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第21話 極めて非日常的な問題

 吉川竜二という異常者について語ろう。


 彼は生まれながらにして、既に歯が生えそろって、髪も生えていたという奇妙な赤ん坊だったという。

 その肉体は同世代の子供よりも一回り大きく、また、早熟だった。同世代では、いや、同じ学校では彼の身体能力に敵う人間などいなかったらしい。それは即ち、小学校一年生の子供に、最高学年の男子が手も足も出ず、体育教師ですら及ばないということだった。


 加えて、彼は頭の回転も同世代より一歩、先んじていた。

 幼いころは神童ともてはやされ、誰にどのような質問をされても、さらりと答えられたらしい。そう、子供をからかうように意地悪い質問をされても、思わず膝を叩きたくなるような回答を返したりなど、知識の豊富さではなく、頭の回転、柔らかさで群を抜いていたのである。


 思考が冴えて、肉体は早熟。

 文武両道の完璧超人…………それが、性格を除いた吉川竜二への評価だ。

 では、性格も含めればその評価はどうなるかと言うと。

 一言で表せば、『狂人』だ。

 倫理観のブレーキという物が、彼には存在しない。


「調べたんだけどよ、正当防衛だったら殺しても捕まらないんだってな。ああ? 過剰防衛? そうか、そういうのもあったか、んじゃあ、そうだな――――殺すのはやめておくか」


 彼が小学生の頃、無謀にも彼と敵対していた男子が居た。

 彼はその時、小学校三年生であったが、身長ではすでに六年生の男子を追い抜いていた。肉体も、さほど鍛えていないはずなのに筋肉質で、子供らしくなかった。


 そんな早熟で、アウトローを気取っていた彼の発言に感化されて、初恋を捧げる女子と言うのも少なくは無かったらしい。恋はちょっと危ない方が燃え上がるらしいが、その事件が起こった後は悉く彼への初恋は全て破れたという。


 当然だ。相手が最高学年とはいえ、小学生が喧嘩で相手を病院送りへするなど、滅多に有り得ない事態だったのだから。それが、平凡な田舎町の小学校なら尚更だ。


「ぶち殺してやると言われたから、殺されないように殺してやろうと思っただけなんだけどよお」


 教師に暴力の理由を聞かれた時、彼は笑ってそう答えたらしい。

 その後、どれだけ教師や両親が彼を叱っても、彼は平然と嗤っていた。どれだけの大人が、心を尽くそうとも、彼の性根は変えられなかったのだとか。


 人を傷つけることにまるで躊躇いが無く。

 弱者を踏みにじり、強者を挫くことを楽しみとして。

 時に、気まぐれのように誰かを助けたりする。


 そんな『よくわからない存在』こそが吉川竜二という狂人だ。

 彼自身の中に、狂ったルールが定められており、彼はそのルールに沿って動く。だが、そのルールは気まぐれに改定されることもあるので、決して安心はできない。

 実の弟の健治ですら、嵐のような暴力にさらされる時もあるのだから。

 そう、彼はさながら自然の暴威が体現したような人物で。

 幼いころから、大人も含めた周囲は、彼に振り回されて大変な目に遭っていただろう。


 ――――我が姉、芦葉冬花に出会うまでは。



●●●



『芦葉君っ! 今どこにいる!?』

「おう、どうした、健治。そんな慌てて」

『うちの馬鹿兄貴居るだろ? あの、どうしようもない馬鹿の、兄貴!』

「いるなぁ、うん、いるな」

『最近、馬鹿兄貴が芦葉君の姉ちゃんの存在を感知したらしく、妙に荒れててさ。家庭内暴力が絶えない上に、見つからないと八つ当たりで誰か殺しそうで、だからまぁ、俺が何とか体を張って抑えてたんだけど』

「なるほど、その復讐として四肢の骨を折ってくればいいんだな?」

『ちげーよ! なんでそんなに自信満々なんだよ、二人揃ってぼこぼこにされた経験があるのに! そうじゃなくて、今日、ついに抑えきれなくて弟である芦葉君を捕まえて、人質作戦やらかそうとしているみたいだから、ガチで気を付けてくれよ』

「ああ、大丈夫だ、問題ねーよ」

『そうか? 本当に気を付けろよ? 自宅に籠って、何かあったら即座に警察に連絡してくれよ? 地元警察なら、直ぐに装備を整えて駆けつけてくれるから』

「完全に人じゃなくて猛獣扱いされてんもんな、あの人」

『とにかく、死なないようにな!』

「あいあい、心配しなさんな」


 苦笑共に、俺は通話を切った。


「おうおう、うちの弟と来たらひどいもんだよなぁ。こんなに優しい兄を猛獣扱いだぜ? どう思う?」


 通話を切ると、俺の背後から気安く声がかけられる。声の主はもちろん、竜二さん。実の弟に猛獣扱いされている、駆除推奨の害獣人間だ。間違ってハンターの人に撃たれればいいのに。いや、それでは撃ったハンターの人が可愛そうか。


「アンタで『優しいお兄さん』なら、うちの姉は聖人君子だぞ?」

「馬鹿言え、お前の姉ちゃんは俺よりもやばいぞ?」

「失礼っすね。確かにうちの姉は馬鹿で少々頭がイカレてますが、アンタみたいに誰かを理由なく傷つけたりしませんので」


 ひらひらと、シャツの一部を千切って適当に止血した右手を振って、被害を受けていますアピールを送る俺。なお、表面上は飄々とした態度を保っているが、内心は割とムカついている。だって、この貫通傷めっちゃ痛いというか、少し動くとまた血が出るんだよ、くそが。


「あーん? 一応、俺だって理由ありきで行動してんだぜ? さっきダーツを投げたのは、お前とその女が幸せそうに歩いてイラッとしたからだな」


 理由が最低すぎだった。

 このクソ野郎と少しでも関わらせないように、先に余語を逃がしたのは正解だったな、やはり。もっとも、余語は大分渋って逃げ出そうとしなかったが、俺の右手を見せて「警察と救急頼むわ、マジで」と言うと、泣きそうな顔で頷いてくれた。

 余語にこんな顔をさせた原因を、俺は許すつもりはない。


「はっ、嫉妬はやめてくれませんか? つーか、死ね」

「くはははは、辛辣だなぁ、おい」


 凶悪な面を歪めて、愉快そうに笑う竜二さん。

 それは、幸せそうにしている年下の女子へ、躊躇いも無く刃物を投げつけるクソ野郎に相応しい笑い方だった。急性アルコール中毒とか、ニコチン中毒で死ねばいいのに。いやほんと、健治の兄貴でなければ会話すらしたくないほどに、俺はこの人を嫌悪している。

 この人に執着されている、冬花姉さんも、同様に。


「ところで、これってどこまで登るんですか? 何階まで?」

「もちろん、最上階……屋上までだ。逃げたら、そこの窓から蹴り落とすぜ?」

「はいはい」


 俺は現在、竜二さんの案内で近くの廃校舎の中を歩いていた。もちろん、当然の如く無許可である。封鎖されているテープを跨いで、何のためらいもなく、廃墟となったかつての母校へ足を踏み入れていた。


「しっかし、母校が寂れるってのは悲しいもんだよな、芦葉。俺たちの思い出の学校が、今では肝試しのスポットだぜ?」

「田舎に若者が残らないんだから、しゃーないんじゃないですか? つーか、アンタの小学時代の思い出なんて大抵、血にまみれているだろうが」

「くははは、ほら、この壁のへこみ見ろよ。ここに思い切りデブの上級生を投げつけてなぁ」

「案の定、最低すぎる思い出だ」


 竜二さんは物騒な小学校時代の思い出を楽しそうに語りながら、俺の前を歩いていく。俺はその後を、適当に相槌しながら付いていった。

 児童の数が足りず、数年前に廃校となった小学校。

 竜二さんは楽しげに思い出を語っているが、生憎、俺にとってここはあまり楽しい場所ではない。当然だ。自分が初めて小さな社会の中に入り込み、迫害されて、いじめを受けた場所をどうして楽しいと思えるのだろうか?


 まぁ、苛めていた奴らは全員ぶちのめしたし、楽しい思い出が皆無というわけでもないので、特にトラウマを感じているわけでもないのだが。

 特に廃校になったとしても、別に悲しみも寂しさも覚えない。


「小学校時代、楽しいことも辛いこともいっぱいあったな」

「アンタでも辛いことがあったんですね」

「主にお前の姉が原因だ」

「でしょうねぇ」


 薄汚れた廊下を、土足で進んでいく。

 たまにひび割れた窓ガラスや、小さな落書きぐらいは存在するが、そこまで目立って荒れている場所は存在しない。田舎町の廃校舎なので、たまに不良共入ってくることはあるだろうが、それでも都会の廃墟に比べたら大分マシな保存状態だ。まぁ、ただ単に壊すための予算や、潰した後の土地の予定が付いていないだけだろうけど。


「さて、ここが喧嘩の舞台だ」


 ずがん、と竜二さんが乱暴に鍵のかかったドアを蹴り破った。

 いくら数年前に廃校になったとはいえ、結構鍵やドアは真新しく見えたのだが、それを容赦なく蹴り破る怪力こそが、竜二さんの恐ろしさの一つである。


「安心しろ、不良共がたまに溜まり場にしているから、鳥の糞とかそういう汚物は定期的に清掃されているぜ。まぁ、煙草の吸殻や空き缶程度は見逃せ」

「ああ、通りでドアや鍵が新しい感じで……それを蹴り破ったのか、アンタは」

「いつも合鍵を持っているわけじゃねーからな、仕方ねぇよ」


 げらげらと、竜二さんは豪快に笑う。

 この人は常人よりも丈夫な体と、恐るべき怪力を持っているから、時々行動が脳筋になるのが怖い。おまけに、それでいて頭が悪いわけじゃないから、厄介なのだ。やろうと思えば、搦め手にも対応して来るところとか。


「懐かしき屋上だ。知っているか、芦葉? ここで俺は、生まれて初めて他者へ敗北を認めたんだ。つまり、お前の姉にぼこぼこにやられたわけだ」

「鳥もちと人海戦術を使った大物獲りだったとは聞いていますが?」

「身動きが取れなくなった俺を、全裸にして校内引きずり回してくれてなぁ、あいつは」

「残念でもなく、当然じゃねーですか?」


 何せ、この人は唐突に他者に暴力を振るう悪癖があるので、それに巻き込まれて姉の友達が怪我をした時があったのだ。そう、あれは小学校五年生の時だったか? 珍しくガチギレした姉さんによる復讐によって、敗北を知らない怪物が討ち取られ、辱められて、その権威は奈落の底まで落ちたのだった。


「いやぁ、あんときは死ぬほど悔しかったぜ」


 げらげらと、竜二さんは笑う。

 愉快そうに。

 愛しそうに。

 憎々しそうに。


「あれから何度も、何度も、あいつに勝負を挑んだが、結局、一度たりとも俺はあいつに勝てなかった」


 まだ青く、明るい空を竜二さんが仰いだ。

 その横顔にあるのは確かな屈辱と、それをも塗りつぶす執着。そう、竜二さんにとって姉さんは宿敵に等しい存在なのだ。

 だが、姉さんにとっては宿敵でありながら、鬱陶しい外敵扱いなのだが。つまり、基本的に嫌っているし、ガチで会いたくないと思われている。


「なぁ、芦葉。芦葉昭樹。お前はさ、どうして俺はあいつに勝てないと思う? 肉体的にならこっちが有利だし、頭の回転だってそんなに変わらないと思うんだけどよ?」


 笑いながらも、強制的に答えを求める質問だ。

 いつだって、吉川竜二という異常者は笑いながらブチ切れる。笑顔で居る時が一番、理性が蒸発しているのだ。


「うーん、そうですねぇ」


 だからこそ、こういう時が一番適していると俺は思う。


「ぶっちゃけ、役者が違うんじゃねーんですか?」


 喧嘩を売って、白黒はっきりとさせるのには。


「…………おう、おうおうおう、いいねぇ、その啖呵」


 竜二さんの笑みは深まり、愉快そうに爆発寸前。今すぐ俺を殴らないのは、俺が芦葉冬花の弟だからという一点に限られる。

 あいつの弟は、どれだけ面白いことを囀ってくれるのか? そういうことしか頭に無いのだ、この異常者は。

 だから、うちの姉とは役者が違うというのに。


「アンタはただ一人で、周囲を引っ搔き回して変えていくタイプの人間だ。だが、うちの姉は周囲を巻き込んで、共に変わっていくタイプの人間なんだよ。だからまぁ、単純に言ってしまえば、本当にそうなんだよな、役者が違う」


 姉の言葉に添って説明するのならば、この世界という舞台の中で。

 きっと竜二さんはそれなりの役を担っていて、それなりの『悪役』として名を馳せるかもしれない。だが、『悪役』である限り、『主人公』であろうとするうちの姉には勝てない。

 勇気と絆と知恵を持って、悪を倒す『主人公』に、決して『悪役』は勝てないのが世の理なのだ。

 少なくとも、うちの姉――芦葉冬花は、そういう世界で生きているのだから。


「アンタがそのままでいる限り、うちの姉には勝てねぇよ。身の程を弁えな、チンピラ」

「…………くは、くははははは」


 俺の言葉に、竜二さんは犬歯を剥き出しに笑う。

 腹を抑えて、くの字に体が曲がるほど笑って、笑って。


「ぶち殺すわ、お前」


 解き放たれた猛獣の如く、闘争を開始した。



●●●



「おらぁっ!!」


 とりあえず、猪突猛進してきた竜二さんを負傷している右手で殴りぬいた。その顔面に向かって、血塗れの手で拳を作り、容赦なく、完璧なカウンターを決める。


「お、おがあああああおおお……」


 カウンターを決めた後、振り切った右手が嫌な音を立てた。超いてぇ。

 俺は見事に先制攻撃を決めることが出来たが、その代償は決して安くない。ただでさえ怪我している右手で、渾身の力を込めて拳を叩きこんだのだ。止血されていた部分から血が噴き出るわ、思い切り殴り過ぎて拳の骨にひびが入っているような感覚があるわで、もう最悪だ。


「は、ははははは! やっぱり、テメェは面白れぇなぁ、芦葉ぁ!!」


 最悪ここに極まっている。あれだけ渾身の力を込めたカウンターを決めたというのに、竜二さんは倒れることも無く、平然と口元の血を拭うのみ。しかも、どちらかと言えば口の中が切れた血液というよりは、俺が殴ったことによって付着した血の割合がでかい。

 つまり、俺は初手で利き腕を失い、竜二さんはなおも健在ということになる。

 なんなの、この人。化物なの?


「俺は面白くねぇよ、なんだよ、アンタ。一般的な人間は思いっきり顔面を打ち抜かれたら、もう少し痛みを覚えて倒れると思うんだが?」

「くははは、俺だって痛くないわけじゃねーぜ? 久しぶりに良いのを一発貰ったから、絶妙に足にきてやがる。でもなぁ、芦葉」


 にぃいい、と笑みを深めて竜二さんは疾走。一息で俺との距離を肉薄し、お返しとばかりに拳を振るう。

 俺は、右腕の痛みで碌に回避行動もとれず、辛うじて左腕で直撃を避けた。だが、それでもなお、竜二さんの一撃は重い。直撃を避けたというのに、衝撃で頭が揺さぶられて、足が止まってしまう。


「この程度じゃ、全然満足できねぇよ」


 足を止めた俺に対して、竜二さんは一切容赦なく乱打の嵐を浴びせかける。たった一撃で意識が持っていかれそうな打撃が、息を吐く暇もなく次々に放たれるのだ。これは、インドア派の男子高校生には辛いものがある。


「血反吐をまき散らせぇ!」


 物騒な言葉と共に、竜二さんのボディブローが打ち出された。その衝撃は碌に鍛えていない腹筋を貫通し、内臓を揺さぶり、たまらず俺はコンクリート床に倒れ込む。


「おいおい、この程度か? 違うよな、なぁ、芦葉昭樹ぃ! お前はあいつの弟なんだから、もっと頑張らないとなぁ!」


 そんな俺に対して思い切り踏みつけをかまそうとするので、竜二さんは本当に鬼畜だと思う。だってこれは普通に死ぬ攻撃だぞ、くそが。


「あ、ああぁっ!」


 死力を振り絞り、俺は転がって踏みつけを回避。その後、立ち上がると見せかけて、しゃがんだまま竜二さんの脛を踏みつけるように蹴り込む。


「はっ! 悪いねぇな、それ!」


 当然の如く、竜二さんは俺の蹴りに合わせて己の足を蹴り出す。蹴りと蹴りの衝撃が合わさり、その反作用で俺は大きく後退。やっと、一息ついた。


「おうおう、良く避けたなぁ、面白いぜ、お前」


 そんな俺に対して、竜二さんは余裕そうな表情でこちらを観察している。


「ただの男子高校生になんて真似しやがる、死ねよ、異常者が」

「く、ははははは! 異常者、異常者と来たか! はははは!」

「何笑ってんだよ、ああ?」


 俺の悪態に、何故か竜二さんは愉快そうに笑う。

 まるで、心底面白いブラックユーモアでも聞いたの様に。

 腹を抱えて、大仰に笑っている。


「いやいや、笑うわ、これは。だってお前、冗談だろ? なぁ、おい」

「何が冗談だ?」

「は、はははは、マジかよ、超ウケるぜ。つーか、よくもまぁ、そんな精神性で人を異常者なんて呼ぶなぁ、お前は。少なくとも、自覚があるだけ、俺はマシじゃねーか?」

「だから、何の話だよ?」


 俺が睨みつけるのにも構わず、ゲラゲラと竜二さんはひとしきり笑う。

 嗤って、笑って、ひとしきり笑った後に、途端に表情を消して、真顔で俺に告げた。


「異常者はお前の方だよ、芦葉昭樹」


 …………は?


 竜二さんの言っている言葉の意味が本当にわからず、俺は喧嘩中にも関わらず、大口を開けて間抜け面を晒す。


「いいか? 普通の人間は手の甲から掌まで貫通するような負傷を受けたら、泣き叫ぶか、痛みでその場から動けなくなるぜ? なんであっさり止血して、その上、この俺と喧嘩しようとしてんだよ? おまけに、負傷した右手で思い切りカウンター? ああ、有効だね、思い切り有効だったさ。だって、そんな異常な真似、誰がやると思うかよ」


 そんなことを言われても、なぁ? 確かに猛烈に痛かったが、余語後輩が居るから露骨に痛がるわけにもいかず、かといって今の状況でも弱みを見せるわけにも行かず、頑張らなければいけないから、頑張っただけだ。俺は喧嘩が弱いのだから、せめてはったりだけでも強がらないといけない。


「おまけに、どうしてそんな有様でまだ戦おうとしてんだよ? 意味わかんねぇ。言っておくけど、時間稼ぎだとしたら悪手だぞ、それは。お前さ、あの女に通報頼んだみたいだがよ、こっちはわざわざ居場所を変えてこんな所に居るんだ。少なくとも、テメェを叩きのめすまでの間は、警察は来ねぇ」

「…………だとしても、逃げたら駄目だろうが」

「そうだな、逃げたら俺はお前を追うし、他の奴に被害を出すかもしれねぇ。八つ当たりでな? 理屈はそうだ、お前は正しいよ。けど、その正しさを実行できるほどの強さが、お前にあるのがおかしい」


 ここにきて俺はようやく気付く。ずっと笑っているから分からなかったが、竜二さんの目の中にあるのは、俺に対する忌避。そう、何か悍ましい生物でも視ているかのような、拒否感と嫌悪感だった。


「なんなんだ、お前? 何か特別な訓練を受けたわけでもねーんだろ? 武術をやっていたわけでもない。俺がお前の家族を殺していたり、特別な仇であるわけでもない」

「いや、健治を殴ってたろうが、くそが。自分の罪を自覚しろよ、殺すぞ?」

「……そう、それだ。それだよ、お前。いくら何でも、おかしいだろうが。友達のために戦う? そりゃご立派だ。けどな、何事にも限度がある。『明らかに敵わない相手に対して、友のために勇猛果敢に戦う』……戦国時代じゃねーんだぞ、おい。この平和ボケした日本の中で、どうしてそんな戦闘民族みたいな思考をしてんだよ、お前は」


 淡々と、挑発するでもなく、淡々と竜二さんは俺へ告げる。

 竜二さんという異常者から見た、俺の異常を。

 竜二さんでさえ、異常と断じる俺の精神性を。


「普通の人間がこういう時、どうするのか教えてやろうか? 逃げんるんだよ……自分の中で必死に言い訳を考えた挙句、逃げるんだよ。もちろん、仲間を置き去りにしてまで、逃げるとか、そういうことじゃねーぞ? お前の場合に当てはめるのなら、戦うんじゃなくて一緒に逃げるんだ。その過程で仕方なく、お前が俺を足止めする展開なら分かるぜ? でも、何、最初から戦う気満々なんだよお前。俺の案内にも大人しく付いてくるしな。ましてやお前、傷を受けてるんだぞ? 軽症じゃねー傷だぞ? 普通は逃げて、救急車呼ぶわ」

「…………」

「誰も教えてやらないのなら、俺が教えてやる。お前は異常だよ、芦葉昭樹。俺が知る限り、昔から、ずっと。お前は異常だった」


 言い返したい言葉が無いわけではなかった。所詮、竜二さん一人だけの感性で、勝手に告げられただけの言葉だ。粗を探そうと思えば、いくらでも見つかる。それこそ、昔から異常だったなんて、俺は意地でも認めない。


 けれど、けれど、確かにそうだな。

 確かに、貫通傷を受けたまま戦おうとしたのは、少し、いや、結構頭がおかしいのかもしれない。いくら、『物語の中の主人公』がやりそうな行動だったとしても、俺は現実に生きる、一人の人間でしかないというのに。


「お前は俺にいくら殴られても、心が折れなかった。それどころか、殴られながら俺を見下していた。俺は、殴りながらお前を恐れていたよ。化物のように思っていた。流石は、芦葉冬花の弟だ。只者じゃねーってさ。だからな? 芦葉」


 無理やり、竜二さんは笑顔を作って俺と向かい合う。

 さながらそれは、恐怖を押し殺して化物に挑む戦士の如き目だった。

 思えば、今日はやけに竜二さんの言葉数が多い。何かを誤魔化すように言葉を多くして、笑みを貼り付けていた。


「お前と戦うのは面白いんだよ。殴る度にアルミホイルを奥歯で噛むような気味悪い感覚を堪えて、大声で笑うのは楽しいんだ。生きているって気がするんだ。きっと、お前を心から屈服させて、倒すことが出来れば、俺はもっと強くなれると思うんだよ」


 随分と勝手な言い分だ。

 人を勝手に異常者扱いして……まぁ、それは俺も同じだが、あっちは異常者扱いして欲しがっているようだし。ともあれ、勝手に俺を異常者扱いするのはやめて欲しい。色々と世間ずれしているかもしれないが、そう、俺はちょっと変ではあるが、そこまで異常者ではない。

 そのはずだ、そうでなければ、おかしいだろ?


 …………いや、今は考えないでおこう。とりあえず、目の前の問題を解決しなければならない、どうにかして、この場を切り抜けなくては。

 最悪、一旦逃げながら通報して、警察を上手く誘導すれば――


「だから、俺は今からお前の手を砕く。全部の指を追って、手を踏み砕いてやる」


 ああ?

 目の前の異常者が、猛獣のように笑って何かを言っている。


「確か、芦葉。お前は小説を書いているんだったよな? なら、今からお前を二度と小説とやらを書けない体にしてやる。もちろん、それによって俺が被る罪もきちんと理解しているぜ? でも、お前を屈服して、倒したなら、次はお前の姉だ。お前を倒して、お前の姉まで倒せれば、俺は当面の未練は無いからよ。いくらでもムショにぶち込まれても構わねぇ」


 …………まぁ、あれだ。別にアンタが勝手に盛り上がる分にはいいんだよ? 別にな? 別にそういうのは止めない。勝手にやれって思うんだ。けどな? そういうな、俺の存在理由を踏みにじるようなさ、そういうことを言われるとさ、さすがにさ。


「だから芦葉、お前は全力で俺を――――」


 殺したくなる。


「黙れよ、チンピラ」


 喧しい囀り声が止まる。

 否、俺が止めていた。その喉を、壊れたはずの右手で絞めて。

 何時の間に移動したのかとか、そもそも右手が動く理由とか、そんな物はどうでもいい。


「が、あ、あし、芦葉ぁ……っ!」


 俺の存在理由を。

 東雲彩花との勝負を。

 小説を書くことを害するのならば、容赦はしない。


「お前のお望み通り、化物になってやるから、有難く思え」


 そして、俺は…………体の内側が、何か軋むような音を聞いたのを最後に、意識を失った。



●●●



 じりりりり、じりりり、という聞き覚えのある喧しい音が聞こえる。

 これは確か、目覚まし時計のアラームだ。俺の部屋にある、古めかしくも頑丈な代物。子供のころからの愛用品で、十年以上はこの目覚まし時計に起こしてもらっている。

 もう朝なのか? 寝ぼけた思考で瞼を開くと、俺はがくん、と奇妙な肩すかしを得た。


 んあ?

 このアラームが聞こえる時は大抵、俺は自室のベッドで横になっているのだが、今回はそうではなかった。

 俺は椅子に座っていた。

 アンティークショップに売ってような、座り辛そうな椅子。その背もたれに体重を預けて、ずっと座っていたらしい。おまけに、寝起きの所為なのか、体が碌に動かない。それどころか、口を動かして言葉を紡ぐことすらできないとは。


「おはよう。まさか、ここまで来ることになるとは思っていなかった」


 そんな俺の眼前に、銀髪金眼の男が俺と同じ椅子に座っていた。

 長身痩躯で、藍色の着流しをさらっと着こなすイケメンだ。どことなく、東雲さんの顔立ちに似ていることから、また東雲さんの眷属シリーズかと思った。


「いや、俺は東雲彩花の眷属ではないよ。この部屋の主ではあるけどね」


 銀髪の男に言われると、俺の視界が急に広がる。まるで、俯瞰的に見降ろしているかのようにこの部屋の全貌が脳内に入ってくる。

 アンティーク調と妙な最新家電の組み合わせ。そう、この部屋はかつて俺が入ったことがある客間だ。

 東雲彩花の屋敷、その一室だ。

 何時の間に俺は、こんなところに運ばれたのだ?


「違うよ。形は一緒だけれど、本質は違う。やろうと思えば一瞬で模様替えも出来るけど」


 微笑みと共に銀髪の男は、指を鳴らす。

 ぱちん、と乾いた音が鳴れば、そこは瞬く間に俺の自室へと早変わりしていた。意味が、まるで分からない。これは夢なのか?


「夢と言えば、夢。夢でないと言えば、夢ではないさ」


 とん、と銀髪の男が優しく目覚ましのアラームを止めた。

 ごく普通に、ベッドの枕元に置いてある目覚まし時計のスイッチを押しただけ。

 けれど、目覚ましのアラームが止まってから、俺は疑問を覚えた。先ほどの部屋にはこの目覚ましは無かった。見つからなかった。なのにずっと、目覚ましのアラームは鳴っていて、けれど、その目覚ましは今、止められている。


 あるはずのない場所でアラームが鳴っていて、それが今、止められたことを理解した。

 これは、夢だ。夢でなければ、道理が合わない。


「まぁ、どっちでもいいさ。とりあえず、自室で話し合いなんて緊張感が無いだろ? だから、さっきの部屋に戻そうか」


 再び、ぱちんと乾いた音が鳴らされると、目覚めた時の客間に戻っていた。

 意味不明で、訳が分からない。俺は確か、竜二さんと殴り合いの喧嘩をしていたはず。なのに、どうしてこんな夢を? ひょっとして、俺は既に殴り倒されて、現実逃避のためにこんな夢でも見ているのか?


「違うね。ある意味、真逆とも言える状況が展開されているけど」


 やれ、と大仰に銀髪の男は肩を竦める。

 その動作に既視感と、妙な苛立ちを覚えた。何だろうか、耐えがたいというか、見てられない気分になってくる。


「それは仕方ないね。何せ、君からすれば俺なんて存在は見たくない筆頭だろうよ。君を起点にした可能性の一つとは言え、こんな有様に成り果ててしまったのだから」


 …………意味が、分からない。

 そもそも、俺が何も話していないのに、どうして俺の考えを知っているのか? いや、夢なんてそんな物か?


「そうそう、夢なんてそんな物さ。そういう風に考えると、俺の正体も分かるんじゃないか? ほら、よく言うだろう? 夢の中に出てくる人物は結局の所、『自分自身が作り出したキャラクターに過ぎない』ってさ」


 やっぱり、夢じゃねーか、くそ。早くこんな夢から覚めて、戦わなくては。このままでは小説を書けない体にさせられてしまう。


「その心配は皆無かなー。むしろ、こっちが相手を殺さないかが心配でね。というか、さすがに殺人は不味いだろうという俺の判断で、君の意識が此処にあるわけで。現実の君の体にはきっちり手加減を加えるように命令してあるから問題ないよ」


 問題しかねーよ、意味わからねーよ。何で俺は、夢の中でこんな意味不明な自問自答を繰り広げないといけねーんだよ。くっそ、自分が考えた癖に、なんでこんなムカつくイケメンキャラを登場させているんだと苛立つわ。


「顔は仕方ないさ、東雲彩花はこういう顔を好むのだし」


 …………はい?


「さて、訳が分からないと君が言うから、軽く説明しようかな? 君が東雲彩花と交わした契約は、世界の境界すら飛び越えて、無数の平行世界に波紋し、影響を及ぼした。その結果、生まれるかもしれない可能性の一つが俺さ」


 待て、夢じゃないのか?


「夢だよ。君の脳内で繰り広げられている映像と記憶の処理という点で言えば。厳密に言えば、俺はまだ存在していないことになるのだけれど、そうだね、無数に存在する平行世界の自分自身の一人が、君の意識にお邪魔していると思えばいい。ほら、君がたまにやっているあれだよ。あれの人格を同期していないパターンさ」


 涼やかな笑みを口元に浮かべたまま、聞き取りやすい声で説明する銀髪の男。その姿や行動は、とても『俺』であるとは思えない。

 こんな可能性が、本当に存在するのだろうか?


「存在するんだよね、これが。小説も書けない、特に腕っぷしも強くは無い。ただ、妙に人を騙すのが得意だった俺、その可能性の果て。神様からその力を奪い去って、見事に殺してしまった俺。うん、例えばそういう可能性はいかがかな?」


 なんだ、何を言っているんだ、お前は。

 銀髪の男が笑顔で言葉を口にするたびに、鋭い頭痛が俺を襲う。聞き覚えの無い言葉が、見えるはずの無い光景が、脳裏に浮かぶ。



 ――――微笑み、手を伸ばす美しき少女。東雲彩花。胸元は赤で彩られ、口の端からとめどなく赤が流れている。致命傷だ。例えそれが、人知を超えた存在であっても、その力は既に奪い取られているのだから。


「あ……あ、げぼっ……わ、わた、し……」


 何度も東雲彩花は言葉を詰まらせ、むせながらも、儚げな笑顔で『俺』へ告げる。


「私は、君を――■■■■」


 聞いてしまったその言葉は、魂を縛り付ける呪いに等しい。

 だから、後悔の声が、慟哭が、喉から咆哮のように放たれて。

 そして、そして――――



「君は後悔をしないようにね。絶対に、間違ってはいけないよ、俺たちの起点にして原点」


 映像は終わり、頭痛も収まった。

 けれど、疑問だけが尽きない。疑問は次々に生まれて、言葉にもできないほどに思考を埋め尽くしていく。仮に、この場で俺が言葉を紡ぐことが出来たとしても、俺は自らの疑問に押しつぶされて、碌に質問することもできないだろう。

 だから、だから、せめて一つだけ、縋る様に必死で思う。

 なんなんだよ、これは!?


「騙すつもりが騙されて、惚れた女が死んだところで、そいつに惚れていたことに気付いた馬鹿の末路さ。気にするな」


 気にするなってお前、気にすることだらけだろうが、おい。


「今の君が気にすべきことは、もっと違うことさ。大丈夫、この後、君が何を感じようが、何を思おうが、そうだね、『小説を書くことに支障は無い』からさ。だからまぁ、そろそろ夢も終わることだし、良い小説を書きなよ、君」


 待て、まだ聞きたいことが――


「じゃあね、汝の道に幸いがあらんことを」


 哀愁が浮かぶ微笑みを浮かべ、銀髪の男は俺を見送った。

 こいつは何を間違えて、俺は何を間違わないようにしなければいけないのか?

 その問いを投げかける暇もなく、俺の意識は再び暗転する。



●●●



 ぱちん、とシャボン玉が弾けるように俺の意識は覚醒した。

 唐突に、午後の微睡の最中に、誰かに肩を叩かれた時のように。


「…………は?」


 覚醒した俺の前に広がっていたのは、瓦礫の山だった。

 かつて、学校だった何かの跡だった。三階建ての校舎で、確かにそれなりに古い学校ではあったが、空爆でも受けなければこんなにもひどい有様にならないだろう。


 何せ、三階建てだった校舎の約半分ほどが崩れ落ちて、さながらガラス細工がハンマーでたたき壊されたかのように、あらゆる瓦礫が散乱しているのだから。

 地面に足を付けて、呆然と立ち尽くす俺を起点として。


「いや、いやいやいや?」


 意味が分からない。

 何故、屋上に居たはずの俺が、校庭の上で立っているんだ? それに、何故、校舎が半壊しているのか? しかも、爆弾でも落とされなければ、あるいは、何かとてつもない化物が暴れ回らなければ、こんな風にはならないだろうという有様だ。

 おまけに、まるで俺の位置から物凄い力が振るわれたかのような痕跡がある。

 さながら、漫画やアニメの必殺技のように、校舎の地面を深く抉った爪痕が、そのまま半壊した瓦礫の山まで続いている。


「なん、だよ、これは?」


 混乱し、額を抑えようと右腕を動かして、俺はようやく気付く。

 乱暴な使い方によって、ほぼ壊れかけていたはずの右手が、何の痛みも発さない。それどころか、力を込めれば込めるほど、確かな肉の感触が返って来た。


「…………は、ははは」


 止血していた布を外すと、そこには傷口が無かった。

 まるで、最初からそんな傷など無かったかのように。手の甲から掌まで貫通していた傷が、完治していた。いや、ここまで来ると『復元』と呼んだ方が正しいかもしれない。


「ははは、ははははは」


 乾いた笑みを零しながら、俺はおぼつかない足取りで瓦礫の山へ向かう。

 ふらふらと、ふらふらと、探したくも無い存在を探して、探して、そして、五分ぐらいの捜索の末に、俺はようやく見つけた。


「いよお、化物」


 四肢が全て変な方向へと折れ曲がり、一人では立つことも覚束なくなった、敗北者。

 俺が異常者と呼び、化物だと思っていた存在が。

 吉川竜二が、敗北を認めるように、俺を見上げていた。


「まさかこんな隠し玉があるなんてな、くははは。今までは本気じゃなかったってことかよ? あるいは、後天的に獲得したのか? いや、どっちでもいいな、もう」


 へらへらと、妙に爽やかに竜二さんは笑う。

 嗤っているのではなく、笑っている。


「役者が違う、か。ああ、納得したぜ、心底。何せ、ジャンルが違うんだ。こっちが不良漫画で最強だったとしても、怪物が出てくるようなファンタジーには敵わない。ほんと、つくづく思い知ったぜ、俺は」


 まるで、憑き物が落ちたかのような顔だった。

 ついさっきまでの執着が消え去ったかのような、満足した顔。


「俺の負けだよ、芦葉昭樹。お前は俺よりもやばくて、いかれていて…………どうしようもなく、強い」


 好き勝手に言葉を告げると、痛みが限界まで達したのか、竜二さんは意識を失った。

 残されたのは、勝利してしまったこの俺だけ。

 勝てないはずの勝負に、完膚なきまでに勝利してしまった、俺だけだ。


「…………」


 呆然と空を見上げると、段々と空が茜色に染まっている。

 遠くからは段々と、サイレンが鳴る音が近づいていることが分かった。この場に居てはいけない。それは分かっている。、けれど、最後に一つだけ確認べきことが、俺にはあった。


「…………はは、なるほど」


 瓦礫の中に混ざった、洗面所の鏡。その破片を拾い上げて、俺は己の顔を確認する。

 鋭い破片を無造作に掴んでも、薄皮一つ切れない異常を無視して。


「確かにこれは、化物だ」


 ――――その破片には、銀髪金眼の男が映っていた。

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