第九話 親切なじいさんといたずらばあさんに遭うなんて!
いつものねぐら、橋の下。
片目の老人に淹れてもらった珈琲を両手で抱えアサギは焚火にあたっている。
揺らめく炎と手にしたカップからじんわりと温かみを感じながらゆったりしていると、何も用意していないんじゃろう、と声が聞こえた。
何のことかと返事をするより早く老人によって夕食の準備が始められていた。
夕食と言っても手の込んだものではなく、インスタントの袋麺に乾燥野菜を入れたもの。
チキンか豚骨かと選択を迫られ、悩んでいるうちにお湯が沸いた片手鍋に乾麺がふた塊投入され踊る。
固まっていた麺がほぐれるくらいにまで迷ってチキンにした。
昼間食べたものが重かったのか事件の連続で体が疲れて消化にまで血が回っていないのかお腹がすく感覚はなかったが、食べる前提で話が進んでいて食べない選択は最初から存在しなかった。
せっかく気にかけて振舞ってもらえるのだから好意をを無下にはできない。
老人は身なりは綺麗でないものの持ち物はそれほど古めかしいものではなく、ともすればただキャンプを楽しんでいるだけのようにも見える。
にっちもさっちもいかなくて浮浪者になったような絶望感は感じられずこの生活を楽しんでいるようだ。
手伝うと言う間もなくラーメンは器に盛られ粉末スープを入れてできあがり、どんぶり鉢が差し出される。
「ほれ、ボーっとするな。麺が伸びるじゃろ」
「あ、ありがとうございます。はい。いただきます」
お腹は空いていないと思っていたアサギだったが香りを嗅げば食欲はそそられ口の中に唾液が溜まるのを感じる。
箸と蓮華を渡されるとすぐ麺を掴み、はやる気持ちを抑え息をかけて冷まして口へと運ぶ。
「美味しい……」
「じゃろ。寒くなってくると格別なんじゃ」
老人の言うとおりだった。
暖かい麵とスープが喉を通って食道に沁みわたり、たかがインスタントとバカにできない味。スープが跳ねて顔にかかるのもまた楽しかった。
出来合いと外食ばかりで手作りのものに飢えていたのだとアサギは感じた。
二人は黙々と麵をすするがた8割方麺を食べたところでアサギが口を開く。
「何も聞かないんですか?」
「……訳有なんじゃろう?何か聞いてほしいと顔に書いてあるから聞かんのじゃ」
「え」
飛び込んできたのは意外な答えだった
「こんな話をして受け止めてもらえなかったらどうしよう、信じてもらえなかったらどうしよう、そんな顔をしておるわい」
「あ……」
図星だった。箸を持つ手が止まり、聴き入る。
「聞かれてから話すようでは本当に話したいことではない。聞かれなくとも一人でに話し出すことが本当に話したいことじゃ」
「話したことを相手に受け入れられたい、信じてもらいたいと期待してはおらんか?それは図々しいぞ?受け止めるかどうか、信じるかどうか、肯定か否定かは相手の決めることじゃ」
目を閉じ、静かに語りかけるように言う老人。
「信じてもらえようと信じてもらえまいと構わない、ただ信じてもらえるように最大限努力する。感情と言葉を尽くす。話す側にできることはそれだけじゃ」
言い終えて老人はずずず、とどんぶりから直接スープを飲む。
「ふむ、ちょっと説教臭くなってしまったな」
表情を変えずそういうのは照れ隠しか。唐突に話題を変える。
「気を悪くせんでほしいのじゃが……お前さん風呂に入っておらんじゃろ?」
「え?……ああ、はい」
「なに、なんとなく付き合いの経験でわかるのじゃ」
飄々と話す態度から一転して躊躇いがちに告げてくれる。
「それならこの橋の道を下りてまっすぐ10分ほど行くと銭湯がある。隣にはコインランドリーもある。銭湯はやや古いがコインランドリーは先々月にリニューアルした最新式じゃ。行って温まってくるといい。わしは先に寝とるぞ」
言いながら老人は食器を片付け始める。
オレが片付けます、と今度こそとアサギは動こうとしたが食器類は全て老人に取り上げられ、洗濯物入りのバッグを放り投げられた。
キャッチしたバッグを前に抱えると、ほれ、早くせい、と急かされる。
ごちそうさま、と挨拶もそこそこに教わった通り土手を上り切り、橋から伸びる道を真っ直ぐ歩く。
歩道と車道を分ける縁石がとぎれとぎれにしかない片側1車線。
お世辞にも広いとは言えない住宅と商店が入り交じる道路の先、緩やかなカーブの途中に銭湯「なないろ湯」はあった。
道すがらお風呂用具を桶に入れ抱えて歩く人をちらほら見かけたしすれ違った店頭には何台か自転車も停まっている。
結構お客が入っているようだ。
言ってしまえば昭和なつくりの、木の温かみが前面に出ている店構え。
塗料の剥がれかかった木製の下駄箱に靴を入れアルミ製の札のような鍵を抜いて恐る恐る、入る。
昔のコント番組で見たような番台から風呂場が丸見えのようなつくりにはなっていなく、男女の湯はそれぞれ独立していて店員がいるのも普通の受付カウンターだった。
覗かれる心配はないようで、アサギはほっと胸をなでおろした。
「えっと、入りたいんです……けど」
「480円ね」
ぶっきらぼうに返事をされる。ほとんど常連で回っているため初見の客への対応がおろそかになりがちである。
おお結構するな、と思ったが今は懐が潤っているため躊躇いなく払う。
「あと、何も持ってないんですけど」
「はい、じゃあ必要なの買ってください」
カウンター横に石鹸、タオル、シャンプー、バスタオル、など必要そうなものが並べられており、この際だからと思い惜しみなく全部買う。
会計を済ませ振り返れば30くらいの父親と小学生くらいの男の子が空だから湯気を上らせながら腰に手を当てて牛乳を楽しんでいる。
あ、美味しそう。あとで自分もやろうと思いながら女湯と書いた朱色の暖簾をくぐり中に入ると脱衣所の人はまばら。
殺風景な中に点きっ放しのテレビ、扇風機、硬貨で一時的に動くドライヤーなどが点在している。
人目が少なければあまり恥ずかしさを感じなくて済むと、素早く服を脱ぎ脱ぎ畳んでロッカーに入れ、鍵を閉め……タオルを忘れたのでもう一度鍵を開けて出す。
いざ、と思うとやっぱりちょっと恥ずかしいので前をタオルで隠しながら浴室へ向かう。
ガラス戸に手をかけると結露したアルミサッシがひんやり。
横へ引くとガラガラガラと懐かしいがして、開ければ湯気がもわっと押し寄せる。
床のタイルがまた冷たく、足の裏全体をつけるのが億劫でかかとを浮かせ気味で歩く。
こじんまりとした室内に多くない客。年齢層は高く若者はいない。
女性の裸が視界に入ってしまうことに罪悪感を覚えるが、現実に体が女になってしまっているので仕方ない。
幼い頃に旅行先で母親に連れられて女湯に入ったことがあるから全く見たことが無いわけではなく……と一人ぶつぶつ言い訳をする。
積まれた桶をひとつ手に取り壁沿いに並んだシャワーのうちの一つの前に腰かける。
正面に丁度鏡があり、映る自分の姿をまじまじと見る。
体の線が全体的に細くなっている感。
肩も丸くなで肩。
まぁ、男の体のままではアンバランスで可愛くないわけだから自然とこの形に収まったのだろう
まず髪を洗おうとポニーテールをほどく。
今朝咲に結わいてもらってから結び直す必要が丸で無く、しっかりやってもらったことに感謝だった。
シャワーを出して髪を濡らし1回使い切り袋に入った液体シャンプーを泡立てる。
に泡立ててから髪を頭皮を念入りに洗っていく。
数日の汚れを取り去るべく念入りに洗うと、泡が目に入らないよう目を閉じてしまったため手探りでシャワーの栓を捜す。
誤ってお湯の流れるパイプに触ってしまい、熱っ!っと跳ねた。
ようやく見つけシャワーが流れる。
染みついた汚れ匂い、悪い記憶とともに流れていけと願わずにいられない。
髪を流し終え絞る。
今度は石鹸をタオルにこすりつけ泡立て全身を丁寧に洗っていく。
真新しいタオルの肌触りが心地よい。
異世界ではここまでのものは存在しなかったな、と文明の発展にうっとりしてしまう。
3日くらいしかたってないのに随分と長く風呂に入ってないような感覚がする。
今日も1日が盛沢山すぎて長かった。
思い出しきれないくらい色んな出会いがあった。
「親父……」
腕をこする手が止まり、一つため息が出る。
明日、いよいよ向き合わなくては。
そのために今ここで思いっきりリフレッシュするんだ。
何度こすっても曇ってしまう鏡をもう一度手のひらで拭く。
眉が下がり、への字口になって弱気になっていた表情を明るく変える。よし。
「ほぉ。若いの、いい尻しとるのぉ」
「うわぁぁぁぁ!!」
腰掛に接しているところから少し上の臀部をカサカサの手が撫でた。
不意打ちにアサギは思わず叫ぶと当然何事かと周りが一斉にこちらを向く。
変な奴だと思われた。今すぐ帰りたい。
「なんじゃい。もっと可愛く叫ばんかい」
え……。触られたのにクレーム受けるという理不尽。
安全地帯だろうと安心していたところに触られたのとせっかく目立たないようにしていたのに一斉に注目集めたため半べそになりながらも声の主を見るべく振り返る。
腰が曲がりきっていてしわくちゃの顔で手足が枯れ木のような老婆が立っていた。
「なんじゃい尻の割ににつまらん胸をしとるのぅ」
「なんなんだよアンタ!」
「ワシか?ワシは絹白じゃ。人は親しみを込めて皆‟お絹さん"と呼んでおる」
「名前の問題じゃねぇ!」
「なんじゃ。貧乳コンプレックスかの。ワシも昔はHカップの爆乳でこの辺りをブイブイ言わせておったのじゃ。人呼んで百人斬りのお絹などと呼ばれておった。今はこんなに垂れてしまっての。歩く鍾乳洞じゃよ」
垂れ切った胸を両手で持ち上げる仕草。
恥じらいも減ったくれもなく、所どころ歯の抜け落ちた顔でにやりと笑う。
そんなことよくやる。と言うかひどい通り名だ。
「お絹さん!まーた若者に絡んで!そんなんだからみんな来なくなっちゃうんだよ」
恰幅のいいお姉さんがやってきて絹白と名乗る老婆をたしなめる。
「あんた開店してすぐにもう入りに来たんでしょ!?なんで2回目来てるのさ!?」
「うるさい!ワシの若い子センサーが反応したんじゃわい!」
お姉さんは老婆の首根っこ――よく伸びる皮を器用に掴み文字通り引きずっていく。
「いやじゃあ!若い娘のエキスをもっと頂くんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
老婆の悲鳴が天井の高い室内によく響いた。
お風呂なのに色気のかけらもございません。笑




