第6話(5)
◆ ◇ ◆
緊張する。
いつもの緊張とは、少し種類が違うような気がする。
「啓一郎さん、ムキになんないで下さいね」
どういう励まし方だ?
「無事終われば良いんだけどなぁ」
さーちゃんの言う通り、本番になってみればお客さんはこの数回と比べると結構入っていると言えた。さざめく人々、と言うのを久々に見たような気がする。
「心配しても、なるようにしかなんないでしょー?」
「まぁねぇ」
今は俺らの前のバンドがニ曲目くらいをやっている。
さっきギャラリーにいる間には、さっきの変な黒いふりふり集団みたいなのはいなかったように見えたんだけど。
「普通に聴きに来てくれた人もいるみたいじゃん。ストリート、やって良かったよ」
しゃらしゃらと、ギターの弦を無意味に弾きながら和希が目だけ上げた。
「うん」
和希の言う通り、少しは、まっとうな意味でストリートライブの効果はあったらしい。ほんの数人ではあるけれど「ストリート良かったから、どんなか見に来た」って人がいてくれてるみたいだった。さーちゃんに聞いた話だから、良くは知らないけど。
プラスとマイナス。
損得勘定したってしょうがない。
プラスが出れば、マイナスだって出るんだ。
ましてここは……。
(LUNATIC SHELTERの本拠地なんだもんな)
あんなことがあるまで忘れてたけど。
「でもさぁ、何であんな的確に俺らがターゲットになってんの」
「さぁねぇ。ファンの周辺で話、出てるんじゃないの? 俺ら」
「どんな?」
「……聞いてきたら?」
聞けるか?
「んでも、俺らが彼らの名前を知ってるように、メンバーは多分聞かされてますよね」
意味もなく座り込んだパンツの裾をぐるぐると巻いたり戻したりしながら武人が首を傾げる。
「メンバーから俺らの名前が零れたら、そういう意味不明な攻撃対象にはなりうるんじゃないですか? ネットとかで調べることは出来るだろうし」
「ああ。そうだね」
「どんな人たちなのかなぁ、LUNATIC SHELTERって」
ずるっと椅子の背もたれに深くもたせかかって、呟く。
この前和希が言ってた『熱狂的なファンがいるってことの方が怖い』って意味がわかったような気がした。
もしもメンバーやその周辺から『ライバルになる』という意味合いで俺らの名前を聞かされているとしたら、そのファンが勝手に暴走して俺らを潰しにかかりかねないって意味だったんだろう。まさしく今日の出来事だ。
「さぁねぇ。この際人間性は関係ないんじゃないの? 俺らには」
「ないねぇ」
何てことを言っている間に、前のバンドのライブが終わる。撤収とセッティングが入り乱れる中、マイクのセッティングだけしにステージに上がった。
途端、凍りついた。
(まじかよ?)
客席の中ほど、ステージから見えるぎりぎりのライン辺り。
……黒尽くめが、数人。
(何かされそう)
と言って、今降りてってとっつかまえるわけにはいかないし、ライブをやめるわけにはいかない。
セッティングを終えて、ステージが始まる。
井口さんの、包むような中音。いつも俺の声の後ろにあるいつも通りの音がそこにあって、東京のライブに近いお客さんの光景。
ようやくまっとうなステージに立てたと言うのに、俺の内心は正直それどころではなかった。
絶対、何か起こる。
「……で、今いくつかツアーで地方を回ってるんですけど。先日なんか、どことは言いませんがちょっと凄いところでライブやってまして」
「人の気配、なかったもんね」
ウチのMCは、いつも俺がほとんどしゃべって、和希がフォローを入れてくれる。武人と一矢はステージ上ではうんともすんとも基本的には言わない。
俺が、警戒して硬いのを察しているのか、今日は和希がいつも以上にフォローに入ってくれた。
残り一曲。今のところは何も起こっていない。
考えすぎかな。このまま無事に済んでくれれば良いんだけど……。
「で、俺、居酒屋の外で友達と電話で少し話してたんだけど、遠くに車のヘッドライトが見えるんですよ。で、『ああ、来たなぁ』と思いながら何となくそれ追っかけてるんですけど、ずーっと見えるんですよ。ずーーーーーっとですよ? 遥か遠くからやってきて、遥か遠くまで去っていくのがひったっすっら見えてるんですよ。どんだけ見晴らし良いの?って感じでびっくりしましたね」
「そんなツアーもとりあえず今日で一区切りだね……」
「だね……」
くすくすと小さな、好意的と言えそうな笑いが広がる。無事、終われそうだ。ほっとして笑みを覗かせたその時、客席の合間から声が飛んだ。
「引っ込めよー」
「つまんねぇよ、パクリバンドっ」
(――来た)
ざわ、と人の間に微かなざわめきが起こる。壁際でさーちゃんが動いたのが見えた。
「うぜぇよ、二度と来んなっ」
が、我慢……。
ぐっとマイクスタンドを握る手に力が入る。和希が、彼女たちよりも俺が気がかりだと言うように視線を向けるのを感じた。
「かーえーれっ! かーえーれっ!」
見る限り四人くらい。一箇所に固まった女の子たちがコールする。
周囲の人間が引くようにその場を少し離れた。そのそばにさーちゃんが駆け寄っていく。和希が視界の隅で一瞬、一矢を振り返った。
「一矢、入れっ」
かぶせるように突っ込んでいくスネア。
だが次の瞬間。
「死ねよばぁかっ」
ざばぁっっっ!
「こら!」
「そこの人たち!」
駆け寄った女の子が、バケツか何かみたいなものを持っていたのは見えた。
咄嗟に顔を逸らし、腕で覆ってしまったので目の当たりにはしていない。
けど。
(……何だよそれ)
額から……いや、額といわず、腕といわず、水が滴り落ちる。足元には、水溜りが出来ていた。
ステージ一面にぶちまけられた、バケツの水。
「ちょっと、そいつら抑えろっ」
「放せよっ」
客席の方からもめる声が聞こえる。ライブハウスのスタッフや周囲の客とかが、彼女たちを退出させようとしているみたいだった。
けど、そんなのは目に、入らなかった。
………………ふざけんなっっっ。
ステージを飛び降りそうになった俺の視界で、和希がぎょっとしたように咄嗟に体を揺らすのがわかる。けれどそれより一瞬早く、俺の理性が制止をかけた。――堪えろ、俺っ……。暴力沙汰を起こしに広島まで来たわけじゃないっ……。
「啓一郎くん!」
さーちゃんが、ステージ袖から怒鳴るのが聞こえる。顔を上げるとしゃべれ、と言っているみたいだった。
あ、そうか……しゃべらなきゃ……。
(あいつらっ……!)
悔しい。
笑顔を作って、ずぶ濡れの前髪をかきあげる。
「ちょっと、予定外のアクシデントですね。お騒がせしました」
話してて、自分で自分が痛々しい。
「こういう場合はお約束で『水も滴る良い男』くらい言っておかないと」
フォローに入る和希自身も、ずぶ濡れだ。
(何、話そう……)
何言えば良いんだろう。
大体ステージ、続けられるのか? こんな状態で。
――二度と来んなっ!
(くそっ……)
出入り口の方ではスタッフに取り押さえられたらしい女の子たちの暴れる声が聞こえる。客の大半の意識も、当然そっちに向いていた。
追いかけてって殴りたい衝動を抑えるのは、かなり大変なことだった。きつく唇を噛み締める。前髪を、雫が伝わり落ちた。
(何、言えば)
抑えろ。
和希がさっき言っていた通り、ここで俺がキレたってどうにもならない。事態が悪くなるだけだ。やらなきゃいけないのは、この場を納めること……。
「えと……」
膝が震える。やばい、頭が真っ白だ。
胸の中で燻る怒りと失望が、俺の頭から言葉という言葉を消去してしまう。
ちらりと視界の隅で、さーちゃんが腕で大きくバツ印を作っているのが見えた。……中止しろ、ってこと……かな……。
和希が、俺に向かって小さく微笑む。それから前に向き直った。
「ええと、大変申し訳ないのですが、ストップかかっちゃったので、予定より一曲少ないんですけど……」
井口さんが機転を利かせてBGMを流す。ステージ上の照明が暗転して、話す和希にだけピンスポットがあたった。さーちゃんがステージに出てくる。俺のそばに駆け寄ると、促すようにぽんと肩を叩いた。
「とりあえずバック、戻って」
戻って、良いのか?
あんなこと言わせたまま。
見れば、武人と一矢は既に引っ込んだ後のようだった。和希が柔らかく淡々と話している。
「三月十四日にはラジオが流れるはずなので、良かったらそちらも聞いてみてください」
一度、声が途切れる。バックステージに戻ると、ライブハウスのスタッフがタオルを持って駆け寄ってきてくれた。
「まだ俺たちを知らない人が多い中、少しでも聞いてくれる人が増えるといいなと思って……そういう一心で頑張ってるつもりです。少しでも興味を持ってくれたら、また是非ライブに遊びに来てください。……それから」
……ふざけんな。
「お騒がせしてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。……こうして聴いて下さった方、本当にありがとうございました」
振り返ると、ステージの上でただ一人、全責任を負ってきっちりと頭を下げる和希の姿が目に飛び込んで来た。……ずぶ濡れのまま。
「さーちゃん。やらせて」
「え?」
行き場のない怒りを持て余し、思い切り壁を殴りつけた。がんっと壁が鈍い音を立てて揺れる。叩き付けた拳より何より、胸の方が、痛い。
悔しい。言葉に、出来ないくらい。
「一矢、武人。戻ろう」
言って、和希のギターのサブを掴んで歩き出す。ステージに戻った俺に、頭を上げた和希が目を丸くした。俺が突き出したギターを受け取る。
「啓一郎」
「……騒ぎの原因が、俺たちだってことは、わかってます」
さっきは、このマイクに向かって何を言って良いかわからなかった。今でも別にわかってるわけじゃない。
けど。
――パクリバンドっ!
このまま黙ってステージを下りたら、認めたことになる。
「でも、俺、東京からここまで、歌を歌いに来ました。その為だけに来ました。……最後までやらせてもらったら、駄目ですか」
沈黙が返る。
静かな客席に向かって、俺は頭を下げた。
「歌わせて下さい」
沈黙が怖い。反省が足りないとか言われるかもしれない。
ここにいるお客さんたちは、音楽楽しみに来ただけで何も悪くなくて……でも、だったらちゃんと最後までやってみせたい。
こんな勝手なことして、事務所に怒られんのかもしれない。さーちゃんは、ストップをかけたんだから。
でも……。
(このまま引き下がってられるかよっ……)
拍手が、耳に飛び込んで来た。ひとつ。つられるように、ふたつ。
次第に増えていくそれに、顔を上げる。
「頑張れー」
誰だかわからない、男性の声が聞こえた。井口さんがPA席のところからひらひらと片手を振るのが見える。OKサインだ。BGMがフェードアウトしていって、ステージの照明が灯った。
「……ありがとうございます」
不意に泣きたくなる。
騒ぎが起きたのは間違いなく俺たちが原因で、わかってるけど、でも、だけど――――
「何だよ。中止の謝罪を一生懸命した俺が、馬鹿みたいじゃん」
和希の苦笑が聞こえる。
「俺もこいつもずぶ濡れのまんまで申し訳ないですけど、ウチのヴォーカルのわがままに、あと一曲だけ付き合ってください」
苦笑を浮かべたままの和希がマイクに向かって言う。
「『Crystal Moon』」
――――まだ、頑張らせて下さい……。
◆ ◇ ◆
自分のマンションのドアの前についた瞬間、肩の力が抜けたような気がした。
それほどでもないはずなのに、もの凄く久しぶりに家に帰ってきた気がする。
今朝は午前中のうちに広島を出たけど、家についたのはもう二十時に近かった。道が少し混んでいたせいもあるかもしれない。そうじゃなくたって、ほとんど本州を端から端まで横断だってのに。
帰りの車では、ほとんど誰も口を利かなかった。単純に疲れているのもあるし、昨夜のライブが尾を引いているのはもちろんだ。
何とか無事に最後の曲をやれて、終わった俺たちにさーちゃんは怒るどころかずっと謝罪をしていた。
彼女たちの姿を見た時、「怪しい」と思って目をつけてはいたのだそうだ。
ただライブの中盤過ぎまで何ごともなかったので、油断した瞬間の出来事だったと言う。
バケツは、ライブハウスの備え付けのものを持ち出したらしかった。
(つっっっっかれたなあー)
運転は武人を除く四人で代わる代わるやりはしたけど、途中からずっと、さーちゃんが引き受けてくれていた。後半は多分、みんな寝ちゃってたんじゃないかな。和希でさえも。
鍵を開けて、中に入る。荷物をほとんど引きずりながら部屋に足を踏み入れた瞬間に、俺はもう怒るのを通り越して泣きたくなった。
留守電だ。
「もう勘弁して」
呟いて、床に座り込む。もう本当に何もしたくなかった。
揺らぐ、自分の中の自信。
(駄目なのかな)
俺ら。
一人、照明の落ちたステージで毅然と客に頭を下げる和希の姿が脳裏に蘇った。
……落ち込むな、やっぱり。
気にするまいと思ったって、どうしてもそれは無理だ。気にしないわけがないし、落ち込まないはずもない。
ああいうステージ上のトラブル、しかも最悪なパターンの怖さはどう表現して良いかわからない。あの瞬間で積み上げたものの全てが崩れる。あの瞬間で、それまでのことが全て道化に変わる。
何が悪かったんだろう。どうすれば良かったんだろうか。
知らない人間から受ける憎悪の塊。自分が何をした覚えもないから、改善の仕方がわからない。
だけどあの時あそこには、確かに俺らに対する悪意が存在していた。
(あゆな、何してるかな)
不意に思い出す。思い出してみると、声が聞きたくなった。
視界の中で留守電のランプが点灯する。立ち上がって電話の電源をコンセントごと引っこ抜くと、一際甲高い音が聞こえて静寂が戻った。代わりにポケットを漁って、携帯を引っ張り出す。あゆなのメモリを呼び出して、俺は少しの間、耳元で静かに繰り返されるコール音をじっと聞いていた。
「どうしたのよ」
誰何も挨拶も何もなく、途切れたコール音の全く直後にあゆなの声が耳元で流れる。聞き慣れたその声を聞いて、何だか俺はひどく安心をしていた。
張りつめて疲れた気持ちが、急に緩んでいく。その声を聞いたら急に泣きたくなって、そんな自分を小さく笑った。
「嫌がらせ?」
黙ったままの俺に、あゆながため息のように問いかけた。
「元気にやってるの?」
「……あゆなは?」
妙に懐かしいような気持ち。……会いたい、ような。
……多分……深い意味があるわけじゃなくて……あるわけが、ない、はずで……。
「わたしは、毎日わけのわからない客にキレまくってるけど」
その回答に小さく吹き出す。
「あんまり暴れると客が逃げるぞ」
「逃げたきゃ逃げるがいーのよ」
こんな店員のいる楽器屋でだけは買い物をしたくないものだ。
「何だか、元気のない声を出してるのね」
「そう? ……そんなこと、ないよ」
威勢の良いもの言いが、なぜか感傷的な気分にさせた。
好意的に見てくれる人ばかりじゃないことくらい、わかってる。LUNATIC SHELTERのファンには嫌われるだろうことくらい、予想はついてる。
けど、見も知らぬ人から叩きつけられる悪意。目の当たりにすれば情けなくなる。へこむ。
……確かな味方がいることを、確かめたくなる。
「今、何してた?」
「今? ……クロスのCD聴いてたわ」
驚いて目を見開いた。
「どれ」
「『ANOTHER』」
「あゆなって、クロスのCD聴いたりするんだ」
ぼそっと言う。今度は確かにため息をつくのが聞こえた。
「……会えないんだから、しょーがないじゃない」
「……」
「せめて声だけでも聞いて、我慢するしかないんだもの」
……やばい。
心臓がどきりと音を立てる。くしゃりと歪んだ顔を、膝の上に付いた右手で覆った。一瞬、視界が涙で霞みそうになる。
今、何か心臓に直に来た。精神的にも肉体的にも参っている……弱くなってる時だから、尚更。
――ここに、確かな味方を、見つけたみたいで。
「どうしてそこで黙るのよ」
突っ込んだりからかったりしてる心境じゃないから。
「あゆな」
言うな、と自分で制止する。
言えば誤解を招く。
まだ俺は、由梨亜ちゃんを好きだと思うんだから。
俺を好きだと、会えないから声を聞くんだと言ってくれるあゆなに言って良いことじゃ……。
「……会いたい」
あゆなが小さく息を飲むのが聞こえた。
消えそうなほどに小さな呟きは、しっかり届いたらしい。
「今、どこにいるの?」
「家……」
苦い後悔と止められない弱さを責めながら、顔を覆ったまま瞳を閉じる。
……わかってる。
自分でわかってるんだ。
あゆなのことが好きなわけじゃ多分ない。
これは……こんなのは……。
「今から、行くわ」
こんなの、ただの――
「……うん」
――ただの甘え、なんだ……。