第22話 例え、化物になったとしても
思えば、幼少の頃から俺は少しだけずれていた。
感情が無かったわけじゃない。
少しだけ足りなかっただけだ。具体的に言えば、愛とかいうよくわからない成分が。
異常な性癖があったわけじゃない。少しだけ、他人に無関心なだけだ。
まぁ、有り体に言えば、俺という人間は社会不適合者である。
他者と合わせることは苦痛で、社会の枠組みの中で大人しくしているのは反吐が出る。法律や秩序を守っているのは、単に罰を受けるのが嫌で、面倒だからという理由以外に無い。煙草も酒もやらないのは、体質が合わないだけ。
誰かを進んで傷つけようとしないのは、最低限の倫理観を持っているだけ。
ただ、それだけの人間である、俺は。
きっとどこにでも居るような、社会不適合者の中の一人。
そうであると、俺は信じていたのに。
「は、はははははっ! はははははははっ!! んだよ、こりゃ!?」
呵々大笑しながら、俺は薄闇の中を跳んでいた。
さながら、映画の中に出てくる超人のように。ぴょんぴょんと、数十メートルの高さを悠々と飛んで、一度に数百メートル以上の距離を跳躍している。
しかも、俺はその気になれば重力にも縛られないらしい。
「はは、ははははっ!」
民家に落下していく直前に、俺は何もない虚空を蹴って空中疾走を続ける。
重力の鎖など、この体には何も関係ないとばかりに。
慣れない銀髪を振り乱して、自在に空を走って、笑う。
「おかしいだろうが、はははっ! おかしいだろうが、これはっ!!」
傍から見れば、狂っているようにしか見えない言動。いや、そもそも、一人の人間が空を笑いながら縦横無尽に走り回っているのだ、いくら田舎であっても騒ぎになるはず。
けれど、俺が誰かの横を通り過ぎようが、誰も俺に視線を向けようともしない。喉が張り裂けそうな叫びをまき散らしているのに、誰一人として俺に気付いていないのだ。
俺が、そうであるようにと、望んでいるから。
主役がそうであれと望めば、世界は簡単に、エキストラを動かす物だから。
「なんだよこれ! 全能かよ、俺は!? はは、はははははっ!」
無限に湧き上がるような、全能感。
思い切り拳を叩き付ければ、そのまま大地を割ってしまいそうな、いっそのことコメディなほどの力の充実。
何を持って覚醒し、何を持ってこの力を手に入れたのかはまったくを持って不明なのだが。
ただ一つ、事実として理解してしまったことがある。
「――――――なんだよ、これ」
どうやら俺は、人間とやらの枠組みをはみ出してしまったらしい。
言い訳ができないほど、圧倒的なまでに。
「…………なんなんだよ、これは」
いつの間にか、見慣れない場所に俺は跪いていた。
何かに懺悔するように頭を地に伏せて、とめどなく流れる涙を拭うこともせず、ただ、呻いていた。獣の如く、慟哭して、感情のままに喚いていた。
それだけしか、今の俺には出来ない。
「どうすんだよ、こんな体。どうするんだよ、こんな能力。こんなものがあって、こんなものを手に入れて、俺にどうしろって言うんだよ」
漫画やライトノベルにはよくあるシーン。
何らかの原因によって、人間ではなくなってしまった主人公が、その衝撃で取り乱すシーン。あれは傍から見れば、読者という立場で観れば、主人公が情けなく感じてしまうかもしれない。
でも、実際に体験してみて、俺は理解できた。ああ、理解してしまった。こんな体験をしてしまえば、取り乱すのも無理はない、と。
だって人間じゃないのだ。家族からも、友達からも、大切な誰かからも、違う枠組みの生物になってしまうのだ。超越してしまっているのだ、恐ろしいほどに。
そう、恐ろしいほどに、今の俺は外れている。
社会という枠組みなどというちっぽけな物ではなく、人類という尺度で。
あるいは、生物という尺度でも、何かを超越してしまっているのかもしれない。
「…………どうすんだよ、俺」
人間だろうが、化物だろうが、俺は俺。
我を思う、故に我在り。
そんなことは分かっている。分かっているが、割り切れない。元々社会不適合者だった癖に、全然割り切ることが出来ない。
何もかもが違うのだと、俺の細胞一つ一つが訴えかけてくるような全能感が。
油断すれば、空さえも握りつぶしてしまいそうな破壊衝動が。
俺という生物が、既に人間でないことを証明していたのだから。
「誰か……誰か、俺を……誰か」
縋る様に、俺は薄闇の沈んだ田舎道を歩き始める。
誰でもいい。俺という自我を、個人を、肯定してくれと。
そうしてくれなければ、俺は、このまま精神さえも、人間ではなくなってしまいそうで――
「あ、芦葉君? どうしたんだよ、そんな格好で」
当たり前のように俺の名前を呼ぶ、親友の声を聞いた。
●●●
違和感バリバリの銀髪イケメン姿は、俺が望めばあっさりと元の姿に戻った。あくまであれがベースとなっているだけであって、俺が望みさえすれば、姿形は自由自在に変えられるらしい。気合いを入れれば、老人にも幼女にも、そう、性別の壁すらも易々と超えられそうだったので、この『変化』はほどほどにしておこうと思った。
「あー、ごめん。今日は両親も爺さん婆さんも温泉旅行に行っててさ。食う物がカップラーメンぐらいしかねーけど、大丈夫?」
「…………あの」
「わかった。皆まで言うなよ、芦葉君。わかっているさ……頑張って、袋ラーメン作るわ」
「そういうことじゃねーよ。食事のグレードの話じゃねーよ」
俺が明らかに違う容貌の上、ガチ泣きしているというひどい有様だったというのに、あっさりと健治は自宅まで連れて来てくれた。
や、あっさりとというか、普段通りというか、『え、何それ、うわ、マジでー? そういうことあるんだ、人生って、すげぇ』というノリだったもん。宝くじに当たったレベルだもん。
「おいおい、芦葉君。俺は今時のラノベ主人公じゃねーんだぜ? 男子高校生の料理レベルなんざ、趣味にでもしてなければインスタント万歳だろうが」
「それは俺も同感だが、こう、その……もっと他に聞くことがあるんじゃないのか?」
「あぁ、それもそうだな、うん」
いそいそと台所でエプロンを付けていた健治はその手を止めて、俺と向き直る。真剣な表情で、俺を見つめて問いかけて来た。
「きっちり兄貴の息の根は止めてくれたんだろうな?」
「殺してねぇよ、馬鹿が!」
「おぶぅっ!?」
すぱーん、とつい健治の頭をいつも通りぶっ叩く。
叩いて気づいたのだが、気軽に大地を割って、コンクリートの壁すら粉砕していた俺の魔手は、健治に対しては全然効果を発揮していなかった。どうやら、この力は俺が望まないことを引き起こさないらしい。つーか、効果を発揮していたら今頃健治の頭がぱーんで、血煙になっている所だ。
「実の兄に対して、言っていい冗談と悪い冗談があるだろうが、まったく」
「いやだって、芦葉君がよくわからない変身をして泣いていたから、ついうっかりうちの兄貴を殺したのかと」
「殺してねぇよ! 四肢の骨を折ったぐらいだよ! 多分、今頃救急車で運ばれて病院だよ!」
「ははは、まぁ、警察から連絡があったから普通に知っていたわけなんだけどなー」
「この野郎」
俺がじとりと睨みつけると、何が愉快なのか、健治はけらけら笑って俺の背中を叩いてくる。
「しっかし、よくやってくれたよ、芦葉君は」
「はぁ?」
「うちの兄貴の奴、骨が折れている癖に妙に元気でさ。警察から連絡が来た時、普通に元気に電話してきてさぁ。しかも、あの馬鹿兄貴が『今まで悪かった。もう喧嘩はしねぇ』とか言ってくるんだぜ? いやぁ、心底驚いたね、俺は」
「…………まぁ、確かに妙に憑き物が落ちたような顔はしていたけど」
竜二さんの執念というか、執着の矛先は冬花姉さんだったはずだが、恐らくはその前座扱いの俺に完膚なきまでに叩きのめされたことが原因なのだろう。
確かに、普通に生きていればいきなり宿敵の弟が覚醒変身をかまして、学校の校舎ごと自分を葬ろうとは考えられない。考えられるわけがない。竜二さんがどれほど化物であったとしても、それは人間としての枠組みから考えて、だ。
竜二さん本人も言っていたことだが、ジャンルが違う。いくら人間として強くあっても、どれだけ武術を極めても、人間の範疇である限り勝てない相手が存在する。
空手の達人が、アフリカゾウに挑みかかれば勝負以前に相手にされないように。
物理法則に囚われている生物が、物理法則を超越する化物に、敵う訳がないのだ。
「だから、気にするなよ、芦葉君。俺も含めて、家族からすればあの馬鹿兄貴の骨が折られたことより、性根を叩き直してくれたことの方が重要だからさ」
「……健治」
「いや、慰めているわけでもなく、ガチでね?」
「……健治ぃ」
よく見ると健治の姿は以前に比べて少ないが、絆創膏やシップが服の影からちらりと見えている。なるほど、今回の暴走を抑えるために、健治は大分苦労していたようだ。だって、穏やかな健治の笑顔の奥に、確かな怒りを感じるのだもの。
「だからさ、気にすんなって」
「気にするなって、お前……そもそも、その、さ? 俺がさ? その、よくわからない変身をしていたことだって、お前」
「そこに関してはほら、芦葉君だからなぁ」
「芦葉君だからなぁ!?」
しみじみと呟く健治の感想に、俺は動揺を隠せない。
え? 俺ってある日突然イケメンに変身して、空を自由に走り回ってもそんな納得される人間でしたっけ? いや、現時点では人間ではないっぽいのだが、俺。
「ほら、芦葉君ってば昔から奇行が目立つ人間じゃん?」
「そんなに? そんなにか!?」
「俺の知る限りで、卒業式の日に同級生の女子全員に土下座させた人間は芦葉君しかいない。なんなのあの大名行列みたいな光景? 芦葉君が卒業した後、伝説として後輩たちに語り継がれているよ……在学中の奇行の数々も」
「平穏無事に暮らそうと頑張っていたつもりだけれど!?」
「芦葉君の日常は夕方のアニメ枠で2クールとってもいいぐらいのネタの宝庫だったよ」
「俺の中学時代な夕方アニメ枠だったの!? そんなレベルの異常だったの!?」
「んー、異常というかさー」
俺は密かに緊張しながら、健治の言葉を待つ。
軽快にツッコミしつつも、俺は正直に言って、怯えていた。親友である健治に恐れられたら、嫌われたらどうしよう、と。女々しくも、情けない、そんな悩みを引きつった笑顔で隠して、言葉を待っていたのである。
そして、健治から告げられた言葉は――
「すげぇ楽しかったよな、あれ!」
「…………はい?」
俺が想像していたどんな言葉にも、まったく当てはまらなかった。
というか、健治さん、解説お願いします。意味わかりません。
「芦葉君ってばさ、ほぼ毎日何かしらのイベント起こすんだもんなぁ。クラスカーストトップの海木君に平然と喧嘩を売ったり、女子のジャージを盗んだ容疑をかけられたり」
「前者に関しては口喧嘩では負けなしで、殴り合いはあんまり勝てねぇんだよな、あいつに。後者に関しては犯人を推理して、疑った女子ともどもを土下座させたわ」
「土下座好きだねぇ、芦葉君」
「遠慮なく人を見下せるからな……じゃなくて」
つまりはどういうことなんだよ? と俺が尋ねると、健治は白い歯が見えるほどにかりと笑って、答えた。
「異常とか、普通とかどうでもよくない? 誰かが勝手に作った常識で測った物なんかよりもさ、自分の心で測った基準の方が俺にとっては大切だよ。つまりは、うん、あれだ! 楽しければオールオッケー!」
満面の笑みで、サムズアップをかまして、健治は言い切った。
普通とか、異常とか、なにそれどうでもいい。楽しいかどうかの方が重要だと。他人の物差しなんざ、くそくらえだと。
まったくを持って享楽的で、さすがはあの竜二さんの弟だ。
普通じゃない。
普通じゃないが、まぁ、そこら辺は確かに、どうでもいい。
「んでもって、芦葉君と一緒に居るのは楽しいからさ、あんまり気にすんなって。俺は芦葉君がどんな化物になっても、横で楽しめる自信があるぜ」
「それって人間としてどうよ?」
「はっはー! 現在、人外っぽくなってそうな芦葉君が言うかねー」
「ふ、ふふふふっ、確かに、それもそうだ」
俺と健治は揃って笑い合った。
男子高校生らしく、実に馬鹿馬鹿しい面構えで。
多分きっと、それでいいのだ。どれだけ重大な悩みを抱えようとも、今の俺たちにはこれぐらいがちょうどいい。笑い飛ばして、ネタにする程度で良いのだ。
「ところで、よくあの時俺だってわかったな?」
「あー、外見が変わっても目の濁り具合というか、気だるい気配というか、存在感がね?」
「この野郎」
「間違ってたらどうしようかと思ってたぜ」
どうやら、人間じゃなくなってもこの悪友との付き合いは、まだまだ続きそうだった。
●●●
健治と共に袋ラーメンの調理に挑んでいると、ふと、携帯にメールの着信が来ていることに俺は気づいた。
「うわぁ……」
「ん、どうしたん、芦葉君……うわぁ」
携帯の着信履歴が凄まじいことになっていた。
余語後輩からの着信が気づかない間に数十件ほど溜まっていて、おまけに、メールも同じくらい送られてくる。しかも、メールの内容が最後の方になってくると『お願いです、返事をしてください』というガチの心配が来ているという始末。
これはやばいと思った俺は調理を中断して、余語後輩からへ連絡をすることにした。
『せ、先輩っ! 今、どこに居るんですか!? 大丈夫ですか!? 警察と救急車を呼んだんですけど、誰も居なくて! いや、あの不良が四肢を折られた状態で瓦礫の中で見つかって! あいつでさえあの有様だから、先輩がどうなったか、本当に心配で!』
「あー、落ち着け、余語」
『これが落ち着いて居られますかぁ!!』
余語が大分電話口で混乱している様だった。
仕方あるまい。まさか、助けを呼んでくれと頼んでいた俺が、覚醒変身かまして、竜二さんの四肢をブチ折ったなどと思いもよらないだろうから。
ともかく、余語が混乱している状態では何も説明できないのでしばらく宥めるように会話をしていると、唐突に電話の主が変わる。
『もしもし? 芦葉昭樹さんですね? こちら、××県警ですが』
警察だった。
当たり前の結論だった。むしろ、俺が呼んでくれと余語に頼んでいたのだから、そりゃ当然、そこに居るだろう。しかも、謎の校舎倒壊事件の当事者が見つかったのなら、そりゃ、話をして所在を確認しようと思うだろうさ。
…………器物損害に傷害ってレベルじゃねーぞ。
『もしもし? 聞こえていますか?』
「えーっと、あー、その」
国家権力が電話の先にあるかと思うと、とても緊張する。
どうする? どんな言い訳をすればいい? いや、あんなド派手な出来事があったんだから、事件当時の記憶は無いと言った方がいっそのこと説得力が…………あー、そうか、そうだったな、うん、何を慌てているんだ、俺は。
「ちょっと待っていてください、えーっと、ですね?」
『はい』
俺は大きく息を吸い込み、意識して言葉に『力』を乗せる。
望んで、胸の奥から湧き上がる全能感を振るう。
「【俺たちに面倒をかけないように、うまくやれ】」
俺が吐き出した言葉が、波紋となって世界に広がっていくような感覚。雲の上から、波風一つ立たない水面へ、小石を投げ入れるような気分に近い。
『…………はい、了解しました』
そして、波紋は電話の先の警官まで届いたようだ。
こちらの思い通りに、望むようになったという確信が、電話口からの虚ろな声で得る。理屈ではなく、感覚として俺は力の行使が上手く行ったと確信できたのだ。
虚空から手応えを得た、と言えばいいのだろうか? 不思議な充足と達成感が、確かに俺の胸に満ちていた。
『あ、あの、先輩? 何か、変な感じがしたんですけど、どうしたんですか?』
「…………ああ、いや、なんでもない」
だが、その充実感は電話の相手が余語へ戻ったことによって、途端に消え去った。それどころか、胸の奥に冷えた鉛の球を落とされたような、重苦しい後悔が圧し掛かっている。
俺はさっき、何をした? 何をしてしまったんだ?
「怪我とかは全然してないんだけどさ、さすがに色々あって疲れたんだ。だから、詳しいことはまた後で、な」
『……本当ですか? なんか、今の先輩の声、すっごい落ち込んでますけど?』
余語はこういう時に限って勘が鋭い。そして、間違えていない。俺は今、人間と怪物の境界線になって、ふらふらと揺れている。
「んー、折角の後輩との楽しい時間が邪魔されたからな」
『誤魔化すのに気障な台詞って、全然似合ってませんよぅ』
「ははは、まぁ、今日は勘弁してくれ、本当に」
湧き上がる全能感を抑えるので、今の俺は精一杯だった。
面倒なことがあるのならば、望めばいい――――全て望むままに叶うのだから。世界のほとんどは、己の手のひらの中にある。
そんな、傲慢極まりない考えが頭の中にへばりついて、離れない。少しでも油断をしてしまえば、先ほどの能力を余語にも向けてしまいそうで。
そんな自分に心底吐き気がする。
『芦葉先輩、辛いことがあったら言ってくださいね、約束ですよ?』
「ああ、わかった」
だから俺は、逃げるように余語との会話を打ち切った。
「…………」
携帯の画面に置いた親指が、重々しく動かない。それどころではなく、頭のてっぺんから足の指先まで途方もない虚無感に襲われていた。
望めば、叶えてしまう能力。
全能に近しい、異能。
周囲のエキストラを都合よく動かす、主役の影響力。
それが自らの手の中にあるという絶望に、打ちひしがれていた。
「そうか、そうだったのか」
だが、同時に俺は気づいた。
この全能感に打ちひしがれると共に、今まで得ることが出来なかった『共感』を得ることが出来たことに。
今まで欠けていた、俺が書くべき小説の欠片に、ようやく気付くことが出来たのである。
「なら、書かなきゃな」
泥沼のような絶望感の中にも、希望がある。
どれだけ俺が望もうとも、俺が唐突に得た全能は――――小説を勝手に書いてくれることだけはやってくれないみたいだから。
だから、書こう。
俺が出来る限りの、最高傑作を。
彼女が望み、俺が応えた約束を果たすために。
「あ、芦葉君。袋ラーメンできたぜぇ! 卵はどうするー?」
「入れといてー」
…………とりあえず、小説を書き始めるのは袋ラーメンを食べてからしよう。
●●●
袋ラーメンを美味しく食べた後、俺は健治の家を後にした。
健治は俺に気を使って、『泊って行けよ』なんて言ってくれたが、さすがに最近行方不明になったばかりで外泊すると両親からガチギレされてしまうのだ。
人間の枠組みを超えてしまった俺が、今更両親の説教が怖いのか? そんな疑問も一瞬だけ脳裏に浮かんだが、即座に俺の本能が「いや、怖いっての」と全力肯定する。そう、うちの両親はごく普通の父親と母親なのだが、怒るとガチで怖い。父親の方が真顔で論破してくるし、母親は拗ねて一週間はまともに口を聞いてくれないという面倒臭さである。
結局、何時まで経っても子供にとって、親は親ということらしい。
「さて、と……始めますか」
冬花姉さんが家に帰ってきてないのが幸いだった。
俺の帰りが遅かったことで少しばかり両親から咎められたが、久しぶりに健治の家で飯を食っていたと告げると、妙に嬉しそうに『仕方ない』と言ってあっさりと許された。うちの両親は基本的にそこまで息子を疑うことをしないので、露骨な嘘を吐かずに、真実だけで言い訳をすれば意外と隠し事は出来たりするるのだ。
ただし、冬花姉さんは勘が鋭いので、俺の言い訳をあっさりと看破し、家庭内裁判が開始されてしまうのである。うん、本当に姉さん居なくてよかった。
――――さすがに、家族が一人、人間じゃなくなったみたいな話をするには、もう少しばかり時間と覚悟が必要だったから。
そして、覚悟を決めるためには対決をしなければならない。
一世一代の、命がけの勝負を。
「書きますか、っと」
俺は文章作成ソフトを立ち上げて、書きかけの小説のファイルを開く。
もうすでに小説は半分ほど書き終えているが、ここから最後まで一気に書き進めて、そこからさらに推敲を重ねるという予定もある。一度思うが儘に書き終わって、終わりじゃない。隼人先輩にも言われた様に、己が満足が行くまで、俺は書き直さなければならない。
鈍った言葉では、誰の心にも響かないのだから。
「…………しかし、人外の体も便利だな、これは」
書き続けて、書き続けて、書き続けて、書き続けている。
自宅に帰って風呂に入った後、ノートパソコンを立ち上げたのが午後八時前。そして、現在時刻が日付変更線を跨って、午後一時半。
大よそ、五時間半ほどの時間の間を、俺は集中を保って小説を書き続けられていた。
手元のキーボードは鳴りやむことなく、指先は軽やかに踊る。文章のリズムを刻み打ちながら、時折何度も止まりながら、決して停滞することなく物語を差へ進める。
既に、俺の肉体は普段の姿ではなく、銀髪金眼のイケメンモードに。
化物の肉体は人間のそれとは違い、休息を必要としない。胸から湧き上がり続けるバイタリティが枯れない限り、何時までもノートパソコンと向かい合うことが可能だろう。
「ふむ」
五時間もずっと小説を書き続けていれば、何時もならば肩や腰が凝り固まって苦しくなる頃なのだが、そんなことは全くない。むしろ、書けば書くほど体の調子が良くなってくるような錯覚すらある。
最高だ、最高のコンディションだ。このまま夢見心地で、物語の最後まで休むことなく書き続けることだってできるほどに。
「でも、だからこそ……駄目だ」
俺は最高のコンディションを、好調のリズムを断ち切る様に、あえて指先を止める。椅子から立ち上がって、台所まで歩いてココアを淹れるために休息を取る。
「絶好調じゃ、何もかもが上手く行くような気分じゃ、いけないんだ」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、俺はココアパウダーをマグカップへ入れる。少しずつお湯を淹れて、ゆっくりとパウダーで緩い生地を作るつもりで練り込みながら、お湯を注ぎ続ける。ゆっくり、ゆっくりとお湯を淹れるのが美味しいココアの作り方だ。
まぁ、だから小説もゆっくりと書かなければならない、というわけではない。早く書ければ早く書くほど良いだろうし、勢いが削がれた結果、内容の質が低下することもある。もちろん、人によって個人差はとても大きいけれど。
「最高じゃ、駄目だんだよ……最低最悪の気分でも、そんなクソッタレな俺だったからこそ、戦おうと思えたんだから」
けれど、勢い任せで書こうとしているテーマがぶれるのだけは許されない。
俺が書こうとしているのは、東雲彩花へ挑むための一作。稀代の化物を討ち取るために鍛え上げられる一振りだ。
筋がずれれば、それは致命的になってしまう。
「クソッタレが、挑むからいいんだ。そうだ、そうでなくてはいけない」
何もかもが上手く行かないような、最低な気分を抱えたままで、それでもと一歩を踏み出すから尊い物がある。
神様から鼻歌交じりに投げ捨てられた能力で、おこぼれのように世界を救うのではない。
勇者じゃなくても、選ばれていなくても、戦えることを。途方もない化物を打ち倒せるのだと、証明しなければ。
東雲彩花が俺を選んだのではなくて――――俺が、東雲彩花を選んだのだと。
「…………うし、これで八割方は書き終えたな」
長く、長く、生まれて初めてこんなにぶっ続けて小説を書いたというほどに長く、俺は小説を書き続けて、やっとひと段落付いた。
もうすでに窓の外が大分明るくなってきている。当然だ。時計を見ればとっくに早朝の五時は回っている。不思議な高揚感で眠気は無いが、ここは無理にでも休んだ方が良いだろう。一応、台所のテーブルに朝は起こさないで欲しいと両親への伝言を書いて、と。
「後は、そう、だな……」
ベッドの上に仰向けに倒れ込み、俺はぼんやりと天井を眺める。
今、書けるだけは書いた。何度も書き直して、気に入らない部分は気に入るような表現が思いつくまで、吐き気がするほど、最低な気分と付き合って書き通した。
後は、たった一つだけ、決めることを決めてしまえば、俺の小説は完成する。少なくとも、それさえ決まってしまえば、俺は止まることなく最後まで書き進められるだろう。
ただ、そのたった一つが問題なんだよなぁ。
「俺は東雲さんに勝ちたい。それは、間違いない、それだけは揺るがない。けど」
ある意味で根本的な問題であり、ずっと俺自身が無意識に先送りしていた問題だ。
そもそも、考えることすらおこがましいとすら思っていた。だが、本気で勝ちに行くのならば、当然、『その後』の事も考えなければならない。
つまりは、
「俺は東雲さんに勝った後、どうしたいんだろうか?」
東雲彩花という少女との関係を、考えなければならない時が来たのだった。




