嵐の前の静けさ【Ⅰ】
「ただいまー……」
久方ぶりに如月寮に帰ってきたイチゴは、雑巾とバケツを持ったスズナに出迎えられた。寮の臭いも初めてここに来たときと同じくらいに臭かった。なんで掃除する人が数日いなくなっただけでここまで酷くなってしまうのか? 桜都学園の生徒と男子が主に使っている一階は自主的な掃除当番制で綺麗なのだが、二階、白き乙女所属の連中が使っているエリアはゴミ溜めのような……。
「はいこれ」
「帰ってきてすぐ掃除ですかい」
「スコール君が仕事で出たから誰も掃除しないのよ」
「いや待てよ」
確か仕事に出てまだ一週間も経ってないはずだ。なんでそんな短期間でゴミ屋敷になってしまう?
「寮長なんで掃除しないんですか!」
「私だってさっき帰ってきたのよ。通常部隊から編入予定の子たちのあれこれで忙しかったの」
「通常部隊って……ちょっとばかし不味くないですかね」
「そうなのよねー」
バケツを押しつけられたイチゴはスズナについて二階に上がって、いつも通りに掃除の用意をする。
「世間一般は女尊男卑だし、如月隊って女の子メインの部隊だから余計にね」
「それ考えると俺がここに来てからとくに嫌がらせもなにもなかったし、いまさらですけどなんでなんすかね。おっ、新しい洗剤」
「スコール君が買ってたわ」
「自腹で?」
「そうよ? ここの消耗品ってほとんどスコール君の財布から出てるの。知らなかったかしら」
「……フツー経費じゃないんですかねぇ」
いつも通りにゴミ袋を手にとって、廊下にあるものは問答無用で放り込む。なんかドッグタグや身分証も落ちていたが、こんなところ放置する方が悪いと言うことで一緒くたにしてしまう。
「あれ、この袋いつものと違う」
「スコール君よ。業務用スーパーで三百枚も買ってきたの」
「はぁ? じゃああの洗剤とか掃除道具も?」
「そうね。品質がいいのに十円くらいしか違わないからって色々買ってるのよ」
「寮長、〝円〟はもう存在しない通貨ですよ」
「クセね」
「俺ら旧日本人が円って言うのは分かりますけど、なんで寮長まで?」
目立った〝ゴミ〟を拾い終えると、スズナが魔法で隅の方まで残りを吹き飛ばして、ほうきとちりとりで掻き集める。アクセサリーやチャームがちらほら混じっているがこれも気にしない。なくなったと苦情を出されてもゴミと一緒に捨てたで通る。これはスコールがいままでやっていたからだ。
「最初のループの頃は私もいろんなところで暮らしたから、ね」
「へぇ」
「イチゴ君も色々やってたでしょ」
「ですねぇ。まあ、もうバラしても意味ないけどクルスと一緒に放り込まれた最初の頃にはもうドロップアウトしてたんで、俺も色々と」
「隠し球はまだあるのかしら」
「言いませんよ。俺は俺の為に動くんで」
その裏の思いは、言ったら殺される、からだ。
「あらそう。脅されてるのかしら」
「スコールにですがね。あいつに狙われて死んでないのって数人程度だし」
「あなたは、スコール君の本名知ってるかしら。私は知らないの」
「俺も知りませんが、クルスを締め上げて吐かせた情報じゃ――」
ガラガラと寮の玄関、引き戸が動く音がする。そして開けてカンッと当てる音がせず、そもそも開けるときにある若干の引っかかりを当たり前のように躱す開け方、スコールだ。
「喋ったら殺す」
一階から、そんな声が聞こえてきた。
「地獄耳め!!」
「それとスズナ、土産だ」
ドンッと重たいものを〝落とす〟音がした。
「何かしら……」
「あいつのことだから掃除道具じゃないのか」
が、一階に降りて見れば想定外の代物だった。
「どういうことかしら」
「見ての通りだが」
と、転がっているのは汚れまみれで青い紐、封印用の魔装・グレイプニルで縛り上げられた如月零だ。魔封じの道具では意味がないからと、魔装で封印して詠唱妨害のために口を封じ、耳には常に雑音を流し続けるヘッドホン。
いままで何度も捕獲作戦が実行されたが、ことごとくが返り討ちにあった如月隊トップの破壊力を誇る如月零がそこに転がっていた。
「仕事は放棄するがこの収穫物があればとりあえずはいいだろ」
「……そーね。今回ばっかりはいいわ」
「それじゃあ後は頼んだ」
振り返って寮から出ようとして、足を止めた。冷気が痛い。目に映る景色になんら異常はないのだが、魔法の気配で分かる。引き戸の外に澄み切った分厚い氷の壁がある。触れたら皮膚の水分が瞬時に凍結して張り付いてしまうだろう。
「どこに行こうって言うのかしら」
明るい笑顔でかなりキレ気味のスズナに向き直りつつ、氷の壁に触れスティール。
「ちょっと遊びに」
奪った魔法の感覚がおかしかった。そこそこの規模があるのに〝軽い〟。
「今回ばかりは逃がさないわよ」
崩れ落ちたのは指が触れた部分だけ。小さな水の召喚・生成魔法と冷却魔法を補助具を使って多重詠唱している。
「……物量押しか。正しいが、お前のキャパシティじゃ他の魔法が使えない、実戦じゃ役立たずだ」
「そうね。でも今は実戦じゃないの」
「とは言えだ、実戦でこんなもん叩き付けられたらさすがに潰される」
「死ぬとは言わないのね」
「〝核〟が残れば体が潰れたところで問題ない」
「あらそう」
二人の間で青い欠片が飛び散った。スズナの魔法をスコールが砕いただけだが、今日は少し違う。
「まずはレイちゃんを洗ってから大広間に来なさい。やって欲しいことがあるの」
「了解した。イチゴ、手伝え」
「はっ?」
急に振られ、なんで女の子を洗うのを手伝う必要がある? と疑問に思ってすぐに思い直す。そもそもなんで洗えと命令されるのか。
「忘れたか」
「何を……いや、あれか、水嫌いまだ治ってねえのか」
「そう言うこった。頼む」
聞こえていないだろうが、スコールが抱えて脱衣所に向かい始めると途端に暴れ出した。それでも封印している限りはただの女の子でしかない。
「……んで、俺は何すれば」
「これだ」
渡されたのは見たことのない術札、そしてスコールが手を広げると魔力が集まる。生成されたのは大きな魔石。戦略級魔法の発動に必要な魔石と同程度だ。
「黄昏の領域の貯蓄から引き出した。これだけあれば核攻撃の十数発程度なら防げる障壁が発動できる」
「…………はっ?」
「今から脱がせて洗う。その間風呂場を守れ、純粋な魔力攻撃で核爆発起こせるんだ、これくらいの障壁でも使わないと」
「お前そんなん使えたっけ」
「隠してただけだ。それにまず燃費悪いから使うくらいなら攻撃受けた方がマシだ」
「いやいやそんなもんなんでこの程度で使うかね」
「消し飛びたいか」
「嫌だ」
「だろ。耳塞いどけ」
言われたとおりにすると、スコールがレイの拘束を解いた途端に叫び声が響いた。耳を塞いでなお突き抜けてくる悲鳴は、どんだけ風呂嫌いなんだと呆れさせるほどに酷いものだった。服を脱がせようにも暴れ、脱衣所から逃げだそうとして隷属の鎖に絡め取られ、諦めたスコールが服を着たままでシャワールームに引き摺り込む。しかしそこでも往生際悪く抵抗する。ドアの縁に手を掛けて、それを無駄な抵抗だと力任せに引き摺り込んでドアが閉められた。
「……さーて核爆発か、さすがにねえだろうが」
術札を貼り付けて障壁を展開すると、数秒と経たずに寮が揺れた。エネルギーを吸収し切れていないようだ。幸いなことに学生たちは外出しているし、二階の知っている連中は騒がない。そしてこの程度は想定内の強度を誇る寮は壊れない。
何度か揺れを感じ、スマホで編入予定の人員を確認しながら待つこと十五分。
ようやく二人が出てきた。綺麗になって泣いているレイと血まみれのスコールだ。
「大丈夫か」
「肋に亀裂、内臓損傷、左手の骨も亀裂だ」
言いながらレイを裸に剥いてバスタオルで拭いて、嫌がって逃げようとするのを押さえつけてドライヤーで乾かす。レイも涙を零しながらヒクヒクと嗚咽を漏らすだけで抵抗が弱くなる。
「お前いつもこんなことしてたのか」
「正直これが一番命の危険感じる」
「おいおい」
ぺりぺりと術札を剥がすと焦げていた。魔力供給用に置いた魔石なんて残りがほんの僅かしかなく、ギリギリだったことがうかがえる。
「割と持ったろ」
「いやこれギリだぞ」
「……また改良するか」
焦げた術札を見ながら顔が真面目になる。もうすでに頭の中で改良を始めているのだろう。
「あ、着替え忘れた。レイアの部屋から取ってこい、サイズ同じだから」
「へいへい」
と、脱衣所から出れば対核防御で備えている少女らがいた。怖いならこんなところにいないで逃げれば良いじゃないか。
「何やってんだよ」
「やースズナがブチ切れてるからぁ……」
「レイが怖いんじゃないのか。でも固まってたら纏めて氷漬けだろ」
「それは、まあほら、数揃えれば防御力アップだし」
「私ら合計防御力はスズナの攻撃魔法より上。イコール無効化可能」
「いや、ねえから。各個撃破で全滅だよ」
レイアの部屋に入ると相変わらずの火薬のにおい。そして足元には抜き身のナイフや封の切られたグレネード、バッテリーや部品も散らばったままで、いつか火事のもとになりそうで怖い。そんな踏み込むのも躊躇われる部屋に入って、勝手に引き出しを開けて着替えを取る。
ちらっと他の引き出しも見てみると、特注の卑猥な衣装がいっぱい詰まっていた。見たことのないパッケージの薬や明らかにやばそうな液体も色々。見なかったことにして着替えを持って行く。
「ふーむスコール兄さんあれでも襲わないか」
「そもそも勃ってないんじゃない。ほら、レイ膝の上に座ってるのにそのままだし」
「なんてーか戦場じゃ狼って呼ばれるのにここじゃ女が誘惑してもガン無視ってなに、枯れてる? あの人」
「もうほらあれじゃん、戦争に興味はあっても女に関心無しってやつだよ」
「お前らちょっとどけ」
脱衣所を覗き込んでいる少女らを押し退け中に入る。男が女の子の下着を持っていても何も言われない。いつも洗濯していたらいつの間にか気にもされなくなっていた。
「持ってきたぞ、ほら」
「外のは」
「ただの覗きだ」
結局、服を着せてやるまでして大広間、スズナの元へ向かった。
部屋の中は冷蔵庫の中かと思う程に冷えて、その冷気を放っている本人はホワイトボードを引っ張り出して資料を投影していた。