氷雨の金沢 晩秋の宴
これは、つい先日の日曜日、十一月十九日に催された授賞式に出席したことを綴ったものだ。個人的な受賞であり、私の旅行記にすぎない。
なので、批判的な方は読まないようお奨めする。
平成二十九年十一月十九日、秋も深まってきた日曜日。私は二年ぶりで金沢駅に降り立った。前回と同じく、午前十時すぎの到着だ。
午前七時すぎの電車に乗るため、六時四十分には家を出た。最寄駅の駐車場は、一日駐めて五百円。最寄駅へのバス路線がなく、タクシーもあまり走っていない時間帯だ。帰りの指定席を確保してはいるが、予定通りに事がはこぶともかぎらないので、帰りが何時かは蓋を開けてみないとわからない。総合的に考えたら、それが一番経済的な選択だと思う。
すでに晩秋。暦のうえではとっくに冬。早朝の名古屋はじんわり冷えこんでいた。
前回の金沢行は一昨年の春。五月の連休間近いウィークデイだった。あのとき抱えていた大きな荷物はないけれど、やはり土産物がけっこう嵩張る。まあ、そんな物を選んだ私の責任には違いない。考えてみれば、鉄道を利用するときはいつも大きな荷物を抱えている。
名古屋駅で新幹線に乗り換え、まずは米原まで行く。構内の移動時間を差し引いて五分の余裕がある。朝食の握り飯を買えるし、カップコーヒーも買える。
日曜日の早朝だから空いていると一人合点していたけれど、どっこい、どこから湧いて出たのか新幹線ホームには人の姿が多かった。風除けのある待合室にいれば良さそうなものだ。それは十分にわかっている。しかし心が逸って、つい乗車位置に並んでしまう。といえば耳ざわりが良いはずだ。上手にそうやって偽りの人格をアピールしておけば、よもや喫煙ルームに駆け込みたがっているとは思われないだろう。が、更に上を行くのが私の強かさと怜悧さだ。
新幹線の乗車時間は三十分もないのだから、一本吸い終わった頃に乗り換え準備をするのが望ましい。そんなことを考えて、一つ目の駅を発車するまでじっと我慢した。
鉄道の高速化は、なるほど利便性の高いことには違いないが、一方で利用者に覚悟を強いることでもあるようだ。名古屋を出るとき、空は晴れてはいないが灰色の雲に覆われているだけだった。次の岐阜羽島でも同じ。しかし、ほんの五分ほど喫煙ルームに籠っている間に、雲が低く垂れ込めていた。近くの山里が霧に包まれ、関が原トンネルを抜けたら、車窓に雨がしぶいてきた。
地域のよって気候が変わることを感じる以前の問題として、空模様がめまぐるしく変化することに戸惑ってしまう。
列車が行き足を弛めた米原は、行き交う車がワイパーを使っていた。
米原で北陸本線に乗り換えだ。その米原駅には立ち食いのうどん屋がある。ただ、営業時間を私は知らない。午前八時に営業しているかを、実は賭けていた。もし営業していれば今日は平穏に終わる。そうでなければ……、それは考えたくない。
新幹線ホームの売店は閉まっていた。ならば北陸線ホームはどうだと急いでみたが、天は味方してくれなかった。
在来線の特急列車には必ず車内販売が乗っていたものだ。飲み物にせよ軽食にせよ、それが旅を演出していたように思う。知らぬ間にそれが廃止され、とても難渋したことがあった。うっかり手ぶらで乗ったのはいいが、何時間もの間、ひたすら梅干を想像し続けたことを思い出す。今回は念のために名古屋でコーヒーを買い求めておいたのだが、淹れたてだったコーヒーも三十分も経ったので冷めてしまっていた。
どうしてこうもコーヒーを求めるのか、実は自分でも理解できない。本当に困ったものだ。
米原から北陸線に乗り換える客はけっこういた。閑散としたホームを侘しく歩くとは考えていなかったのだが、ざっと見渡したところ百人はいるようだ。
名古屋方面からの事実上の一番列車である『特急しらさぎ51号』に乗れば、十時すぎには金沢に着く。日帰り観光客にはもってこいの列車なのだろう。
とはいえ、六両もつないだ列車に百人ばかりが乗り込っだところで、車内は閑散としたものだ。私の乗った二号車には、たった八人しか乗客はいなかった、
しらさぎは、一握りの乗客を懐に包み、静かに大地を蹴った。
ホームを出外れると、すぐに北陸線への分岐だ。ゆっくりとした速度でポイントを渡るとき、そこで列車は一度大きく横揺れをした。
次の長浜まではほんの五分ほど。伊吹の山裾をふわりと上り、行き先を見定めたら一気に速度を上げた。
名にし負う豪雪地域を飛び越えれば、敦賀までは一気に下る。継ぎ目のないレールが敷いてあるのだろう、継ぎ目を踏むタタンという音がほとんどしない。だから速度がよくわからないのだが、ちらりと見え隠れする高速道路を見れば、その速さが頷けるというものだ。ただ、窓を叩く雨音が気になる。チンチンと金物でも叩くような音が小さく聞こえる。二重ガラスの窓なら、普通では雨の当たる音など伝わってこないはずだ。せめて小雨になってほしいと願いながら窓の外を見つめていた。
私は普段、長距離運転をするときには、決して自分が駆けていると考えないようにしている。淡々と走るのが最も疲れにくい運転だということを、体が理解してしまったからだ。淡々と運転していれば、目的地がむこうから近づいてくるものだ。しかし今日はそうではない。列車の中でさえ足踏みしたいほど逸っている。
日本海側に抜けるまでもそうだったが、山はさほど色づいていない。薄茶色の塊が木々の間に埋って見えるだけだ。それでも、だいだい色をした木がそこいらに立っている。どうやら柿の木のようだ。山肌に、水路の縁に、軒先に、そして線路に沿って柿が秋の色を主張していた。
平野部にかかると、列車は益々速度を上げたように感じられた。関西の友は、どのあたりまで来ただろう。余呉湖のわきをすりぬけただろうか。
あれは武生だっただろうか、駅の間近のビルから、周囲を窺いながら出てきた若いアベック。方や二十代後半、方や卒業して間がない様子。そぼ降る雨に相合傘、睦ましそうでいて、妙によそよそしい感じ。しかも日曜の朝。
ははぁ、二人は個人的な出張だったのだな、自宅から少し離れたところで営業したのだろう。親には内緒で、と、ピンときた。よそよそしいのは、単に照れているからなのか、それとも『こんなはずではなかった』と、いくばくかの後悔からか。どちらがどう思うかが興味の種だが、仕事の成果は三月もすれば現れるだろう。恋愛ものを好む人には、格好の材料に違いない。
一瞬の邂逅でそういう想像ができるのが、実は鉄道旅の面白さだったりする。
芦原、加賀の温泉地帯すぎれば、小松。もうひといきで金沢だ。折りよく雲が薄くなってきた。青空が見えないかなと期待がふくらむ。
米原から二時間駆け続けたしらさぎは、終点の金沢にふわりと降りた。
ぬくぬくした車内から吐き出されると、そこは北陸。名古屋とは違う冷たさと薫りがあった。そう、決して言葉に置き換えられない薫りが。
『皆さんに可愛がっていただいた作品が受賞しました。まだ口外しないようにと言われています。齋藤さん、おしゃべりじゃないよね』
私が今日この場に立つことになったのは、一通のメールがきっかけだ。
心が躍る報せだった。
初めての長編を昨年春の公募に挑戦し、あえなく撃沈したことは知っている。それから何冊かを製本したことも知っている。なんのためだと訊ねたら、出版物でなければ応募できないところがあるということだった。それきりそのことを忘れていたのだが、友は着々と計画を練っていたようだ。そして、めでたいことにそれが受賞したのだという。
障害を負った友には、その障害ゆえに長く書き続けられないというハンディキャップがある。不自由な指でタブレットを叩く。そうして書ける量は、原稿用紙で二枚程度だ。一日にそれだけしか書けない友は、短編や童話などの比較的短いものしか手がけてこなかった。その友に敢えて長編を書かせることになったのは、私の提案によるものだ。しかも友には未経験の時代劇ときている。
そうとわかっていながら話の原案を伝えると、友なりのビジョンが見えたのだろう。
その気になった友は、一年がかりで長編を仕上げた。その間、頚椎の手術を受け、体に力が入らなくなってしまった。もちろん手の動きも緩慢になった。
言葉を発することができず、車椅子がなければ移動すら儘ならない友の意思伝達手段は、文章を書くことしかない。その最後の砦である手の自由を奪われたとしたら……。考えるだに恐ろしいことだったろう。だから懸命にリハビリに取り組み、また書ける力を取り戻した。そうした時期があったから丸一年という時を必要とした。
一話分を書き上げると、それがメールで送られてくる。私はその原稿を下読みし、意見交換をしながら先を促したものだ。
そして完結した。 題名はニキチ。 このサイトでは本当に目立たない話だ.。
『記者会見に着てゆく服を新調しました』
日をおいてそんなメールが届き、その翌日だったか、授賞式に来れないかと誘いのメールが届いた。
前回は別の用事での金沢入りだった。そこで初めて友に会い、そしてもう一人、障碍者支援施設で働くヘルパーさんと知り合うこともできた。二人とも、初対面とは思えない好印象で、時をかけずに打ち解けてしまった。
関西から駆けつける友はどんな印象を抱くだろう。きっと緊張していると思う。しかしそれを上手く肩透かししてやるのが、年長者の役割というものだろう。そして私は、ビデオカメラを一台買った。以前使っていたものが動かないので慌てて中古を一台。予備を含めて電池を二個買った。これがあれば皆で話しているところも残しておける。
ホームに降り立った私には、緊急を要する用事がある。そう書けばニヤリとする向きが何人かいるだろう。そう、一刻も早くタバコを吸いたいという欲求、切迫した欲求のためだ。というのは、構内に喫煙ルームなるものが存在することを前もって調べておいたからだ。
すでに二時間ちょっとの禁煙を強いられている。そのうえこれからは、ほぼ間違いなく禁煙のはずだ。となると夕方まで煙とおさらば。ブルブルブル、そんな恐ろしいことがあって良い筈はない。コーヒー飲みたさにあたふたする私だが、タバコとなると次元が違う。凶暴にさえなってみせる。が、幸いなことに、待ち合わせには二十分も余裕がある。二本くらいは灰にできるはずだ。無論、根元まで。
心の清涼飲料を堪能した私は膝のことなど気にもとめずにホームへ戻り、何食わぬ顔でベンチに腰をおろした。
金沢は、ひっきりなしに列車が到着するような駅ではないと思っていた。北陸本線の主要駅には違いないのだが、支線が二本あるだけなので列車は頻繁にやってこないと。しかし、案外ホームは忙しい。七尾線だの、奥能登鉄道だのというアナウンスがひっきりなしに流れ、白を貴重に青い線の車両や、旧国鉄色そのままのディーゼル列車やらが必ずどこかのホームに止まっていた。
今日は、新幹線ホームを仰ぎ見るゆとりはなかった。
落ち合う友が誰かはまだ明かさずにおきたい。なに、このお喋り親爺のことだから、じきに明かすことになる。共に創作の趣味をもつ同志とだけ紹介しておきたい。今回の受賞を喜んでくれた同志がもう一人いる。できればその友とも会いたかった。しかし体調の問題で見合わせることになったのだが、どっこい、私は彼女を同伴している。
さて、大阪から三時間走り続けたサンダーバードが、ホームの先に独特の丸みをおびた鼻先を突っ込んできた。あくまで個人的な見解だが、私は機関車に牽かれる客車列車が好きだ。とはいえ、そんなことを望んでも仕方がない。真っ白な車体に一本の青い細帯を巻いた電車だ。それがブレーキの軋み音もたてずに、ゆっくりと行き足を止めた。
真っ白な車体の窓枠部分は艶消しの黒。その少し下に青の一本線を巻いた清潔感のある車両だ。『雷鳥』という列車愛称が『スーパー雷鳥』と名を変え、今では『サンダーバード』と変ったのだが、厳寒の山の、ポキンと折れそうな空気を想像させる色使いだと思う。そのドアが開くとぞろぞろと観光客が降りてきた。電話によると六号車に乗ったという。ベンチがあるのは五号車。少し出口へと流れる乗客をかきわけてホームを逆行した。
六号車の乗降口からは次々と乗客が降りてくる。だがその中に目指す相手はいない。大神の勘が即座に判別した。もう下車したのだろうかと周囲を見ると、いた。毛が逆立ってそれを確信した。もっとも、私はスポーツ刈りにしているので気は逆立っているのだが、とにかくタワシのようになって教えてくれた。
人待顔のその女性が私に気付いたようだ。にっこりしながら小走りで駆け寄ってくる。そんじょそこらにはいないような紳士だと教えておいたのだから、きっと見間違うことはないはずだ。
「ようこそ金沢へ、御寮さん。越前屋の、……仁平でございますよ」
そんな挨拶をしようとたくらんでいたのだが、人の流れに気圧されて言うのを忘れてしまった。
私は常々、彼女のことを御寮さんと呼んでいる。と言ってしまえば、それが誰を指すのか察した人もいるだろう。読み合いサークルの主催者を務めてくれた矢上弓美さんだ。
私は、厄介な役目を担ってくれた相手に対する敬愛の気持ちから御寮さんと呼んだだけだ。しかし、顔も見ない相手のことをよくも言い当てたものだと、内心でドキッとした。そう呼ぶに相応しい佇まいだ。
落ち着いて、気転がきいて上品で。そういった要素を兼ね具えている、まさに若御寮さん、令閨というやつだ。
メールのやり取りは厭というほどしているし、電話で話したことも一度ならずある。しかし初対面であることには違いない。だけど、どういうわけか初対面という気がしない。なんとも奇妙な気分だ。
当たり前のことだが、顔を知らない相手のイメージを自分なりに作り上げていた。
理路整然としていながら相手を気遣う文章を書く人だから、きっと聡明に違いない。だとするとこんな目をしているだろうか、などと想像していた。ところがところが、電話で声を聞いたのが失敗だった。無味乾燥な文字からだけの想像に、声だとか話す速さ、アクセントの取り方という全く異質の情報を加えられて、せっかく形作った人物像がガラガラと崩れてしまった。
でも、一から人物像を見直すのは楽しい作業には違いない。
どちらかといえば小柄。目は切れ長で口元はキュッと締っている女性。体型がどうというのではなく、どこか古風な印象の女性だと新たな人物像を勝手に想像した。
礼をよくわきまえた負けん気の強い女性。理知的で理性的、それでいて穏やかな女性。聡明なことは間違いないだろうと思っていた。古風な武家の奥方というのが、私の作り上げたイメージだ。
特に小柄ということはなかったが、理想的にふっくらしている。他はぴったり的中していたから更に驚きだ。
「カフェテリアが開店するのは一時間くらい後だそうですが、先に会場入りするということでした。私たちも会場へ行きましょう」
到着早々で気の毒だが、タクシー乗り場に誘った。
鏡花文学賞は、泉鏡花文学賞と泉鏡花記念金沢市民文学賞とからなるそうだ。泉鏡花賞といえば、層々たる作家が名を連ねる文学賞であることは広く知られている。しかしそれが金沢市の主催によるものであることは、あまり知られてはいないようだ。そのだいそれた賞と対をなすのが、泉鏡花記念金沢市民文学賞だ。そんなだいそれた賞を、このたび友が受賞することになった。
この、『小説家になろう』というサイトで細々と始めた連載小説が、その栄誉に浴したのだ。
受賞者の会場入りは十三時二十分だとか。それまでの約二時間が、私たちに与えられた時間だ。
御寮さんは、初めて会う友に戸惑うだろうかと不安だったが、それは私の杞憂だった。というのには、理由がある。声に出して話せない相手、アテトーゼで表情が不意に変わることがあるというのも本人の申告で知ってはいる。しかし、いくら予備知識があったとしても、現実に会ったときに彼女の抱いていた想像と大きく外れているかもしれないからだ。だが、耳は確かだし、ゆっくりだが文字で答えてくれる。友はそれをすぐに悟ったようだ。
『総レースのワンピースを新調しました』
記者会見のために新調したそうだが、きっとその服なのだろう。華やいだ格好をしていた。
「よっ」
ぶっきらぼうだけど、メールのやり取りそのままの荒っぽい挨拶をする私。仰け反って喜ぶ友。もう一つ遠慮がちな御寮さん。
もう一人、就労支援施設の職員がその場にいた。前回もお世話になった人で、とても気さくな人だ。今回、ヒロインのヘルパーを務めてくれることになったそうだが、彼女がいればヒロインの移動に不安はない。
私は、電子媒体とか情報媒体というものに実体を認めない主義である。どうしてかというと、自分の名を堂々と表に出さないからだ。無論、そうできない理由はあるだろうし、気取って筆名を使いたいというのも理解できる。しかしだ、首を傾げて、更に傾げて、まだまだ傾げても首を捻りたくなるような名をどうしてつけるのだろう。洒脱な名、風刺を効かせた名なら納得できるが、残念なことに意味不明の名を用いる者のなんと多いことか。要するに、相手に対しては無責任なことを発信し放題でいたいということではないだろうか。
コンピュータ同士の通信で成り立っている仕組みではあるが、サイトも社会には違いないはずだ。それを勘違いしていることが嫌いなのだ。
どちらにせよ、どこの誰と判明しなければ同姓同名などとても多いはずだ。だったら住所などを伏せておくだけでかまわないのではないかと思ってしまう。そんなことで心が通い合うだろうか。
そんなことはどうでもいい。とにかくこの場にいる三人は、互いを認め合っていることはいうまでない。元はといえば電波の上でのつながりでしかなかったのに、電波が不思議な縁を結ぶこともあるものだ。
とにかく、こうも心を許すことができるのかと改めて驚かされる。
金沢は本当に文化的な町だと思う。私の住む名古屋でも市民芸術祭なるものがあるが、参加費を徴収する。そんな町では泉鏡花賞のようなものは育たないだろう。『尾張名古屋は芸処』などと自賛した昔を羨ましく思う。
授賞式会場は、金沢市民芸術村というところだ。犀川のほとりにあり、少し歩けば兼六園にも西茶屋街にも行ける立地だ。
「どうだい、予想していたより美人の若妻だろう?」
御寮さんのことを指差すと、友は力をこめて親指を立ててみせた。
「あんたも若い頃はこれくらい美人だったか?」
そう訊ねると、更に力強く親指を立ててみせる。
「なあ小晴さん。この人って、嘘ばかりつかないか?」
「ほやぁ。嘘に冗談を練りこんだぁるわいね」
ヘルパーさんが困りきった顔で打ち返すと、友は仰け反って笑い、御寮さんも釣られて笑った。
友は少し前から、とにかくピンク色を好むようになったという情報をヘルパーさんから得ていたので、それを追求してみると、バッグやひざ掛けだけにとどまらず、小物類がすべてピンクで統一されている。本人も上機嫌でそれを見せてくれる。まったく、そんなど派手な色をどうして好むのだろう。
と、「女はどこかで目立ちたいという願望があります」と、御寮さんがすまして言った。ずっと叱られ続きの人生だった私など、なるべく目立つことを避けようとするのだが、女心とはそういうもののようだ。
ところで、米原駅での賭けだが、その負債が意外なところで立ちはだかった。
レンガ亭という名のレストランが、唯一の飲食店だ。開店時刻は十一時半。
そろそろ開店しただろうから場所を移そうかと店に行ってみると、既に満席。
私たちがいた場所と店とは五十メートルも離れていない。出入り口のスロープを車椅子が乗り越えられなくて、少し手間取っただけだ。しかも、席についている人はぼんやり座っているだけだ。
料理が配ばれ、皿が下げられても、まだ座っている。入り口で待っているのが気にならないのかとムッとしていたら、おもむろに次の料理が配ばれてきた。
今日のお奨めメニューとして、泉鏡花ランチとあった。皆、それを食べているのだろうか。
まるでコース料理のようだ、茶懐石のようだ。
待つこと四十五分、ようやく席が空いた。
この間、我々は大人として善良なる市民を演じ続けるしかなかった。
店の外は酷い雨。時折り明らかに雨粒とは異なる大粒の塊が混じっている。他の客に迷惑をかけないために、私たちは沈黙を守っていた。このフラストレーションを想像してもらえるだろうか。
そんなことだから、ランチなんかを注文してはいられない。それこそ授賞式に遅刻してしまう。飲み物も先に出すようお願いしたので、コーヒーを飲みながらカレーライスを食べるような按配だ。
すべては米原駅のうどん屋が営業していなかったことが原因だ。私は今でもそう思っている。
ただ、テーブルの上に男物の扇子をさりげなく出しておいた。今日来ることができなかった友の身代わりのつもりだ。
ということで、仲の良い者が雁首をそろえたことになった。
それにしても、初めての長編を仕上げた彼女は、続編ともいうべきものを書き始め、そして自身をモデルにした長編をも書いている。本人は自分のことではないと言い張るが、明らかに嘘だ。成功体験というものは、思いもよらぬ効果をもたらすものだと、私はあらためて気付かされた。
やがて時がすぎ、友の会場入りにあわせて我々も会場へむかった。
会場の名は、パフォーミング・スクウェア。演劇の稽古場として使う施設のようで、規模はあまり大きくない。中学校の体育館くらいの大きさだろうか。
実を言うと、これだけ有名な賞を与える式典だから、公会堂とか劇場のような施設を話は想像していた。それだけに拍子抜けしたような印象を受けた。また、授賞式の模様を撮影することも、録音することも禁止だそうだ。
生涯にただ一度、あるかないかの晴れ舞台くらい撮影させろよなと心の中で毒づく私だった。
受付で家族だと名乗ると、名簿を示された。入場券は貰っているとはいうものの、嘘がばれると気まずいことになる。それで、恐々名簿に目をやると、私の名前が載っていた。御寮さんの名もある。それに、従姉妹の名もあった。どうやら私たちのことを招待客ではなく、家族として登録してくれたようだ。しかし、いかに厚かましい私であっても、家族の中に紛れ込むことには気が退るので、御寮さんを誘って招待者席に腰を下ろした。
会場は横長。壁は墨染めのように黒が基調になっている。正面に低い舞台。金屏風ではなく、まるで障子のようなものが背景を占めていて、紙と木の質感が私には好ましく感じられた、もちろん授賞式の扁額は上にでかでかと掛かっていた。その舞台を包むように、ずらりと椅子が並べてある。
最前列は役員席。関係者席がそれから二列。招待者席は、だから四列目からだった。
泉鏡花賞 一名。市民文学賞 二名。戯曲賞の大賞が一名、佳作が二名。奨励賞が一名。それが今回の受賞者だが、一地方都市が主催していることに驚き、今回で四十五回目だということに更に驚いた。地方都市に施政には特徴的なものがあって当然だと思う。しかし、首長が交替するうちに消極的になり、或は取り止めになるかもしれないというのに、ここ金沢では四十五年もの長きにわたって取り組みが続いている。これは、首長の方針もさることながら、市民が文化に親しむ風土だからではないか。
真っ先に表彰されたのは、友だった。
妹さんに付き添ってもらって壇上に上がる。いつものように項垂れたような格好をしているが、きっと誇らしい気持ちであろう。
金沢市長が表彰状を読み上げた。朗々と、一言一句を曖昧にしない読み上げは、他の手本にしたい。ゴニョゴニョと口の中で何を言っているのかわからないことがあるが、表彰される側からすれば実に不満なことだ。その賞状は、紺色ビロードのような台紙に貼りつけられているようだ。まるで卒業アルバムのようだ。
「正賞をお受け取りください」
正賞は八稜鏡だそうだ。泉鏡花にちなんで鏡を正賞にしたのかもしれないが、伊勢神宮の八咫鏡も八稜鏡だったはずだ。どうやら桐箱に収められているようだ、
「副賞もお受け取りください」
そう言って、市長は包みを授与した。
もう一人の受賞者への授与が終わると、舞台に演壇が設置された。
そして選考委員が登壇し、選考理由が述べられた。
簡潔にあらすじを紹介したあとで、『平易な言葉で技巧に奔らないところに好感を抱いた。友の窮状を手助けせんと、触れたことすらないヴァイオリンを苦心しながら作る過程や、漆についての専門的知識が、実に精緻に、そして丹念に描かれている。また、主人公の生き様を通し、日本人の矜持を感じることができる』等の講評が述べられた。
そして受賞者挨拶。
友は言葉を発することができないので、妹さんが原稿を代読した。
自分の生涯にふれ、また、別に生じた病気にふれ、書くことで辛い時期を乗り越えられたと振り返り、書いていて、とても楽しかったと語った。多くの感想や意見を得て書き上げられたとも語った。
受賞作同様に、誰にでもわかる平易な言葉で語られていた。そして他の受賞者との決定的な違い。それは、周囲への気配りだ。同時に表彰された戯曲賞然り、泉鏡花賞然り、皆一様に己の苦心のみを語った。そこに人間性の違いを私は感じた。
式典は淡々と進み、五木寛之氏のスピーチが始まった。
途中まで聴いていたのだが、ふと気付くと時刻は既に三時半になろうとしている。御寮さんを早く帰してやらねば、幼い子供が首を長くして待っているはずだ。本人も時刻が気になったようで、私たちは会場を後にすることにした。
式典の途中、それとわかる雨音が微かに伝わっていたのだが、幸いなことに雨は小降りになっていた。
次の列車は、午後四時ちょうど。発車までに五分ほどしかない。うまく席が空いていればと不安に駆られながらホームに上がると、案の定、席はびっしり埋まっていた。空席がないかと後の車両に行ってみると、チラホラ空席がある。
薄暗くなってきたホームでの別れは、掛け値なしに遠く離れるような気がする。特に今、なんとか座ることができたのを見定めた私は、この別れが別のもののように錯覚すらしていた。婚家へ戻る娘を見送るのは、きっとこんな心持なのだろうかと。別れ際に交わした握手を思い出し、しっかりなと胸の内で応援した。
それにしても、片道四時間という土地まで、よくぞ来てくれたものだ。交通費を含め、莫迦にならない出費だったはずだ。待っていてくれる幼子や、家の方々の理解にも頭が下がった。
速度を上げ、みるまに小さくなるテールランプを見送り、私は自分の乗る列車までの待ち時間をどうすごすか、……とりあえず、一服しながら考えよう。
一方で、こうも思う。
冒頭、序章のあとに一節付加することを提案したことがある。それで主人公がローマに同行を許された理由付けにする目的でだ。
当時の船は例外なく木造船だから、船大工が乗船していても不思議ではない。しかし、使節団に同行させるような身分ではないので、太平洋を渡ったところで待たされたはずだ。だとすると、同行を許されるには決定的な手柄が必要だと感じた。それで、嵐に遭遇し、あわや難破の危機を船大工が乗り切ったという一節を彼女に送った。
また、フェルナンドがニキチのヴァイオリンを取り出す場面でも、その心情を際立たせるために情景描写を提案した。
どちらも彼女は採用しなかったのだが、もし採用していたらどうなっていたか。
これは、解くことのできない謎となった。
ともあれ、かくも晴れがましい式に出席できたことを嬉しく思いながら、私も帰途につく。、また来いよ。白山がそう言って見送ってくれたように思いたい。
個人的な思い
喫煙場所を増やして! こんなの、生き地獄じゃないか!
終わり
泉鏡花文学賞選考委員は次のとうり。
五木 寛之氏(泉鏡花文学賞選考委員)
村松 友視氏(泉鏡花文学賞選考委員)
金井 美恵子氏(泉鏡花文学賞選考委員)
嵐山 光三郎氏(泉鏡花文学賞選考委員)
山田 詠美氏(泉鏡花文学賞選考委員)
ふじた あさや氏(金沢戯曲大賞選考委員)