第25話 まつろわぬ君へ
執筆を進めるのなら、誰も起きていないような朝か、深夜が良い。防音環境の整った仕事部屋など、高校生の身の上で得ることなど出来ないし、仮に出来たとしても、この小説を書き終えるまではこのままが良い。
不自由に唇を嚙みしめて、不確かな未来に在りもしない希望を求めて、それでも前に進む。たった一つだけ、どうしても欲しい物を求めて。
それさえ手に入れば、後の人生で何が起ころうとも、一生の誇りにして生きていけるほどに、恋い焦がれる。
飢えて、渇いて、手を伸ばすからこそ、人生は面白いんだ。
万能の力を手に入れて、ようやく俺はそれを実感した。
「…………もう少し、後、二ページ」
時刻は既に深夜の二時を回った頃だろうか? 俺の指は既にキーボードの上を踊っておらず、おずおずと、今までの文章を思い返すように文章を打ち込んでいく。
喉はカラカラで、目もしぱしぱ、ぼんやりとした眠気が靄となって体を鈍化させていくが、思考だけはどんどんと冴えていった。
「誤字……無い。伏線……機能している、問題ない。テーマにぶれは無い。描写に矛盾は無い。句読点のリズムも、ああ、これなら納得だ」
ぶつぶつと、自分でも何を言っているのかわからないのだが、とにかく、何度も、何度も、文章を冒頭から読み直す。気に入らない文章は書き直して、やっぱり元に戻して、いっそのことそのページを丸ごと書き直して、推敲を重ねる。
飽きるほどに、心が惰性でだれそうになるほどに、けれど、どれだけ面倒くささを感じても、今だけは脳が焼けるほどの衝動が後押ししてくれる。
さぁ、もう少しだ。
「後、一ページ」
ぱき、と指を鳴らして、一度、椅子から立ち上がる。
ぐるぐると肩を回して、首を回して、深呼吸を何度も繰り返す。体の中から微睡を抜いて、空転する思考を落ち着かせるために。
「よし」
にぃ、と意図的に笑みを作って再度着席。
もう一度、PCの画面と向き合う。白い画面を埋めていった文字の羅列を眺めて、奇妙な感慨に耽る。このまま、静かに意識を落としてしまい誘惑に駆られるが、そこはぐっと我慢。
「後、一行」
終わりの一行は、始まりの一行と同じぐらいに悩む。
十数万という文字の羅列を締めくくる文章なのだ。最後の締めを怠れば、作品の雰囲気が台無しになってしまう。
知らずに指先が鈍化し、あるいは石化したかのように動かなくなっていた。
「…………いや、違うか」
数十分ほど悩んでから、己の愚かさを再確認した。
この物語の締めだけは、最初から分かっていたはずなのに。むしろ、それを目的に書いていたはずなのに、いつの間にかそれを忘れていたらしい。
まったく、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるが、なるほど、俺らしくもある。
「これで、完成だ」
最後の文章と、最後の句読点を打ち切ると、俺はゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。
「ふぅ……」
充足感と、達成感が胸中を満たす。
不安は無い。
後悔も無い。
今までは達成感で誤魔化して、細かなミスを見ないようにしていたけれど、これだけは、この作品だけはそれをまったく感じない。
断言できる。
この作品は、今の俺にとって紛れもなく生涯最高傑作だろう。
東雲彩花という超越者にも、届きうる刃であると、確信を持って頷ける。
「さて、と」
このままデータとして持って行っても良いのだけれど、それでは味気ない。多少かさばるとしても、俺は印刷していくことを選んだ。
さすがに長編の印刷は時間がかかるので、その間に、シャワーを浴びたり、身支度を整えておく。何せ、いよいよ決戦だ。俺の命が掛かっている。負けるつもりは無いが、一世一代の舞台に汚れたままの姿で上がるほど、俺は無粋じゃない。
「これで、よし」
学生服に袖を通す頃には、全てのページの印刷が終わっていた。
その原稿を封筒に入れて、靴を履いて、靴紐をきっちりと結ぶ。玄関の鍵はいちいち持ち出す必要も無い。能力を使えば、いくらでも外側から鍵をかけることが可能なのだから。これで、深夜の外出を咎められることも無い。
「連絡は必要ないか」
能力を得てしまった者同士の直感というか、既に俺が長編を書き終えたことを察して、東雲さんがスタンバイしている気配を察する。
どうにも、ここ数日はずっと俺にばれないようにこっそりとこちらの様子を伺っていたらしい。もっとも、執筆中だけはその気配を感じなかったところから、そういう所は本当に律儀なのだと感心した。
ともあれ、連絡が必要ないのならこのまま一足で跳べばいい。
幸いなことに、空中疾走の予行練習は既に済んでいる。
「いってきます」
誰に言うでもなく呟いて、俺は地面を蹴った。
二の足で虚空を蹴って、重力から解き放たれて、暗い夜空へ。
俺は、決戦の舞台まで、走っていく。
●●●
【まつろわぬ君へ】
それが、俺が書き上げた長編のタイトルだ。
東雲彩花を打ち倒すために書き上げられた、俺の最高傑作である。
と言っても、斬新な設定や、緻密に練り上げられた伏線がばら撒かれているわけではない。きっと内容はどこにでもある、ありきたりな伝奇ジュヴナイルだ。
一人の超越的な能力を持つ美少女と、冴えない平凡な男子高校生が出会う話だ。
美少女はあっという間に周囲に溶け込んで、八方美人など生温い勢いで人心を獲得していく。さながら、末世に救世主でも現れたのかの如きカリスマは、一部の人間を除いて、等しく大衆を彼女のエキストラへと貶めていった。
そんな中で、彼女の事を気に食わないと思う男子高校生が一人。大衆はともかく、己を道端の石ころのようにしか見ない彼女に目に物を言わせようと、拗らせた反骨精神を持った男子こそ、この物語の主人公だった。
主人公は美少女の気を引こうと、あらゆる手を弄して頑張ってはいるのだが、その頑張りはまるで道化の様で。
周囲の大衆からは引かれて。
当の美少女本人からは失笑すら貰えないという有様。
けれど、それでも、主人公の頑張りを、空回りを見ていた者たちの中には、愉快なそのイベントに関わろうとする者も少なからず居たらしい。
気づけば、主人公は一人ではなくなっていた。
それが、主人公にとっての幸運であり、美少女にとっての誤算となった。
ある日、主人公は段々と町が変貌していることに気付く。美少女の周囲に侍っていた大衆たちの一部が、整形もしていないのに美形へと生まれ変わって、特別な才能を発揮し始めたことに気付いたのだ。しかも、周囲はその変貌をまるで認識できていない。まるで、初めからそうであったかのように扱われていた。
それこそが、美少女――あるいは『まつろわぬ怪物』の本領だった。
美少女の正体は、人ではなく、怪物とも神とも称することが出来る超越者だったのである。そして、彼女の目的は青春を楽しむことではなく、田舎町を世界征服の足掛かりへとすること。
そんな荒唐無稽な、けれど、実現可能な美少女の計画もつゆ知らずに、けれど、主人公は町の異変を解決すべく、仲間たちと共に奔走する。
待ち受けるのは、怪物によって人外の存在へと変えられたかつてのクラスメイトたち。
あるいは、親しい隣人だったはずの大人たち。
彼らは皆一様に、超越者たる美少女のカリスマに跪き、恩寵の一端を受け取った人類の背信者たちだ。
当然、ただの男子高校生風情では敵う訳がない。
順当にただ、物語のエキストラとして排除されるはずだった主人公は、ピンチの所を仲間に助けられる。
そう、主人公の身の回りに集まっていた仲間たちには、それぞれ裏の事情があったのである。
頼りになる先輩は、美少女と同じく超越者の怪物で。
世話を焼いていた後輩は、人の身でありながら怪物を殺す専門家だった。
ちなみに、主人公には何も特別な力は無い。ただ単に、そういう背景を持った奴らが興味を持って関わっただけの脇役だったのである、本来ならば。
だが、主人公は臆することなく前に進む。
仲間の力に怯えることなく、協力して。
世界の真理に近しい、怪物の存在を調査して、理解して、少しでも戦えるようにと考察を重ねる。
その過程で、どんどん自分が人外の何かに変わっていこうとも、躊躇わず、前へ。
そして、少なくない犠牲と、困難と苦境を乗り越えて。
ついに主人公は美少女を――怪物を追い詰めることに成功したのだ。
主人公の手の中には、怪物を殺しきることが可能な太刀が携えられていて。
怪物は満身創痍で、主人公の足元で息を切らせている。
ついに決着の時だった。
支払った犠牲に報いるためにも、主人公は刃を怪物に突き立てなければならない。
だが、
『ここまで私を追い詰めたご褒美に、選択肢を与えようじゃないか、麗しき君』
主人公は怪物から、残酷な選択肢を提示される。
それは、『世界』と『自分』の二つを天秤にかける物だった。
●●●
待ち合わせ場所は、告げずとも理解しているだろうし、また、俺も同じだった。
俺と東雲さんの決着をつけるのであれば、相応しい場所は一つだけ。
最初に出会った場所。
学校の正面玄関前、だ。
「やぁ、待ったよ、芦葉君」
東雲さんは、そこで優雅に佇んでいた。
腰かけている椅子は、どこかの教室から持ってきたであろう、学校指定の物。それが、東雲さんが腰かけている物を含めて、二つ。ぽつんと、その椅子の部分だけ、月明かりが差していた。まるで、スポットライトのように、そこだけ照らされている。
「そんなに待たせてねぇだろ、東雲さん」
「いやいや、私にとってはまさしく一日千秋の思いだったとも」
俺は学生服で、東雲さんは学校指定のブレザー。
どちらも、あの時出会った姿の再現である。
まったく、こんな時だけ考えることは同じらしい。
「それで、君の最高傑作は出来たのかい?」
月下でも削がれること無き美貌で、東雲さんは挑戦的に微笑む。
その微笑みだけで、万の群衆が卒倒するだろうし、それだけを対価に世界中の人々を意のままに操れるカリスマの持ち主。
世界を掌の上で転がす、超越者。
俺は、今からそれに挑む。
「もちろん。そうでなくちゃ、この場には来ないさ」
「それもそうだね」
「ああ、そうだともさ」
「……」
「……」
俺と東雲さんは笑みを浮かべたまま数秒沈黙した後、同時に言葉を発した。
「さぁ、読んでくれ」
「さぁ、読ませてくれ」
俺が原稿の入った封筒を差し出したのと同時に、その原稿が東雲さんの手の中へと置かれる。奇妙なシンクロに思わず声を出して笑ってしまったけど、東雲さんの意識は既に、原稿に夢中らしい。
「今から読むのに集中するから、黙ってくれたまえ」
「作者に対する言葉がこれである」
「黙って」
「はい」
東雲さんは笑みを口元から消して、真顔で俺の原稿へ目を通している。呼吸すらしていないと錯覚するほど、集中して…………いや、本当に呼吸すらしてねぇや、この人。
「…………さぁて」
どうせ大声を出しても気づかれなさそうな集中力ではあるが、小声で俺は呟く。
「しばらく、裁定を待ちますか」
不安は無い、けれど、恐怖はある。胸が張り裂けそうな緊張も。
生と死の狭間、東雲さんがページを捲れば捲るほど、死刑執行が進む囚人のような気分でもあるし、最高の名誉を授かる授賞式が近づいているような気分でもある。
死と栄光は常に隣り合わせ、とはさて誰の言葉だっただろうか?
誰しも言いそうな言葉ではあるが、誰の言葉であるかは覚えていない。今、この時、俺にとってはまさしくそれは俺の言葉だった。
いや、栄光よりも欲しい物があるからな、俺は。
それだけ、俺は欲しいんだ。
「…………」
死か。
あるいは、たった一つの報酬を得るのか。
東雲さんが読み終えるまでのしばしの間、俺は相反する二つの感情に揺られながら、その時を待つ。
●●●
二つの選択肢が存在する。
『まず、私を完全に殺した場合のメリットとデメリットを教えよう。その場合、君は完全に平和な日常へと戻ることが出来る。ただし、代償として世界は混乱の渦に叩き込まれるだろう。何せ、あらゆる体制に反逆の旗を翻す私が居なくなるんだ。どの勢力も、大手を振って侵略を開始するだろう。世界の裏で、日々、世界の存亡を揺るがす事件が生まれ続けるだろう』
美少女を完全に排除して、主人公だけが平和な日常に戻ること。
そうすれば少なくとも、世界が終わるその日までは、主人公だけは平和を甘受することが出来る。共に戦った仲間を、世界を、見捨てれば。
『次に、私を殺しきらず、私の力を君が奪い取った場合のメリットとデメリットを教えよう。何? 意味が分からない? ははは、これから説明するさ。君がその太刀で私を痛めつけて、ある程度私の血を摂取すれば、君は私の力を奪い取ることが出来る。異能の頂点であり、超越者の能力を。使い方は、半死半生の私が、君がきっちりと使いこなすまで教えようじゃないか。その後、私をきっちりと殺し尽すといい。そう、君が私の後釜として、世界へ君臨した後にね』
美少女は、怪物は主人公を誘う。
追い詰められているのに、追い詰めているような口調で。
『君が私の後釜として、世界に君臨すれば世界のバランスは保つ。君の仲間も、戦乱の渦に叩き込まれることは無い。何より、この力があれば、君はほとんど無敵だ。仲間を死なせることなど到底ないだろう。これが、メリットだ。そして、デメリットはもちろん、ここまで説明すればわかるだろう? 一度力を手にすれば、もう二度と君は日常へと戻れない』
美少女の力を奪い、美少女の教えを乞えば、世界に超越者として君臨できる。
世界の平和は保たれ、仲間も犠牲にしない。
ただ、己の日常のみ、犠牲となる。
もう二度と、主人公は己の事を平凡な男子高校生などと言えなくなる。
『さぁ、君はどうする?』
悪魔の如き問いかけに、提示された選択肢に、主人公は戸惑う。
これでは、どちらを選んでも負けのような物だ。けれど、第三の選択肢を取るには、あまりにも選択の余地は少ない。
少し悩んで、主人公は選択した。
己と、世界の未来を。
『なるほど、そっちを選んだか』
主人公は太刀を構えて、振り下ろす。
美少女の、怪物の、宿敵の――――急所を外して。
●●●
「まったく、ひどい小説だね」
全てのページを読み終えると、東雲さんは憮然とした表情でそう言い放った。
「確かに? 誤字脱字は見当たらないけど、まぁ、これは最低限。物語にも破たんが無いし、伏線も余すことなくちゃんと昨日している。けれど、これはあくまでも基本。商業に出て、少しでも人気を出したいのなら、話の内容以前の問題だ。その点に関して言えば、この作品はその下地が出来ていたと言えるだろう。けれど、ね?」
とんとん、とばらついた原稿の角を揃えながら、ぶつぶつと、如何にも不服そうに東雲さんは言葉を続ける。
「ちょっと内容が地味過ぎるね。何せ、活躍するのは主人公じゃなくて、ほとんどその仲間。ヒロインだって存在しない。唯一、丁寧に関係性が描写されているのは、主人公と、その宿敵である怪物だけじゃないか、もう。しかも、伝奇系の話にするにはあまりにも主人公が地味過ぎるって。何だよ、メイン技能が交渉と運って。異能を使いたまえ、異能を!」
「…………ふふっ」
「おいこら、芦葉君? 今私は怒っているのに、どうして笑ったんだい? うん?」
「いやだってさ」
本当だったら最後まで沈黙を保っていなければならないのだろうけど、最後まで東雲さんの批評を効かなければいけないのだけれど、もう駄目だった、つい笑ってしまった。
けど、これはしょうがない。
「東雲さんってば、段々と口元が緩んできてさ、凄く面白い顔になってる」
「んなっ――――っ!?」
東雲さんは慌てて口元を抑えて、それからかぁと顔を真っ赤に染め上げる。その様子はまるで、外見相応の少女のようで、俺は堪え切れず、腹を抑えて笑ってしまう。
「あ、あはははははっ! し、東雲さん、何そのリアクション!? 凄い可愛いよ、ははは! 危ないなぁ、余語が居なかったら惚れていたかもしれない」
「うるさーい! ええい、芦葉君の分際でよくも私を笑ったな、この! 酷評してやる! 酷評! 心を折るぞ!?」
「はははははは!」
「この野郎! いいか? 君の小説なんて、世に出回っても千人に一人が面白かな? と思う程度の作品だぞ! 一万人に一人は嵌ると思うけどさ! そんな程度で歴史に残る、大作家には勝てな――――」
「でも、面白かっただろ? 東雲さんにとっては」
「…………ひどい小説だ」
東雲さんは観念したように肩を落として、大きく息を吐き出した。
それは、失望のため息では無く、もっと別の物だった。
「ひどい小説だよ、まったく。まさか、最初から最後まで、全て『私好みに書かれた、私のためだけの長編小説』だったなんて」
「ははは、何言ってんだよ、東雲さん。俺は最初から、アンタのためだけにこの小説を書くつもりだったんだぜ? どうせ、この小説はアンタだけにしか見せないし」
「…………むむむぅ」
緩んだ頬を誤魔化すかのように、両手でぐにぐにと己の頬を揉む東雲さん。
まさか、こんなに可愛らしい姿を拝めるとは思わなかった。うん、大変な眼福である。
「ずるいよ、反則だ。こんなの、私が読んで、私が想像することで初めて最高傑作になる作品なんて。これじゃあまるで、自滅したような物じゃないか、私」
「ずるくて結構。何しろ、東雲彩花に挑むんだ。この程度の策は見逃してくれよ? つーか、アンタの基準で裁定する勝負なんだから、この程度は予想しておけよ」
「歴史に残る名作を書き上げようとして、詰めが甘くて挫折するのを狙ったのに……」
口をとがらせてひどいことを言う東雲さんへ、俺は笑みを作って言う。
「生憎、俺は歴史に残るよりも東雲さんの心に残る作品を書きたかったんだよ」
「…………ひどい口説きだ」
「え、口説いてないぞ、マジで」
「はぁー、このシャイボーイだね、芦葉君は」
何かを勝手に誤解した東雲さんは、やれやれと肩を竦めると、観念したように夜空を仰ぐ。
ずっと変わらない、制止した夜を見上げて。
途切れること無き月明かりに照らされたまま、東雲さんは再び俺と向き直って、告げる。
「面白かったよ、芦葉君…………私の、負けだ」
悔しさと清々しさを同居させた微笑みで、俺の勝利を告げた。
「ああ、俺の勝ちだ、東雲さん」
俺は頷いて、勝利の実感を噛みしめる。
今までの人生で味わったことがない達成感が胸の中を満たして、決して色あせることのない勝利の記憶が脳裏に刻まれた。
「俺の、勝ちだ!」
椅子から立ち上がり、夜空へ向かって吠える。
油断すれば、涙が零れてしまいそうなほどの感動と、心地良い虚脱感が体中を駆け巡り、清々しい全能感がとめどなく湧き上がってくる。
きっと、世界にとって俺の勝利なんてどうでもよくて。
この田舎町すら何一つ変わらない、そんな勝利だけれど。
今、この瞬間だけは確かに、俺は世界の全てを手にしていたのだと思う。
だって、今、俺にとって世界中の全てが鮮明に、美しく感じられていたのだから。
「…………勝ち誇るのは良いのだけどさー。いつまでもそうやってないで、さっさと私に報酬を言ってほしいなぁ?」
そんな風に勝利を味わうこと十数分、ついに東雲さんが拗ねた。しばらくの間は空気を読んで黙っていたのだが、あまりにも俺が喜ぶので拗ねたのである。
「ん、まぁ、君が何を望むのかぐらい、あの作品を読んだ私には推測できるのだがね?」
「おっと、マジで?」
「やれ、あのクライマックスの『選択』なんか、露骨にそうじゃないか、まったくさ」
ふふん、と鼻を鳴らしたかと思うと、東雲さんは頬を赤く染めてそっぽを向く。
まるで、何かを恥ずかしがるかのように。
……恥ずかしがる? 東雲さんが? どうして?
「でもなー、勝利の報酬だからなー、賭けだからなー、本当にしょうがないなぁ、君は」
「ええと?」
本気で首を傾げる俺に対して、『照れるな、照れるな』と言わんばかりに肩を叩き、東雲さんは言った。割と、とんでもないことを、緩んだ笑みで。
「しょうがないから、君のお嫁さんになってあげるよ! 光栄に思ってね、芦葉君!」
「いや、違います」
その言葉を、俺は真顔で否定した。
「…………え?」
「違います」
東雲さんは硬直して、本当に訳が分からないと言った表情で俺を見つめる。
「いや、だって…………最後の選択肢で、主人公、怪物と添い遂げるエンドだったじゃん。殺さずに、力を半分ぐらい奪って、一緒に生きるエンドだったじゃん! どうして殺さないのか? って問いかける私――じゃなくて、怪物に対して『惚れた女を殺せるわけないだろ』って答えてたじゃん! 実は今までの行動が全て、一目惚れした男が惚れた女の気を引こうとするだけの話だったのだ、とか書いてたじゃん!? 戻すことが出来ない変化の所為で犠牲になった者のために、お前の罪は許すことが出来ないけど、俺も一緒に罪を背負うとか書いてたじゃんか!」
「あの物語はフィクションです。現実に存在するありとあらゆる団体や人物とは関係ありません。後、俺が愛しているのは余語だけだってんだろーが」
「えぇええええええっ! なんだよもぉおおおおおおおう! そういうのありかよぉおおおおおおおお! んあああああああああっ!」
「八つ当たりで校舎を壊そうとするなよ、もう」
暴れる東雲さんをなんとか宥めて、再度着席を促す俺。
この時ばかりは、東雲さんの三分の一の力があってよかったと思う。何せ、下手をすれば町が消滅どころか、世界が消滅する勢いだったのだ。
「ふん! それで! 報酬はなんだい、まったくもう! 金!? 地位! 名誉!? 世界!? いいよ、どんと来いよ、もう!」
「怒るなよ」
「怒るよ! 私と言えど、怒るよあれは!? ノリノリだったところで梯子を外された気分だったよ! 君じゃなかったらほんと、ぶち殺していたからね?」
「はいはい」
完全に東雲さんは機嫌を損ねてしまった。狙ってやったことではなく、より面白さを追求した結果、ああなっただけなので謝るつもりは毛頭ないが。
それよりも、今は報酬の話である。さすがに機嫌が悪いからと言って拒否はしないようだが、これで拒否されたら、今度は俺が拗ねて泣いてしまうだろう。
「ほら、さっさと言わないと百年の眠りにつくよ、私は!」
「自己封印しないでくれよ……ええと、それで、俺の願いなんだけど」
「私と体だけの関係?」
「違います」
東雲さんの冗談を否定してから、俺は呼吸を整える。
呼吸を整えて、ほんの少しの勇気を携えて、ゆっくりと右手を出して、願った。
「もしよければ、俺と友達になってください、東雲彩花さん」
東雲さんは理解が追い付かず、目を丸くして俺を見つめていた。
「東雲さんのおかげで、俺は俺の限界を超えた小説を書くことができたから。だから、これからも俺は君に小説を捧げて生きたいんだ。さすがに毎回、命を賭けるなんて真似は出来ないけど、うん。きっと、次に書く俺の小説は、今の小説よりも面白いだろうからさ」
「…………君って奴は、本当に」
東雲さんは心底呆れた顔をして、ため息を吐く。
「さっき読ませたのが、最高傑作じゃなかったのかい?」
「最高傑作は常に更新される物だろ?」
「ははは、でかい口を叩くね、君は」
「でも、俺はちゃんとアンタに勝ったぞ、東雲彩花」
「…………うん、そうだね。本当に、君って奴は有言実行するから、困る」
いつの間にか、東雲さんの表情が緩んでいた。
それはまるで、とんでもない馬鹿を言い出した男を笑う女のようで。
あるいは、これから偉業を成し遂げようとする友を、眩しそうに見送る者のようで。
だが、結局の所、人間との賭けに負けて、渋々契約を履行する悪魔の姿という表現が、一番、今の東雲さんには似合っていた。
「仕方ないから、君の友達になってあげるよ、芦葉昭樹君。小説の批評に関しては、決して手を緩めないから、そのつもりで」
こうして、俺と東雲さんの物語は終わりを告げた。
差し出した俺の手を、東雲さんが確かに受け取ったことで。
契約者の手を、悪魔が取ったことで。
俺と東雲さんの物語は終わったのである。
俺にとっては勝利と変革の物語で。
東雲さんにとっては敗北と妥協の物語だったろうけど。
きっと、世界にとっては何の変哲もない物語だったとも思う。
なぜならこれは、たった一人の男子が、一人の美少女へ意地を見せるためだけの物語だったのだから。
まつろわぬ君へ、捧げるための青春(物語)だったのだから。




