そのままくいっと引っ張ると、あゆなはあっけなく俺の腕の中に転がり込んで来た。その背後でぱたんとドアが静かに閉まる。
「……何してるのよ」
「……何も」
あゆなを抱く腕に少しだけ力を入れる。髪から、風呂上りみたいな良い匂いがしていた。
腕の中のあゆなは、華奢すぎて壊れそうに細く感じた。俺だって男にしては相当華奢だけど、一応そもそもの骨格が違う。その頼りないほどの細さが、なぜか堪らないほど愛しい気持ちにさせた。
あゆなは、腕の中で何も言わない。ただ黙って抱かれている。
疲れてるんだな、俺。
瞳を閉じてただ黙ってあゆなを抱き締めながら、そんなふうに思う。
心の拠り所が欲しい。切実にそう思う俺は、多分ひどく疲れているんだろう。ブレインに入ってからの日常は、俺の心をずっと張り詰めさせていたのかも知れない。
だけどこうしてただ黙ってあゆなの温もりを感じているだけで、それ以上何もいらないような気になるほど、癒されていくような気がする。
きっとこの先だって、まだまだ嫌なことがあるんだろう。いろんなことがあるんだろう。昨日の出来事なんか多分、ほんの一端に過ぎない。いちいちへこんでたらきりがないのかもしれない。だけど今は、余り考えたくない。
柔らかい温もりが、確かに俺を安心させていく。……俺の、良いところも悪いところも知り、認めてくれている存在。
「部屋に、上げてくれないの?」
あゆながぽつりと言う。髪に顔を埋めたまま、小さく笑った。
「どうぞお上がり下さい」
ようやく腕から解放した俺に、あゆなはどこか照れたような複雑な表情で俺を見上げた。目を細めて、また俺の頬に手を伸ばす。
「疲れてるのね。本当に」
「そうかもしんない。でも何か、あゆなの顔を見たら」
部屋の方に歩き出しながら振り返る。脱いだ靴を揃えていたあゆなと目が合った。
「何か、安心した」
「……おかーさんじゃないのよ」
「……母親にするかよあんなこと」
憮然と言い返すと、俺に続いて部屋に入って来たあゆなが吹き出す。
「そりゃあそーだけど」
「何か飲む?」
「ううん。平気。……帰って来て何もしてませんって感じね」
帰って来て何もしてません。
部屋を見た瞬間、あゆなはため息混じりに呟いた。俺が床に放り出したままの上着を拾い上げて、唇を尖らせる。
それからハンガーにそれを掛けてくれると、自分の上着も並べて掛けて、俺の隣に座り込んだ。
「ごはん、食べた?」
黙って顔を横に振ると、あゆなが眉を顰めて首を傾げる。
「作ろうか? 一緒に食べよう?」
その言葉にも黙って顔を横に振る。正直、食欲はなかった。
「ありがとう」
「……何か、あったの?」
「何も」
答えながら、壁にこてんと寄りかかる。
「単に、疲れてるだけ」
別に詳しく言うようなことじゃない。言ったって、ただの愚痴にしかならない。
あゆなに何かしてもらうことじゃないし、俺の内面で解決すべき問題だ。そもそも、大したことがあったわけでもない。わかっていたことを、目の当たりにしただけ。
けど、そう……ただ、そばにいて欲しい。
心配げな表情をしてくれるのが、嬉しかった。あゆなに触れたくて、こつんとその肩に額を押しつける。頭の上からあゆなの少し呆れを含んだような声が聞こえた。
「甘えん坊になってるみたい」
「ん。なってんのかもしんない」
そのまま、しばらく黙ってそうしていた。あゆなもただそれを受け入れてくれていた。半ばぼんやりしたまま、長いその髪を指先に巻き付けたりして弄ぶ。今のこの時間がずっと続けば良いと思うほどの静かな時間。
俺と同じく黙っていたあゆなが、不意に小さく口を開いた。
「どうして、『会いたい』なんて言ったの?」
「会いたいと思ったから」
捻りも何もない、まんまストレートな回答にあゆなが目を閉じて眉根を寄せた。
「質問変えるわ。……どうしてそんなふうに思ったの」
「さあ」
俺の短い答えに、今度は拗ねるように口を尖らせる。
「何でそんな顔すんの」
「別に」
「……何でかな。会いたいって思ったんだ」
あゆなの肩から顔を上げると、至近距離であゆなが俺を見つめていた。知り合ってから三年、それ以来いつも俺のそばにある見慣れた顔。いつだかあゆなも言っていたけれど、口と態度のわりに、何でか短気な俺でも真面目にムカついたりしたことなかったな。
「心配させてごめん。ありがと」
気遣いに礼だけ言って笑みを覗かせる。でも多分、どうにも元気のない笑顔になったに違いない。
「……無理しないで良いのに」
「え?」
あゆなが寂しげに目を細める。
「無理して笑わなくて良いわ。無理しなきゃいけないところは、他にあるはずよ。わたしに作った笑顔なんて向けないで。……今日笑顔でいられなくても、また自然に笑える時はすぐ来るから」
「あゆな」
「音楽やってて、嫌なことばかりじゃないはずでしょ。笑顔なんて、すぐ戻るわ」
あゆなの優しさが、しみる。痛いところを優しく包み込むように。
「さんきゅ……」
もっとあゆなに触れたい。
その優しさをもっと近くに感じたくて、俺はまたあゆなを抱き締めていた。ほとんど衝動だったとしか言いようがないのかもしれない。言葉じゃもどかしく、その温もりが愛しく、触れていたくて。――いや。
抱きたい……。
あゆなの頬に唇を寄せる。ぴくんとあゆなが小さく揺れた。すぐ間近で見上げるあゆなの目付きが妙に色っぽく、一度躊躇うように視線を伏せたあゆなは、そのまま静かに瞳を閉じた。
俺は多分、あゆなの姿を見た瞬間から、いや、もしかするとあゆなの声を聞いた時から、腕に抱き締めたいと思っていたのかもしれない。
友達――だけど俺にとっては、いろんな意味で少しだけ特別な人。
由梨亜ちゃんに感じたように、どきどきしてそばにるだけでテンション上がってかっこつけたくてってのとは、少し違う。そのままの俺でいたくて、そのままの俺でいられる人として、自分の中にあゆなに対する愛しさを感じていることに今初めて気がついた。
それは、あゆなが俺のことを好きだと思ってくれているからなのかもしれない。後付で芽生えた気持ちかもしれない。
こんなの多分、恋愛感情って言えないのかもしれない。じゃあ何なのかと言われると、良くわからない。
だけど参っている時に会いたいと思い、そして今こうしてそばにいてくれている事実。……もっと、あゆなを深く感じたいと望んでる。
唇を重ねると、柔らかい感触に、その望みが一層強くなった。軽く触れるだけの短いキスを繰り返しながら、止められなくなっていく自分を感じる。
そのまま細い肩を胸に抱き、抱いた片手をあゆなの髪に絡ませる。触れた唇から気持ちが癒されていくみたいで、離れたくなくて離したくなくて……もっと……。
「どうしよう」
長いキスの後、ぼそっと呟くと、あゆなが目を瞬いた。
「何?」
「あゆなが女に見える」
言った途端、頭を叩かれた。
「わたしだってあんたが男に見えたのなんか初めてだわ」
「……そういうこと言ってると、痛いメに遭うよ?」
言いながら胸の中に抱え込んだ。髪に口づける。おでこに、頬に、耳に、首筋に。
「ちょ……あ……」
唇を塞いだまま、あゆなを床に押し倒す。「んんん~……」とあゆなのくぐもった声が聞こえた。
「……やべえ」
「え……?」
あゆなに覆い被さるように床に押し倒したまま呟くと、あゆなが掠れた儚い声で問い返した。微かに紅潮した頬と官能的な目付きが、俺の本能をどうしようもなく煽ってくれる。
「どうしよう。あゆなが凄ぇ可愛く見える」
あゆなの腕が、俺を抱き締めるように伸ばされた。引き寄せられるようにキスを交わす。濃厚になっていく口付けが、理性を麻痺させていった。
……まずいやばい危険過ぎる。今更停止はちょっと出来そうにないほど、強い欲望を掻き立てられる。
「俺、完全にその気になっちゃってるけど。殴って帰るんなら、今のうちだよ……」
言いながら頬に口付けたそのまま、唇に重ねた。俺の背中に伸ばされていたあゆなの腕が、首筋に絡みつくように回される。その指先が俺の髪に優しく絡む。離した唇を鎖骨の下に這わせると、あゆなの口から小さな吐息が聞こえた。その仕草に、声に、頭がくらくらしそうなほど誘われていく。
「言ったじゃない。好きよ、啓一郎……」
「……で」
もう駄目。引き返すのは不可能だ。
「え?」
「帰らないで……」
離したくない。帰したくない。
今この瞬間、世界で誰より、あゆなが愛しい。
◆ ◇ ◆
ベッド代わりにしているロフトの天井には、ほんの小さな明かり取りの窓がある。
そこからこぼれてくる光が眩しくて顔を顰めた俺は、そのまま薄く目を開けた。……ら、そこにあゆながいて、正直びっくりした。
(……そ、そうだった)
あゆな、泊まらせちゃったんだっけ。
こてんと横になったまま、あゆなの無防備すぎる寝顔を見つめる。肩まですっぽり布団にくるまっているものの、乱れた髪と僅かに覗く裸の肩や胸元が、無防備さと相まって、いたずらしたい気分にもさせたりするんだが。
反面、複雑な気持ちを湧き上がらせた。
手を伸ばして、口元にかかる長い髪を親指で払ってやる。柔らかい頬。長い睫毛。小さな寝息。
昨夜、誰よりもあゆなを愛しく感じたのは事実で、今も愛しさがないかと言えば嘘になる。
だけど少し冷静になってみれば、自分のしたことに罪悪感を感じずにはいられなかった。
……あゆなは、俺の彼女じゃない。
(最低だな、俺)
胸の内で小さく呟くと、それはずっしりと重みを持って響いた。俺がしたことは、彼女の気持ちに付け込んだ以外の何物でもない。自分自身の気持ちを曖昧にしたまま、好きだと言ってくれるその気持ちに甘えたんだ。
(どうするつもりだよ、俺……)
あゆなから視線を逸らし、額に片手を押し付けながら天井を仰ぐ。
窓の外からは、俺の苦悩と罪悪感とは裏腹の爽やかな光が降り注いできていた。多分、気持ち良いほどの冬晴れの空。
あゆなは、俺にとっては大事な友達で、好きで、いい奴で……。
曖昧に放っておくわけにいかないことは、間違いない。
(友達って)
そんなことしといて?
自分で入れた突っ込みに、また自分で頭を抱える。昨夜のあゆなの声が耳に蘇った。
――好きよ……
再びあゆなの方にころんと向き直る。あゆなは同じ場所で同じ姿勢のまま、寝息を立てている。小さな幸せを感じる自分に頭痛を覚えた。
(あゆな、何で俺なんか好きなんだよ)
お前なら、もっと良い男、いくらでも捕まえられるんじゃないのか? よりによって俺みたいなんじゃなくたって、いーはずなのに。
……俺みたいに、他の女の子に気持ち残してる奴なんかじゃなくて、お前だけ想ってくれる奴だって見つかるだろうに。
苦い思いがこみ上げる。
(お前、俺と付き合える?)
心の中で問い掛ける。
あゆなのことを大事だと思ってるよ。俺に必要な人だとも思ってる。広い意味で言えば好きだし、こんなことになってる以上女としても好きだったりするんだろう。
誰でも良かったわけじゃない。俺を想ってくれたらそれで良いってもんでもない。あゆなだったからなんだろうと、それは言い切れる。
だけど恋愛感情なのか、自分で良くわからない。
そして確かなこととして言えるのは、俺はまだ由梨亜ちゃんへの気持ちを引き摺っている。
(お前、そんな俺でも付き合える……?)
眠っているあゆなは、答えない。
だけど、俺のことを好きだと言ってくれる気持ちが本当に真剣なんだろうとは思わされた。じゃなきゃこのあゆなが、付き合ってもない男に体を許すと思えない。
それだけに、「じゃあ付き合いましょう」で良いのかわからなくなる。少なくとも今の俺では、彼女が俺を想ってくれるほどに想ってやることは出来ないんだろうから。
……俺自身は、どうなんだろう?
あゆなと付き合えるかどうか。
ため息を繰り返し、どうしたらいーのかわからないまま、だけど真剣に考えなきゃいけないことだけはわかっていた。考えるのは得意じゃないと言って投げ出すわけにはいかない。いい加減に出した結論であゆなを傷つけることだけは避けたかった。
ぼんやりと眺める俺の視線の先で、あゆなの瞼が微かに動く。
「ん……?」
「はよ」
寝とぼけたようなぼんやりした顔であゆなが俺を見る。
こういうシチュエーションが初めてだなどとは言わないけど、あゆなが相手だと妙に照れる。それと同時に、また波のように押し寄せる罪悪感。
「……おはよ」
言いながら上半身を少し起こしたあゆなは、そのままこてんとおでこを俺の胸に押し付けた。
「どうしたの」
「……ううん」
額を俺の胸に押し当てたまま緩く首を振ったあゆなの動きに合わせて、髪が揺れる。顎の辺りで寝乱れた髪がふわふわとくすぐる。愛しい気持ちがまた湧き上がり、だけど昨日より冷静な頭は由梨亜ちゃんの影を消し去ることが出来ずにいた。胸を締め付けられるような息苦しさを覚えながら、あゆなを抱き寄せる。
腕の中、あゆなは何も言わない。どこか感情を押し殺しているように感じられて、苦しい。あゆなだって多分、俺が由梨亜ちゃんをまだちゃんと忘れていないことを知ってる。
(ごめん……)
今、あゆなが何を思っているのかはわからないけど。
「あゆな、今日、仕事は?」
「今日は、十三時から」
「ふうん?」
今、何時なんだろうな。
体を起こしてロフトの柵から下を覗く。ロフトに置いてあった時計がご臨終してから新しいのを買っていないので、上にはない。下の棚に置いてある時計に目を向ける。
「何時?」
つられたように体を起こしたあゆなが、乱れた髪を耳にかけながら首を傾げた。
「九時」
「そう。啓一郎こそ仕事は?」
「今日は仕事はオフ。夜にバイト」
言いながら伸びをすると、ついでに欠伸がこぼれた。
「起きちゃったから、朝メシでも食いに行こーか」
言いながら布団から這い出す。ロフトを降りる俺の後をあゆなの声が追いかけた。
「何か作ろーか?」
「作ってもらおーにも、何ひとつ材料がない」
「……あ、そ」
ロフトの縁に引っ掛かっていたシャツを裸の上半身に適当に引っかけ、カーテンを開ける。エアコンのスイッチを入れていると、頭の上からあゆなの声が降ってきた。
「ねえ」
「ん?」
「この部屋汚い」
「……」
日の光が射し込んでみると、確かにちょっと埃っぽい。しばらく出たり入ったりでばたばたしていて掃除が行き届いていなかったことが、今明るみに曝された。
「少し窓開けたら?」