あなたの奇麗な前歯を、いっぽん、頂戴
《──前にもこんなことがあった》
わけもなしにそういう思考がよぎった。車内では次の駅へ到着したことを無機質のアナウンスが告げたところ。
規則正しくいっせいに扉が開いてドッと人が降りた。そうしてだいぶがらんとなった車両で、僕はまだ降りない。降りようとしない。降りられない。
時間は十〇時半過ぎ。普段であれば、今頃は、何人目かの客の頭をやる気があるでもなくぼやぼやと洗っているころ。未だにアシスタントの僕は、毎日毎日、シャンプーばかりさせられている。いつになったら人の髪を切れるようになるんかな、と思いつつ、いまにも切れそうな糸のような生活をひたすらに見送っていた。
昨夜、明日の朝にシャワーをすればいいと呑気に考えながら泥のように眠り、そうして朝七時に目覚めた。結局、風呂には入らず、朝食もとらず、顔すら洗わず、けれど流れで歯だけは磨き、そうして気付けば今で、職場に行くために乗った電車に今なお揺られている。職場である美容室の最寄り駅はもう疾うに過ぎた。
いつものように一緒に家を出てきた父はいつものように会社へ行き、今頃はいつものようにせっせと働いているんだろう。瓜二つと云っていいほど似ている親子の僕らなのに、いま、現在、この瞬間、似ても似つかない差がまざまざ生じているのは何故なんだろう。そしていま、現在、この瞬間、僕はこの不甲斐ない現実についてを今一度深く考えなければならなかった。しかし考えることはできなかった。考えたくなかった。
《いや、前回はまだ学生で今よりもぜんぜん気楽だった》
不都合なリアルには一瞥もくれないまま、脳みその意識は過去の点にぐんぐんと引きずられていった。
高校三年生だった。なりたての十八歳。青かったような気もするけれど、いまとさして変わらないような気もする。人間なんてそう簡単に変われないんだろう。
当時は勉学にそれなりに勤しんでさえいたら誰に咎められることもなかった。それは自由と呼べなくもなかったけれど不自由と呼んでも差し支えないような気がしてた。
入学当初から楽しい学校生活ではなかった。勉強が嫌いな質でもなかったし成績も二で割れば上位だった。友人も少なくなかったし異性との交流もそれなりにあった。けれど、だからと云って、どうと云うこともなかった。
目に見えない、説明しようにもあやふやな、そういうなにか漠然として存在の怪しい不満があった。これがいわゆる思春期というやつかもしれなかった。加えて、もっと現実的な壁として、進路についてをそろそろ真剣に考えなければならない時期にさしかかってもいた。
いま思えば、人生のうちで誰もが一度や二度は通るようになっている、さまざまがさまざまに重なるターニングポイントだったのかもしれない。
期末テストも終わり、もうすぐ夏休みというその日、いつも通り七時に起きて、シャワーをしながら歯磨きを済ませ、制服を着、いつものように家を出た。
予定通り八時に駅に着き、そのまま電車に乗った。高校の最寄り駅までは六つ。
一つ…二つ…三つ…。
そうやって数えていたわけではないけれど、迫ってきている感じにまざまざと圧せられていたのは事実だった。
《もうすぐ降りないと》
そう意識すればするほど身体は強張りじりじりともしてくる。
握っている掌が汗ばむ。なんとなく俯き加減になる。心臓が無駄に活発化し、ワイシャツについてる胸の小さな校章が揺れてるような気さえした。
五つ…六つ…。
《さあ、もうほんとに降りないと》
そうして、電車は、僕を乗せたまま発車した。
一つ、二つ、三つ………。
降りるはずの駅を、昨日まで降りられていた駅を、降りなければならなかった駅を、その日、僕は、降りることができなかった。
情けない、悔しい、哀しい、そんな思いたちに苛まれるままに何駅もやり過ごしたのだった。
気づけば僕は知らぬ駅のホームに居た。
夢遊病のようにほとんど無意識で降りた駅はなんという名前だったか、いまも思い出すことができない。
改札を出てみても当然見覚えのない町並み。お世辞にも栄えているとは云えない。むしろどことなく寂れている。
《こんなところ、あったっけ》
僕の家の最寄り駅は栄えているとは云えないけれどそれなりに賑わっているし、高校の近くの駅は学生街だから若者向けのショッピングセンターやら飲食店やらが乱立していて、閑静というのとは良い意味で程遠い。
けれど、この駅の周辺は静かには違いないのだけれど閑静ともまた異なっているようで、なんと云うのか、ただただ活気がない。
目に付くものと云えば、この改札のすぐ傍にぽつねんとある、ねんきの入った喫茶店だけだった。
知らぬ土地で一人きりでは行動すると云ってもそれには限りがある。財布にはいくらも入っていないからその点だけでもずいぶん限りがある。かと云って踵を返して登校する気は起きないし、帰宅する気はもっと起きない。こちらはズル休みを決め込んでしまっているのだから、いま帰って自若として一日を過ごせるはずもない。僕はそんなに図太い質ではない。
となると、僕に残された選択肢はひとつしかなかった。──
「いらっしゃいませー」
十二時を少し廻った店内に威勢が良いのか無機質なのか分からない声が響く。喫茶店の店員たちの様子が慌ただしくなってきた。客が増えて来、店内がなんとなく息苦しい。
もう半分以下の量になって幾分水っぽくもなっているカフェオレに口を付け《さて、もうそろそろ行こう》と意気込んでみたけれど、すぐに《何処へ行くの》と自分に制され、上げようとした腰をもう一度浅く降ろした。
暇も潰せず行くあてもない僕は仕方なしにぼんやりと外の景色を見やってみた。茹だるほど暑い陽気だというのに背広を着ていて、ネクタイまでしっかりと締めている中年男がせかせか歩いていた。
《あれが営業まわりというやつなのかな》
とさして興味ないままに思い、しばらくその人物を目で追っていたけれど、そうするうち店内には十分に冷房が利いているはずなのになんだか暑苦しくなる気がして、すぐに目線そらせた。
そのすぐあと、からんころんと来店の音がして、反射的に入り口に目を向けた。入店してきたのは最前の中年男だった。
その人は席に着くなり背広を脱いでそれを椅子にかけ、コーヒーとカツサンドを注文し、喫茶店に置いてあるしおれた新聞を険しい顔で読み、注文品が席に届くやいなやものすごい勢いで飲み食いしてアッという間に完食し、吸うというよりは飲み込むといった風に二本の煙草を灰に変えると、またいそいそと店を出て行った。
《父もあんな風に働いてるのかな》
その中年の後ろ姿を見送るでもなしに見送りながら茫漠と父のことを考えた。
思えば、一緒に暮らしている肉親の働いている最中の姿というのは見る機会は案外ない。
父は自動車関係の下請けの下請けくらいの、いわゆる零細企業というやつの営業をしているらしいけれど、詳しくは知らないし興味もない。
工業高校を卒業してからラインの直接工として数年働き、その後、現場を離れて営業職となったらしい。
「営業の仕事は、ほんとは大卒しか出来ないんだぞ」
と父が自慢げに話していたことがあったけれど、そのことがどれほどすごいのか、僕には分からないし、やっぱり、興味もなかった。
そうやって見ず知らずのサラリーマンに父を投影させていると、また、と云うか、殊更、と云うか、とにかく、そろそろ行かなきゃ、という焦躁にかられたけれど、それはやはり制止された。
冷めきったカフェオレを啜りながらそうこう繰り返しているうちにうじうじとしているじぶんに嫌気がさして来、次第に苛立ちも覚え始め、もうどうにでもなれ、というヤケッパチな思いにすらなり、
《だってずっとここに居たってしょうがないだろッ!》
とさっきから僕が立ち上げるのを制止していたもうひとりの僕を強めに諭し、勢いそのまま会計を済ませて外に出てみた。
涼しかった店内とは打って変わり、外は容赦ない暑さだった。
《今日はいつもより太陽が近いんじゃないか》
ふざけたことが頭をよぎるほどに暑い。
とは云え、まだ昼過ぎ。どうにも帰るには早過ぎる。かと云ってすぐ足が向けられるような決まった場所や目的もどこにもない。
そうしてしばし店先の炎天下で突っ立っていると、さっきまでとの温度差からか、頭がくらくらとしてきた。
耳鳴りもするような気がする。視界もかすかにぼやけてくる。
《熱中症かな》
他人事のように考えていると、
「もし。あなたよ。あなた。歯並びの良いあなた」
歯並び。そのなんとなく場違いなフレーズに引っかかったのか、歯並びが良いという自負からか、僕はほとんど無意識に声のするほうを見た。
「そう。あなたのこと。こちらへどうぞ。ささ、どうぞ。おいでなさい」
そう言って手招きするその女の人は、透き通るほど白い肌、というのはこういう人を指すんだろうという具合に色白で、それは白いワンピースを着ているのにその肌と服との境界がうやむやなほどで、いま、それ意外の情報がないのにも拘わらず、ごく直感的に、綺麗な人、と思えた。
このとき、その見ず知らずの女の人の後を、躊躇無く付いて行けたのはどうしてだったかのか。どうにでもなれ、という喫茶店でのヤケッパチが未だ心に残っていた所為か、熱中症と思しき頭痛による思考不足の所為か、いまでもよく分からない。──
気がつくとアパートの階段を上っていた。ここが女の人の住処らしかった。短い階段を上っている最中も目眩が続いていた。
部屋へ入ると持っていた小さな鞄を置き、エアコンのスイッチを入れた女の人。それら一連の動作をこなすその細い手は、緑の血管がくっきり浮いていて、ハリ、というものはすっかり見受けられなかった。大人の手だった。さきほどは気付かなかったけれど、綺麗には間違いないけれど、結構、歳を食っているみたい。
「あつい。あつすぎる。溶けてしまいそう。ね、あなたもそう思うでしょう? でも、じきにクーラーが効いてくるから、もうすこし、辛抱なさい」
と言いながらワンピースの胸元をパタパタさせるその姿を見て、
《音楽の先生とおんなじくらいの歳かな》
訳もなくそう思った。
うちの高校の音楽教師。やたらと授業熱心な女の人だった。誰も求めていないのに勝手に熱血指導を行っては勝手に暑がって、それでよく胸元をパタパタとさせる癖のある人だった。
ただそれだけの共通点から同い年と決め付けるのはちと強引かもしれない。
けれど、暑いときのしかめた顔に浮かぶ皺、大粒の汗が滴る首筋、ちらちらと見える胸元、それらの質感はあのおばさん教師とよく似通っていた。
同級生たちのようなあの若い質感とどこがどう違うのか、それを説明するのは難しいけれど、木の年輪みたいなものをなんとなくイメージした。みずみずしさはどこにもなく、高校生の僕にはいまにも枯れてしまいそうな樹木を連想させた。
《三十台くらいかな》
《いや、若く見える四十台かも》
僕が人知れず失礼な思案をしている間も、女の人はパタパタとし続けている。
六畳あるかないかのこの空間では、女の人の汗の透明度まで目視できる。そのにおいすら感じ取れる。甘いような、酸っぱいような、芳ばしいような、複雑なにおい。
「なにか飲まれる? お茶かコーヒーか。紅茶もあるのよ」
「あ、いえ、ぼくはべつになにも。おかまいなく…」
「そんな遠慮しなくてもいいのよ。じゃあ、わたしコーヒーが飲みたいから、コーヒーにしましょうね」
幾分涼しくなってきた部屋で、艶かしいようなにおいはコーヒーに上書きされ、早朝のイメージにぴったりの、あの爽やかな雰囲気がやってくる、と思いきや、そうでもなかった。
もとからの部屋のにおい、女の人の体臭、僕の発している青臭さ。それらとコーヒーのにおいとがぜんぶ混じり合い、かえってその妖しさが増していた。脳髄がしびれる。待て、をさせられている犬のように奥歯ががたがた震える。
「あら、うふふ。わたしが欲しいのね。マセた坊や」
おいで、と女の人は言い、淹れたてのコーヒーは口をつけることなくちゃぶ台の上へ置いて、飾り気のない、敷きっぱなしの、それ専用に拵えられたような布団へと僕を誘った。
僕にはなんの迷いも、不安も、猜疑心も、すっかりなかった。もう、思考自体が、おぼろげだった。
「ほんとうに綺麗な歯をしているのよ。歯並びもいいの、ほら、自分で分かるでしょう」
女の人はじぶんの舌を僕の口へ捩じ込み、歯といわず歯茎といわず、ぬらぬらと沿わせる。
前歯から犬歯を行ったり来たり。次は奥歯。ずいずいと舌の感触が入り込んでくる。
《フェチズム》
ぼやけた脳みそでその単語だけがパッと浮かんだ。
すこし変わった趣味にも思えたけれど、気持ちがよかった。安心感さえ覚える。
鼻息が頬に当たるほどに僕たちは接近していた。近くでまじまじと見てみても、やっぱり、同級生たちのようなハリは見当たらない。けれど、何故だか、僕の劣情は駆り立てられ、そして加速してゆく。
クーラーの送風音がして、外からは蝉の鳴き声も聞こえているのに、この部屋のこの空間だけはそれらと一線を画しているかのように酷く生々しかった。
どちらともなく服を脱ぐ。僕は生まれたての姿になり、女の人もそうなっていた。いや、違う。僕も女の人も生まれたてはこうではなかったはず。
僕の身体にその無垢な頃の面影はない。身体だけ見れば、成人男性とさほど変わらないだろうし、下のほうも、僕が男たる所以のそれも、成人男性のそれと変わらない。
女の人が布団に包まっている。その布を剥けばしがらみのない女の人の姿を見られる。
生身の女性の身体をはじめてまじまじと見たのは中学二年生だった。当時付き合っていた彼女の身体だった。
その彼女の身体が脳裏に焼き付いているわけではないけれど、思い出そうとすればいまでも鮮明に思い出せる。これに拘わらず、はじめての体験というのは得てしてそういう性質があるような気がする。
とは云え、所詮は中学生の身体。大したものではなかったし、駆り立てられすぎて困る、ということもなかった。膨らみかけの胸、くびれかけの腰回り、生え揃っているのかどうか判然としない薄い下の毛。どこを切り取っても未熟で物足りない感じがした。
《この人はちがう》
真っ先に目に付くのは胸。僕ら男の哀しい性。どんな醜怪な胸であってもどうしても目がいってしまうもの。程よい大きさを求めるきらいもある。そして、目の前のこれは人気のあるその大きさよりも少しばかり小ぶり。
中学生の頃の彼女も小ぶりだったけれど、それとはまったく性質が異なる。あれには発展途上ゆえの不確定な期待があった気がする。目の前のこれにはそういうワクワクは微塵も感じられない。
革製品などは使い込むと味が出ると聞いたことがある。たぶんテレビから得た知識だと思う。その理屈が人間に当てはまるかどうか分からないけれど、この胸には、そうとしか説明できない味がある、ような気がした。
形だけ見ると崩れかけで、一見しただけでは、どちらかと云えば、醜い。服を着ていたときも感じたようにハリもへったくれもない。
ただ、どうしようなく白い。
例えば僕がしなびた柿を見て、しなびている、と認識するのは、見た目よりもその色に由来している、のかも知れない。若い柿は緑がかっていたりまさに柿色だったりするから、もうその色で、色だけで、そのフレッシュさを納得させられる。いっぽう、熟れた柿は、熟れているとしか云いようのない色で、鮮やかとは程遠く、なんとなくくすんでもいて、つまり色からして熟れている。
《若い色のしなびた柿》
目の前のこの胸はそうとしか形容できないようなあべこべの代物だった。乳首などは分かりやすく若々しい色で、つまりそれはみごとな薄桃色で、熟れているとは云い難かった。
「厭ね、胸ばかり見てる。分かるのよ。さ、はやくおいで」
女の人に恥じらいはない様子だった。それは自分の身体に一切の負い目がないゆえに成せる素振りのように思われた。
だけど僕はそうもいかない。この有り余る若さを利用する術を知らないし、身体付きはおろか、自分産のなにものにも自信がないから、自然とおどおどとしてしまう。けれど、そのおどおどを出来る限り隠そうとはする。それくらいしか僕にはできないのだ。
「なにをどうしていいのか分からないのね。かわいい坊や。はやくおいで」
こちらの気味を見透かされ、一瞬、やり場なくむっとしたけれど、乳首を咥えさせられて、それはすぐに忘れた。
僕の頭を撫でながらに乳首を吸わせる女の人からは優しい母性が滲んでいた。けれど、母親の経験があるようにはどうしても見えなかった。
『母性というのはね、すべての女の人にもともと備わっているのよ』
ホームルームかなにかのとき、担任の女教師が鼻の穴を膨らませてそう言っていたのを思い出した。それを聞いたクラスの女の子に、
『センセー古いって。いまどきの女子にはそんなの備わってませーん』
ぴしゃりと言い返されていたけれど、担任のあの台詞は正解なのかもしれない。
そんな風に上半身は母性を含んだ優しさを纏っているけれど、下半身は全然そうでもないらしかった。
僕の脚に激しく絡んで、目に見えない吸盤でもあるかのようにまとわりついてくる。真っ白の触手が布団のなかでもぞもぞと動くのをイメージさせられた。
まがまがしい。けれど決して不快じゃない。むしろとても気持ちいい。
毎日むだ毛の処理をしているのだろうか。ワキなどとは違って、脚に生える毛を一本一本抜くのは骨が折れそうだけれど、カミソリで剃るだけでこんなに摩擦やら抵抗やらが無くなるものだろうか。そういう疑問を抱かせるほどに、いやにつるつるとしていた。
《え、これなに》
足の裏からスネ、スネから膝小僧、膝小僧から太もも、ここまでは間違いなくつるんとしていた。けれど、太もものその先に違和感を感じた。
ちりちりとした摩擦があり、さらにその奥には怪しい湿り気を感じる。
他の部位とは違い、あからさまに毛量の多いそこは、まるで独立した生物のよう。
それは凄まじい自己主張をしながら内股を這って来、そのまま僕を飲み込んだ。
肉の波が押し寄せ、僕を包み込み、なされるがままにそこに溺れた。
女の人の内部で果てる。歯と歯茎をしゃぶられ、僕も女の人の口内をしゃぶる。食べ物とは違う、舌で感じえない美味しさに脳髄がよりいっそうしびれる。また女の人を求め、内部で果てる。
このローテーションを本能だけにまかせて何度も何度も繰り返したのち、ほとんど気絶するようにしばし微睡んだ。
《ここはどこだろう》
《ああ、たぶん、夢の中だ》
都営住宅の一室で中年男性が煙草を吸いながらテレビを見ている。
バラエティ番組に出ている芸人がくだらないことを云い、観客が笑い、それを見てその中年男も大笑いする。
その笑い声に聞き覚えがあった。これは僕の父だ。
ふだんは無口で、人と話すときもそうでもないのに、テレビを見て笑う声だけはやたらと大きく、高い。どうにも締まりがない。同様に笑顔にもなんとなく締まりがない。けれど、それが本来の父の笑い方なのだと思う。
テレビに向かってしかほんとうの笑い声をあげられない父は、すこし気味が悪く、また可哀想にも思えた。そんな父のようにだけはなりたくないと常々考えてもいた。
うちは父と僕のふたり暮らしだから、小さい頃からそれなりに苦労もしてきた。
幼稚園には父が送り迎えしていた。同学年の子らには、なんでお母さんが迎えに来ないの、などよく無邪気に聞かれたりし、うちにはお母さんがいないからだよ、と返すと、お母さんがいないなんて可哀想、と無邪気に傷付けられたりもした。
遠足となればとうぜん弁当が必要になったけれど、父にはそれを手作りする能力はないのだから、いつもスーパーの総菜コーナーの二つ入りのおにぎりだった。それに見兼ねて僕の組の先生がお手製弁当を用意してくれたこともあったけれど、やっぱり、なんだかしらないけれど、とにかく虚しく、惨めな気持ちになったから、それは止してもらうことにしたりもした。
たまの遠足でさえそういう調子なのだから普段の朝食は専ら菓子パンだったし、夕食は父が買ってくるオリジン弁当みたいなものだった。
そうして僕は、小学校の高学年くらいになった頃から、誰に勧められるでもなく自炊をはじめた。
授業が終わってからクラブ活動があり、それが終わってくたくたになった後、ごはん作りに励んでいた。思えばなかなかにハードな小学生だった。
その頃から父の分を含めた二人分の夕食を用意していた。夕食の残りを次の日の朝に充てるという技術もその頃から身に付いている。
たまに、ほんとうにごくたまに、友人の家へ遊びに行き、そのまま夕食の時間になり、そろそろ帰ろうというときに、うちで食べて行きなさい、と気を利かせて言ってくれるお母様もあった。
そのお母様は僕の家庭事情をよく知っているのかいないのか、その辺りはよく分からなかったけれど、やたらと引き止めるので、仕方なく、とは違うけれど、すこしはそういう気味も含みながらご馳走してもらっていた。
そのごはんは、きちんとした主菜があり、副菜も二、三品あるという、僕からするととても豪華なもので、もちろん味もとても美味しかった。けれど、普段のようなバランスで白米とおかずとを食べ進めていると、ごはん茶碗は空なのにおかずのほうがたんまり余ってしまった。それを見たお母様はまた気を利かせて、おかわりしなさい、だとか、たくさん食べなさい、だとか云って僕の茶碗を引ったくり、ぴかぴかの炊きたてのごはんをよそってくれたのだった。
僕はうんともすんとも云えずにそれらをまた食べ進めながら、
《お母さんが居たらこんな感じかな》
などといじらしく思うのだった。
そして、見たことのないじぶんの母親のことを考えてみるのだった。
けれど、会ったこともない人物を一から想像するというのは案外難しく、なかなか上手くいかず、いくら空想しようとしてみても目の前のお母様が浮かんできてしまう。
じぶんの中から母の面影を探し、そこから連鎖的に母親像を作り上げてみようとも考えたけれど、哀しいことに、僕は父の縮小コピーと云えるほど母の要素が薄いのだからそれも出来ない。
母はどんな人なんだろう、という思いはあるのに、きっと母はこういう姿だろう、という結論めいたところにはどう足掻いても辿り着けなかった。
それどころか、僕は母のことをなにひとつ知らなかった。父は母の話を一切しない人だった。
僕から何度か訊いてみたことはあった。
小さい頃は、どうしてうちにはお母さんが居ないの、とだいぶ荒々しく尋ねたものだけれど、すこし大きくなると大人の事情というやつがなんとなく分かってきて、お母さんはどこに住んでるの、だとか、写真はないの、とか質問に趣向を凝らしてみたりして、もっと大きくなってタブーという概念を知ってからは母の話題がそのままタブーとなった。
そして、父はそれらの質問に徹頭徹尾答えないのだった。それどころか、おまえはお父さんから産まれてきたんだよ、などと訳の分からない噓までつくような始末で要領を得なかった。
僕は父と母との間には相当に厄介ないざこざがあったのだと思った。そしてその理由は父にあるのだとも思った。いや、正確には、そう思ったほうが楽だったのだ。
きっと二度と会うことのない母親に責任を擦り付けるより、毎日顔を合わせる父に原因があってくれたほうが、寂しさからくる言いようのない怒りの行き場が明確になって、楽だったのだ。
そして母親の居ない孤独を子どもに味わわせる父のようには、僕はぜったいになりたくないと強く思ったのだった。
「もし。あなた。起きなさい、ほら」
目を覚ますと見覚えのあるようなないような女の顔が僕を見下ろしていた。
「あなた、ずいぶんうなされていたのよ。可哀想に。恐い夢を見たのね。ささ、おいでなさい。よしよし恐かった恐かった。さ、おいでおいで」
女の人が僕を抱き寄せ、微睡む前のしびれがまた脳髄へやってきた。
そうして僕たちは再び際限なく心地よさを貪り合い、ケダモノじみたその時間の後、動物たちがそうするようにまた微睡んだ。──
つぎに目を覚ました僕は、すっかり日が暮れているのに驚き、ずいぶん重くなっている身体を起こした。
携帯で時間を確認してみるともう七時を廻っていた。女の人は寝息ひとつ立てないで眠っていた。
いつもであればせっせと夕食作りに勤しんでいる時間帯だった。焦らないわけにはいかなかった。悪いとは思ったけれど、女の人には声をかけず、そっとアパートを出ようと考えた。
制服を素早く着て、足下も見ずに靴を履き、玄関のドアノブに手をかけた、そのとき、
「これこれ。お待ちなさい」
寝ていると思っていた女の人が真後ろに立っていた。
「坊や。きっと私は妊娠するのよ。れっきとした坊やの赤ちゃん。だから、あなたが育ててちょうだいな」
なにを言っているのか分からない。
「十ヶ月と十日したら赤ちゃんを迎えに来てくださいな。それと─」
意味不明な台詞をさも当然のように言いながらにじり寄ってくる。
白い手で僕の口を無理やりこじ開ける。
その細い腕から発せらているとは思えないとてつもない力が僕の前歯を掴んだ。
「─それと、記念に、その前歯を一本ちょうだいな。あなたの奇麗な前歯を、いっぽん、頂戴」
歯茎と歯を繋ぐ肉やら神経やらのめりめり、という厭な音が脳髄に響き、同時に激痛が走った。
《抜かれる》
そう思うよりもはやく僕は女の人の手を噛んでいた。目一杯の力を込めて。
悲鳴を聞いたような気がする。けれど記憶違いかもしれない。
とにかく早急にその場を離れなければならなかった。僕の本能がそう云っていた。
無我夢中で走った。
現在地も方向も把握していなかったけれど不思議と迷うことはなく駅に辿り着いたのは幸いだった。勢いそのまま改札を通り、ちょうどホームに到着していた電車にとび乗った。
吊り革に掴まってからも心臓は活発に動き、なかなか呼吸が整わない。
《やばい、やばいよ。なんだよあの女。なにが歯だよ。歯を一本くれってなんだよ。歯なんかどうするんだよ。やばいよあいつ、あたまおかしいんじゃないの》
いまさっき起きた不条理な出来事に理解が追いつかなかったけれど、口を尖らせ、ふうふう、と積極的に酸素を取り込んでいるうち、自業自得、という言葉があたまの中に浮かんだ。
知らない女にほいほいと付いて行けば危ない目に合うかもしれないということを考えるべきだった。いや、そう考えなければおかしいのだった。
小学生でも分かるようなそのことが高校生にもなって分からなかったじぶんに嫌気が差した。あまりにも軽卒すぎたのだ。どうかしてたのだ。
《学校に行かなかったから罰が当たったんだ。きっとそうだ。そうに決まってる》
無理やりに無断欠席したことと結びつけた。少しでもじぶんの納得できるかたちの落としどころが欲しかったのだ。
と強引に解釈している最中も窓からの景色はめまぐるしく過ぎていった。そうして徐々に見覚えのある風景に変わってゆく。
……五つ、四つ、三つ。
家の最寄り駅まであと三つとなった辺りには僕は落ち着きを取り戻していて、
《父の夕食を作らないと》
という、小学生の頃から欠かさずやってきた現実的な習慣で僕のあたまの中は埋め尽くされていた。前歯の付け根にはまだ痛みのような違和感が残っていた。
「ただいま」
「ん、遅かったな」
「うん。ちょっとね。いまからごはん作るよ」
「ああ、今日は買ってきた。まだ食べてないけどな。ほら、それ。おまえ好きだろ。一緒に食べよう」
リビングの散らかった机の上に、ぽつねんとパックのお寿司が置いてあった。中身は僕の好きなサーモンだけが詰まっていた。
パックの右端に近所の回転寿司屋のロゴマークが貼ってある。仕事から帰って来た父は、僕が居ないのを確認し、それからこれを買いに行ったようだった。
「じゃあ、お味噌汁かお吸い物だけでも作ろうか」
「ん、即席のがまだ残ってるんじゃないか、それでいいよ」
「わかった。じゃあお湯沸かす」
「ん、いい、いい。お父さんがやるよ。疲れたろう、座ってな。すぐ準備するから」
「あ、うん」
妙な光景だった。男子厨房に入らず、というか、厨房に入れず、みたいな父が小鍋に水を張ってコンロの火を点けている。成人はとっくに過ぎた大の大人なのだから、それくらいは出来て当然か、と冷静に思えばそうなのだけれど、僕からしてみれば、あの父がキッチンに立っているのが珍妙でしかなかった。
そのぎこちない後ろ姿をじっと見ていると、なんだか落ち着いて来、今朝の思い詰めた感じが溶けてゆき、次第になんでもないような気持ちにもなってきた。
なにをそんなに思い悩むことがあったのか、もう分からなくなった。
もうすぐ夏休み。夏休みまではてきとうに学校へ行き、夏休みの間に進路についてのあれこれを考えればいい。
行き当たりばったりなようだけれど、僕にはそれくらいがちょうどいいのかもしれなかった。
「できたぞ。この松茸の吸い物も好きなやつだろ。ひとつだけ余ってた、ラッキーだな。お父さんはコーンスープにしてみた、これも残ってた」
「え、寿司と合わないでしょ。お吸い物と代えてあげようか?」
「ん、いい、いい。ほら、早く食べよう。たくさん食べな」
「うん、ありがとう。じゃあ、いただきます」
このとき、僕は、人知れず、なぜか、猛然とやる気が涌いていたのだった。何に対するやる気なのか、それもよく分からなかったけれど、確かに気力がみなぎるのを感じ、なんでもできる気がしたのだった。
──それからは一日も休むことなく学校へ行き、なんとなく授業を受け、なんとなく卒業し、美容の専門学校へ通い、それも無事に卒業した。
《あの女の人はなんだったんだろう》
これまでも何度か思案してみたことはある。
けれど、解決に至った試しはないし、深く考えれば深く考えるほど分からなくなってゆく。見ず知らずの女の人にほいほい付いてゆくだなんてことが、やっぱりちょっと馬鹿げている。そこからしておかしいのだ。その先はもっとおかしいのだ。
ただ、腑に落ちてはいないけれど、それらを説明できるそれらしい結論には辿り着いている。
これは僕の推測だけれど、人間というのは過度のストレスだとか、相当な不満だとか、漠然とした憂鬱だとかにとても弱くできていて、そういう局面に出会したとき、心やら脳みそやらが幻覚みたいなものを作り上げるのではないだろうか。
つまりあれは現実逃避が見せたあれは白昼夢のようなものだったのではないだろうか。
夢というのはすべて経験に基づいて構成されるらしい。夢の登場人物は現実にどこかで見たことのある人、もしくは、それらを混ぜ合わせた人、ということらしい。まったく知らない人物が登場したとしても、その実、それは見たことにある人を脳みその中でミックスしたに過ぎない。
あの女の人は僕が生み出した空想なのだ。
夢遊病やら多重人格やらの俄には信じ難い症状も現に存在しているのだから、あり得ない話ではないような気がする。
けれど、あの日のどこまでが現実でどこまでが空想だったのか、それは今となっては分からないし検証する術もない。
そしてなにより、いまはそんな埒のあかない過去についてを考えている場合ではなかった。
《なんで美容室なんかに就職しちゃったんだろ》
現実に戻って来た僕はどうしようもなく弱気な台詞を心の中で呟いた。
《また知らない駅で降りてみようか》
そしてあの日と同じように現実逃避してみたくなる気持ちがちらついた。
けれど、もう、あの頃のようには若くない。見切り発車でなんでも行動に移せる素敵な青さはもうどこにもない。
《落ち着け、落ち着け》
そうじぶんに言い聞かせながら、移り変わる窓の外の気配だけを感じながら、揺れる車内で目を瞑ってみた。
都営住宅の一室で中年男性が煙草を吸いながらテレビを見ている。
その男は、僕があと二十歳くらい年齢を重ねたらきっとこういう顔になるだろう、という顔付きをしている。父だ。
その父は最近では頭に白いものが増えた。心なしか背中も小さくなったような気がする。
思えばこの人とずっと二人三脚でやってきた。
僕は決して愛想のいい子どもではなかった。いまもそうだろう。けれど、人並み以上の愛情を注いでくれた。いつでも僕のことを一番に考えてくれていた。これも、いまもそうだろう。子煩悩というのはきっとこういう人のことを云うのだと思う。
僕は社会の歯車になるのが嫌だったのかもしれない。だから社会の歯車である父が嫌だったのかもしれない。一般企業ではなく美容業界に進んだのも、そういう気持ちからの小さな反発だったのかもしれない。けれど、いまは、分かる。歯車になるというのがどれだけ大変でどれだけ立派なことか。父のようになりたくないなんて、もう、ちっとも思わない。
《この人を失望させちゃだめだ》
そういう気味がどこからともなく沸いてきて、それが最前のちらつきを掻き消した。
出勤して遅刻したことをきちんと謝ろう。
居残りをして、カットの練習を真面目にやって、店長、社長にアピールしよう。もう美容師免許は持っているのだ。あとは技術を身につけるだけじゃないか。
腐るには早過ぎる。今からでも遅くない。まだ十分に間に合うのだ。
《今日から、いや、今から仕切りなおそう》
そう決心してからも瞼の裏にはまだイメージは続いている。
バラエティ番組を見て、聞き覚えがある声で大笑いしている。締まりのないこの笑い声もいまでは無邪気なものだと思えるようになった。
父の笑顔がより鮮明に思い浮かんでくる。
目尻を垂らし、喫煙者にしては珍しい、やたらと白い歯を剥き出しにしている。
僕とそっくりな歯並び。特に気を遣っているわけでもないのに虫歯は一度も経験がないらしい。これも僕と同じ。
《でも笑い顔はぜんぜん似てないよな》
父の、あの、どこか締まりのない笑顔が脳髄に張り付いた。思えば、父には昔から前歯が一本なかった。
目を開けた。電車はいつか見たような駅に停車している。