第2話 天使が地上に降りたなら
東雲彩花について、この一週間で分かったことを語ろう。と言っても、ほとんどクラスの人間から間接的に訊いて調べたことばかりなのだが。
まず、彼女は両親の都合で、世界中を転々と回っていたらしい。彼女の両親がどんな仕事に就いているかはさっぱり分からないが、その影響で彼女は多種多様の言語を齧っているのだという。少なくとも、英語はネイティブレベルで会話可能と言っていた。
この片田舎にやって来たのも両親の都合らしく、どれくらい長く留まっていられるのかも分からない。卒業までずっと居るかもしれないし、一年程度で居なくなるかもしれない。あるいは、三か月程度でまた転校ということもあり得るのだとか。
だから、限られた時間の中でより多くの経験を積めるように、学業に努めていく。
それが東雲彩花の学校における方針だ。少なくとも、転校初日ではそんなことを語っていたと聞いている。
だが、東雲彩花にとってこの二海市立第一高等学校での生活が、どれだけ経験値としてカウントされるのかははなはだ疑問な所だろう。なぜならば、彼女は明らかに、こんな田舎高校に留まるには不相応な人物だからだ。
まず、絶対的な美しさは見る者を圧倒して。
さらには海外で、何か有名な芸術関係の賞を取るほどの才能があり。
女子でありながら、男子を優に凌ぐほどの運動性能を持っている。それこそ、体育のテストの短距離走で飄々と、陸上部のエースの最高記録を破ってしまうほどに。
理不尽だ。
理不尽なほどに完璧な超人だ、東雲彩花は。
それでいて、周囲を納得させてしまうようなカリスマも持っているのだから末恐ろしい。既に転校してきたクラスの中心は東雲彩花であり、段々と学年の中心になるまで求心力を高めていっている。学校の中心的な存在になるまで、もはや時間の問題だろう。
そんな東雲彩花に対して、学校の人間のリアクションは二つに分かれる。熱狂と、不干渉だ。
前者は、熱心な信者のように彼女の周囲に侍るようになってしまう。彼女に声をかけて貰えたのなら、その日一日は何があっても幸福感が途切れることは無いだろう。
後者は、彼女の超人さ、カリスマを理解し、その上で離れていく。その大きさと完全性を理解できるからこそ、恐怖を抱いて関わらないように努める。
そして、俺は迷うことなく後者側の人間だった。
あんな恐ろしい存在に関わってたまるかと、頼まれもしないのに遭遇を回避して、初日の邂逅以来、挨拶一つ交わすことすらなく現在に至っている。
仮に、これがライトノベルやジュブナイル小説の主人公の行動であったのならば、それは非難されるべき行動だろう。分かっている。何故なら、主人公と美少女が出会わなければ物語が始まらない。美少女から逃げ回って、一度も関わらない主人公なんてヘタレだ。屑だ。玉を切り落とされても文句は言えないだろうさ。
だが、東雲彩花がヒロインの物語があったとして、ああ、断言しよう。
俺のような人間では、主人公足りえない、と。明らかな役者不足であり、主人公を気取ろうとすれば手痛いしっぺ返しを食らうのが関の山という奴だ……もとい、気取るつもりも無い。
あれは人の形をした理不尽だ。
嵐のような存在だ、災害だ、恐ろしい。俺たちのような凡骨以下では、頭を低くして過ぎ去るのを待つしか手段は無い。
さて、東雲彩花という美少女の恐ろしさを充分に理解してもらった上で、まとめに入ろう。
この一週間で、俺が東雲彩花について分かったこと、それを一行に纏めたとすれば。
『触らぬ神に祟りなし』
この言葉に尽きる。
だから、俺はこれからも東雲彩花に関わらず、平穏で退屈な学校生活を過ごすことになるだろう。
――――触らぬ神が、気まぐれを起こさなければ。
●●●
「独白が長い」
イケメンボイスが、俺の心を一刀両断した。
「序盤からこんなにだらだら独白を入れてどうする、馬鹿か。設定の説明を長ったらしくするんじゃない。会話の中に自然に織り込むぐらいして見せろ。というか、途中で設定の矛盾点があったぞ、馬鹿。主人公の信念が途中からぶれるし。あ、成長とか言うなよ? 読者に成長と分からない変化はただのブレだ。言い訳するなよ? 後、最後にラスボスが可愛そうになって助けるルートを作るんじゃない。きっちりぶち殺せ。ここはなぁなぁで済ませて良いシーンではない。決着と決別を書くべきだ」
一刀両断された心が、さらに細かく刻み込まれる。もはや、死体蹴りというレベルでは無い。死体でサイコロステーキでも作るのかと訊ねたくなるほど、滅多切りだ。俺の心は既に再起不能を通り越して、輪廻転生してしまっている。精神的ダメージが一周回って、何とか泣かないで済んでいるような物だ。
「以上の理由からお前の長編小説は面白くなかった。ボツ。一次選考も通らないぞ、これ」
「あおーん! あおーん!」
「遠吠えのように泣くな、喧しい」
転生を繰り返し、ついに涙を流してしまった俺である。
俺は両手で顔を覆い、そのままがっくりと教室の床で膝を着く。覚悟はしていたが、やはり辛い。やはり、元部長の辛辣な評価は心が折れてしまう。
「ぶ、部長……できれば、もう少しお手柔らかに」
「もうお前が部長だろうが、芦葉。後、馬鹿げたことを言ってんじゃねーぞ、馬鹿。お前は改善できる点があるのに、そこを指摘されずに甘ったるい言葉で誤魔化された方がいいのか? ああん?」
「う、ぐ」
イケメンボイスの正論にぐうの音も出ず、俺は目を伏せる。
目を伏せたまま、それでも辛うじて声を絞り出す。
「それは、嫌です」
「はん、だったらもう少しまともに推敲してこい……次は最低二回、全文書き直してからな。そうでもしなけりゃ、お前の長編は面白くならないぞ」
イケメンボイスで俺の心を完膚なきまでに叩き負った、元部長。
彼の名前は神代 隼人。
無駄にかっこいい重低音の声を持つ、小太りでカエル顔の先輩だ。そして、俺よりも書く小説が面白く、他者の批評、アドバイスも出来て。さらには自分が中心となって、同人誌や同人ゲームの製作を成功させた実績もある、超優秀なオタクなのだった。
「うががが……長編を二回オール書き直しとか……きっつい」
「プロは最低限、その程度はこなすぞ? それに加えて、校正作業も入ってくるんだ。面白い長編を書くなら、本当にその程度は最低限だぞ、芦葉」
「うへーい」
時間帯は放課後。
俺は部活に行く前に、三年生の教室で隼人先輩から小説の添削を受けていた。
これは俺が望んで隼人先輩に頼んだことなのだが、やはり予想していたとはいえ、この先輩の批評はきっつい。聞く者の心を容赦なく折りに行っていると思う。ただでさえ、書いた小説をがっつり指摘されるのは、内臓を鷲掴みにされるような気分になるのだから。
「まったく、お前のセンスは悪くないってのに、飽き性の所為で途中から手を抜いてやがるな? つまらない点を見つけても、『これでもいいか』と妥協しやがって。あからさまに後半からだれてきているじゃねーか」
「うぐ」
「今度、俺に長編を見せてくるときは『自分が面白い』と思える物を持ってこい」
「は、はひぃ」
隼人先輩の公開処刑がやっと終わった。
いや、自分で頼んでおいて『やっと終わった』は無いだろうが、もう心が限界だったのだ。三年生の教室で泣いてしまいそうだったのだ。まだ教室には他にも人が残っているというのに。ううう、しんどいよぉ。
「…………で、芦葉。ここからが本題なわけだが」
「先輩、隼人先輩! 俺の、俺の心を殺し尽すおつもりで!?」
「馬鹿言え、そんな面倒な真似するものか。つか、安心しろ。今度は同人誌に収録する予定の、お前の短編の話だよ」
「ああ、なんだ、あれですか」
これ以上の追撃が無いと分かり、ほっとすると同時に拍子抜けする。
隼人先輩は見どころのあるアマチュアの作品を集めて、自分の同人誌に作品を乗せて宣伝したりしているのだ。もちろん、ただの善意からではない。見どころのある若者にチャンスを与えると同時に、今のうちにコネを作って置く目的もある。
依頼されるアマチュアの方も、知名度が高い隼人先輩のサークルの同人誌に乗れるのであればと、ほとんどが喜んで話に乗るのだとか。
ただ、同人誌に乗せられる作品は隼人先輩の厳しい監修を抜けなければならないので、割と狭き門であったりもするのだ。
「一応、オッケー貰っていたと思いますけど、なんか修正点見つかりました?」
「いいや、あれで問題ない。本題というのは、もう一本、短編を書いて同人誌に乗せてみないか? ということだ」
「……ふむ? まぁ、別に大丈夫ですけど」
俺は顎に手を当てて、疑問に思う。
隼人先輩から、後輩枠として短編での同人誌収録権を貰っている俺であるが、大抵の場合は一本限り。あるいは中編で一本。短編を二本乗せてみないか? というお誘いは初めてである。何かあったのだろうか?
「あ、誰か都合によって作品を乗せられない人が出ましたか?」
「違う。その場合は、違う奴に話をかける……お前にもう一本書いてみないかと誘ったのは、単にお前の短編を望む読者の声が多かったからだ」
「ふーむ?」
隼人先輩の言葉で、さらに俺の疑問が深まる。
俺は今まで新人賞に応募しても、一次選考すら通らなかった才能無しだ。それなのに、何故、短編は評価されているのだろう? いや、どこかの新人賞に短編を送ったことは無いが、そこまで長編と短編で作品の出来が違ったりするものだろうか?
「……お前と言う奴は、本当に……どうしてあんな長編を堂々と出す癖に、己の短編の出来に疑問を持つんだか」
「や、だって短編ってあんまり好きじゃないですし、俺。それに、どう見積もってもそこまで話題になるほどの面白さじゃなかったですよ?」
「まぁ、確かに。短編の方は商業クラスぐらいの完成度はあったが、確かにそれだけでこんなに反響があるのは珍しい。お前の作品はどちらかと言えば、読者よりも作者に好まれる玄人向けだからな」
「そーなんですか、へぇ」
書いて先輩に渡したら、それっきりだから知らなかった。
や、確かに小説の感想とか貰えたら嬉しいけれど。でも、短編だしなぁ。一応、自分で面白いだろうという水準の完成度に書き上げたけれど。
短編だから納得いくまで書き直しを繰り返したけれど。
そんな一定層の人気を得るぐらいになっているとは思わなかったわ。
「これはお前も知っている事だと思ったがな。ほら、前の同人誌に収録した『透明な殺意』。あの短編、超大御所サークルの一人からコミカライズしたいと要望があっただろ? つか、お前に伝えて、確認を取ったぞ、俺は」
「オッケー出しましたけど。その時は奇特な人も居るもんだと」
確かコミカライズして、とあるイラスト投稿サイトに投稿したいとかという要望だったと思う。俺の作品の著作権などゴミ同然なので、当然の如く二つ返事でオッケーしたのだが。
「…………そのコミカライズされた作品、お前は見たか?」
「オチが分かっている短編って、進んで見ようと思わないですよね? それが俺の書いた作品なら尚更」
「お前と言う奴は本当に短編に、己の短編に興味がないな! ええい、メールで作品のURLを送ってやるから見ておくがいい。それを見れば、理由は分かるはずだ」
「はぁ、そうですか」
つまりその人の作品が凄くて、その人の威を借りるような形で元ネタの短編も人気が出たというわけだったか、なるほど。
「――は、見る前から分かったような面をしているな、芦葉」
「…………ま、大体予想は付く話じゃないですか」
「さて、どうだろうな?」
隼人先輩はカエル顔の癖に、狼のような獰猛な笑顔を俺へ向ける。
「お前が思っているよりも、お前の作品は周りに影響を及ぼしているぞ」
「…………長編は?」
「お前の短編に比べたら、長編はゴミだ。感熱紙の束は捨てる前に、適度にカットしてメモ帳として活用するがいい」
「ひでぇ!」
自分の作品を褒められつつ、貶されるって新鮮な心の痛みだぞ、これ! なんか新境地! これでマゾに目覚めたらどうしてくれるのだ、先輩。
「ふん。ともあれ、お前は駄目な部分はとことん駄目だが、それ以外の部分はそれなりだ。前部長である俺が、お前が部長であることを認めている程度には、それなりだ」
「…………」
辛辣な事を言ったかと思えば、次の瞬間には真剣にこちらの目を見据えてくる。
これだから、ああ、これだから隼人先輩には敵わないのだ。
「少しは自分に自信を持て。俺が評価している程度には、な」
「ええ、まぁ、善処はしてみますよ」
自分に自信か……果たして、そんな物を持つことができるのだろうか? 俺はどこにでも居るようなつまらない人間で、きっと成長してもうだつの上がらないまま、退屈な人生を過ごしていくのだと思う。
けれど、何か一つ。そう、何か一つでも己の意思で成し遂げて、満足できたのならば、あるいは? いや、どうだろうか。
「これでも、部長ですからね」
自信なんて物を俺が持てるかは分からない。
分からないが、それでも俺は僅かな責任感を持って答えた。願わくば、この言葉に重みが生まれるような、そんな生き方をしたいと思う。
●●●
三年生の教室から部室へ移動すると、奇妙なことに後輩二人が部室の前で右往左往していた。
おかしいな、きちんと高橋に部室の鍵を渡してから隼人先輩へ会いに行っていたというのに。何か問題でも起きただろうか?
「おい、後輩ども。何か問題でも起きたのか?」
「あ、先輩、先輩、芦葉先輩ぃ!」
「せーんぱい! せんぱいぃいいいいっ!!」
「近い近い、近寄るなぁ! まず落ち着いて下がれ、特に姫路ぃ!」
後輩二人は俺を見かけると、瞬く間に俺へ縋りついてくる。止めて欲しい、高橋ならともかく、女子の姫路にパーソナルスペースに踏み込まれると嫌な汗を掻いてしまうのだ。
「落ち着け、落ち着け、二人とも……一体、何があった?」
俺が二人と何とか宥めると、二人は我に返ったようにテンションを下げた。けれど、そわそわと何か落ち着かないようで、視線が泳いでいる。
「ひ、人が……文芸部の部室に人が……」
「なんだ、高橋。幽霊部員の誰かでも来ていたか? 別に驚くことは無い、奴らは幽霊部員ではあるがきちんと所属している――」
「違います、芦葉先輩! わた、私たちは見たんです! その、部室に天使様が居るのを!」
「天使様ぁ?」
姫路が何かとち狂ったような戯言をほざいている。一体、天使様がなんだというのだ。そういう宗教でもあるのかよ、まったく。
いや、しかし…………何処かで効いたことがあるようなフレーズだが……思い出せんな。
「やれやれ、要領を得ないな。とりあえず、俺が部室の様子を見てやるから」
「お願いします、芦葉先輩!」
「骨は私たちが拾います!」
「死なねぇよ、こんな田舎高校の部室で即死トラップなんて存在してたまるものか」
後輩たちの声援を受けながら、俺は部室の扉に手をかける。
これが異能バトルやホラーなら、俺が第一被害者確定の流れであるが、どうだろうな? 死亡フラグっぽい物を立ててみたが、生憎、俺の現実はどこまで言っても退屈な現実だと理解している。
だからきっと、文芸部幽霊部員の中で、ちょっと頭のおかしいリストに載っている奴が変なコスプレでもしてやって来たのだと、そう思っていた。
「やぁ、芦葉君。お邪魔しているよ」
部室の扉を開いた先に、美少女が佇んでいなければ。
「…………」
俺は無言で扉を閉めて、一息吐く。
そして、先ほど脳裏に刻まれた映像を脳内で再表示。うん、金髪碧眼の天使が地上に降りて来たら、こんな感じだろうな、という感じの美少女だ、うん。
…………そういえば、天使様って東雲彩花に対する呼び名の一つでもあったな。直接名前を呼ぶのは恐れ多いから、天使様、とかあのお方とか、金髪碧眼の君とか呼ばれていたりするんだっけなぁ。
はい、それで現実に意識を戻しまして、と。
「おいおいおい、後輩ども。これは一体、どんなドッキリ企画だよ? 先輩を驚かせるのも大概にしろ、心臓止まるかと思ったわ。さぁ、俺はもう驚いたぞ、カメラはどこだ?」
「落ち着いてください、先輩ぃ! 俺たちは何も知りませんっ! 部室の鍵を開けたら、いつの間にか中に居たんですぅ!」
「びっくりイリュージョン! びっくりイリュージョンだったんですよぉ!」
どうやら後輩たちの仕込みでは無かったようだ。
となると、本格的に訪問の理由が分からない。鍵のかかった部室の中で待ち構えている意味も分からない。ええい、今までは人が集まっている所にしか東雲彩花は出現しなかったから、この手のエンカウントはまるで想定していなかったぜ。
「仕方ない、ここは俺が対話を試みてみよう。後輩ども、お前らは安全が確認されるまで部室の外で待機しておけ」
「なんか凄い危険人物に対するリアクションみたいですけど、残当ですね!」
「私たち、柔道ではそれなり強いだけど、あの人にはまるで勝てるイメージが無いのです」
「気配からして人間か怪しいよね?」
「数馬のお爺さんとか、武術を極めた人に近しい、清廉だけど凄みを感じる気配……ううん、あるいはそれ以上……」
「お前等、俺の不安を煽るのはやめろ」
この後輩二人が此処まで怯えるのは珍しい。ガラの悪い先輩に絡まれても、笑顔でスルーするほどの胆力の持ち主なのだが……そこまで東雲彩花が異常ということだろうか。
まぁ、なんにせよ、だ。
部長として、勝手に部室に入ってきている生徒を前に逃げ出すわけにはいかないか。少なくとも、隼人先輩なら臆さず部室へ入っていくだろう。
「…………っし!」
気合いを入れ直して、部室の扉を開く。
開いて真っ先に目に入るのは、悠々とこちらに微笑みを向ける東雲彩花の姿だ。正直、この時点で辛い。女子に笑顔を向けられるだけでも辛いのに、それが美少女の頂点みたいな存在相手だと、しんどい。見えない圧力で魂魄が砕けてしまいそうだ。ただ、美しさが極まった存在というのは、そこにあるだけでここまで存在の圧力がある物なのか。
などと、異能バトルのやられ役兼解説役みたいな真似はさておき、さっさと要件を済ませてしまおうか。俺の精神が削り切れない内に。
「……あー、えっと、だな。東雲さんだよな? なんで文芸部の部室に?」
俺は東雲さんが座っている席から、少し離れた場所で訊ねた。もちろん、立ったまま。大人しく座れるような心境では無い。
「んー、なんでだと思うかね? 文芸部部長の、芦葉昭樹君」
どこかこちらを試すように、悪戯っ子のような笑みを浮かべる東雲さん。
試されるまでも無く落第なのだがなぁ、俺は。既に限界が近いし。くそ、帰りたい。何故日常生活でこんなに精神的負荷を受けなければならないのだ。
「校舎内で迷ったのなら、道案内ぐらい申し出てもいいけど?」
「ふふふ、その気持ちはありがたいけれどね。流石にこの学校に来てもう一週間だ。校内の間取りぐらいは把握しているよ」
「そうか、それはなにより」
もったいぶった口調というか、名探偵のような尊大な口調というか、妙に芝居がかった口調の東雲さんである。ちなみにキャラを作っているわけでもなく、これが彼女の素の言動だ。彼女でなければ痛々しいことこの上ないが、彼女の異常性にその口調は実に合っている。
現実離れした存在が、現実離れした口調で話しているのだ、合わないわけが無い。
「迷子でなかったとしたら、もしかしたら部活見学とか?」
「近いね。もう一歩踏み込んでみようか」
「……ひょっとして、入部希望だったりします?」
俺の問いかけに、東雲さんは花が咲くような笑顔で答えた。
「イクザクトリィ! ご名答だよ、芦葉君」
「っつ!? な、あ……っ?」
俺は今までの人生で知らなかったが、美少女に満面の笑みを向けられると自動的に体が硬直するらしい。少なくとも、俺のような女子耐性の無い人間相手だと、そのような結果をもたらしてしまうようだった。
金髪碧眼で陶磁のように白い肌という、現実感が乖離したような美少女だったから、余計に威力が高かったのかもしれないな、うん。
「何故、この文芸部に?」
けれども、俺にもボッチ系男子の意地という物が存在する。挙動不審だと言うことが見え見えだとしても、声が枯れていたとしても、何でも無いと意地を張って会話を続ける。
「んー、文芸部に入りたい。というのは正確じゃあないかな?」
「入部希望なのにか? その、意味が分からないんだが」
「そーだねー」
いつの間にか東雲さんが席から立っていた。いや、本当にいつの間にか、だ。椅子を動かす音すら立ててなかったし、ほとんどの間、俺の東雲さんは向かい合っていたはず――う?
「正確に言うならね、芦葉君」
「――――っ!?」
誇張無く、俺の呼吸が止まった。
その理由は明白。俺の眼前にすぐ目の前に、鼻先が触れ合うほどに近くに、東雲さんの姿があったのだから。
そして、蒼が。
二つの蒼が、碧眼が、俺の視線から意識を吸い取ってしまうような、深い蒼が。
じぃっと、俺を見透かして、見通して、離さない。このまま、魂まで蒼に飲まれてしまうのではないかと錯覚するような、そんな時だった。
「君の物語を読みに来たのさ」
落雷を受けたかのように、全身が震えて、強張ったのは。
●●●
例えば、観に行こうと楽しみにしていた映画が、思いのほか好評で。自分で観に行く前から周りが『面白かった』や『最高だった』などと笑顔でいると、逆にその映画に行きたくなくなることは無いだろうか?
俺はある。
基本的に俺はあまのじゃくなところが多々あり、楽しみにしていた映画を自分で見る前に、誰かに大層評価されていて、映画館が満員御礼となっていたら面倒くさくなって結局見ない人間である。恐らく、映画に対する期待が、大衆と同じ行動を取るという行為に対する嫌悪感に勝ったのだろうと、俺は考えているのだが、さておき。話は俺の書いた短編小説、『透明な殺意』へとシフトする。
『透明な殺意』がどんな話を簡単に説明するのであれば、世界に殺人を許された少年のお話である。そして、不幸な少女に恋する少年のお話でもある。
ある日、少年は恋する少女のために殺人を犯す。理由は割愛するが、『そうしなければ少女がさらなる不幸に落ちる』と少年が確信し、それを防ぐための殺人だった。
もちろん、殺人を犯した少年は素直に警察へ自首するつもりだったのだが、瞬きをほんの数回繰り返すと、いつの間にか殺人を犯した風景が変わっていた。少年は殺害現場から遠く離れた、ファミリーレストランの中で食事をしていたのである。
少年が犯した殺人は、殺害対象が勝手に自殺したことになっており、それを疑う者は誰も居ない。突発的な犯行だったはずが、少年の殺人はいつの間にか完全犯罪になっていたのだ。
少年の殺人は誰にも感知できない。
少年の殺人は、世界が勝手に『対象が自殺した』という事実へと変更される。
少年は、世界で唯一殺人を許された存在だったのだ。
己の能力に気付いた少年は、その能力を存分に使って、少女の不幸を取り除こうと動く。少女を害する者を、少女をさらなる不幸へ突き落す者を、皆殺しにする。
けれど、少年は決して少女には近づかない。己のような殺人鬼では、少女を救うことなどできないから。それを知っているから。
だから、少年は何時までも透き通った殺意で殺人を繰り返す。
何度も、何度も、何度も、何度も――――不幸な少女が死を振り巻く、そんな噂が立ってしまうほどに、殺人を繰り返してしまった。
そこで、ようやく少年は気づく。もっと早く気づけばよかったのに、やっと、手遅れになってしまったところで気づいた。
殺人によって、誰かを幸福にすることなんて、到底できないということに。
血塗れの手では、誰かの手を取ることもできないことに。
――――誰かを殺すよりも前に、少女を救うために動かなければならなかったことを。
少年が後悔している間も、不幸な少女は周囲に振り巻かれた死へ恐怖する。
そんな能力などあるわけが無いのに、己が周囲を殺す死神だと錯覚し、段々とやつれていく。己の命を絶つことを、本気で考えるほどに。
だが、少女が自らの命を絶つ前に、少年が自らの首をナイフで切り裂いた。自殺した。少女が死ぬことに耐えらず、己が先に死のうとした。
その逃避による殺人は、世界に矛盾をもたらす。
少年は殺人を許されていたのではない……世界に殺人を認められていないのだ。少年が殺した相手は自殺したという風に改ざんされる。だが、少年が己を殺して、自殺したらどうだろうか? 少年は己を殺す『殺人』すらも世界に許されていない。なのに、自殺という禁忌を犯して、世界に矛盾をもたらしてしまった。
その禁忌に対する罰は、厳しい物だった。
世界は改ざんされ、少年という存在は最初から生まれなかったと変更される。もちろん、少女にも少年の記憶は無い。
そんな世界で、少年は生きることを強いられた。
誰も少年の姿を見ることはできず、誰も少年の声を聞くことも無い、けれど、寿命が尽きるまで己を殺すこともできない、そんな苦行を強いられた。
愚かな少年は世界から弾かれて、透明人間になってしまったのである。
だが、罰を受けた少年は笑った。狂ったわけでは無かった。罰を受けたからこそ、己が出来ることを見つけたのである。
そして、少年は透明なまま不幸な少女を探しに行く。
今度こそ、誰も殺さず少女を救うために。見返りを求めず。ただ、どこまでも透明な意思で、恋した少女を救いに行く。
そんな、どうしようもなく愚かな少年のお話が、『透明な殺意』である。
隼人先輩にはあんなそっけないことを言ったが、それでも先輩の同人誌に乗るのだと気合いを入れて作った短編である。短編を書くよりも長編を書く方が好きなのだが、それでも、まともな作品を書かなければならないと、何度も書き直してやっと作り上げた作品だ。
自分でそれなりに面白いと思い、隼人先輩からも面白いと評価された時は嬉しかった。
俺の作品を、コミカライズして書いてくれるという話がたった時も嬉しかった。嬉しかったから、二つ返事でオッケーした。まぁ、どうせ短編だし、と言う気持ちもあったけれど。
だが、そこで俺の悪い癖が発動したというか、なんというか、コミカライズした作品を見ようと思う気持ちはあった。あったのだが、どこか照れくさいような気持ちもあって遠回しにしていたら、うっかりその存在ごと忘れてしまっていたのである。
「私は君の作品のファンでね。特に『透明な殺意』、あれは感じ入るほどに好きだ」
だから、隼人先輩からメールでURLを教えて貰ってから、わりとすぐにその作品を確認した。部室に来る前にはそのコミカライズを読ませてもらった。
読んで、しまった。
「あの少年の一途な愚かしさが好きだ。盲目な一途さと、残酷なまでに透明な殺意。ああ、最初に読んだ時はしばらく、呆然と余韻に浸ったよ」
そのコミカライズは完全に原作を、俺の短編を超えていた。
美麗で繊細、そして透明な色彩。少年の姿も、少女の姿も、描かれたものは全て、俺のイメージ以上にそのキャラクターらしかった。
俺以上に、少年の愚かしさと透明な美しさを描いていた。
――打ちのめされて、しまった。
恐るべき才覚と、実力に。
「だけど、読者だけでいることが私には我慢できなくなってね。伝手を辿って、何とか連絡を取ってもらったのさ。『君の短編が好きでたまらないから、漫画に描かせてくれ』と」
まぁ、でも慣れているんだよ、自分に失望することも、上を見て悔しい想いをすることも。
けどさぁ、これは無いだろうよ、神様。
こんなのは、あまりにも理不尽だろう?
「願わくば、これからも君の物語を読み続けて、描き続けたいと思ってね。うん、だから私は此処に居るんだ」
転校してきた美少女が、何もかも俺を凌駕する才能の持ち主の癖に――俺の作品のファンなんてさ。
こんなの、まるで出来の悪い恋愛小説みたいだ。
「そんなわけで、これからよろしく頼むよ、『白滝レンコン丸』先生?」
「やめろぉ! 俺をペンネームで呼ぶなぁ!」
……それはそうと、もうちょっとペンネームはしっかり考えておけばよかったなぁ。