03 ホワイト・ラビット
2020.0518 投稿
2020.0522 タイトル変更
2020.0718 修正
微睡んだ浮遊感、ベールに包まれたような心地いい空間。中学に入った頃から普段夢を見なくなっていたので、久方ぶりの快感のような気がする。チクタクチクタク。時間の進む音がする。
ああ、そうだ。幼い頃はその音をよく聞いていた。生き急がせるためではなく、落ち着きと趣のある振り子時計の音。懐かしいな、と思っているとぼやける視界が徐々に目を覚ませと促すように目が焦点を合わせていく。
ふと目に入ったのものを見てその意識は急浮上した。そこには全てを白紙に戻したかのような、何もないとしか表現できない白い白い空間。
「大変だ、急がないと…。」
そんな空間に、ぽつりと神妙そうに独り言を言う男が一人あるだけ。それが視界に移るもの全てだった。しかしその男は自分が見下げられる場所に逆さまになっていて、自分の足元を確認すると、地に足がついている感じはしなかった。空気の上に立っている。そんな不思議な感覚だった。髪の毛も、自分も男も逆立ってないことから、ここの重力はどうなっているのかもわからない、なんてへんてこな夢を見ているんだと感じた。
しかも聞こえてくるその言葉は日本語ではないのに、脳に翻訳機能がついているかのように耳に馴染んだというのにも違和感を感じる。男も日本人ではなさそうだ。筋の通った高い鼻、染めたようには見えないナチュナルボーンな赤煉瓦色の髪、鴬色の瞳に色素の薄い肌。その肌にはそばかすが見えた。
何をそんなに急いでいるのか、そう聞こうとして口を開く。その瞬間にチクタクチクタク。時計の音が遮るかのように鼓膜を叩く。あまりの音の大きさに何事かと辺りを見回すが、ただ真っ白な空間が広がっているだけ。時計なんてどこにも見当たらなかった。
心臓が身体に伝えてくる振動と、それにシンクロする時計の音。なんとも不思議な感じがして、男の方へ視線を見やると、もうそこには男はいなかった。その代わりに大きな丸い穴が一つ、ポツンとその存在を主張していた。深くて吸い込まれてしまいそうな穴の方へ足を踏みだすと、急に自分か景色のどちらかが反転して、その穴が自分の足元に来ていた。
その穴をのぞき込めば、少しの不安と好奇心。穴からはチクタクチクタクとその中から聞こえてくる。心なしか、その音が懐かしく聞き馴染んだよう音のように感じた。時計は母親の胎内にいた時の音で、だから落ち着くんだと何かの本で読んだことがある。それに該当するのかはわからないが、ただそこに安堵を覚えたのもまた事実だった。
躊躇いはなかった。ただ導かれるかのように勝手に体が動いていた。気が付いたら、その穴の中に落ちていたのだ。こんな不思議な体験があるだろうか。体は勝手に動き、心もそれをさも当たり前かのように受け入れている。ただただ落ちていく中で、チクタクチクタクと時計の音が響く。
落下するときの風と浮遊感。それさえも恐怖の対象にもならず、母の腕の中にいるかのような安心感だけが自分を満たしていた。
ああ、どこに向かうんだろう。シュルシュルと落ちていくだけの空間は、まるで走馬灯のようだった。幼い頃の夢や嬉しかったこと、泣いたこと、喧嘩したこと、腹を抱えて笑いあったこと。友達と泣いた高校の卒業式。人生で初めて自分で大きな選択をして決めた高校の受験日のあの緊張が走る教室、初めてだった中学のテストをなめてかかり赤い流星が降り注いだ解答用紙、クレヨン一つでどこまでも描けた出鱈目な地図に、何色よりも早くすり減った赤のクレヨン、卒園もしてないのに買ってもらった日から毎日背負ったランドセル、ほめてもらっただけだけど優しくてお気に入りだった保育園の先生。ああ、それが初恋だったったっけ。
追憶の長いトンネルを駆け抜けるかのように、些細な忘れられた懐かしい記憶の欠片たちが、あちらこちらで割れたガラスのように散らばって輝いている。まるで万華鏡の中にいるようだった。映画のフィルムと違う、そのまばらさに目を忙しく動かす。そんなこともあった、あんなこともあった。どれも全て自分が歩んできた道で、ノンフィクションの記憶。それらを眺めていて分かったことがある。
赤いガラスは怒りの色。兄弟や友人と喧嘩したり、はたまた自分自身に怒りを感じた時の記憶。青いガラスは悲しみの色。緑はちょっと幸せだなって感じた時の記憶。真っ暗闇でも黒く怪しく輝くガラスは、挫折や失意の闇の色。それぞれが宝石みたいに煌めいている。
そしてふと考えた。この追憶の森のような深い穴は自分の道を遡っているが、どこまで落ちていくのだろうか。赤ん坊の頃まで落ちるのか、それとも物心がつく頃まで落ちるのか。下を覗くと、長いトンネルのように終わりが見えない真っ暗闇。さっきの真っ白な空間と対照的な、まさに一寸先は闇を体現している。
そんな中でひと際シリウスのように白く輝くそれがあった。掴めるかもわからないそれに思わず手を届かせようと思い切り伸ばす。が、近づくにつれてその光は輝きを増し、包まれるかのように体が飲み込まれていった。一面が真っ白のやさしい光に覆われると、どんどん微睡んでいく感覚に陥る。
光の核となるそれに手が届きそうなところで、瞼は自然にゆっくりと閉じていった。
The dream child moving through a lund,
《夢の子は野を駆けて、》
of wonders wild and new.
《とっても不思議で新たな世界を追う》
Infiendly chat with bird or beast.
《鳥やけものたちとも親しく言葉を交わすその世界》
And half believe it ture.
《そして“すこしだけ”と言って その世界を信じて夢を見る》
Thus grew the tale of Wonderland.
《こうして不思議の国はできた》
Alice! A childish story take,
《アリス!このつたない物語を受け取って、》
And wish a gentel hand.
《そのやさしい手で包み込んで》
Lay it where Childhood's dreams are twined.
《子どもの頃の夢に置いてきておくれ》
In Memory's mystic band.
《記憶の中の神秘的な》
Like pilgrim's withered wreath of flowers.
《遠い国より摘んできた》
Pluck'd in a far-off land.
《枯れてしまった花の輪のように》
最後の英文は、原書のアリスの序章から抜粋しております。
《 》内の翻訳は、自己流の翻訳です。