第7話 契約
どうしようもない時というのが、存在する。
例えば、地球に巨大な隕石が落ちてくる三十秒前とか。
例えば、天気予報を裏切った、唐突な夕立とか。
例えば――――目の前には崖しか無い状態だというのに、己の意思で後退をしないと決めてしまった時、とか。
傍から見ていればきっと、俺はこれから虚空に足を踏み出そうとする愚か者に見えるのだろう。当たり前だ、俺もそう思う。決して、崖の先に道が見えているわけではない。虚空の中に、透明な道が用意されているわけでもない。
強いて言うのであれば、俺は飛ぼうと思ったのだろう。
翼も持たずに、そのまま何処かへ飛んでいければいいと思ったのだろう。けれど、それは当然の如く、無慈悲な物理法則に従って、奈落の底へ真っ逆さまだ。
古来より、科学の恩恵も受けずに空を飛ぼうとした愚か者の末路は墜落と決まっている。
奈落の底で、赤い花を咲かせてそれで終わり。
身の程知らずにはよくある顛末。
ああ、されど、『それでも』と手を伸ばし、先へ進もうとしてしまうのだ。
他者からの強制ではなく、己の内から湧き上がる衝動が、男としてのつまらない矜持が、それを選ばせてしまうのである。
だから、これはどうしようもない。
どうしようもなく愚かな者が、約束された破滅へと進むだけの話だ。
「だがもしも、『それでも』先へ進みたいと願うのならば」
それでも、破滅の先を望むのだとしたら。
選ぶべき手段は一つしかない。
神には祈らない。
天使は降りて来ても、人に試練しか与えない。
「君の覚悟を示したまえ」
だから、俺が選ぶのは――――
●●●
デート帰りに謎の黒服さんに拉致されて、リムジンに乗っております。
「…………東雲さん?」
「なんだい、芦葉君? あ、もう少しで我が家だから、くつろいでおくれよ」
「すでにこのリムジンの座席が快適過ぎて、眠くなりそうだよ」
「この状況で睡魔に襲われるなんて、君は案外大物かもね?」
「いや、ただの現実逃避だ」
にこにこと、隣の座席に座る東雲さんは俺へ微笑みかけている。
だが、俺はもうすでに知っているのだ。その笑みは親愛を示す者では無く、こちらを嬲ろうとする絶対的強者の笑みであることを。
ともあれ、ここまでの経緯を説明すると、だ。
東雲さんが本性を出して来たので、色々とツッコミを入れていると「んじゃあ、そろそろ暗くなってきたから詳しいことは我が家で説明するよ。あ、もちろん来るよね?」ということで、黒服とリムジンを東雲さんが召喚。身の危険を感じたので、門限を理由に拒否しようとしたら、既に東雲さんがうちの両親に電話済みで、手を回されていたというだけの現実である。
……うん、東雲さんなら俺の自宅の電話番号ぐらい調査済みだよな、という謎の納得感だけがありました。そして、黒服さんが怖いです。大柄の強面の黒スーツというコンボで、しかも無言。東雲さんに無言で会釈した時から、運転中一言もしゃべらないんだな、これが。
「ところで、東雲さん。その、運転手の黒服さんだけど――」
「ああ、彼は居ない物として扱うように」
「…………えー」
「その方が彼のためになると考えなよ。詳しい理由は説明しないけど、そだねぇ。舞台上で動く黒子へ、演者が声をかけてアドリブを要求するのは可哀そうだろう?」
「この、自分が非日常へと足を踏み入れている不安感よ」
「不安なら、抱きしめてあげようか?」
「噛みつかれるので遠慮します」
東雲さんと他愛ない会話を繰り返しながら、俺は不安を押し殺す。
そもそも、美少女と二人でデートした上に、帰りに自宅へ訪問なんて、どこぞのリア充の所業だと思ったのだが、相手は東雲さんなので不思議とそういった照れなどは感じない。つか、デート終わりにあんなやり取りをしておいて、今更、そういう甘ったれたやり取りなど出来るわけが無いのだ。
俺と東雲さんの関係性は無糖ブラックか、あるいは形だけ似ているだけのレジンキャストかもしれないな。
「お、着いたよ、芦葉君。ここが東雲家さ」
「…………うわぁ」
三十分ほどの乗車時間を経て、東雲家へ到着した。
東雲家は一言で表すならば、洋館だった。
身の丈を上回る鉄格子のような門。広々としていながらも、石畳の一つから草木の葉まで調和された見事な庭。そして、その先には白亜の洋館が鎮座している。さながら、異国の魔女か貴族でも住んでいるような、そんな古風の造りの建物だった。
けれど、普通に門はインターホン付きだった。
「内装が、内装が絵画とか高そうな美術品を飾ってある隣に、普通に最新型の家電とかが置かれている違和感ェ」
「特に客を招く予定はないからね。使いやすさが一番さ。個人的にはマンション暮らしでもよかったのだけれど、げぼ――両親に反対されてね」
「何を言いかけやがった、おい」
奇妙な内装の洋館を、東雲さんに手を引かれながら俺は歩いていく。
今更手を繋がれても、と一度は断ったのだが、「私から離れたら命を保証できない」と脅されたので、仕方なく震える手を握ってもらうことに。
なんで自宅訪問するのに、命の危機を警告されなければならないのだろうか?
「はい、お待たせ。この客間は安全地帯だから、ゆっくりとくつろいでよ。私はちょっと着替えてくるからさ。その間にもしも、お手洗いに行きたくなったらそこの黒服に言うように」
「あいあいさ」
「間違っても、単独行動しないでね?」
「ガチの警告はやめろ、指先の震えがまだ止まってねーんだぞ」
移動中の窓から、謎の黒い影とか見えているので、俺はガチで恐怖しているのである。
おっかしいなぁ、東雲さんに感じていた恐怖ってもっとこう、違う物だったはずなのに。いきなりモンスターハウスチックになってきたぞぉ?
「…………」
しかし、この客間を改めて見ると本当にシンプルだ。
偉く高そうな木製のテーブルに、同じく木製の椅子。一見すると、普通の家具屋にでも売っているような品物に見えたが、触り心地が恐れ多い感じがしたので、お値段が異常高騰している感じのアレだろう。傷は絶対に付けないという誓い。
他には液晶テレビとか、クーラーとか、シャンデリアに見せかけたLEDライトとか、無駄に家電がアンティークを浸食している感じがする。
「なんだかなぁ?」
木製の椅子に腰かけて、俺は一息吐く。
思えば、妙なところまで来てしまった物だ。俺にとっては、東雲さんは短編小説を見せるだけの相手、そして、勝利すべき相手でしかないというのに。
何故、東雲さんは俺にこれ以上を求めようとするのだろうか?
きっと、恋人関係は求めていない。いや、関係性の変化は求めていないのか? 東雲さんが俺の小説……短編小説を異常なほどに好んでいるのだけは真実だ。
であるならば、俺を監禁でもしてずっと短編小説を書かせたかったのだろうか? この童貞の俺を籠絡してまで。
「……はっ」
頭の中に思い浮かんだ馬鹿らしい考えを、即座に鼻で笑って否定する。
相手は素人じゃないんだ。俺よりも格上のクリエイターである東雲彩花だぞ? 俺のようなクリエイターを監禁してカンヅメにしたところで、無尽蔵に短編が積み上がらないことを知っているだろう。むしろ、短編小説をどんどん書かせたいのであれば、俺とは付かず離れずの関係が適切なはずだ。
間違っても、恋人同士になんてなる必要はないのに、それでも――――先ほどのデートは明らかにこちらの心を落としにかかっていた。
それは、何故だ? 何故、恋人同士でなければならないのか?
「はぁーあ、馬鹿らしい。俺如きに天才の思考なんて読めるわけねーよ。いいや、東雲さんが戻ってきたら、直接訊こう」
馬鹿の考え休むに似たり、ってね。
俺はオーバーヒートしそうな思考を早々に打ち切って、東雲さんを待つことにした。
どうせ、俺の考えなど東雲さんには及ばないのだから、せめて……何を言われても、最後まで逃げないように心の準備だけはしておかないと。
と、そんな風に俺が覚悟を決めていると、がちゃり、とドアノブが回される音が。
「戻って来たか、東雲さん。さぁ、俺の覚悟は出来たぜ――――んん?」
「んあ?」
だが、開かれたドアからやって来たのは東雲さんではない。燕尾服を着た銀髪金眼の美青年が、まったく見知らぬ人がやって来たのである。
「…………あ、あの」
「……えーっと?」
…………何だ、この気まずい空気は。
燕尾服の美青年はこちらをじぃっと見つめると、首を傾げて尋ねかけてきた。
「お客人が来る予定はなかったはずだけどな」
「いや、その、俺はえっと……東雲さんにその、拉致されたと言いますか」
「…………んー、ひょっとして、お前が『白滝レンコン丸先生』か?」
「すみません、ペンネームで呼ぶのは勘弁してもらえませんか?」
俺の反応で、燕尾服の美青年は得心いったというように頷く。
「そうか、お前があの、犠牲――彩花の玩具か」
そして、こちらを憐れむように端正な横顔を歪めて、ため息を吐いた。
すみません、犠牲者から玩具って全然包み隠されていないのですが、主に残酷な真実とか。
「玩具ではないと信じたい。どうも、芦葉昭樹と申します。えっと、貴方は?」
「俺か? あー、俺なぁ」
がりがりと、気だるく銀の髪を掻き回したかと思うと、「まぁいいか」という呟きの後に、答えてくれた。
「俺は東雲 春尾。あいつの兄ってことになっている、一応」
「お兄さんですか?」
「一応な。血縁関係はないが、そういうことになっている。死にたくなかったら、あんまり深く気にするな」
「なんで即、命の危機に関わってくるんだよ、ここは」
物騒すぎるだろう、東雲邸。
ゾンビが湧き出てくるような洋館レベルに、一般市民が居てはいけない空間ではないだろうか? 生涯で二度と行きたくない建物ランキング第一に輝いてしまったぜ。
「しかし、お前は見るからに平凡というか、よくもまぁあいつに気に入られたな? 普通なら、視界に入らないような塵芥レベルの凡人じゃないか」
「唐突にディスられている件について」
「別にお前を貶めようとしているわけではない。俺はただ、素直な感想を述べただけだ」
「余計に俺の心が傷つくんですが」
「個人的には褒めているつもりだった」
「…………東雲さんのお兄さんだなぁ」
「そういう評価はやめてくれ、俺が傷つく」
「素直な感想を述べただけですので」
燕尾服の美青年――春尾さんは苦虫を噛み潰したような顔で俺を睨む。
うむ、色々と容赦ない所は東雲さんに似ているけれど、東雲さんの数倍は絡みやすい人だな、春尾さんは。東雲さんの場合、イラッとくるとすぐに実力行使するもの。
「前言撤回だ、お前はあいつにお似合いだよ」
「そういうのガチで止めてください、お兄さん」
「将来は義弟になるかもなぁ」
「やめろぉ! つーか、東雲さんが俺相手――人間相手にそんな感情抱くのかよ?」
俺の問いに、春尾さんは鼻で笑って答えた。
「は、肉体が男と女なら、物理的に可能なら、そういうことをされても仕方ない。後、あいつにも普通に性欲があるから気を付けろよ」
「嫌なことを聞いてしまった」
露骨にへこむ俺。
いや、落ち着け俺、大丈夫だ。俺は女性から押し倒されるような容貌じゃない。己惚れるな。そんなことは有り得ない。けれど、もしも自室に案内されたりしたら逃げる心構えだけはしておこう。
「ともあれ、もうすぐあいつも着替えを終えて戻ってくるだろう。それまで、ゆるりとくつろいでおけ。ああ、晩餐は俺が腕によりをかけて作るから、期待しているがいい」
「お兄さんが? 料理上手なんですか?」
「俺は大体、世界で上から三番目ぐらいの料理人だな」
「ははは、それは凄い」
「…………ふん」
てっきり冗談かと思って流したのだが、思いのほか春尾さんの視線が不服そうだ。どうやら、本気で世界で三番目の料理人を自称しているらしい、マジかよ。
「折角だしな。最後の晩餐にもなるかもしれない凡人が居るんだ。最後の飯くらいは世界最高峰の代物を食わせてやる、覚悟しておけ」
「その言い方だと、死の覚悟を強要されているような感じですが」
「俺の料理に感激して、死ね」
吐き捨てるように言い残すと、春尾さんは客間から立ち去って行った。かと思ったら、一旦、戻ってきてテーブルの上のポットを持って行った。どうやら、元々ポットを取りに来たらしい。
「しかし、よかった……東雲さんとこの恐怖の洋館で二人きりとかじゃなくて」
黒服さんは居るかもしれないが、本当に存在しているだけになりそうだし。下手に他の人を探せば、人間以外の存在を見つけてしまいそうだし。
「……犠牲者。玩具。遊び相手。あるいは、さて、俺は東雲さんにとっての何だろうな?」
だから俺は、答えの出ない問いを考えながら、東雲さんを待つ。
思考がオーバーヒートしない程度に。馬鹿の考えのように。休むように、俺はぐるぐると思考を回す。
東雲さんにとっての俺とは何か、を。
あるいは、俺にとって――――東雲さんはどういう存在なのかを。
●●●
覚悟はしていたつもりだった。
ある程度交流を交わしていたから、大丈夫だと思っていた。既にその美貌に成れていたと思っていたのである。愚かしくも、見慣れたと錯覚していた。
「お待たせしたね、芦葉君」
けれど、着替え終わって俺の元へ帰って来た東雲さんは、『美』を超越した存在だった。
身に纏うのは真紅のドレス。鮮血をそのままドレスの形に固定したような、そんな美しくも不気味なドレスである。身に着けた者が東雲さんでなければ、ドレスの迫力に負けて、ただの悪趣味で派手なだけのそれになってしまうだろう。
しかし、東雲彩花の美貌がそれを許さない。
鮮血のドレスでさえ、東雲彩花の美しさの下ではただの修飾に過ぎない。その肌の輝かんばかりの白さを際立たせる物へと型をはめられる。
そして、赤に対して東雲さんの碧眼が、金糸の如きショートヘアが、余計に鮮やかに目立つのだ。それこそ、世界から浮き出てしまうほどに。
「どうだい? ちょっと気合いを入れてみたんだけれど?」
悪戯に微笑む東雲さんのそれは、先ほどまでの『可愛らしい少女』のそれではない。デートを楽しむ女の子ではなく、一つの世界を統べる女王のような、そんな支配者の覇気を感じた。
ただのさりげない微笑みで、俺の全細胞が瞬く間に屈服してしまったのである。
「き、気合い入れすぎだろ……どこの舞踏会に行くんだよ?」
だから、俺が辛うじて狭まった喉から声を絞り出したのは、十秒ほど経ってから。
その圧倒されて、空いてしまった間を特に気にすることも無く、東雲さんは会話を続ける。
「君がお望みとあらば、一緒に踊ってもいいけれど?」
「勘弁してくれ、恐れ多くて、手足が碌に動かねぇよ。それとも、俺をくるくる回して、操り人形みたいに動かしてくれるか?」
「ふふふ、それはいやだなぁ。即興劇のようなこの世界だけれど、せめて、舞台に上がったら自分で動いてもらわないと、つまらないじゃないか」
「……は、そうかよ」
こちらを籠絡しようとしてきた癖に、操り人形を動かすのは嫌なのか。まぁ、そんな奴に書かせた小説なんて面白味もなさそうだから納得だが。
さて、問題はこれからである。
既に身も心も圧倒されて確定敗北状態だが、魂だけは醜く足掻こうと動いている。動ける。ならば、問おうじゃないか。
「それで、結局のところ、お前は俺に何をさせたいんだ?」
「そうだねぇ、んんー」
しばしの間、ケーキ屋ショーウィンドーでも眺めるような顔で悩んだ後、東雲さんは逆に俺へ訊ね返した。
「芦葉君はさ、何のために生きてるの?」
「え? ここにきて、まさかの死ね宣言?」
「いやいや、深い意味は無くて単純な疑問さ」
「……疑問に疑問で返したら、テストだったら不正解だぜ?」
「それ以外の問題を総て正解すれば、少なくとも赤点にはならないでしょ? それとも、その問題はそれだけ配点が高いのかな?」
「いいや別に。精々、二点ぐらいの配点だろうよ」
ふむ、けれども『生きる理由』か。
中学生ぐらいの時に鬱々と考えて、なんか世の中を斜に構えたような答えを言っていたような気がするが、さて、今はどうだろうか?
積極的に、何か夢と言える物があるだろうか?
これこそ、我が生涯の目標、あるいは信念であると言えるものがあるだろうか?
――いいや、何もありはしない。俺は結局のところ、どこにでもいるような量産型な男子高校生になのだから。
だから、返す答えは決まっている。
「俺は、死にたくないから生きているよ、東雲さん」
「何かのため、ではなくて、死ぬのが怖いからかな?」
「ああ、怖い。死ぬのが怖いよ、俺は。だから、生きている」
「ふむふむ、なるほど……それじゃあ、仮に、だ。もしも、ほら、よくある異世界転生のように、死後が『楽しい物』と保証されて居たら、君は死んでもいいと思えるかい?」
「変な質問をするんだな、東雲さん。異世界転生なんてさ、結局のところ、本人じゃないだろ?一度死んでしまったら、どれだけ精巧に記憶が続いても、別人に過ぎないじゃんか。少なくとも、俺はそう思うから、死にたくないよ」
「ふふふ、君はスワンプマンを認めないタイプなんだね」
スワンプマン。
確か、一種の思考実験だったか? ある男が雷に打たれて死んだが、死んだ場所がとある沼の近くだった。しかも、その沼からは雷による超変化によって、記憶も人格も肉体も服装も、全て同一の存在が生まれて、自分の死体に気付かずに死んだ男の代役として生きていく。
さて、この時に死んだ男と泥から生まれた男は――果たして、同一であるか? そんな感じの思考実験だったと思う。
それに対する俺の考えは、『同一ではない』だった。
仮に、魂さえも同じ存在だったとしても、やはり、一度『死』という現象を挟んだのであれば、それだけ同一であれ、別人だと俺は思うのだ。
「なるほど、君にとって死とは、それだけ尊くて、絶対的な物なのか」
「俺にとっても何も、誰にとってもそうじゃないのか?」
「さて、少なくとも私にとっては少しだけ違うが…………ふんふん、死をきっちり見つめている癖に、生に対してはあまり前向きじゃないんみたいだ、君は」
こちらを観察するような視線を向けて、東雲さんは言う。
「生きる理由が見つからないのも、死を怖がって、己の人生が無為に消費されるのを怖がって、けれど、何もできないのを知っていて、それでも死ぬのが怖いから生きていくしかない。そんな矛盾の糸が絡まった自己否定と自己保身の結果だろうね」
「…………つまらない、人間だろ、俺は?」
「いいや、そうでもない」
自嘲する俺の笑みを止めるように、いつの間にか、東雲さんの指が俺の頬を突いていた。
「つまらない人間は、私に勝負を挑んたりしないよ」
「それ、は……」
「あのさ、芦葉君。君は色々と難しく考えて動けないでいるみたいだけれど、おまけに、とことん自己評価が低くて、何もかもが駄目だと思っているみたいだけど」
頬を突いていた指が俺の顎をなぞり、ぐい、と少女漫画のワンシーンの様に俺の顎を引く。
おい、男女逆じゃないか、これ? などと思ったが、逆は想像すらできないので、これが唯一の世界かもしれない。
などと、現実逃避気味に思考に逃げる俺へ、鋭く東雲さんの言葉が放たれた。
「私に挑んているという現状は、君の生きる理由にならないのかい? 私に勝ちたいという想いは、人生における信念にはならないのかな?」
鋭く、冷たい刃で胸を刺しつかれたような気分だった。
私に挑戦するのならば、勝利を望むのならば、人生の一つでも賭けてみろ、と言外に言われているような気がした。ああ、本来ならそうだろう。そうするべきだ。凡人が天才に勝利したいのであれば、その生涯を一つの熱情で焼き尽くすほどでなければ。
でもおれは、そんな選択ができるような人間では無くて。
たった一つの熱情に人生全てをくべるような決断も、出来なくて。
「俺は、そんな上等な人間じゃないよ」
結局、何時もの如く自虐に逃げてしまうのだ。
「勝ちたいと思った。挑戦しようと思った。面白い物語を書きたいと思った。けれど、そのために命を使い切るなんて、怖くてできそうにもない。でも、怖い癖に他にやりたいことも無くて。ただの日常に埋没するしか出来なくて、俺は、本当に……俺が情けないと思うよ」
物語の主人公であるならば、迷わず言うべきだ。
仮にも、挑戦を宣言したのならば、戦うべきだ。
例え、己の命を焼き尽くしたとしても。
それが出来ないのは、俺が俺を信じていないから。勝ちたいと願いつつ、『何をやっても勝てないんじゃないか?』という思考を振り切れず、ただ絶対的な才能へ挑戦しているという現状に酔っていただけ、なのかもしれない。
「ふぅん。つまり君は自分が信じられなくて、だから己が何かに成れると思っていない。何事も何遂げられないと思っている。それを自覚してなお、生きたいと思っている。なんとか生きようと思っている。なるほど、私の誘惑に靡かないわけだ。君は君自身を常に否定して、否定することで保身を得ている人間なのだから」
淡々と述べられる東雲さんの言葉が、無機質に俺の精神を切り刻む。
観測による、反論の余地もない事実が、何度も何度も、俺を切り刻んで、勝手に死にそうになってしまいそうだ。死ぬのは怖いから、死なないけど。
「簡単に言えば、君は迷っているんだな。自分というリソースを、どう使おうか迷っているんだ。うん、安心したまえよ、芦葉君。なんだかんだ言ったが、君の悩みは思春期における人間のよくある思考だ。何も特別じゃない」
「……そう、かよ。まぁ、知っていたけど」
期待していたわけではないが、断言されて俺は思わず顔を俯かせそうになって、顎を引かれていてそれが出来ないことに気付く。
しかも、それだけではない。顎から手が離れたかと思うと、今度は東雲さんの両手が俺の手を固定して、離さない。
俯かせず、俺の視線と東雲さんの視線が絡み合うように、きっちりと固定している。
「君は総体的にみれば、特別な人間じゃない。けれど、君が生み出す作品は、私にとって特別で唯一だ。だから、君の人生というリソースは私にとって特別だ。君が君を信じられないのなら、私が断言してあげよう――既に君自身が、私に『見つかってしまった』何かに成れているのだと」
「何、を」
「ふふふふ、ねぇ」
口づけでもするように、東雲さんが顔を近づけて、己の息が触れ合った。俺の唇が震えて、碧眼が俺の視界を塞ぐ。
もう、東雲さん以外、何も見えない。
「芦葉君。命の使い道が分からないのなら、私が貰ってもいいかな?」
碧眼から放たれる視線が、紡がれる言葉が、俺の心を飲み込もうとしていた。
このまま、何も考えずに流されることこそが至上であると、俺の本能が屈服してしまっている。けれど、一言、時間稼ぎだとしても、俺は言葉を吐き出す。
「何を、言っている?」
「ふふふ、それはね――」
東雲さんの言葉は最後まで続かなかった。
なぜならば、その言葉を遮るようにして、ドアを開く音が。反射的に肉体が唾液を分泌してしまいそうな、かぐわしき香りが室内に漂ってきたのだから。
「そこまでにしておけよ、妹様。食事の時間だ」
東雲さんの言葉を遮ったのは、料理を乗せたお盆を片手に持ってきた春尾さんだった。春尾さんは東雲さんに対しても物おじせず、淡々と意見を言っている。
「どんな結末になるにせよ、良い思いの一つでもあった方が救いになるだろう?」
「ふふん。そこら辺は私からのサービスで補おうと思ったのだけれども?」
「勘弁してやれ。お前の相手は、思春期の凡人には辛いものがある」
「……ま、あ。ここは兄上殿の顔を立ててあげようか」
吐息と共に片目を瞑り、東雲さんは多少不服そうにだが、春尾さんの意見を認めた。
恐らく、俺の寿命のようなものが、僅かなりとも伸びたような気がする。誇張でも、例え話でもなく、先ほどのやり取りは、それだけの緊張を俺へ与えていたのだ。
「すみません、春尾さん。食事の準備をしてもらってなんですが、もう色々と胸がいっぱいで、食欲が無いんですが」
「安心しろ。俺の食事を目の前にすれば、半死人でも食らいつく」
「…………わぁい」
心を落ち着かせるために、食事を辞退して白湯を啜っていたかった気分だが、それは出来ない相談だったようだ。それと確かに、目の前に運ばれた料理は確かにこんな状況でも、食欲をそそらせる。つーか、さらっと出されたけど、この料理――きんぴらごぼうの癖に、めちゃくちゃいい匂いするのですが。ごまと醤油のかぐわしいコンビネーションというか。
「最後の晩餐になるかもしれないからな。味わって食べるといい、芦葉昭樹」
「嫌なことは言わないでくださいよ、春尾さん」
「そうそう、そんなもったいないことを私がすると思うかい?」
「…………」
「…………」
俺は無言で箸を取り、春尾さんは無言のまま部屋から退出していく。
イエスだろうがノーだろうが、反応したらアウトのような気がしたからだ。
「ひどいなぁ、君たちは」
拗ねたように東雲さんが唇を尖らせるが、その可愛らしさですら今の俺にとっては毒であるので、黙してスルー。
さて、これが最後の晩餐にならないことを祈りつつ、食事を楽しもうか。
●●●
結論から言えば、春尾さんの料理は絶品だった。
俺は和食のフルコースという物は初めて食べたが、なんというか、別格だった。あれは普段食べている料理とは格が違っていた。食べれば食べるほど、今まで刺激されていなかった味覚が解放されて、まさしく天にも昇るような気分になってしまう。
ああ、今ならグルメ漫画の過剰リアクションだってできてしまいそうだ。春尾さんが世界で三番目の料理人を自称したのも、今ならば納得できる。
あれこそまさに、『世界』を感じさせるに相応しい料理だ。
和食であるというのに、とことん日本の料理技法を凝らした料理だったというのに、感じたのは懐古ではなく、未知なる世界だった。新たな世界が、俺の中で一つ、広がってしまった。
そんな感動薄れぬ今なら、今だからこそ、言えるかもしれない。
そう、
「生まれて来て、良かった。これからも、頑張って生きよう――――ごちそうさまでした」
全身全霊での、真の意味での『こちそうさま』を。
生を食らい、自らの糧にするという行為に対する喜びと感謝を!
「…………ちぇいや」
「めそっぷ!?」
人が感動していたら、何故か東雲さん俺の脇腹を突いてきた。
くそう、いきなり何をするんだ、東雲さん。さっきの料理を吐いてしまったら、うっかり床を舐めてでも、胃袋の中へ戻したくなるレベルで感動していたんだけど、俺。
「人が丁寧に屈服させようとしていたのに、ご飯食べたら完全回復とか……君って、随分と安っぽい精神なんだね、芦葉君」
「はははは、ありがとう東雲さん、褒め言葉だぜ」
にこやかに不機嫌な東雲さんであるが、今の俺ならば逃げ出さずに、俯かずに相対できる。そう、春尾さんの料理で英気を養った俺ならば。
大丈夫、きっとどんな困難だって突破して行けるさ!
だって、基本的に俺ってば凡人だから、心が挫けても、良いことがあればあっさりと回復できるし。折れるべき信念とか、まだ存在していないからね。
「…………むかつくなぁ」
「ふはははは! やーい、東雲さんの凡人知らずぅ!」
「…………えい」
気づくと俺は、呻き声を上げることすらできずに床で這いつくばっていた。
どうやら東雲さんの何らかの体術によって、瞬く間に地面にキスさせられてしまったらしい。やれ、東雲さんに実力行使を使わせた俺の煽り術を誇るべきか、現状の絶望を嘆くべきか。というか、妙に体に力が入らなくて動かないんですが、どうしよう?
「無駄に元気になられると面倒だから、このまま連れて行くよ。兄上殿は、食事の後片付けを。黒服はそこから動くな。これから、大切なことをするからね」
「あー、わかったよ、妹様」
東雲さんの言葉に、春尾さんは気だるく応え、黒服さんはそのまま動かない。
そして俺は、何かの体術の応用なのか、東雲さんの華奢なはずの体に、その頼りなさげな方に担がれるままに、何処かへと運ばれていた。
「まさか、こんな形で君を私室に連れてくるとは思わなかったよ」
「俺も、こんな形で、連れてこられるとは」
薄暗い廊下を抜けた先の突き当り。そこには、黒いドアが一つ、ぽかんと周囲に浮くようにしてあった。なんというか、特にプレートも無いのに、ここだが特別なのだと、分かってしまうような奇妙な間取りだ。何せ、このドアの周囲はT字型の行き止まりになっていて、他には何もない場所なのだから。
「はい、どうぞ」
「え、あ――――うわっぷ!?」
ドアを開けて入室したかと思うと、いきなり俺は放り投げられた。女子の華奢な腕で。片腕で。まるで俺をぬいぐるみかのように、あっさりと放ったのである。
「ら、乱暴な……」
狙い通りなのかは知らないが、俺は部屋の中に置かれていたベッドの上へ、仰向けに倒れるように落ちていった。
随分乱暴なやり方ではあったが、落ちた衝撃の所為なのか、倒されてからの妙な脱力は抜けて、今は自分一人で何とか体を起こすことができる。
「見てくれよ、芦葉君。ここが今の私にとっての、プライベートルームさ」
そして、体を起こしてしまったからこそ、一度、仰向けに倒れてしまったからこそ、この部屋の異常さを理解できてしまった。
床には古今東西、あらゆる『絵』を描くための道具が散らばっていた。
絵筆や絵の具にキャンパス、食パン、木炭などと言ったアナログな画材から、ノートPCやペンタブなど、最新式のデジタルの物まで。
加えて、床以外の面には……天井も含めて、出来上がった『絵』が貼り付けられている。
ただ単純に、技術として上手いのではなく、見る者の魂へ直接絵のテーマを刻み付けるかのような、そんな魂が照らされるような鮮やかな絵に、俺は囲まれていた。
「だから、君なら分かるだろう?」
東雲さんの問いかけに、俺は呆然と頷く。
分かるとも、ああ、俺だからこそ分かるとも。
――――この壁に貼り付けられた絵は全て、俺の作品を表現した物だと。
「いろんなことを言ったけど、君の短編小説が好きな事だけは、本当に真実なんだって」
俺が考えた主人公が。
俺の脳内で描いた情景が。
俺が苦しんで見つけた、物語が。
全て、俺以上の精度を以て、俺の物語を彩っていた。これは、俺を囲むこの絵たちは、そういう存在だった。
原典ならざる者によって描かれた、原典以上の作品だった。
「だからこうやって、君の作品に触れた後は、自分なりのその感情を昇華して形にしているんだ。どうかな? 原作者様のお眼鏡には適う出来かな?」
「そんなの、そんなの――――っ!」
言葉が出ない。出るわけが無い。
今、俺は…………無数の敗北によって囲まれているのだから。逃げ場が、無い。
「さぁ、もう一度ここで宣言しておくれ、芦葉君」
逃げ場がないというのに、絶望は足を止めることなく俺へ歩み寄る。
「私に勝つと。私に勝って見せると。挑戦するのだと!」
「う、うぅ……」
熱に浮かされたような東雲さんの言葉に、俺は呻き声しか出せない。
何が、完全回復だ。何が、生きる喜びだ。そうだ、俺は凡人に過ぎないのだから、良い出来事すら塗りつぶす絶望があるのなら、当然、膝を折る事しかできない。
「私は知っているよ? 君には才能が足りない。君には努力が足りない。君には想いが足りない。君には何もかもが足りない。不足だらけの創作者であると」
「…………っ」
もはや、呻き声すら出ない。
ただ、今にも俺へ食らいつきそうな迫力の東雲さんに、言われるがままだ。
「だがもしも、『それでも』先へ進みたいと願うのならば」
言われるがまま、されるがまま、俺は東雲さんへ押し倒される。
狂った笑みを浮かべた東雲さんが、捕食者のように俺を押し倒し、言葉を続ける。
「君の覚悟を示したまえ」
「…………かく、ご?」
「そう、覚悟だよ。君には何より、それが足りない。いいや、それだけが足りない。それさえあれば、他の全ては後からついてくるだろうさ」
何だ? 何を言っているのだ、東雲さんは。そんなわけ、ないだろう? 覚悟があれば、それでいいなんて。
だって、いくら覚悟をしたところで、俺の作品は東雲さんのそれには勝てない。
人は、覚悟をしたところで科学の恩恵も無しに空を飛ぶことはできないのだ。
「芦葉君。今君は、覚悟があったところでどうにもならないと思っただろう? 違うんだ、違うんだよ。それこそが、その決断こそが、君には必要なんだ。そう、例えば」
だが、その事実を知っている俺へ、東雲さんは囁きかける。
「――――命を賭けてみる、とか」
俺の現実を、日常を溶かさんとするような、甘い囁きを。
「ば、馬鹿言うなよ? 命を賭ける? 文字通りの意味で? 創作活動で? はは、それが出来れば、そんな熱情があれば、俺は――」
「違う。たった一言、私に誓えばいいだけだ。その場限りの熱情でも構わないんだ。流されてもいいんだ。ただ、それだけ言えばいい……『命を賭けて、戦う』と」
「…………なん、だよ、それ?」
囁きかける東雲さんの口元が、三日月に歪む。
「勝負は簡単だ。君が私を屈服させる作品を書ければ勝ち。書けなかったら負け」
「ふざ、けるな……っ! そんな、生殺与奪がそっちに任された勝負なんて!」
「でもさ、分かるよね、芦葉君なら。君を殺して得することなんて、私にはないってことを」
「……ぐ、う」
「私は他の塵芥どもと違って、君のためなら君を殺してあげられる存在だって」
何を言っている? 何を言っている? 何を言っている!?
こいつは、東雲絵彩花は何なんだよ、一体!
「君が人生の使い方に迷っているのは、失敗したら終わらせてくれる人がいないからだ。失敗して、敗北した後も人生が続くことに耐えられないからだ。なら、私がそれを為そう。私が君の人生に責任をもって、終わらせるべき時に終わらせようじゃないか」
「何を、ふざけたことを……っ! いい加減に、し、ろ――――」
「いいや、私は絶対に引かない。どんな無理をしようとも、無理をさせようとも、無理やりだとしても、君には私に挑んでもらう」
爪が、俺の頭皮に食い込むほど力強く、東雲さんが俺の頭を掴む。
「読みたいんだ! 私は君の作品が読みたいんだ! 世界中の誰でもない、君の作品が! 君が命を賭けた、『生涯最高傑作』が読みたいんだ! ああ、それが読めないなんて私は認めない! 認めてなるものか! 君が現実に敗北して、それが読めなくなる未来なんて認めない!」
それは絶叫だった。
それは慟哭だった。
俺の作品を愛する存在が、俺の作品を求めているだけの声だった。
俺以上に、俺の作品を愛してくれる、そんな声だった。
「頼むよ、なぁ、頼むよ、芦葉君。芦葉昭樹君。私は、今の私は、東雲絵彩花は、君の生涯を賭けた最高傑作を読むために存在しているんだ。君がそれを読ませてくれるなら、そう、私は何だってするよ。君が私を下したら、私という存在を好きにしてもいい。犯しても、殺しても、愛してもいいんだ。君が望むなら、この世界だって包装紙に包んでプレゼントするからさ」
だからさぁ、と剥き出しの感情の声で、東雲さんは言う。
「私のために、命を使ってくれ」
あまりにも身勝手で、傲慢で――しかし、縋りつくような言葉を。
よく見れば、東雲さんは俺以上に追い詰められていた。歪んだ三日月の笑み、その唇の先は震えていて、俺の頭を掴む力は既に緩んでいる。
その様子はまるで、親から離れるのを拒む幼い子供の様で。
だから、だからかもしれない。
東雲さんが、そんな顔するのが俺は何故か耐えられなくて。俺の作品を、ここまで渇望してくれることが嬉しくて。
よくわからないけれど、そのためになら死んでもいいと思えたから。
「良いだろう、東雲彩花。俺は、芦葉昭樹は、お前のために命を使おう」
覚悟なんてまるで足りなかったけれど、それでも、踏み出してしまったのである。
観念してしまったように、絶望の、その先へ。
「俺はお前のために、お前を下すために生涯最高傑作を書いてやる。もしもそれが、つまらなかったら、己で凌駕できると思ったのなら、その時は俺を殺せ」
「…………あ、あ、え、本当?」
幼子のように表情を崩して、東雲さんは俺へ確認する。
その場限りでいいと言った癖に、今まで余裕ぶった振る舞いだった癖に、信じられないように俺へ問うのだ。
だから、今ならば前言撤回が可能だろう。でも、さすがにそれは格好悪すぎて。それ以前に、既に俺は諦めてしまっていて。
「本当だ、真実だ。俺は、覚悟は無いが、諦めて決断してしまった。だって、お前さ。そんな風に頼まれたら、そんなに俺の作品を愛されたら、断れないじゃんか」
「…………あ、ああ」
東雲さんは、今度こそ破顔した。
笑みを崩して、引きつったような泣き顔で、けれど、今までに見たどんな時よりも美しく、涙を流して。
「ありがとう、芦葉君」
そのまま俺にのしかかるように、東雲さんは抱き付いてきた。
強く、強く、そのまま絞め殺すように。
東雲さんは、体全体で俺へ激情を示していた。
「どう、いたしまして」
けれども、俺は知っている。
その激情は好意であっても、愛じゃない。東雲彩花が愛しているのは、俺では無く、俺が生み出す作品で。
俺もまた、東雲彩花に恋して決断したわけじゃない。
『だから、できればこの言葉を『どうしようも無くなったとき』に思い出せ。いいか? 奴の本質、それは――――』
今更になって、隼人先輩の言葉を思い出す。
どうしようもないことになって、後戻りのできなくなってから、その言葉の先を思い出す。
『悪魔だ。徹頭徹尾己のために、人の魂すらも契約によって奪い取ろうとする――そういう怪物だよ、あいつは』
まさしく、隼人先輩の言葉の通りだ。
俺は言ってしまった、契約してしまった。
命を賭けた約束を、交わしてしまったのである。これは運命の如く逃れる術はなく、必ず履行される契約であり、破ることなどできはしないだろう。
けれど、それでも俺はこれでいいのだと思う。
後で死ぬほど後悔したとしても。
あのまま、天使のような東雲さんに騙されて、生温い日常の中で、情けなく東雲さんの期待を裏切るよりはマシだろうから。
生きる理由もわからず、死んだように生きるよりは、大分マシだろうから。
だから――――冴えない俺に天使は要らない。
俺の隣に居るのは、悪魔でいい。