フルタクト
指揮者、というのは見ているとそれほど難しくないのではと思ってしまう。煌びやかな管楽器の輝き、物静かでシックな弦楽器の艶に比べれば、地味な1本の棒は取るに足らない存在に見える。しかし全ての楽器は指揮者の振る棒の動きに追従し、統率される。
楽器を演奏する時の指は繊細だけど、指揮棒を握る指はそれ程繊細ではない。ピアノやヴァイオリンに限らずほとんど全ての楽器は調律等の細かい手入れが必要だけど、指揮棒は要らない。せいぜい布で拭くぐらいではないだろうか。
僕はだから指揮者を軽く見ていたし、指揮棒も単なる棒だと認識していた。
でも、中には……尊敬すべき指揮者も居る。
ある夏の、日本で言えば入道雲が団体で押しかけて来る頃。僕は両親に連れられてロンドンに居た。
僕は特別ロンドンに行きたかった訳じゃないのだが、両親からすれば僕がロンドンに行かなくてはならないのは当然らしい。多分、燕が毎年ウチへ巣を作りに来る位には当たり前なのだ。燕だってウチを先祖代々の日本での永住地と定めたつもりは無いだろう。ひょっとすれば来年は隣りの新築に巣を作るかも知れない。
僕はずっとマリオネットだった。マリオネットになるのはとても気が楽だ。特に自分から何かしなくても、勝手に両手両足その他諸々に付いた糸が僕を動かしてくれる。でも、マリオネットになるには自我が残りすぎだ。人間だもの。ずっと操られているのも何かと退屈だ。
僕は両親と一緒に泊まっているホテルを抜け出すことにした。英語なんてこれっぽっちも喋れないが、特に喋れなくとも問題ない。歩く為の足も、荷物を持つための手もある。
緩やかな階段の手すりに持たれながら階段を一段一段降りる。途中で父と遭遇したが、
「あ、父さん?今から気分転換に散歩にでも行くからさ、母さんに伝えといてよ。三十分位したらまた戻るから」
と言うと、黙って頷いてくれた。僕の父はあらゆる感情に対する熱を持っていないように思える。少なくとも、息子に対するそれは絶対的に少ない。何を考えているのかよく分からないが、特に問題視はしていない。ただ母に逆らわないだけの父だ。
母に階段で会えば少しややこしい事になっていたかもだ。母は一家の大黒柱みたいなものなので、逆らうのは父ほど素直ではない僕でも難しい。僕の才能を見出したのは母だが僕の友達が少なくなった原因もまた母。母には感謝しているがもう少しその父から奪ったような凄い感情のエネルギーをなんとかして欲しい。「散歩」なんて怪しい言い訳は全力で無視して明日の為に練習しなさいとか言い出していたに決まっている。
ロビーを出て、街へと踏み出す。ここら辺の地図は手元の携帯電話で何とか判るし、何時間か放浪してからそのまま英語もまともに喋れないのに家出してしまうか、ホテルに戻るか決めようと思う。
ロンドンの空気は日本と比べると少し重い気がする。どんよりしているとも言えるし逆に落ち着いた感じで時間が緩やかとも言える。昼下がりでまだ暑い中を行く宛も無く歩く。この時期は朝と晩に寒くなりやすいらしいので、一応上着をバックパックに入れている。途中で色んな人とすれ違って、時たま興味のありそうな視線を向けられるが日本人らしく綺麗にスルーする。
街をひたすら歩いて郊外に出ると、浅い森が見えた。普通は深い森が……というのが一般的な表現だろうけど、見通しがそれ程悪くなくて植わっている木も幹が細くて疎らであれば浅いと表現して差し支えないだろう。
その中の1本の根本に腰をおろして空を見上げる。雲が点々と続く中に、何となくだるそうに見える太陽がこちらを覗いている。先程までいた街は遠くで静止していて、先程まで現実だった空間が突如、アニメの背景になってしまったかのように思える。もしそうであれば、自分は何者なのだろうか。僕はマリオネットで、演奏者で、17才の青年で……
自分の意識を曖昧にさせながらボンヤリと街を眺めていると、不意に何かしらの気配を感じた。それに応じて左手を見れば、そこに1人の男が立っていた。燕尾服を着て、右手に指揮棒を持っている。青い瞳は真っ直ぐに街を見つめている。
相変わらずボンヤリしていた僕は、ああコイツ指揮者なのかなと考えていた。こんな所で燕尾服を着た指揮者が何をするのかと疑問を感じずに、我ながら呑気なことだ。
しかしボンヤリしているのもそこまでだった。何故なら青年が指揮棒を構えたから。僕は指揮者をただの棒振りとしか考えていなかったので、青年の構えに呆気を取られた。青年の表情はこれまでに見たどの指揮者よりも真剣で鋭く、指揮棒の先端は小刻みに震えている。
そして、青年が(恐らく)英語で小さく呟いて、指揮棒を降り始めた。
それから何分かの記憶はハッキリしていたが許容できない内容だった。何故なら青年の振る指揮棒に合わせ、森の木々が揺れ風が吹き雲が流れ街がざわめいたからだ。浅い森は深い森に憧れ、風はもっと遠くに旅をしたいと訴え、雲は楽しそうに手を取り合って、街は幻想から一気に現実へと息を吹き返した。
僕は手元に自分の宝物が無いことをひたすら後悔した。あれは一人で持ち運べるものでは無いし、両親には「我が儘はこれだけ」と約束して無理して一緒に運送して貰っているのだ。ここに持ってこれる訳がなかった。
僕は奇跡を実現させた青年をもう1度注視する。短い金髪に青い瞳、顔立ちは贔屓目に見ても普通だが顔つきは心に響くものがあった。
恐らく同世代の彼は、初めて僕の方を見た。薄く笑って何事か呟く。
そして、何事も無く去っていった。
僕はその日結局家出をせずにホテルへ戻り、日課となった練習をして、翌日にコンサートホールへ来ていた。
会場は人でごった返していて、その中をさり気なく探したが青い瞳は見つからない。まあそうそう偶然が重なってたまるかと考え直して、鍵盤に向き合う。
僕はあの奇跡を見たことがあった。しかし、それは傍観者としてではない。引き起こした張本人としてだ。初めて出たピアノコンサートの会場で、ピアノを引き終わった直後に観客の顔を見ると全員が突然亡くなって突如生き返ったかのような、生命の輝きが一瞬漏れ出たかのような表情をしていた。それが忘れられずにピアノを続けていたのだが、いつの間にか忘れてしまっていたようだ。
目の前のピアノを撫でる。このピアノはコンサートホール備え付きの高級ピアノだけど、やはり僕の宝物には及ばない。僕が親に無理を言ってピアノを習い始めた頃に買って貰ったあのピアノ。あれだけが僕の音を誰かに直接伝えられるような気がしてならない。
明日になれば、また森へ行こう。少年に会って、下手な英語でホテルまで連れていこう。隅に置かれた古ぼけたピアノで、彼に違う世界を見せてやろう。
そう、僕は確かに彼がこう呟いたと思うのだ。
「君の音はどこまで行けるかな」
ピアノを弾き終わると、声援が僕を暖かく包んだ。
あまり煮詰めないままで出してしまいました。気分的にカエデの樹液をそのまま提供してしまった感じです。
次の短編は満足いく仕上がりになるように頑張ります