第4話(1)
ようやく『Crystal Moon』のレコーディングが終了したその頃、俺たちは以前事務員の山根さんに言われた通り事務所の新年会と言う名の飲み会に参加させてもらった。
さーちゃんに連れて行かれた六本木の店の貸切の個室にいたのは、事務所の人間とMEDIA DRIVEのメンバー三人、それからなぜかよその事務所だろう女性ソロシンガーが二人と、同じくよその事務所だろうバンドのメンバー二人、更に広田さんの友人だと言うカメラマンやらイベンターさんやら、正直わけのわからない状態だった。
残念ながら俺が期待したCRYのメンバーやBlowin'のメンバーは仕事で来ることが出来なかったらしい。広瀬のいるD.N.A.も、何だか新譜の発売があるとか何とかで、仕事に入っていたようだ。
事務所の人間も、CRYのマネージャー三人やBlowin'のマネージャー、そしてOpheriaとMEDIA DRIVEのマネージャー、VIRGIN BLUEのマネージャー、D.N.A.のマネージャー、大倉千晶のマネージャーがそれぞれおらず、会うことが出来たのはいつも出迎えてくれる事務員の山根香織さん、そして今回初対面となった東堂綾さんの二人だった。
東堂さんは三十代の優しそうな女性で、基本的にはデスク業務として事務所にいるはずなんだけど、ここしばらくはCRYのツアーのせいで出たり入ったりと言うような状態だったらしい。つまりCRY専属のデスク業務だ。
山根さんはと言えば、現在はCRY以外のアーティストのデスク業務全般をやっていると言うことだったけれど、このところBlowin'の人気も出たし、アーティストも一気に増えたしで、どうやら新しいデスクの人を募集しようとしているところらしかった。多分彼女はBlowin'の専属デスクになるんだろうとの話だから、俺たちのデスク業務をやってくれる人は別になるんだろう、この先。
知らない人ばかりの飲み会で正直少しも酔えなかったけれど、いや、酔うわけにもいかなかったけれど、それでも自分たちがブレインに所属するんだと言うことが正式に周りに伝わったような気がして、そういう意味では収穫のある飲み会だったと言えるんだろうか。
この先もこういう機会があるのなら、事務所の人間や関係者と距離を縮めるのは難しいことでもないのかもしれない。わかんないけど。
仕事の方はと言えば、カップリングのレコーディングに移行している。
それと同時に、レコーディング以外の仕事も少しずつやるようになっていた。と言うほど大袈裟なものじゃないけど、それでも俺たちにとっては何もかもが初めての出来事だ。
「はい、いいね……あ。啓一郎くんー、目線もうちょっと下」
一月も終わろうとしている本日、俺たちは朝九時からアー写の撮影で麻布にあるスタジオに閉じ込められている。
「あ、行き過ぎ行き過ぎ、ちょっと切ない感じで」
切ない感じっ?
「うーん、違うなぁ」
俺ははっきり言って、写真と言うのが好きじゃない。
自分のルックスの全てにコンプレックスを持っている俺にとっては、写真だの動画だの、ともかくも俺自身の姿が記録されるメディアと言うのが凄く嫌だ。
そうは言ってもライブの動画とかだったら全然許せるんだけど……姿を残す為の撮影と言うのが、非常に嫌。昔ほど気にしているわけじゃないが、好きになれないものはなれない。
ついに思い切り顔を顰めてしまった俺に、そばで見ていたさーちゃんが小さく吹き出した。
「駄目だなあ。もうちょっと肩の力抜いて、リラックスしてよ」
リラックスしたら「だらしない顔するな」とか言われそう。
「あ、何か目が乾いてきた」
俺の隣でカメラの方に目を向けたままの和希が、そのままの顔で目を瞬かせた。
天井の方から白いシートみたいなのがぶらんとぶら下がって、そのまま俺たちの足元まで伸びている。親戚の結婚式とか行くと、写真撮影の部屋にこういうの、あるよな。七五三とか、写真屋さんで証明写真撮ってもらう時もこんなだったかもしれない。規模が違うけど。
あちこちから、かなり強いライトがこっちに向けて当てられていて熱い上に、カメラを向けられているとついつい瞬きを控えたりするので目が乾く。もういっそ目を半開きでアー写にしてしまったらどうだろう。
「すみません、万羽さん。ちょっと休憩挟んであげても良いですか?」
「そうですね。じゃあちょっと一度肩の力抜いてもらいましょうか」
カメラマンの万羽さんがくすくすと笑った。その言葉で、何か姿勢が固まっていた俺たちはずるーっとその場に溶けた。
「ちょっとお茶でも飲んで、一息入れよう」
撮影スタジオの隅の方に椅子とテーブルがあって、テーブルの上にはペットボトルのお茶が置いてある。
和希じゃないけど、目が乾く。ぱちぱちと瞬きをしながら椅子の上に座り込んで、ペットボトルに手を伸ばした。
「啓一郎さん、NG多いなぁ」
床に座り込んでテーブルの上のお茶に手を伸ばす武人に、ペットボトルを取って渡してやる。俺を見上げてそう笑うので、またも俺は顔を顰めた。
「何も言われずに済んでるお前の方が俺は不思議」
俺も一矢も和希も、ちょこちょことああしろこうしろと言われてるけど、武人だけ最初のうちに「ちょっと顎下げてくれるかな」と言われてそれっきり何の注文もない。何でっ?
「見てて良い感じに自然だもんね、武人くんは。啓一郎くん、顔が引きつってるよ」
さーちゃんがそばで腕を組んで笑いながら、俺を見下ろす。武人が勝ち誇ったような顔で、俺を鼻で笑った。
「ま、しょーがないんじゃない? 啓一郎、ヴォーカルなんだから。写真撮る方だってこだわるでしょ」
煙草を咥えながら、和希が髪をかきあげた。ちなみに万羽さんはファインダー越しの和希を大変お気に入りのようだ。実物が良ければ、ファインダー越しでもやはり良い男らしい。メンバーショットの後に今度はソロショットを撮るわけだが、何だかそれをひどく楽しみにしているようだ。
「顔作れったって、そんな瞬時に顔なんか作れないよ。アンニュイな目線を……つってやったら『病んでるの?』とか言われそう」
つられて、椅子に引っ掛けてあったジャケットから煙草を取り出して玩びながら、わざとらしくため息をつく。
「プロなら顔くらい作れるようにならなきゃなあ」
「うわ」
にょきと背中の方から言われて、俺は一瞬椅子から腰を浮かしかけた。いつの間に背後に忍び寄ったのか、万羽さんがやっぱりペットボトルを手ににこにこと立っていた。
「写真って媒体は、世の中に一番出回る自分の姿だと思った方が良い。ネットでもチラシでも雑誌でも、どこにでも使われるものなんだからね。顔くらい、すぐに作れなきゃ」
「は、はい……」
「硬くならないで。リラ―ックスだよリラーックス」
にやにやしながら俺の肩を揉み揉みしてくれた万羽さんは、怪しげなイントネーションで言うと「じゃ」とカメラスタッフの方へと戻っていった。……変な人。
でも、俺たちが望むように状況が動いていけば、写真を撮られる機会と言うのは実際増えていくものなんだろうし、それでいちいち突っ掛かってたら仕事になんないんだろうな。わかっちゃいるよ。わかってますよ。
改めてため息をつきつつ、煙草を咥える。火を点けたところで、さーちゃんが「あ、そうだ」と小さく呟いた。
「啓一郎くんと和希くんさ、この後、時間まだ平気?」
「え? はあ」
「大丈夫だけど? 何かある?」
「俺、今日の夜はバイトがあるんだけど」
今日はブレインのスタジオが埋まっているので、これ以上の作業は特にない。解散と聞いていたので目を瞬いていると、さーちゃんはひらひらと手を振った。
「啓一郎くんに頼まれてたCD、事務所に置いて来ちゃったから、良かったら事務所寄って持ってったら? ってそれだけ。別に今度でも良いけど」
「取りに行くっ。やった。まじでくれんの?」
「あげるけど中古屋さんとかに売っちゃ駄目だよ」
「……どうしてここまでして欲しいと思ってたCDをようやく手に入れて転売するわけ? 俺、どんな奴なの?」
やった。
俺が欲しいなあと思ってて見つからなかったCDを、たまたまさーちゃんがサンプルもらって埃かぶったままになってるって話があったもんだから、持ってきてくれるよう頼んだんだった。インディーズのちょっとマニアックな奴だからレコードショップにはもう置いてなくて、ネット通販は俺やったことないから買えてなかった。
床に座り込んでいた武人と一矢が、俺の声に反応してこちらを向いた。
「何? CD?」
「うん。頼んでおいたの」
「えー。ずるーい。俺にも下さい」
武人がさーちゃんのシャツの裾をちょいちょいと引っ張る。それを見下ろしてさーちゃんが苦笑した。
「別に何かあれば全然持ってくるけど。そのうち、嫌でもサンプルのCDなんか勝手に送られてくるようになると思うよ」
「誰から?」
「付き合いのあるアーティストとかレコード会社とか事務所とかから」
「ところでさーちゃん、俺は?」
話がすっかり横道に逸れていくので、時間あるかどうか聞かれたまま放置された和希が困惑したように口を挟む。さーちゃんが「あ、ごめん」と苦笑いをした。
「和希くんも事務所に寄って欲しいんだけど。何でかは俺は知らない」
「は?」
「広田さんが和希くんと話したいって言ってたから」
「……俺だけ?」
「うん、まあ、俺も付き合うけど」
心当たりがないらしい和希が、軽く首を傾げる。
「クロスは君がリーダーだから。まあ、そんなに深く考えなくても良いと思うよ」
さーちゃんがそう宥めたところで、カメラアシスタントの女の子の声が響いた。
「そろそろどうですかー?」
あ、そうだった。
「さ、仕事仕事。そのだらしない顔で撮影しないでよ」
「リラックスでしょ?」
「し過ぎだよ。緊張感持ちなさい」
さっきと間逆のことを言われても。
「頼みますよヴォーカル」
ぱんっと一矢が俺の肩を叩いて追い越していく。その背中を眺めながら、思わず頬を撫でた。
(これも仕事)
ため息。
こういう日々が今後は続いていく。いや、続かせなきゃなんない。
嫌でも何でも、これも音楽で食っていく為に必要なことなんだから。
◆ ◇ ◆
何とかアー写撮りは一日かけて無事に終了した。
明日はジャケ写撮りだ。
何でも、アー写は事務所の用意したカメラマンに頼んでの撮影で、ジャケ写はレコード会社の指示による撮影だったので、同じ日にまとめてってわけにはいかなかったらしい。
たかだか一日経験しただけで急に慣れるはずもなく、「ああ、早くスタジオに帰りたい」と思いながら無事に撮影をこなし、今日はその場で解散になった。
一矢と武人とは撮影スタジオで別れ、俺と和希はさーちゃんの車で新宿の事務所まで移動する。事務室を覗くと、中には広田さんと山根さんだけだった。
「お疲れ様でーす」
「あ、おかえりなさーい。どうでした? 撮影」
山根さんがにこにこと出迎えてくれる。広田さんが自分のデスクから「おかえり、ちょっと待ってね」とこちらに声をかけた。
「疲れた」
「啓一郎がNGばっかり出すもんだから」
通路に立ったまま、受付の小窓を挟んで山根さんと言葉を交わす。今日は先日会った東堂さんはいないみたいだった。
「今日も一人なの?」
「CRYがツアーに出てる時は、大体そうですよ。でも今求人かけてるから、新しい人が入ったら少しは賑やかになるかもしれないですけどね。広田さんも知ってる人に声かけたりしてるみたいだし」
「知り合い関係とかで入ってくる人も多かったりするんですか?」
三人で話している間に事務室へ入って行ったさーちゃんが、CDを片手に戻って来た。
「ほら。これ」
「わーい。ありがとうっ」
「あ、佐山さんたら、手懐けようとしてる」
「そう。こうやってエサを与えることで、俺に心を許していくわけだよ」
ひでえ。
広田さん待ちで四人で立ち話をしていると、やがて視界の隅で広田さんが立ち上がるのが見えた。事務室を出て、こちらに向かって歩いてくる。
「お待たせ。たまには外でコーヒーでも飲もうか。啓一郎くんは? この後何かあるの?」
「俺はバイトで」
「そう。じゃあ和希くん、さーちゃん、先に出よう」
促されて三人が歩き出す。一瞬困惑したように和希がちらっと俺を振り返ったが、俺はひらひらと手を振ってその背中を見送った。三人が出て行くと、急に人気がなくなって静かになる。
「広田さんたち、どうしたんですか?」
俺と同じように見送っていた山根さんが、俺に向かって尋ねた。俺が知るはずもない。軽く肩を竦める。
「知らない」
まあ、後で和希が教えてくれるんだろう。
「山根さんって何時まで働いてるの?」
「一応定時は十九時半ですよ。まあ、定時に帰れることはまずないですけどね」
バイトが十六時からで、今十五時。今日は単車じゃないけど、電車でもここから三十分くらいなので、行くには早過ぎるし一旦家に帰るには遅いと言う、何とも中途半端。
「二十二時くらいまでいることもざらだし。終電なんてことも、ちょくちょくあるし」
「へえ。大変じゃん。アフターファイブに遊んだり習い事したりするんじゃないの?」
「とても無理ですよ、こんな仕事してたら」
俺が勝手に抱くイメージを口にすると、山根さんは本気で吹き出した。
「啓一郎さんは、出ないんですか?」
「うーん。ちょっとそこで煙草吸ってから出ようかな」
「何か飲みます?」
「や、自販機で勝手に買うから大丈夫」
余り仕事の邪魔をするのも悪いので、ポケットから煙草を引っ張り出して受付を離れる。にこっと笑顔で会釈してくれた山根さんは、再びデスクに向き直った。
(あ、雨)
自販機で缶コーヒーを買っていると、出入り口のドアの嵌め込み窓から雨が降り始めているのが見えた。朝、家を出る時はどんよりと曇っている感じだったけど、ついに降り出したらしい。嫌だな、あと十分でやんでくんないかな。
勝手なことを思いながら、ロビーのソファに腰を下ろす。煙草を咥えて火をつけながら、ふと美姫のことを思い出した。
クロスの元キーボーディスト嶋村美保の妹である美姫は、相変らずせこせこと『更紗』に通ってくる。最近は嶋村家のスタジオに顔を出すことがめっきり減ったせいもあるかもしれない。
もし美姫が来たら、美保がどうしてるのか聞いてみようかな。そりゃまあ別に不幸があってバンドをやめたわけじゃなく、結婚と言う幸せを掴んでの脱退なのだから元気なんだろうけど。
暇なので、ローテーブルについている雑誌棚から雑誌を一冊引っ張り出す。どれもこれも音楽雑誌とかファッション誌とかエンタメ系のものばかりで、これは付き合いのある雑誌社から送ってくるものを置いているのかもしれない。
そんなことを思いながらページを捲っていると、案の定、Blowin'が掲載されていたりする。
「やーだあ、もおーっ。何よ、この雨ぇーっ」
ついBlowin'のインタビュー記事にしみじみと視線を落としていると、騒々しい声が近付いてきて事務所のドアが開いた。知らない女性の声に顔を上げると、向こうも俺に気がついたらしく、受付の辺りで足を止めている。
(大倉千晶だ……)
この事務所で唯一のマルチアイドルと言う大倉千晶だ。人気はどうか知らないが、知名度で言えばCRYか大倉かと言うくらいだと思う、多分。
結構バラエティなんかにも出てるし、歌ももちろん出しているし、一度か二度はドラマにも脇役で出てたんじゃなかっただろーか。数年前からいるアイドルで、一時期某プロデューサーと付き合っているとかで話題を呼んだことがある。
山根さんと挨拶を交わした後、大倉はこちらに向き直って俺に向かってにこっと笑った。
「おはよーございまーす」
実物は、全体的に華奢で小さかった。顎の辺りでボブに揃えられた黒髪が小顔に見せる。くっきりした眉毛にやや黒目の部分が多い瞳。きっちりとメイクをしたその顔は、間違いなく美人だった。出るべきところは出て引っ込むべきところはきっちり引っ込んでいるメリハリのあるボディと、すんなりと伸びたバランスの良い脚には目が行ってしまう。俺のタイプじゃないけど。
「おはようございます」
年齢は俺より二歳くらい下だったかな。余り興味のあるアイドルでもなかったのでうろ覚えだけど、広田さんにもらった資料のどこかにそんなことが書いてあった気がしないでもない。
一応先輩に当たるので立ち上がって頭を下げる。大倉は、両腕を背中の方で組みながら、アイドル的な仕草で小首を傾げた。
「クロスの啓一郎くんでしょ」
「え、あ、はい。え? 何で」
凄い。何で知ってるんだろ。
口をきいたのが初めてどころか初対面だ。よくデビュー前の俺ごときを知ってるな。
「よくご存知ですね」
きょとんと目を瞬いていると、こちらに近付いてきた大倉は、頬に笑窪を浮かばせながら俺の前に立った。何か良い匂いがする。
「この前事務所でプロフィール見ちゃった。可愛ーいって思って」
……。
いや、先輩ですから、一応。
褒めてるつもりなんでしょうしね?
内実むっとしつつ、引きつった笑みを浮かべる。
「それは、どうも……」
そういや自己紹介ないな。そりゃ言われなくても知ってるけど、知ってて当然って態度だな。これがアイドルの実態か、それとも大倉の実態に過ぎないのか。
「ふうーん」
胸の内で呆れ果てている俺の前で、大倉は遠慮の欠片もない態度で俺を値踏みするように全身に不躾な視線を向けた。
「何?」
その態度に、敬語を使う気が失せる。先輩だけど、年下だし。知らん、もう。
面倒になっていると、大倉は長い睫毛をぱちぱちと瞬かせた。真っ赤なルージュの乗った口元を、きゅっと笑いの形に変える。好みの問題はさておいて、少なくともテレビや雑誌で見かけるより、やっぱり実物のアイドルは可愛いもんなんだななどと思ったりもする。
「近くで見るとホント可愛いね」
「……」
「子供の頃、女の子と間違えられたりしたでしょ」
……この女は俺に喧嘩を売っとるんだろーか。
「余計なお世話」
「あ、やだ、褒めてるのに」
どの辺っ?
可愛いと言われて喜ぶ男がいるもんかっ。
むっとした俺に、大倉がぺろっと舌を出して肩を竦める。それから、馴れ馴れしく俺を覗き込むように顔を近づけた。
「いつデビューするの?」
「一応春って話になってるけど」
「千晶ーっ」
もそもそと答えていると、入り口の方で再度物音が聞こえる。重ねるように大倉を呼ぶ男の声と、ドアの開く音がした。
「早くしろよー」
大倉のマネージャーだろうか。二十代後半といった風情で、ベージュのジャケットにいささか趣味の悪い黄色のストライプシャツ、ブラウンのコットンパンツといった姿だ。髪の毛は茶色く染め、センターで分けたやや長い前髪を一房落としているが、しまりのない細い目と二本突き出た前歯でちょっとばかし情けない様相を呈している。業界人ぶっているけどイマイチなりきれてない。そんな感じ。へえ、こういう人って本当にいるんだねえ……。
濡れた靴のせいでリノリウムの床とこすりあうキュッキュという音を立てながら、男は足早に近づいてきた。
「ちょっとあんた、新人? 千晶に妙なちょっかいかけないでよ」
はあ。俺がちょっかい出してるってことになんの? この場合。
「今度ブレインにお世話になることになったGrand Crossの橋谷です」
とりあえずは挨拶しとこうと頭を下げるが、男は半ば聞いてないみたいだった。忙しく腕時計を見ながら、大倉の腕を掴む。
「何だ、まだ受け取ってないんじゃん」
「事務室に寄ってないもん」
その手を払いのけながら、大倉は鼻の頭に皺を寄せた。先ほどまでの鼻にかかった甘い声とは打って変わった、ドスの聞いた声だ。
「気安く触んないでよってば」
「何だよもうー。香織ちゃーん、香織ちゃーん」
俺の挨拶には一言も返事をくれず、男が踵を返す。呼ぶ声に窓を開けた山根さんに何か早口で言う背中を見つつ、俺は大倉に視線を戻した。
「マネージャーさん?」
「マネージャーの内村。使えないのよね。かっこつけようとするばっかでさ」