第五十九話:涙を流す理由
ツキヨミに先導してもらえることになり、僕たちは山頂へ向かう準備を始めた。
ツキヨミは微力ながら炎術も使えるようで━━理由を後で知ることになるのだけど━━冷えきっていた僕の身を暖めてくれた。
「あれ」
そこで一斉に帰ったはずの大ヒヒが一頭だけ残っていることに気づいた。
「もしかして、ヒヒ丸のお母さん?」
「ヒヒ」
予想どおりだったみたいだ。
「会ってきなよ。せっかく再開できたんだ」
「ヒヒー」
少しの迷いを見せたが、ヒヒ丸は大ヒヒの元へと向かう。ひとしきり会話を続けたあと、首同士を擦り合ったり、ヒヒ丸の毛並みを整えたりしていた。
駄目だこれ。スゴく涙腺に来る。きっと前世では動物のドキュメンタリーとか見て号泣してたんだろうな。シキが見たら鼻で笑いそうだ。
「ヒヒー」
「ヒヒ?」
ヒヒ丸が母親━━母ヒヒを僕の方に連れてくる。僕を紹介してくれるみたいだ。
「あ、どうも。ヒヒ丸さんには、いつも大変お世話になっております」
言ってから思ったけど、どんな台詞だ。というか勝手に名付けたことを怒られたりしないだろうか。
ヒヒ丸との思い出が色々と駆け巡って、ソワソワしていると━━母ヒヒは何も言わずに、ぎゅっと抱きしめてくれた。ヒヒ丸と同じフワフワの白い体毛が心地よくて、顔を埋めてもしばらくそのままでいてくれた。
「あ、もし良かったら━━」
「ヒヒ?」
袋の中から数本のババナを取り出して、母ヒヒに渡そうとする。ババナはヒヒたちの好物だけど、高地にはなく、樹海に降りなければ食べることができない。ちょっとしたお礼のつもりだった。
しかし母ヒヒは首を横に振ると、それを僕に押し返してくる。
「あ……」
そうだ。ヒヒは群れで行動する生き物だ。これだけの量では全員に行き渡らない。一匹だけ独り占めするわけにもいかず、受け取れないんだ。
僕は思慮の浅さに顔を真っ赤にする。
「ヒヒ」
母ヒヒは気持ちだけでも嬉しいと、また僕を抱きしめてくれる。
駄目だ。さっきは何とかこらえたのに……。
柔らかい抱擁に、涙が堰を切ったように溢れだす。彼女は驚くでもなく、頭を撫でてくれた。
この世界に来てから思う。僕は肌の温もりに、こんなにも飢えている。
それが何故なのか、今の僕には分からないけれど。
━━母ヒヒを見送る。
ヒヒ丸は数言交わすと、僕たちの元へ戻ってきた。
「行かなくていいの?」
ヒヒ丸は強く頷く。最初は不幸で親元を離れたんだ。このまま故郷に帰る選択肢だってある。でもヒヒ丸自身の意志で、ついてきてくれることを選んでくれた。
「ありがとう、ヒヒ丸」
それが凄く嬉しい。
「ヒヒに好かれるとは、ほんに不思議な奴じゃの」
ツキヨミがふよふよと漂いながら現れる。
「どっちだろうね。ヒヒ丸が特別なのか、ヒロが特別なのか」
「ヒロでしょ、ヒヒ丸が王城にいた時は誰にも懐かなかったわよ」
「まぁ、どっちでもいいのじゃ」
母ヒヒの背中が見えなくなった頃、ちょうど出発の準備も終わり、僕たちは再び山を登り始めた。
「ツキヨミ様は初めからここの神様だったんですか?」
何となく気になったので、移動中に聞いてみることにした。
「そうではない。そもそも━━」
そこで初めて、彼女が霊峰神と呼ばれる経緯を知ることになった。幼い姿であることにも合点がいく。炎術を使えるのも、生前の魔力が一部残っているからだそうだ。
「ええぃ、鬱陶しいから泣き止まんか!」
僕とエラは話を聞いて号泣していた。そろそろ涙も枯れ果てるのではないだろうか。
「だってぇ……」
「私も妹のエルムがそうなったらと思うと……」
あまりにも勝手な理由で人柱にされた、しかも僅か九歳の時だ。波瀾万丈な人生に衝撃を受けないではいられなかった。
「ワシは民の繁栄を司る存在となったことに誇りこそすれ、怨みに思ったことはないのじゃ。勝手に同情するでないわ!」
その通りかもしれない。僕は大きく鼻を啜ると、涙をこらえようとする。こちらの勝手な解釈で可哀想と思うのは、それこそ身勝手で不敬なことかもしれない。
「分かりました。もう同情はしません」
僕の意思表明は、チーンというエラの鼻をかむ音と同時だった。あまりのタイミングの良さにツキヨミの顔も綻ぶ。
「まぁ、神として過ごすようになってからは、ジジイどもに思うところが無かったではない。汝等が無念に思ってくれたなら、それで充分じゃ」
その時、遠目に屋根のようなものが目に入った。しばらく、人工物を見ていなかった僕たちには、違和感として浮かび上がって見えた。
「あれかな、目的地は」
僕たちのやり取りを苦笑いで見ていたルーイも、いつもの表情に戻る。
「あぁ、そうじゃな。ところでワシの成り立ちをヒコ坊達に喋るでないぞ」
僕たちの不思議そうな顔を見て、振り返った彼女は続ける。
「あやつらはワシの過去を知らん。もうベルディアでも知っとるのは一人だけじゃろう」
そう語ったツキヨミは顔を少し上げると、今は見えぬ故郷を見つめていた。




