冬
数年後、わたしの隣にはやっぱり金原がいた。
あくまで、後輩として。
半年前の夏、わたしが勤めるバーに金原がたまたま来店し、その場で履歴書を提出して、バイト採用された。
訊けば、偶然、履歴書を持ち歩いていたらしい。
わたしは咄嗟に嘘だと思ったが、事実金原は不備の無い完璧な履歴書を持っていたし、それが偶然でない証拠もないし、それよりなによりもう金原はバイトとして採用されてしまったのだから、しょうがなかった。
「また、よろしくお願いします、先輩」
はぐらかすような柔らかで曖昧な笑みと、先輩、という呼び方は全く変わっていなくて、わたしはそれがなんだか嬉しかった。
わたしと同い年でそこそこ馬の合っていた同僚がつい一か月前に突然わたしに理由を説明することなく、やめてしまったところで、店長が急募をかけようとしていたときだった。
まるで在りし日の文藝部のやり直しのような話だ。
半年経って冬になっても、店の従業員は、店長と金原とわたしだけだった。
年齢不詳の店長は驚くほどに無口で、わたしが喋る相手はもっぱら金原だった。
軽くて当たり障りのない、でも、わらえる金原との会話が、わたしはすきだった。
「先輩、あれ、治ったんですね」
「は?」
吊るされた数十のグラスは、海を泳ぐ光る魚みたいだった。
その光に反射して、金原の鼻先が、きらっと輝いた。
客も帰った夜明けも近い深夜、二人してきゅ、きゅ、きゅ、とグラスを拭き続けている。
「わたし、最近風邪なんて引いてないわよ」
「そんな、小さい病気じゃないですよ。もっと、大病」
きゅ、きゅ、きゅ。
わたしは本気で首をかしげた。
大病なんて、したことがない。せいぜい二年前のインフルエンザが関の山だ。
「え、何よ。本当に心当たりがないんだけど」
「高校時代ですよ」
「本当にわかんないわ」
「コミュ障」
「殴るわよ」
わたしがちょうど磨いていた大ジョッキを振り上げると、金原はホールドアップした。
「落ち着いてください。褒めてるんですよ」
「嘘だわ。それに、あれから何年経ったと思ってるの」
多感な時代は気づけば終わり、わたしは滅諦に赤面しなくなった。鈍くなったし、図太くなったと思うし、実際にそうだ。少なくとも、店で働くわたしは、そうだ。
「そうですね。俺もやっと、脱却できた気がします」
「え、何を」
「コミュニケーション障害」
「それこそ、嘘だわ。わたし、金原は営業部に行くに違いないって思ってたもの」
「先輩、人類みなコミュ障ですよ」
名言、いや迷言だ。
金原は続けた。
「ひとくちにコミュ障と言っても、その実様々な障害の形があるんです。先輩みたいに、そもそも上手く発信できなかったり、発信してはいるけれど、発信の仕方が悪くて正しく伝わらなかったり」
「失礼ね。じゃあ、金原はどんな種類の障害なのかしら?」
「俺は……」
少し寒い。
夜明けが近かった。
「そもそも……何も発信しない……」
始まりがあれば終わりもある。
そんなこと、金原もわたしも、痛いほど知っていた。
或る真夜中、ようやく閉店したころ、物置から引っ張り出してきた、金具が緩んでどうにも心もとない、しかしそのくせ重たい脚立を持って廊下をふらふらしていると、ガシッと誰かに掴まれる感覚がして、見上げると金原が支えてくれたようだった。
「あぁ金原」
「何してるんですか先輩」
「廊下の電球が消えかけだから、付け替えようと思って」
ほとんどの電気を消してしまっていて、非常灯のわずかな緑の光だけが照らすなか、金原がちょっとだけ眉をしかめたのが見えた。
「危ないじゃないですか」
金原はどうやら怒っているようで、わたしはびっくりした。
こんなに自分の感情を他人にも分かるように態度に示す金原は珍しくて、わたしはつい「……付け替えた瞬間に光っても怖いじゃない」と言い訳した。
「……じゃあ、俺が付け替えるんで、先輩は脚立を押さえといてください」
金原はぷいっと横を向いて、場所を確認すると、わたしが押さえる前にさっさと猫のような身軽さでもって上ってしまった。
わたしは慌てて脚立のつめたい無骨な足を押さえながら、どきどきしていた。
金原をこわいと思ったのは、これが初めてだった。
「ねぇ金原」
「なんですか先輩」
「わたし、あれ、まだ持ってるよ。金原がくれた手書きの詩」
すると頭上で、ごほごほっといういかにもわざとらしい咳払いが聞こえた。
「……嘘ですよね?」
「本当よ」
薄暗い闇の中から裸電球を掴んだ手が下りてくる。
わたしは新しい電球を箱から出して、古い電球はまた箱に入れた。
「はずかしいんで、さっさと捨てて下さいよ」
「いやよ、形見なんだから」
途端に、耐えていた涙があふれ出しそうになる。
寒い。
口端から漏れる、凍える人のような吐息が恐ろしく静かな廊下に響いた。
金原は黙って作業を終えると、脚立から下りて、電気をつけた。
店長の趣味で、店の照明はすべて青の色電球が使われていた。
冬の青い電球の灯りの下では、二人して舟から落ちて夜の海に沈んでしまったようで、それはいつかを思い出させて、わたしはまた哀しくなった。
「ねぇ先輩」
「……なによ金原」
「バイト辞めるだけで別に俺、死ぬわけじゃないですよ」
金原が、わらいかけて、やめた。
真剣な目をして、わたしを見つめていた。
そのとき、わたし達は向かい合っていて、わたしはようやく、いつだってわたしの隣にも真正面にも立たず、ずっと半歩後ろにいた後輩が、もうわたしの後輩では無くなってしまうのだと実感した。
「すみません、先輩」
それは高3の夏、廃部の告白をされたときと同じ口調だった。
申し訳なさにゆがむ金原の顔を見て、わたしはあの時の金原も電話越しにこんな表情をしていたのだと知った。
やさしい金原は、ぎりぎりまでわたしの後輩でいてくれようとしている。
わたしの望む、楽で円滑な寂しい関係を保とうとしてくれる。
それが、何故か今度ばかりは哀しくてたまらなかった。
似ているようで、ぜんぜん違う。
金原が数年越しに用意してくれたこの茶番劇は、文藝部のやり直しなどではけしてなかった。
現に、わたしの胸を満たすこの哀しみは、わたし自身のもので、これこそが本物の哀しみだった。
「ねぇ金原」
「なんですか先輩」
「もう先輩って呼ばないで。わたし、あなたに何もしてあげられなかった」
金原が、はっと、息を呑む音が聞こえて、その後、彼は強く「違います。そんなことは、絶対、ない」と言った。
「俺は……!」
金原が口ごもり、また、すみませんと言った。
「だめです。本当のことを言おうとすると、どうしても、喉に突っかかる」
「あなたが言いたいことに、気付いてあげられなかった。受け止めようとするべきだったのに」
「違います。違うんです。お願いです、そんなこと言わないで」
金原が、わたしの両腕を掴む。
強い力に、わたしは驚く。
そのとき、わたしは、ようやく金原の存在をはっきり認識できた気がした。
と、同時に、わたしは、金原のこと、ただ話すだけの、やさしい蜃気楼だと思っていたのだと気づいた。
わたしにだけ見える幻。青い夜の中の幻想。
本当は、一人の、生きている、男だというのに。
「俺は、甘えったれで、本音を見せるのが怖いくせに、誰かに気付いてほしくて、優しい言葉を、かけてほしくて……ただ、甘やかされたかっただけなんです。欲しいなら、欲しいって、ちゃんと言えばいいのに、それができなかった」
「きん、ば、ら」
「だから、あなたに、責任を感じてほしくなんかない。みんな、寂しいんです。その寂しさに、いつかは、どうにかして、打ち勝つか、共生しなくちゃいけない。誰かと寂しさを共有するだけなんて、只の甘えだし、虚しいだけだってこと、俺は、もう、分かってます」
わたしはぽかんと口を開けて、なんだか、すっかり大きくなってしまった元・後輩を見上げていた。
よく見れば、眉も目つきも凛々しくなって、唇も、きゅっと一文字に結ばれている。
「……大きくなったねぇ、金原……」
「どういう目線なんですか、せん……灯さん」
ふふ、と笑うと、金原が照れくさそうに目を逸らす。
昔は、わたしがずっと目を逸らしていたのに。
(目を逸らさず、ちゃんと向き合えばよかった)
そう思っても、もう遅いし、大人になってからこうやって向き合えたのだから、良かった(と思うしかない)。
金原はずっとわたしに甘かったし、優しかったけれど、それはわたしに甘やかされたり、優しくされたかったのだと思うと、切ない。
「ねぇ金原」
「なんですか……灯さん」
「あなたは、わたしにずっと優しかった。わたしはそれに甘えていた。なのに、それを分かってなくて、あなたに何も返そうとしなかった。だから、だめなのね、わたし。いっつも同輩とか同僚に見放されてしまう……そういう意味で、謝りたかったの。ごめんなさい」
「……………」
「……………」
「……………」
「……なにか、言ってよ!」
「……えっ、あっ、すみません。今、考え事してて」
「なんで、今、考え事するのよ! わたし、真剣に言ってるのに!」
「俺、別に、灯さんに意識して優しくしてたつもりはないんで、何のことだろう、と思って」
わたしは、きょとんとして、金原を見る。
金原も、きょとんとして、わたしを見ていた。
「……え、そうなの」
「だから、もし俺が優しくしてたと思うなら、それは俺が灯さんのことを好きだからだと思います」
わたしは驚いて、それから、笑った。すこしだけ涙が滲んだ。
おもしろくて、つまらない顛末だ。
「それなら、わたしが金原に優しくされていたと思うのは、わたしが金原のことを好きだからなんだわ」
驚いた顔をした後、金原が、笑った。
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