第6話(3)
さーちゃんの言葉に、女の子たちは恥ずかしそうに顔を伏せて笑った。
「頑張ってるから、今後も応援してあげて下さいね」
しっかり営業も忘れない。
「良かったらミニアルバムも買ってってよ。会場先行発売で、まだ市場には全然出回ってないから。今なら啓一郎くんにサインしてもらえるよ」
っておいーっ。
「さーちゃんっ」
誰だろうこの人って顔をしていた女の子たちが、一斉にこちらを向く。
「わざわざ東京から来てくれたんだよ? 何のサービスもしてあげないの?」
……アナタはアーティストのフォローをする立場じゃないの?
「俺ごときの落書きで良ければ……」
とほほ。俺、下手なのに。
「え、じゃあ買う」
「あたしも」
そうしてなし崩しに真新しいパッケージのジャケットをマジックで汚す羽目になる。
「あの、本当にありがとう」
CDを手渡しながら繰り返すと、彼女は少し恥ずかしそうに小首を傾げた。
「今日お話出来たから、それだけで嬉しいです。あの、本当に応援してるんで」
「うん」
「いっつも元気もらうだけで何もしてあげられなくて」
「え……?」
言葉をなくしてただ見返す俺に、笑顔をくれる。
「元気?」
「ええ。頑張らなきゃって思ったり、幸せになったり。いっつも、励まされてます」
……。
「こちらこそ」
誰も、聴いてくれる人のいないライブ。
……だと、思ってた。
「励ま、されます……」
こうして声をかけてくれる人に。
励ましてくれる人の言葉に。笑顔に。
それがあるから多分、頑張れる……。
「いろいろ大変なことあるとは思いますけど、頑張って下さいね」
「……うん。本当に、ありがとう」
少しだけ、自分が何で音楽をやることの意味が、わかったような気がした。
◆ ◇ ◆
「さすがに、テンション上がらないよね」
ライブハウスを後にして、ホテルと名乗るのを反省して欲しいほどの宿泊先に車を停め、近くの居酒屋……もっと言えばこの辺り一帯で唯一っぽい居酒屋で、ビールを一口飲んだ和希がそうぼやいた。
居酒屋と言っても、例えば俺が渋谷で働いているような小綺麗な店とは種類が違う。チェーンとかそういうんじゃない、親父がやってるような小さな、本当に居酒屋。
普段は各々勝手に食べると言う状態ではあるんだが、あまりのテンションの低さを見かねてさーちゃんが連れて来てくれた。
東京からわざわざ来てくれた彼女たちの話が他のメンバーを喜ばせたのはそりゃ確かだけど、ここ数回の『糠に釘』ライブで培われたローテンションを払拭するまではいかなかったらしい。そうじゃなくても、体が疲れている。
「まあまあ。まだ君らのことを誰も知らないんだからさ。最初のうちはこういうこともあるよ」
あまり酒が飲めないと言うさーちゃんは、一人ウーロン茶だ。
「今日は事務所のおごりだから。食べよう」
言われて、ようやくテーブルの上の料理に無言で手を伸ばす俺らに、さーちゃんも黙って苦笑いを浮かべた。
「こーゆー飲み食いって経費で落ちるんですか」
見た目にはいつもと違うようには見えない武人が、さばの味噌煮に箸を伸ばしながら尋ねる。でもグラスのビールにほとんど口をつけていないところを見ると、これ以上ないくらいローテンションだろう、多分。
「メンバーミーティングってことで」
「接待費とかゆーんじゃないの?」
皿に取ったサラダを箸先でつつき回していた一矢の言葉に、さーちゃんが頭を抱えた。
「何で自社のアーティストを接待せにゃならんの」
「それもそーか」
不意に、ガガガガ……とテーブルが振動した。放置された和希の携帯が、自身の発する振動でテーブルを微妙に移動する。グラスを置いて携帯を手に取った和希は、表示を見るなり虚ろな顔をした。
「うわ、やだな」
「何?」
「誰?」
「美保」
それは嫌だわ。一体、せつなーいこの事態をどう説明せぇと言うのか。
「はいはい。……うん。……うん」
美保に答える和希の声を聞きながら、煙草に手を伸ばす。
「武人、いつ帰るんだっけ」
「明日の朝イチの新幹線。駅までは僕が送ってくるから、君らは寝てていーよ。ああ、武人くん。明日は学校の後、そのまま家に帰っていーからね。明後日の夜、広島駅まで迎えに行くから」
「……はい」
聞いているだけで疲れる。
そう思っていると、ポケットの中で今度は俺の携帯が振動した。すぐに途切れる。メールだ。
無言で取り出して画面を開くと、なつみだった。
(『何してる? 電話、平気?』)
ちらりと見ると、和希はまだ美保と話している。俺の視線に気づいて、「何?」と片眉を上げた。
「……ごめん、俺、ちょっと電話」
席を立って表に出る。あの場でなつみと電話する気にはなれない。
(う、寒……)
店の外に出ると、夜の冷えきった空気が肌に刺さった。畳みかけるように風が吹く。
冷たい指先で携帯を操作しながら、店の外の壁に寄りかかった。凍えた風が俺の前髪を舞い上げる中、なつみが電話口に出る。
「啓一郎?」
「? うん」
何だかいやに明るい。いや、明るい分にはいーんだ、別に。ぎょっとするようなことじゃない。
ないんだけど。
「ごめんね、かけてもらっちゃって。今、平気だった?」
「うん。メシ食ってただけだから。どしたの?」
「ううん。何してるかなと思っただけ」
その答えにほっとしながら、無意識にポケットをまさぐる。さっき煙草を吸って、そのままテーブルに置いて来たことに気づいて諦めた。
「ごはん? ごめんね」
「いや、別に。どうせそんなに食欲あるわけじゃないし」
広がる暗がりの向こう、ライトの灯りがニつ静かに移動するのが見えた。
高い建物がなく、俺の目の前には畑らしき平地が一面に広がっている。そのせいで視界はやけに広い。
「食欲ないの? 何かあったの?」
「うん? ああ、いや、そういうわけじゃないよ。続くライブで疲れてるだけ」
多分自分の気持ちの整理だけで手一杯だろうなつみに、余計な心配をさせるわけにはいかない。
「あれから、どうしてる? 今、どこにいるの?」
「今? 営業ツアーであちこち回ってて、で、みんなとメシ食ってるトコだったんだけど」
まさしく今いる町の名前を告げると、「えー、知らなーい」となつみはけたけた笑った。
(……?)
な、何か異常にハイテンションだよな……?
こうもハイテンションだと、却って何かあったのかと疑いたくなる。
でも、何かって何が? 和希と何かあるって言ったって、このニ週間ほどほとんど俺と顔を突き合せっぱなしの和希が、今更なつみと何かあるわけがない。
(じゃあ由梨亜ちゃん?)
と言っても、由梨亜ちゃんとなつみは元々互いの連絡先さえ知らないだろうし、あのおっとりした由梨亜ちゃんと何かあるなんてことがあるだろうか。
「あ、そうだそうだ。啓一郎、聞いて聞いて」
やたらと元気一杯に、俺に話をするなつみに不審なものは感じたものの、そこを問い質す空気感でもない。ついつい俺はそれから十五分以上もその寒空の下、なつみの話を聞く羽目に陥っていた。
(ど、どうなのかな、これ)
手が完全にかじかんでいる。残念ながら上着は店の中だ。歯の根が合わない。服の下で鳥肌が立っているのが分かる。
(さ、さぶい)
俺が一人ならともかく、他のメンバーと一緒にいるって知っているのに、そういう気遣いが出来ないなつみじゃないはずなんだけど。
「あはっ……それがもー、おっかしくってぇ……」
「あ、うん、なつみ、あのさ」
絶対何か、変だ。一月の終わりに一矢と三人で飲んだときは、だいぶ普通に見えたのに。
意を決して問い質そうと俺が声を上げると、ふっとなつみはそらすように驚くべきことを言った。
「和希もいるの?」
「え?」
まさかなつみの方からその名前を出すとは思っていなくて、一瞬言葉に詰まる。
「あ、う、うん。いるよ」
クロスでツアーに出ていて「いないよ」と言うのはどう考えても不自然だろう。大学にほとんど行っていないことはなつみだって知っているだろうし。
少し、ためらうような短い沈黙があった。
「和希の声が聞きたいわ」
「え?」
「代わってもらえる?」
……。
「それは、俺は全然構わないけど……なつみ、平気なのか?」
「平気って、何が?」
何が?ってアナタ……。
「その……いろいろと」
言葉を濁すと、なつみは少し落ち着いた声のテンションで「ああ」と頷いた。
「うん。平気。もう、ふっ切れたの」
え?
「本当に?」
ついつい疑わしくなったのは、仕方ないと思う。そんなあっさりふっ切れるものか? 俺だってまだ、由梨亜ちゃんを忘れていないのに?
自分で言うのもナンだが、なつみが和希を想う気持ちは俺が由梨亜ちゃんを想う気持ちの数倍になると思うぞ。想っていた期間だけとったとしたって。比較するようなものでもないけれど。
「うん。本当。だから、大丈夫よ」
けれど、そう言ったなつみの声が、本当に自分でそう思っているような声音だったので、俺にはそれ以上何も言うことが出来なかった。なつみが大丈夫だと言うのなら、それ以上俺が止めることでもない。
「わかった……ちょっと待ってて」
さっきは美保と電話で話していたけど、もういいかげん終わってるだろう。和希も美保も、無駄に長話をするようなタチではないし。
なつみに言い残して通話口を親指で押さえながら、ようやく店内へと戻る。寒さでガチガチになっていた体が、店内の暖かく濁った空気で弛緩した。
俺たちが陣取っている奥のテーブル席へ足を向ける。俺がいない間に酒が少しは進んだのか、先ほどよりは幾分か明るい笑いが聞こえた。
「あ、お帰り。長かったね」
笑いを顔に残したまま、和希が振り返る。俺は複雑な表情のままで和希を手招きした。
「え? 俺? 何?」
「……いいから。ちょっと」
指で押さえているとはいえ、俺の携帯電話には保留などと言う高尚な機能はついていない。いや、あるのかどうかがそもそもわからない。俺の声が零れ聞こえてそうで気になる。
手招きする俺に、不思議そうな顔をしながら和希が立ち上がった。そばまで来た和希を見上げながら、小声で携帯を示す。
「電話。なつみ」
「ああ……そうなの?」
和希の顔が微かに強張った。テーブルから残された三人が、興味津々と言う目付きでこちらを見ている。
「和希に。代わってって」
「ええっ?」
ぎょっとしたらしく、和希は脳天から突き抜けて出てっちゃったんじゃないかと言うような大声を出した。思わず空いている片手で和希の口をばんと塞ぐ。
「馬鹿」
「ご、ごめん……」
今更急いで自分の口を覆ってから、和希はそっと伺うように小声で尋ねた。
「……何で?」
「わかんない。代わってって言うから。断るわけにもいかないし」
「そりゃあそうだけど」
通話口を塞ぐ親指に無意識に力を込めながら、一層小声で和希に顔を近づける。
「でも、何か、様子がおかしい」
「おかしいって」
「わかんないけど。気をつけて、話してやって」
言いながら携帯を上げる。半ば反射的に手を伸ばしながら和希は困惑した小声で尋ねた。
「おかしいって、どんなふうに?」
「異様にテンションが高い」
俺の回答に、和希はますます困惑したような顔をした。
「なつみが?」
「なつみが」
「……」
「よろしく」
言って、親指を離す。受け取った和希が、眉を顰めたままで俺の携帯を耳に押し当てるのが見えた。
「もしもし……野沢だけど……久しぶり」
なつみと話す和希の声を聞きながら、席へと戻る。飲まされたのか、薄ら赤い顔をしたさーちゃんが俺を見上げた。
「遅かったね。彼女?」
彼女なら和希に電話を代わるのはおかしいでしょ。
「なつみ?」
俺の向かいから、一矢がちゃぽちゃぽと残り少ないビールのグラスを振りながら尋ねる。その言葉に無言で頷くと、事情を知っている、あるいは察している一矢と武人の視線が出入り口のところで話している和希に向いた。
「誰? 友達? 和希くんの彼女?」
興味津々といった顔でさーちゃんが尚も尋ねる。……だから、和希の彼女なら俺に最初に電話が来るのはおかしいでしょ?
「誰? この人に飲ませたの」
「はぁい」
さーちゃんの隣で、顔色ひとつ変えずに武人がひらりと片手を挙げた。
「明日授業の高校生が大人相手に何してんの」
「別に無理矢理飲ませたわけじゃないですよ。さーちゃんが飲んだらどんなふうになるのか見て見たいって言っただけ」
それで飲むさーちゃんもさーちゃんだ。
「んで? なつみ、和希に代わって平気なの?」
「平気も何も、代わってくれって言うんだもん」
「ついに壊れちゃったんですか?」
ビールのグラスを空にしてから武人があっさり言う。……壊れた、か。
「何か、近いかも」
「近いって」
「わかんないけど。妙だったよ、何か」
「あ、和希さん、戻って来た」
言われて顔を上げると、俺の携帯をパチンと折りたたみながら和希がこちらに戻ってくるところだった。お預けだった煙草に手を伸ばしながら、和希を見据える。
「どうだった?」
「……うーん」
差し出した俺の手に携帯を戻して椅子に座りながら、首を傾げる。さーちゃんはなつみが誰だかわからないので、一人黙々と野菜の煮物みたいなのを食べながら俺たちの顔を見比べていた。
「何だって?」
「由梨亜と幸せになってねとか、お似合いだとか……何か、やけに好意的だった」
変だ。
「別に無理して言ってるって感じでもなかったし、確かにテンション高かったけど、そう振舞ってるようにも聞こえなかったよ」
「だから変なんじゃん……」
「……うん、それはそうだけど」
「ま、こんな遠いお空の下で心配してもしょうがないやあねえ」
一矢がちょこんと首を傾げてごもっともなことを言う。煙草を口に咥えて火をつけると、煙と共にため息を吐き出した。
それはそうなんだけどね……。
東京に戻るのは、明々後日。
明日は武人抜きで地方テレビの収録があって、明後日にはまたライブがあり、明々後日は朝のうちにこっちを出て東京に帰還するつもりでいる。
(東京に戻ったら、様子を見に行ってやった方が良いかもしれないな)
――けれど、実際問題、俺はそういう精神状態ではなくなってしまうのである。
◆ ◇ ◆
「道行くみなさん、こんにちわー」
すっかりへこみまくった連日のライブだが、今日の広島で一旦は中休みだ。ここでのライブが終われば、明日は東京に戻れる。さすがに明日はバイトを入れていない。明後日は、夜にバイトがあるけど。
「どもー。東京から営業活動にやって参りましたGrand Crossでーす。お時間ある方、ちょこっとでいーんで見てって下さいっ。んじゃ一曲目!」
明日が休みだと思うと、落ち込んでいたテンションも少しは上がる。心行くまで寝てやるぞちくしょう。
そう思っているのは、何も俺だけではないようだ。
和希も一矢も、今朝になってから妙に元気を取り戻したような顔つきをしている。
今日のライブは十四時入り。他にやらなきゃならないことがあるわけでもない。
もう出来れば寂しいライブを続けたくない俺らは、ライブ本番前にストリートでライブの集客を出来るだけ図るよう努力しようと決めていた。これで目に留めてくれる人がいれば、知らない街でもライブに来てくれる人が一人やニ人は出るかもしれない。……いや、出ないだろうけど、やらないよりはやった方がましでしょ。
ベースの武人がいないし、どうせ音が欠けるんだからアコースティックバージョンでやろうと言うことになっていて、和希が珍しくアコギなんか持ってたりする。
ちなみにさーちゃんはと言えば、
「ストリートやるのは良いけど、万が一警察に注意されるようなことがあればこう言うんだよ? 『事務所は一切関係ありません、僕たちが勝手にやりました』」
そう言い残して逃亡した。……ひどすぎる。
「ありがとうございましたー」
広島市内の、中心を少し外れた場所にある商店街の中だ。本当はこんな大きい、この辺のストリートミュージシャンが出没しそうな場所じゃなくて、もっとマニアックな場所の方が良かったんだけど。何せ今日ライブやるライブハウスがこの近辺にあって遠くに行くわけにはいかないし、しょうがない。
わりと若い人にとってもメジャーな場所なのか、商店街と言っても雰囲気はお洒落と言えるし、ある店とかも悪くなかった。少し離れた大通りにはでかいデパートなんかもあるし、人通りはかなりのものだ。
「え? 今からドコ行くの?」
俺、ナンパしてんの?
「買い物? じゃあ、買い物前にぜひ一曲。景気付けに明るいのやりますんで」
「何の景気つけるんだよ」
くすくす笑いながら、和希が隣でマイク越しではないナマ声でぼそりと言う。その声が聞こえたらしい、前の方にしゃがんで聴いてくれている人が、笑いを浮かべた。
「明るいの、どれ?」
「どれ?」
「決まってないのかよっ?」
一矢が俺の背後からスティックを投げつけた。……痛いぢゃん。
「んじゃ、『空回りの……summer』」
「明るいのつって空回るの? しかもこのくそ寒いのに『summer』?……まあいいや」
道行く人が、足を止める。
少しずつだけど、止める人が増えていく。
代わりに離れる人が出るのはしょうがないけど、入れ替わり立ち代わりで、興味をほんの少し持ってくれる人が、いる。
「あ、ンでね、今日俺らってライブあるんですよ」
「その宣伝だったりするんですけど」
「バラすなよ」
「バラすと困るの?」
「誰が?」
「知らないよそんなの」
会話になってないって言って良い?と呆れたような顔で髪をかきあげる和希に、まん前でしゃがみこんでいた女の子がため息をつく。……いーやね、かっこいい人はね。黙って髪かきあげたって絵になるやね。
「そんで。夜にお時間ある人ぜひ来てもらえたらありがたいなと思ってます。俺ら、本当はベースもいるんだけど、今学校行っちゃってて。夜の方は来るんで、アコースティックじゃないです。……と、それから。いつだっけ?」