004 ジト目メイドは笑わない
「変なことをするのを今すぐやめてください、この不審者」
「え、あ、はい! すいません!」
「え、まさか本当に変なことしてたんですか……?」
帰って来るなりいきなり有無を言わさず推定有罪を判決してくるジト目メイド。
辛辣というか何と言うか本当に容赦がない。
「してない! してないよ! これは、その、アレだよ! 反射的に謝っちゃっただけっていうか、癖みたいなもんで」
「はぁ……変な人ですね。疚しいことがあるから謝ったんじゃないんですか?」
「本当に何もしてないから!」
その姿はクラシカルなメイド服からお嬢様が来ているようなネグリジェのような寝間着姿に着替えられて――は居なかった。依然メイド服のまま、特に疲れた様子などもなく、部屋を出て行った時から何も変わってはいない。
「……寝てしまわれたのですね。失礼ですが、お嬢様を寝室に運ぶのを手伝ってもらえませんか」
ハルカゲは二つ返事で答え、お嬢様をお姫様抱っこする。メイドに扉を開けられ、導かれるがままに歩き出したとき、ふと脳裏をよぎること。
――あれ、お嬢様をお嬢様抱っこする? お姫様をお嬢様抱っこする?
「変なところを触らないでください、この変態不審者」
「冤罪です! 俺は無実だ!」
まだ言うかこのメイドは。
そんなこんなで到達したお嬢様の寝室はハルカゲが想像していたほどではないもののかなり広く、床はぴかぴかに磨かれた石の上に上質な織物が敷かれ、大きな窓には刺繍のついたレースのカーテン、天蓋のついた大きなベッドに、どれくらい高価なのかもわからない調度品の数々が顔を連ね、燭台の柔らかな灯りをぼんやりとその身に受けていた。
少し入っただけでもすぐに感じる、自らの場違い感。
何か粗相をする前にとっとと部屋を出よう、とハルカゲはすぐにそう思った。
お嬢様をベッドに寝かせると、あとのことは全てノルンがやってくれた。お嬢様の体勢を整えたり、布団をかけたりして、最後に燭台の火を消すと部屋はすっかり夜になった。
「おやすみなさいませ」
真っ暗な部屋を出る直前、ノルンがそう呟いたのが微かに聞こえた。
* * *
「あなたは寝ないんですか」
元の部屋に戻ったハルカゲは、ノルンと二人きりで自分がどう振る舞ったものかわからず所在なげにする他なかったが、結局はなんとなくその場の雰囲気で元の場所であるベッドの上に腰かけることとなり、ノルンも変わらず椅子の上に腰かけた。
「俺はまだ眠くないかな、1回寝てたし……そういえば、この部屋って何の部屋なの?」
ふと思い浮かんだ素朴な疑問。
ノルンは無表情で答える。
「使用人室です」
「へーなるほど……ってことは、君の部屋じゃん!」
ベッドから立った方が良いか!? いや寧ろ失礼か!?
正解が全く分からないが、狼狽えているとノルンが「そのままで良いですよ」と心底から呆れかえったような顔で言うのでその言葉にありがたく従うことにした。
「……あ、あのさあ。良い子だね、あの子。なんていうかこう、明るくてさ、元気いっぱい! って感じで」
「そうですね」
「…………」
「…………」
間が持たない。
それにしても、淡泊だなと思ってしまう。お嬢様の方はこのメイドのことをいたく褒めていたというのに、当のメイドはこんな調子で。普通、逆じゃないか?
微妙な場の空気も相まっていたたまれなくなったハルカゲはぽつりと零すようにつぶやいた。
「あの子、君と友達になりたいって言ってたよ」
それまで無表情で椅子に腰かけ膝元あたりにぼんやりと視線を落としながら燭台の火を瞳に映していたノルンが、視線を上げハルカゲの方を見る。
「友達、ですか」
「差し出がましいことを言ってるのはわかってるけど……叶えてやれないか」
本当に余計なことをしたな、とハルカゲは一瞬で思った。やめておけば良かったのにと心の中で癖のように呟く。しかしここでこの言葉を飲み込めるほどハルカゲは忍耐強い青年ではなかったし、お嬢様の気持ちを見て見ぬ振りをできるほど恩人に無関心で居られる人間でもなかった。
この台詞を言わなかったら、きっと自分はずっと後悔しただろう。
そんな気持ちがハルカゲを突き動かしてしまう。
「友達、というものが居たことがないので友達というものがどういうものなのかわかりませんが、そのお願いにはお応えしかねるでしょう」
「主人と従者だから?」
「そうです」
「そっか」
「…………」
「…………」
間が持たない。
それにしても、やっぱり余計なことをしたなと思ってしまう。怒らせたかな。聞いてはいけないことだったのかもしれない。何年も一緒に居るんだし、少なくとも今日会った赤の他人が口を出して良い関係じゃないよな。ああ、二人とも自分を助けてくれた恩人なのに何てことを……やっぱりたまには変な衝動は飲み込んで静観することを身に着けた方が良いのかもしれない。どうやって詫びよう。いやもう謝りようもないかもしれない。どうすれば……。
「……本当に変な人ですね」
再び長い沈黙を破るのは、ブロンド髪のメイド。
「余計なお節介を焼きに来たと思えばあっさり引き下がりますし、それに何であなたの方が寂しそうな顔をするんですか?」
「嫁に出されるんだろ、あの子。ここを出ていく前の最後の望みなら、叶えてやりたいと思うじゃんか」
「あなたには何の関係もないでしょうに」
「そう、なんだけどさ。いやごめんな、本当に余計なことして」
「別に良いですけど」
ノルンはハルカゲからまた視線を落として続ける。その先には燭台の弱い光が落とすぼんやりとした二人の影。
「それだけではないんです」
「え?」
「お嬢様は婚姻に出されるために育てられました」
少しの間が空けられる。
逡巡していたのかもしれない。何かを、このメイドなりに。
ハルカゲはそれを黙って待った。
「お嬢様にはお姉さまが居られました。聡明な方でした。優秀な家庭教師をつけられ、世界の遍くを知り賢くお育ちになりました。名君と言われた先代の館様が病気で亡くなられてから程なくして、お嬢様のお姉さまは屋敷を飛び出して行かれました。気骨にも溢れた方でしたから、嫌になってしまったのでしょう。この屋敷か、この世界が」
ハルカゲはノルンをしっかりと見ながらその話を聞いた。
窓の外には夜だけが広がっていて、ノルンの声は部屋の中に静かに響いた。
「お嬢様の嫁ぎ先は、元々お嬢様のお姉さまが嫁ぐはずでした。嫁ぎ先は婚姻がなくなって酷くお怒りになったそうで、それはもうこちらの屋敷に今すぐ攻め入って討ち滅ぼさんという勢いだったそうです。それを収めるために白羽の矢が立てられたのがお嬢様でした」
余計なことを知りすぎたから長女は出て行ってしまったのだ。
「だからご主人様はこう考えました。次の次女は余計なことを教えないようにしよう」
「無知な方が操りやすいから」
支配する相手に賢さは要らない。馬鹿な方が御しやすいからだ。相手が無知であれば騙されているのにも気づかない。それに知的にも資本的にも強い立場に居れば相手を一生搾取できる。反逆される心配もない。だから持つ者は持たざる者に施すことをしない。歴史の授業で学んだことだ。
「ご主人様――お嬢様の年の離れたお兄様は、お嬢様に家庭教師をつけることをお止めになり、代わりにお嬢様を無知なままで居させるための遊び相手をつけることにしました。お嬢様の好奇心をなるべく外に向けさせず、屋敷で遊んで時間を過ごさせるように。最も都合が良かったのは、お嬢様と同じように無知で、立場が弱くて操りやすい、同じ年くらいの女子を選ぶことです。そうして選ばれたのが、私です」
ノルンは続けた。
「私は屋敷に勤める庭師の娘なんです。私がご主人様の意向を破りお嬢様に余計なことを吹き込めば、父は屋敷を追放され仕事を失うでしょう。そういった経緯で私は7年間お嬢様のお傍でお仕えしてきました。お嬢様をなるべく無知で居させるために」
おわかりいただけましたか、でノルンは長い話を結んだ。
「私が、あの好奇心に満ち溢れたお嬢様を不満足な無知で居させた張本人なのです」
重い言葉。
燭台の火が揺らめく。
「罪悪感、ってことか」
「その問いにお答えする術を私は持ち合わせておりません。ご了承ください」
不愛想なだけかと、あるいは友達なんて要らないとか言うかと思っていた。全然そんなレベルの話ではなかった。つくづく甘いなと自分の浅慮さを痛感させられる。その愚かさで今まで何回軽はずみな行動をとって人の心を傷つけてきたのだろう。
ノルンは7年間もあの太陽のようなお嬢様の"蓋"だったのだ。自分だったらそんなことができただろうか? そんな役目に耐えられただろうか? とてもじゃないが心がもたないのではないだろうか?
ノルンが自分を責めるような口調でありながら悪びれた様子もなく淡々と話していたのは、もう自分を責めすぎるほど責めて、心を殺してしまったからなのではないだろうか。
もしかしたらあの子が婚姻に出されこの地を出ていくことは、この子にとっては7年間待ちわびた救いの瞬間なのではないだろうか。待望の解放の時なのではないだろうか。
それなのに友達になれなんて――どれほど残酷な言葉だっただろうか。
ノルンの7年は自分が軽々しく口にしていいような重さではない。今更だがハルカゲにはそのことが痛いくらいわかった。敬意を払い、ノルンを尊重する意思を表すために今ハルカゲにできる行動は、もはや沈黙しか持ち合わせていなかった。
「だからどうして、あなたがそんな顔をするんですか」
いつの間にかノルンから気まずそうに外してしまっていた視線を、ふとノルンの顔に戻す。そのとき、初めてノルンが少しだけ笑ったような気がした。
「喋りすぎてしまいました。今日はもうお休みください。蝋燭の火、消しますよ」
燭台の火を消せば、夜は誰にでも訪れる。
寝室で眠るお嬢様にも、窓の外の森にも、月のない空にも、迷い込んだ異邦人にも、独りぼっちのメイドにも。