003 星を見た夜
迂闊にスマートフォンを出してしまったのが青年――ハルカゲの失態であったかもしれない。その後は写真ライブラリを隅から隅まで見させられたり、カメラやライト機能を使わされたりしてスマホの話題ばかりを繰り広げさせられる羽目になってしまった。
ジト目メイドは「怖いからいい」と言って遠慮したがお嬢様の方は積極的にスマホに触りたがり「どんなマジックアイテムですの~~~!!」と大興奮でフリック入力したり無駄に画面をスクロールしたりカメラを連写したりしていた。
バッテリーがすごい減るなと思いつつも、青年は「自分が親にスマホを買ってもらったときも、ここまでではないけど色々と触りまくった気がするな」と、わくわくした想いを懐かしく遠くに感じた。
「ほら! 見てくださいましノルン! 二人が映っておりますわよ!!」
「気を付けてくださいよお嬢様、この道具にどんな魔力が込められているかわからないんですから……魂を吸い取られるかもしれませんよ」
「まあ、魂を! 一度吸い取られておくのも良いかもしれませんわね……」
どんな価値観で生きてるんだ、お嬢様っていうものは……?
そんなことを心でつぶやきながら、気づけばハルカゲの表情には笑みが零れていた。
――あれ、俺いま、笑ってる。
笑うのなんていつぶりだろう。大学ではずっと独りで空気を演じて、家では家族とろくな会話もせず、部屋に引きこもってはサブスクでアニメを見て時間を潰していた。誰とも笑うことなんてなかった。心を開くこともなかった。
何故だろうか、ここに居るとすごく息がしやすい。
この白髪と青い瞳の女の子の無邪気な振る舞いがそうさせるのだろうか。
「申し訳ありませんが、私は夜の支度を済ませなければなりませんので、少し席を外させていただきます」
終わりの見えないスマホ談義の途中で、ジト目メイドが立ち上がって言った。
去り際、ハルカゲの耳元でもう一度念を押していく。
「私が居ないからと言って変なことはなさらないでくださいね」
語気が強い。3人でしばらく笑いあってなんとなく打ち解けたような気でいたが、世の中はそんなに甘くはないらしい……。
だがハルカゲの中では信用されてないなと思うよりも、しっかりしているなという気持ちが前に来た。真面目で信頼できるメイドなのだ。きっと今までもこの自由奔放なお嬢様をよく支えて、お嬢様からも信頼されて来たのだろう。
「しっかり者だね」
ハルカゲがそう言うとお嬢様はスマホをかじりつくように眺めていた顔を上げ、そこにぱっと花のような笑顔を咲かせた
「ええ! ノルンは自慢の従者ですわ! もう何年も一緒に居ましてよ。それにノルンは気づかれていないと思っているようでございますけれど、わたくし実は少し前から定期的に屋敷の裏口で野良猫に餌をやっているところを見てしまいまして、そんなかわいいところもあるんでございましてよ!」
へぇ、あのノルンが、意外、とは不思議と思わなかった。なんというか、雨に濡れた捨て犬に傘を差す不良みたいな感じとでも言えば良いのか、なんとなく「やってそう」な感じがしてしまう。失礼だとは思うけれど。
それよりも、ハルカゲが印象深く感じたのはお嬢様の方だった。てっきり自分のメイドの――ノルンの能力を自慢するものだと思っていた。その有能さぶり、辣腕ぶりを。けれどお嬢様が言ったのは「何年も一緒に居る」「猫に餌をやっていてかわいい」だった。
人を能力で見ないんだな――そう思ったとき、ハルカゲはこのお嬢様のことを心から尊敬できる気がした。
「この愚図」「お前は間抜けだなぁ」「原君って役立たずじゃん」
脳裏にちらついてくる、大学で言われた言葉。
貧すれば鈍するの逆で金持ち喧嘩せずというのか、ノルン曰くお嬢様は世間知らずらしいがそれでもこんなにもいい子に育てるのは育ちの良さ故なのだろうか。
無知であれと育てられるのは少し可哀想だと聞いたときは思ったが、蝶よ花よと愛でられて育つというのも悪くないのかもしれない。
「でもわたくし、悩みがひとつございますわ」
「悩み? あー、もし俺で良かったら……聞かせてくれないか」
「わたくし、ノルンと"友達"になりたいんですの」
「友達」
ああ、あれか。銀河系のどこかにあると言われている、通念上の概念。
幽霊みたいなもので、居るとは言われているけど観測できない類の何か。
俺は見たことないけど、あるらしいね、そういう観念が。
そんな現実逃避の言葉ばかりが頭に無尽蔵に溢れてくる。
「そう、友達ですの!」
お嬢様の溌剌とした声に意識を現実に引き戻される。
授業中うとうとしていたらジャーキングと共に目が覚めたときのような感覚。
「ああ、どうして友達になりたいの?」
するとお嬢様は窓越しに木々の連なりの上に落ちた遠い星空を眺めながら言った。
「ずっと昔に本で読んだことがありますの。世界には友達と呼べる人が居る人も居るって。わたくし、それにずっと憧れているんですの。友達はいつも一緒に居て、同じ景色を見て、気持ちを分かち合って、一緒に食事をして、夜眠る前には星を見て夢を語らうのですわ――わたくし、そんな人が居たことは今までありませんでした。屋敷ではいつも一人で……何年か前からはノルンが居てくれますけれども」
ノルンはしっかりしたメイドだが、それは友達になりたいというお嬢様の願いからすれば寧ろ不都合なものだったのだろう。仕事に真面目であればあるほど、そんな関係を受け入れるとは思えなかった。
「この領地を出る前にそんな人が……友達ができたらどんなに良いでしょうね」
「出ていく予定があるのか?」
「ええ。遠くないうちに、わたくしは婚姻に出されるでしょう。そうしたらノルンとも一緒にいられるかどうか――でもわたくし、楽しみにしておりますのよ! 新しい世界に出られるんですもの!」
ハルカゲは人の顔色ばかり窺って、縮こまって社会生活を送ってきた。それ故に人の表情を見てその人の気持ちを読み取る能力には長けていた。いや、例えそんなハルカゲでなくてもその不器用な笑顔から何も感じ取れない人間など居ただろうか。
政略結婚。胸の内側にスポイトで冷たい水を1滴垂らされたような心地がした。こんないい子が他人の道具にされ、伴侶を選ぶこともできない。誰かの都合で人生を決められていく。
しかしそれを嫌だと思うのは自らのエゴでしかないとハルカゲも知っていた。
この子の幸せはこの子以外には決められない。この子が受け入れているなら、それを自分がとやかく言うことではない。
嘘がつけない子なんだろう。それなのに不器用に笑うのは、話しているハルカゲに心配させないため。もしかしたら、自分に言い聞かせるため。
そこにはまだ未熟ながら覚悟があった。この子はもう覚悟を決めているのだ。そうであるならば、自分にできることはその覚悟をいたずらに揺らがせることではなく、そっと背中を押してあげることなんじゃないだろうか。
そう思っているのに胸の嫌な感じは増していく。それを胸の奥の方へと押し込むようにひとつ静かに大きく深呼吸してからハルカゲは言葉を返した。
「友達は――良いものだよ。新しい場所に行ったら、きっとできると良いね」
ノルンと友達になれたら良いね、とは言えなかった。ノルンがそれを望まないだろうし、この地を離れる時の未練になってしまうかもしれなかったから。それでも、この子の今持っている切実な願いとノルンを一緒に切り捨ててしまったような後悔のようなもやもやが胸に残る。
それに、友達は良いものだと言ったことにも、胸のどこかでつっかかっていた。でも本心だ、とハルカゲは反芻する。昔はハルカゲにも友達が居た。たくさん遊んで、馬鹿やって、笑って、救われた。友達が居なかったら今の自分はなかった。
大学ではよく2人以上で居る生徒を見る。彼らはいつも笑い合って、支えあって歩いている。友達は良いものだし、必要だ。その気持ちに嘘はない。
お嬢様は痛々しく強張った笑顔を少しだけ柔らかくし、ハルカゲに返す。
「ありがとうございますわ。……あれ、なんだかわたくし、急に少し眠くなってきてしまいました」
少ししんみりした話をしたからか、張っていた気が切れてそれまで元気に話していた分の疲れがどっと来たのかもしれない。お嬢様は座っていたベッドにそのまま横に倒れる形で体を預け、あっという間に寝息を立て眠ってしまった。まるで小さい子供みたいだ。何か月か前、ハルカゲの家族が生まれて数か月の姉の娘、ハルカゲから見れば姪を預かっていた時のことを思い出す。
「寝顔まで子供みたいだな……」
だが数か月後には婚姻が待っている。そのギャップがなんだかハルカゲには残酷に思えた。
久々に笑った。普段使われていなくてすっかり衰えた頬の筋肉が痛いくらいだ。
自分を受け入れてくれた。求めてくれた。助けてくれた。こんないい子が。
どうせこの世界でやりたいことなんてない――いや、元の世界でもなかった。価値がないと言われ続けた人生だ。どうせそんな人生なら、この子のために何かしてあげられたら良かったのに。
そんな力も自分にはない。だから無価値なのだ。そんな自分が、
「じゃあ今夜だけ、俺と友達になろうよ」
そんな恰好つけたセリフなど、言えるはずもなかった。