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第16話 霧中にて、交わる何か

 ぜぇ、ぜぇ、と乱れた呼吸の音が喉の奥から吐き出される。

 効率的な呼吸の方法なら、陸上部のクラスメイトから教えて貰ったことがある。もちろん、俺は普段から走る時はそういう呼吸の方法を心掛けていた。だが、当然の事ではあるが、それは何の危険性も無いと保証された場合に限られる。

 そう、例えば、


『あははははははっ! たのしーですね! こうやって、男の子を追いかけるのは! まるで、砂浜で追いかけっこする恋人みたいです!』


 背後から、命を脅かすような化物が追いかけている場合なんかは、呼吸の方法なんていちいち気にする余裕なんて無いだろう。

 今の俺のように。


「――だぁ! くそっ! はぁ、ぜぇ――――ぁっ! んだよ、クソが!」


 悪態を吐き捨てて、震える足に喝を入れる。

 とっくに陽が落ちて、月明かりも碌に差さない暗い夜。頼りになるのは、僅かな街灯から零れる灯りのみ。けれど、街灯が照らすのは街の大通りだけ。そんな場所を呑気に走っていたら、瞬く間に後ろの怪物に追いつかれる。

 だから、目を凝らして、少しだけ闇に慣れた視界で、狭い路地の先を目指す。


「くそくそくそくそ――――っがぁ! あんなの、あんなのありかよ!? それでも、ここは現実かよ!? いつから、俺の現実はっ! あんな化物が現れるようになったんだよっ!!?」


 叫ぶだけ、無駄。むしろ、自らの居場所を教えるような愚行でしかなかったが、俺はそれでも叫ばずにはいられなかった。

 だって、こんな理不尽は無いだろ? 想像できるわけないだろ? 俺は妄想豊かな、『作家志望の物書きじゃない』んだよ! 誰が、こんな荒唐無稽な展開を予想できるんだよ!?

 夜の街を歩いて居たら、いきなり化物に追いかけられるなんて。


「――がっ!?」


 突如として、俺の眼前に壁が現れたかのように感じた。いや、違う。俺が勢いをまったく殺さずに、思い切りアスファルトの路面へダイブしてしまったのだ。当然、貧弱な俺の肉体は、頑強なアスファルトとの激突に悲鳴を上げ、無様に這いつくばる。

 一体、何があった? どうしてだ? 何かに躓いたのか?


「……ああ、そうかよ。そうだったな」


 痛みを堪えて、俺は違和感を覚えた右足を見る。すると、その右足首には白い縄のような、布のような物が巻き付いていた。恐らく、俺が原因で俺は転倒してしまったのだろうな。


「蜘蛛は糸を吐く物だ……確か、それで獲物を捕まえる品種もいたよなぁ、くそが!」

『だいせーかぁいー♪』


 白い縄――糸、の先に視線を移せば、闇の中から薄らとその異形が姿を現していた。

 まず、目につくのはその異形……蜘蛛の下半身。甲殻類にも似た、固そうな紫色の足。それが八本。腹部にはでっぷりとした曲線の蜘蛛の胴体。その臀部から、縄にも見えるほどの極太の糸が、生み出されていた。

 そこまでは、まぁ、いい。

 蜘蛛のでっかい化物であれば、俺もここまで取り乱したりはしない。ここまで嫌悪感を抱かない。そう、問題はそこから上だ。


 ――――胴体から上が、見覚えのある女子クラスメイトの姿をしていることだ。


『んふ、ふふふふふ……ああ、こうして見ると可愛らしいね、芦葉君って』

「……恩田さん、なのか?」


 恩田さん。

 俺のクラスメイトであり、どこにでもいるような文学少女。

 眼鏡をかけた黒髪ショートの、少し地味目な女の子。話したことは数回しかなかったが、それでも、この状況でも、クラスメイトの顔を忘れるほど俺は不義理じゃない。


 例え、彼女の顔から銀縁の眼鏡が除かれていても。

 例え、彼女の上半身が一糸まとわぬ裸体だったとしても。

 例え――――――――下半身が、巨大な蜘蛛の胴体に置換されていたとしても、だ。


『そうだよ。出席番号八番の恩田おんだ 沙月さつきだよ。時々、芦葉君と話したことがあるよ。うん、でも、そんなに仲良くなかったと思うけど、よく気付けたね? あ、ひょっとして私の事が好きだったりしたの?』

「はは、今から、その物騒な下半身を人間に戻してくれれば惚れてしまうかもしれない」

『やだ、上半身だけで満足できないなんて、芦葉君のエッチ♪』


 可愛らしい声と共に、俺の右足に――多分、太ももに――焼けるような激痛が奔る。声すら、出せない。勝手に視界が滲む。涙が零れて、痛みのあまり体が硬直する。僅かな身じろぎさえも、更なる激痛を呼んでしまいそうで。


『エッチな芦葉君にはお仕置き、だぞぉ?』

「――――が、が、あっ!?」


 喉の奥から、勝手に俺の悲鳴が湧き上がる。

 俺の意思など、関係ないように。激痛の電気信号によって、俺の体が勝手に呻く、喚く。悲鳴をまき散らして、無様な声しか出せない。

 漫画やアニメなどでは、根性や気合いで激痛を耐えるシーンはよくあるのだが、ああ、実際に体験してみてよくわかる。あんなのは、嘘だ。あんなのは、無理だ。少なくとも、俺には無理だ。この苦痛に耐えることなんてできない。


『んふふふ、痛い? 苦しい? 辛い? やめて欲しい? いいよ、芦葉君とは知らない仲でもないしぃー。私の言うことを、一つだけ聞いてくれたら、止めてあげる』

「ほ、本当に――」

『苦しませずに、殺してあげる♪』


 ぐしゃりと、心が一握りに潰される感触が、胸の奥にあった。

 絶望とは、こういう感触なのだと、本能で理解してしまうほどに。


『あ、は♪』

「―――あ、ああああっ!?」


 さらに一つ、新たな激痛が俺の右肩から生まれる。興じた恩田さんが、蜘蛛の足を俺の右肩に刺し込んだからだ。まるで、つまようじでもサイコロステーキに突き刺すみたいに。


『痛い? ねぇ、痛いよね!? 苦しいよね! ああ、よかった、その顔が見たかったの!』

「も、もう、止めてくれ。やめて、助けて……く、れ」

『駄目だよ。あの方からの命令だもん。助けてあげない、芦葉君はここで殺すの。あ、でもでも、そーだねぇ?』


 俺の懇願を受けて、恩田さんはにんまりと笑みを作った。嗜虐的な笑みだった。捕食者の顔をしていた。


『あの勇者から受け取った、銀の弾丸。在処を教えてくれれば、慈悲を与えてあげてもいいかな? うん、言ったでしょ? 知らない仲じゃないしぃ』


 ぺろり、と恩田さんは赤く、長い舌を出して見せる。ちろちろと、蜘蛛なのに、蛇のように。獲物を嬲る様に。


『最後に、すっごく気持ちいいことをしてから、殺してあげる♪』


 甘く、残酷な言葉を俺に告げた。


『あ、勘違いしないでよ? 私だってこういうことは初めてなの。うん、初めてなんだ。嬉しいでしょ?』


 ゆっくりと、恩田さんが生身の上半身を俺に近づける。


『淫乱とか思わないでね? ちょっと、私……成り立ててで興奮しているの。だから、この昂ぶりを冷ませるのなら、芦葉君でもいいかなーって』


 蜘蛛のそれとは違う、柔らかな上半身が、俺を包み込む。腕が背中に回されて、温かくて柔らかい胸がぎゅうと押し付けられる。下半身は蜘蛛だというのに、怪物だというのに、恩田さんからは女の子の匂いがした。良い匂いだった。日常だったはずの、匂い。


『でもでも、実を言うとね。芦葉君のこと、私、少しだけ良いかなぁとも思ってたんだよ? だって、他の固そうな男よりも気持ちよさそうだもん。犯すのも、食べるのも、抵抗感なくできそうだし。だから、ね?』


 べろりと、恩田さんの舌が俺の頬を這う。俺の涙を舐めるように、そのまま耳元まで、粘膜と唾液を伸ばして。


『我慢しないで、早く私と気持ちいいことしよう?』


 囁かれた言葉は、甘い毒だ。

 俺の理性を溶かして、本能に縋らせるような、そんな毒。考えることも、堪えることも、体を蝕む苦痛によってできやしない。

 無理だ……ここまでだ。


 所詮、俺に出来ることなんて何もないのだ。俺はただのエキストラで。やられ役で。こんな形で、脱落してしまうような、『どこにでもいる被害者』に過ぎなかったのだ。

 何かを託されていようが、結局、それは変わる事などなかった。

 このまま、無様に殺されるだけ。


「あ、あぁ……」


 ならばせめて、最後に良い思いをしてもいいのではないだろうか?

 悍ましくも美しい化物に屈服して、己の獣性に身を任せて。そう、どうせ死ぬのならば、最後に女の柔らかさを知ってからでもいいはずだ。

 童貞のまま、理不尽に死ぬぐらいなら、最後ぐらい何もかも捨て去って欲望のままに。

 無様でも、こんな痛みで人生を終えるぐらいなら、最後に快楽に溺れたって――――


【でも、それは格好悪いだろう? なぁ、芦葉昭樹】


 ………………くそが。


「わかった、わかったら、頼む、頼むよ、恩田さん……言うから、優しく……」


 途端に酩酊が冷めた。甘い毒が抜けて、涙が流れて、視界が晴れる。目の前に移る、発情した化物の姿が、はっきりと。

 ああ、苦痛さえも今は気にならない。


『んふふ、芦葉君はえっちだねぇ? でも、いいよ? さぁ、銀の弾丸の在処を言って? そうしたら、一緒に気持ちよくなってあげる♪』

「わかった、言うから、早く……」

『だぁーめ、ちゃんと言ってからじゃないとイかせてあげないよ?』


 弱り果てた声。

 情けない声。

 女の裸体に縋りつく、醜い情欲。

 そこに演技なんんて必要ない。全て、俺の本心だ。

 逃げたい。諦めたい。気持ちよくなりたい。痛いのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。

 そんな感情が渦巻いて、俺の心の大部分を占めている。だから、これも紛れも無く俺の本心だ。けれど、残った心の僅かな部分。


「言う……ああ、言うよ、銀の弾丸は――――」


 くっそ下らない意地だけが、今の俺を支えている。


「テメェなんぞに、教えてやらねぇ」


 悪態を吐き捨てると、俺は力を込めて恩田さんの喉元に噛みつく。

 がぶりと、獣の如く、喉を食い千切らんと力を込める。


『―――あ、あぁあアアアアァアアアア!!?』


 乱暴に、俺の顔を剝がそうとして恩田さんは暴れた。人の腕で俺の頭を殴打する。だが、それくらいでは離れない。そして、蜘蛛の足はここまで密着していれば使えない。何故なら、蜘蛛の足にも動かせる関節の限界という物が存在する。

 だから、今、この時こそが唯一無二のチャンス。

 逃せば、死ぬ。

 死にたくないから、俺は…………殺す。


『いたいたいたいたいたいっ。イタイィイイイイイイイッツ!!!』


 破れかぶれの殺意と共に、再び俺の心に火が灯る。

 死にたくない、死ぬわけにはいかない。

 託された物がある。

 負けたくない相手がいる。

 だから俺は、こんなところで死んでいるわけにはいかないんだ!


『ィイイイイイイイイッ、アシバァァアアアアアアッ!!』


 破れかぶれはお互い様だった。

 恩田さんにもすでに余裕はない。無我夢中で、俺を引きはがそうと、乱暴に狭い路地の中を暴れ回る。己の体の傷も気に留めず。俺を引きはがすために、ひたすら体を様々な場所に叩き付けて、俺を剥がそうとする。

 だが、俺は苦痛を与えられれば与えられるほど、食いしばるように恩田さんの喉元に噛みついて。

 そして、俺の渾身が恩田さんの喉を食い破ろうとした時、


『―――■■■ぇ』


 長い加速による慣性の力と、一瞬の浮遊感が与えられて……数秒後、体中に叩き付けられた衝撃によって、俺の意識は暗転した。


 その時、やっと俺はこれが『夢』なのだと気づいた。



●●●



「――――ぁああっ!!?」


 自分が叫んだ悲鳴の喧しさで、目が覚めた。

 混乱する頭で、必死に寝間着をはだけて己の右肩を、太ももと、確認する。荒い息で、必死に『あるはずのない傷』を探して、何度も、何度も、薄闇の中で目を凝らす。


「はっ、はぁ、はっ…………んだよ、あれは」


 かすり傷ないはずの右肩に、何故か耐えがたい激痛が走った記憶があった。痛みのあまり、奥歯を噛みしめて、体を九の字に折り曲げた記憶が。

 でも、その記憶があるのはおかしい。

 それは『夢』のはずだ。そうでなければ、おかしい。怪物になったクラスメイトに追い回されて、殺されかける体験なんて、夢でなければ認められない。

 例え、夢にしてはとてつもなく鮮明な記憶が、耐えがたい苦痛と共に刻み込まれてしまっているとしても、だ。


「…………ぐ、うぇ」


 何度も荒く呼吸を繰り返して、ようやく落ち着いたと思ったら、今度は吐き気が喉の奥からせり上がってくる。

 悍ましい怪物の姿を、思い出したからではない。

 あの夢の中での最後の体験を――確かな殺意を持って、かつてのクラスメイトを殺そうとしたときの感覚を思い出してしまったからである。


「……っぶ、うぐ……っつぇ」


 口元を無理やり右手で塞いで、俺はお手洗いへと急ぐ。

 ふら付く足取りで、出来るだけ何も考えず、襖を開けて、冷たい廊下を走り抜けて。


「――うぅごぇえ」


 やっとたどり着いたトイレの便器。そこで、俺は今まで堪えていた物を総て吐き出すように、嘔吐した。

 ああ、この時ばかりは家具家電が最新の物に揃えられていることに感謝しなければ。例え、古い木造民宿の空気を壊す物だったとしても、やはり実利優先だ。特に、便座に寄りかかって、喉が痙攣するほど物を吐き出す時は、本当にそう思う。


「……げぼっ、うえぇ、えぼっ……あぁ」


 もう吐き出す物が無いというのに、俺は喉を震わせ続けている。

 己の中に感じた、どす黒く、悍ましい感情を吐き出すために。勇ましさの中に混ざった、殺人肯定の感情を、消し去ってしまうように。


「なん、だ、よ……こ、れぇ?」


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 口の中に残る、怪物の味が、気持ち悪い。

 自分が死にたくない癖に、他の理由に寄りかかって罪悪感を薄れさせようとする魂胆が気持ち悪い。

 そして、何よりも――――単なる夢であるはずの記憶で、ここまで狼狽しなければならない、今の自分が気持ち悪い。

 一体、何なのだ、これは!?


「あ、あぁああ、ああああっ」


 呻く声と共に、何かの懺悔のように俺は嘔吐を続ける。

 喉が胃液で焼けて、舌先に嫌な痺れを感じても、それでも、俺は、止めない、止められない。

 何度も、何度も、俺は――――


「落ち着いてください、芦葉様」


 とん、と背中に置かれた小さな温かさを感じて、俺はようやく正気を取り戻す。


「ゆっくり、ゆっくり呼吸を繰り返してください」

「あ、え? あ、きなさん?」


 いつの間にか、俺の隣には秋名さんが居た。

 俺の背中に手を当てて、優しく擦ってくれている。その温かさに、感じられる人の温もりに、俺は涙が出るぐらい安堵を得た。


「は、はぁ、はぁ……ふ、う……秋名さん、その」


 安堵感に縋る様にして、ようやく俺の呼吸が正常へと戻る。危なかった。あのまま嘔吐を繰り返していたら、最悪、過呼吸に陥って倒れていただろう。

 俺は助けてくれた秋名さんにお礼を言おうとするが、その前に、手で制された。


「今は無理に話さなくても大丈夫です。さぁ、私に寄りかかって」

「いや、流石に子供みたいに小柄な秋名さんに寄りかかれないですって。自分で歩きますよ」

「…………その震えた足で、ですか?」

「大丈夫ですって、ほら……っと、え?」


 立ち上がろうとしても、腰から下に力が入らない。辛うじて、トイレの壁に手を付けた状態なら立ち上がれるが、それだけだ。どうやら、自分でも気づかないうちに腰が抜けてしまっていたようだ。


「御覧なさい。一人で立てないのなら、誰かに寄りかかるより他にありません」

「……はい」


 淡々とした口調と、仏頂面の秋名さん。

 けれど、その言葉にどこか厳しさと優しさが含まれていると感じるのは、今の俺が極限にまで弱っているからだろうか?

 分からない、今の俺には何もわからない。

 だから、俺は己より小さな少女の体に寄りかかって、言われるがままに体重を預けた。


「では、このまま少し歩きます」

「……はい、お願いします」


 秋名さんは小柄な体格に似合わず、俺の体重をきっちりと支えてくれた。

 寝間着の白い浴衣が、秋名さんがつい先ほどまで就寝中だったことを告げている。どうやら、俺の叫び声を聞いてすぐに向かって来てくれたらしい。

 それが心配からか、使用人としての立場からの行動だったか、俺にはわからない。けれど、どちらだったとしても、秋名さんが隣に居てくれたから助かったことが事実だ。それ以外は、今の俺にとっては肝心な事じゃない。


「秋名さん、今回は、本当にありがとうございます……」

「気になさらないで下さい、これが私の務めですので」

「はい、でも、ありがとうございます」

「では、どういたしまして」


 それから俺は秋名さんに導かれるまま、旅館の娯楽室へと案内される。自室では無くて、娯楽室なのは恐らく、ここがお手洗いから近く、なおかつ室内が気持ちよい涼しさに満ちているからだろう。俺も正直、今から自室に戻って安眠できる気がしなかったので、心遣いに感謝するばかりだ。


「芦葉様。まだ吐き気はありますか?」

「……大丈夫です」

「まだありそうですね。それに、芦葉様のそれは心因性のようです。少なくとも、食中毒は有り得ませんし、『此処』で何かしらの病気にかかる道理はありません」

「…………?」


 淡々とした秋名さんの言葉に、俺は疑問を覚える。

 最高峰の料理人である春尾さんが、衛生管理に失敗するわけが無いというのは分かるのだが、病気にかかる道理が無い、とはどういう意味なのだろうか?

 いや、まぁ、薄々ここが普通の場所でないことは分かっていたけどさ。だって、一日中霧が晴れないんだぜ、この旅館。そのくせ、ネット回線は普通に通っているのに電話は通じないとか、意味不明だ。東雲さんが何かしらをやっているんだな、ということぐらいしか、今の俺に察することはできない。

 しかし、そうか、普通じゃない場所か。


「秋名さん」

「はい、なんでしょうか?」


ソファーの隣で、じっと様子を看てくれている秋名さんへ、俺は思い浮かんだ疑問を投げかけて見る。


「なんとなく、この場所が普通じゃないことは分かる。なんというか、その、まるで秘境というか、この世じゃないような空気が満ちている場所だと、俺は思っている」

「…………」

「だから、その、文句を言う訳じゃないんだが……もしも、この民宿で暮らす上で注意しなければならない点があれば、教えて欲しい」

「…………芦葉様」


 仏頂面のまま、秋名さんが俺へ寄り添い、視点を合わせてくれた。


「無理でなければ、貴方様に何があったのか、私に教えてください。そうでなければ、何も私は答えられません」


 そして、やはり淡々と、当たり前のように正しく俺へ言葉を告げる。その言葉は至極当然だ。俺に何があったのかを知らなければ、何と答えて良いか分からない。今までそれを尋ねてこなかったのは、秋名さんが俺の体調を気遣ってくれていたからだろう。


「うん。確かにそれも、そうだ。ええと、それじゃあ――」

「横になったままでよろしいので、ゆっくりと。けれど、吐き気を感じたら速やかに止めてください。芦葉様が我慢したところで、幸せになれる者は一人もいません」

「わかった。じゃあ、気持ち悪くならないように、出来るだけ掻い摘んで……」


 俺は出来る限りあの夢の細部を思い出さないように、淡々と、感情を込めずに語っていく。

 一言でまとめてしまえば、『悪い夢』を見ただけ、というだけのことを。まるでとてつもない出来事があったかのように、震える声で俺は伝える。

 我ながら、馬鹿馬鹿しい話だと思う。

 たかが、悪夢を見た程度で喉が痙攣するほど嘔吐して、迷惑をかけているなんて。


「…………なるほど、そうでしたか」


 呆れた様子もなく、馬鹿にした様子もなく、変わらぬ仏頂面で秋名さんは頷いた。

 そして、顎に手を添えて、何かを考える素振りを見せる。じっと金色の目で此方を見つめたまま、黙考して。


「芦葉様、とりあえず一緒にお風呂に入りましょう。話はそれからです」


 口を開いたのは、数十秒ほど経ってから。


「……え?」


 開かれた口から紡がれた言葉は、あまりにも唐突で、俺は間抜けのように口を半開きにすることしかできない。


「いいですね?」

「あ、はい」


 俺は反論する間もなく押し切られて、結果、秋名さんと共に風呂場に向かうことに。

 なんというか、俺という人間はつくづく押しに弱いと、改めて実感しました。



●●●



 乳白色の温かな湯に体を沈めて、俺はやっと人心地ついた気分になった。

 浴槽に使われている檜の香りが、己の内のわだかまりを浄化してくれるようで。

 窓から覗く、真っ白な霧の中に刺し込んだ月明かりも美しくて。

 夜が一番深くて、朝焼けに至るよりも少し前の奇妙な時間帯。長い休みの間でもなければ、こんな時間に入浴なんてとてもじゃないけれどしない。しかも、人が二十人ぐらい余裕で入れるほどの大きさの浴槽を独り占めできるなんて、なかなか気分が良い物だ。


「あぁ、極楽だなぁ」

「それは良かったです」


 訂正、独り占めではありませんでした。

 そう、何故ならば、俺の隣にぴったりと付き添っている秋名さんが居るからなのです。しかも、一糸まとわぬ姿で。一言で言えば、全裸である。


「……秋名さん、その」

「お風呂場で体調を崩されては困りますので」

「あ、はい。でも、せめて、その、タオルで隠させて頂きたい――」

「湯船にタオルを入れるのはマナー違反です」

「…………はい」


 互いに裸の状態で、俺と秋名さんは共に浴槽に浸かっている。

 極力、秋名さんの方へ視線を向けていないのだが、それでも照明の光を弾くほどに美しい白い肢体は、幼いながらも目に毒だ。こういう時は、秋名さんがロリでよかったと思う。後五年ぐらい成長した肉体の場合、完全にアウトだったぜ、俺。

 いや、今の時点でも絵面的にほぼアウトかもしれないが。


「芦葉様、湯加減はいかがですか?」

「あ、いやほんと、最適で。はい、とてもしっくり来ます」

「体調を崩された方に湯船へ浸かっていただくのは、本来ならば避けるべき行為です。ですが、どうしても必要なので温泉の温度を芦葉様の体温に合わせて調整させていただきました」


 淡々と言う秋名さんだったが、もちろん俺は体温計など渡されていないし、体温を測られた記憶も無い。うん、そこら辺はプロの使用人の超能力ということでスルーしていこう。

 今はそんなことよりも、優先して秋名さんへ訊ねなければならないことがあるし。


「…………秋名さん」

「はい、なんでしょう?」


 俺は意を決し秋名さんの方へ向き直り、視線を合わせる。できるだけ、首から下の方に意識を向けないようにして。


「そろそろ話してくれてもいいんじゃないかな? 俺と秋名さんが、こうして一緒にお風呂へ入らなければならない理由を」

「それもそうですね。では早速」


 秋名さんは俺の言葉に頷いて、そのまま俺に抱き付いた。真正面から抱き合う形で。

 ……え? いやあの、普通にアウトなんですが、秋名さん。


「これでよろしいです。では、説明いたしますね、どうして私と芦葉様がこうしなけばならないのかを」

「是非に説明してください。願わくは密着は勘弁してください」

「前者はもちろん。後者は駄目です、諦めてください」

「…………あい」


 何故か分からないが、密着しなければいけないらしい。

 その理由もこれから説明してくれるということなので、俺は必死に意識を話に向けて、柔らかく滑らかな体の感触から遠ざけておく。これで俺の下半身が反応してしまったら最悪、俺は首を吊ってしまうかもしれないからだ。


「まず、簡潔に説明しますと、芦葉様が悪夢を見ないようにするために、今必要なことは『他者との繋がりを高める』ことなのです」

「ええと、繋がりを高めるって?」

「縁を深めるとも言います。関係を強めて繋がることによって、『よからぬまやかし』から貴方様を引っ張り上げなければならないのです。どうやら、芦葉様は此処に来てからどうにも、霧に惑わされてしまっているようなので」


 視線を交わさず、抱き合う形で告げられる言葉に、俺は戸惑う。

 春尾さんから聞いていた話だと、霧云々は秋名さんからの悪戯で、それ自体に害などないはずだ。


「ええ、確かに芦葉様が疑問に思った通りです」


 すると、言葉にせずとも秋名さんが察したようで、説明を続けた。


「本来であれば、この宿を囲む霧に害はない。むしろ、あらゆる害成す物から守る効果すらあります。けれど、霧事態に害がなくとも、『霧の中でよからぬ物を見つけてしまう』人も存在するのです。非常に稀ではございますが」

「……話の流れから行くと、それが俺だと?」

「はい、その通りでございます」


 要するに、木目が人の顔に見えたり、写真の汚れた心霊現象に見えたりとか、そういうことの延長線だろうか? ここが特別な場所だから、俺が変に勘ぐりして、その結果、あんなひどい悪夢を見てしまうぐらいにナーバスになっているのだと。


「つまり、俺が色々と気にし過ぎってことか?」

「確かに心因性の体調不良ではございますが、そうではありません。貴方様の特異な性質が、この場所の特異性と共鳴して、よからぬまやかしを見つけてしまったのです」

「うーん、特異な性質ねぇ?」


 秋名さんの言葉を疑うわけではないが、どうにもしっくりと来ない。

 言葉の通りだと、俺に『特別な何か』が存在していて、それが原因によってこの事態が引き起こされた形になる。だが、俺はとてもそうは思えない。この俺に、平凡でどこにでもいるようなただの男子高校生のこの俺が、特別で希少な何かであるなんて、そんな選ばれた偶然など存在しないと思うのだが。


「芦葉様、貴方様がどう思っていても、現に体調を崩されているわけで」

「ああ、うん。そうだね、それに関しては一旦おいておくとして。それで、縁を深めるというのがどういう役割を持っているわけなのかな?」

「ぶっちゃけて言いますと、いちゃいちゃして余計なことを考えさせないことです」

「ぶっちゃけすぎだなぁ」


 秋名さんの顔は見えないけど、絶対に無表情のまま言っている事だけは分かった。しかも、お風呂に入っているのに碌に顔を赤らめもせずに言っていると思う。俺なんて、平静を装いつつも心臓が過剰労働を始める始末なのに。


「縁を深めることにより、現世定着率を増加させて、幽世及び、異なる世界への影響をなんたらという小難しくてややこしい説明も可能ですが?」

「やめよう。俺の正気が怪しくなりそうだから」


 ただでさえ、最近はよくわからない異常な出来事に遭遇しているのだ。ここからさらに深みに足を踏み入れれば、何か手遅れになるような気がする。


「芦葉様。サイカ様と契約された時から、既に手遅れでは?」

「もっともな意見過ぎて何も言えねぇ」


 ついでに言えば、後輩女子の足を舐めて気持ちよくさせて、浴槽内で幼女と抱き合っている時点でももう何か、普通の男子高校生を逸脱しているだろう。いや、こんな俺が男子高校生の平均だったら流石にこの世界の男子高校生のレベル高すぎだろう、常識的に考えて。

 となると、俺が特異な性質を持っているという話にも説得力が出てくるわけだが、うーん? 俺自身としては特に、何かに覚醒した覚えも無いのだけれど。


「とにかく、今は芦葉様の容態が落ち着くまでこうしてましょう。具体的にあと十分ぐらいは必要です」

「十分か……」


 短いようで、けれど俺にとってはとても長い十分になりそうだ。


「……」

「……」


 そして、三分後。

 既に辛い。とても辛い。具体的に言えば、沈黙が辛い。加えて言えば、下半身が辛い。だってずっと、正面から裸の秋名さんの抱き合っている上に、治療行為なのか不明だが、秋名さんが俺の肌と自分の肌をこすり合わせるように擦り付けてくる。


「はむ、ちゅうちゅう」


 それだけでなく、ついさっきから俺の首筋を甘噛みして、ちゅうちゅう音を立てて吸い付いてくるのがかなりやばい。いくら幼い肉体が相手だとしても、行動がエロ過ぎる。わざと? わざとなのですか? 挑発しているのですか、勘弁してください、秋名さん。というか、よく狙われるなぁ、俺の首筋。なんだよ、変な美少女を吸いつかせるフェロモンでも出てんのかよ、ビビるわ。


「すみません、秋名さん」

「ちゅうちゅう……はい、なんでしょう?」

「少し、質問しても良いですか?」

「構いませんよ」


 さっきまで俺の首筋に吸い付いていたくせに、どうしてこんなに平然と受け答えできるのか、それが分からない。いや、それを言ったら秋名さんが恥じ入る姿なんて想像できないのだけれど。それはともあれ、だ。とにかく、何かを話題を投げかけて、時間を稼ごう。少しでも、肌の感触から意識を遠ざけなければ。


「あー、その、どうして俺にここまで良くしてくれるんですか? 正直、東雲さんがここまでするように貴方に命令するとは思えないんですが」


 妙に独占欲が強い所がある東雲さんだ。俺と恋仲でもないというのに、そういう行為を他の女性とやっていると途端に不機嫌になりそうだし。というか、余語後輩の件に関しては、あっちから吹っかけて来たのに勝手に機嫌悪くなるんだもんなぁ、あの人。


「……ふむ、そうですね」


 俺が東雲さんの面倒くささを思い出して萎えていると、秋名さんは何かを考えるように、俺の肩に顎を乗せた。まるで子猫がじゃれつくように、ぐりぐりと顔を俺の肩にこすりつけた後、何事も無いように話し始める。


「確かに、サイカ様からは『芦葉昭樹の体調に気を使え』とか『私の良さをさりげなく伝えて置け』など、他愛のない最低限の事しか仰せつかっていません」

「あれ? その最低限の内の一つが未だに秋名さんの口から出てきてないんだけど?」

「私は未熟者ですので、無い物を伝えることなどできません」

「身内からの東雲さんの人望本当に少ないな!」


 思えば、春尾さんからも扱いがぞんざいなような気がする。妹様とか呼ばれている癖に、全然敬われていないし。いや、本当に春尾さんが東雲さんの兄だったら、その態度も納得だけど、あからさまに嫌がっている様子を見ると、違うだろうしなぁ。

 そもそも、春尾さんと秋名さんが同じような容姿をしている癖に、態度がまるで家族や親族のそれでないことも不思議なのだが、うん、この件に関してはもう触れないでおこう。また、俺の正気が削られる案件になってしまうかもしれない。


「まあ、ぶっちゃけて言えば、サイカ様を純粋に慕っている者は眷属の中では本当に一握りですので」


 だから、眷属とか言う言葉が出ても気にしない。スルーだ。

 深く考えすぎないように、俺は秋名さんへと質問を重ねる。


「となると、余計に秋名さんが俺に良くしてくれる理由が分からないんだけど? 俺って、何か秋名さんにフラグを立てましたっけ?」

「フラグ?」

「ああ、その、好かれるようなことをしましたっけ?」

「なるほど、そういう意味ですか。そういう意味なら、そうですね」


 するり、と秋名さんが俺の腕の中から抜け出した。水中を泳ぐ魚のように身を捩らせて、とぷんと湯の中に潜った後、そのまま浴槽から立ち上がる。

 当然の如く、秋名さんは己の体を隠さないので俺は慌てて顔を伏せようとするのだが、その動作が途中で止められた。


「その、ヘタレそうな顔。ヘタレそうなくせに、肝心な時は無理をしそうな顔。卑屈そうなくせに、容赦なく自分よりも格上の存在に噛みつく無謀さ」

「え、ええと?」


 俺の頭が、秋名さんの両手によって固定される。俺の目を逸らさせないように固定して、視線を合わせて、離さない。離さず、そのまま淡々と悪口のような、呆れたような物言いのような、何かを懐かしむような口ぶりで言葉を紡ぐ。

 俺に対する、秋名さんからの評価を告げる。


「そういう駄目な所が」

「だ、駄目な所?」

「ダメダメで、情けない所が」

「ひでぇ」


 真正面から見つめ合っている状態で罵倒されると、流石の俺も心が折れそうなのですが? しかも、外見は幼女なので、幼女に罵られるとか特殊性癖の人でもなければただの罰ゲームだ、普通にへこむ。


「そういう所がですね、芦葉様」


 だが、続けられた言葉に、変わりゆく秋名さんの表情に、俺は目を丸くする。



「私が愛した人に、とても似ているのですよ」



 淡々とではなく、その言葉には確かな感情が込められていた。

 いつも通りの仏頂面ではなく、微睡む幼子を慈しむような微笑みで。

 絡みつくような、寄り添うような愛欲が言葉と共に告げられる。

 俺はただ茫然と、告げられた言葉の意味も碌に理解できず、されるがままに秋名さんと見つめ合っているだけ。


 ああ、どれだけの間、見つめ合っていただろうか?

 数秒? 数十秒? それとももっと長く? 分からない。分からないけれど、気付くといつの間にか秋名さんは俺の手を引いて浴槽から上がっていた。


「少し、のぼせてしまいましたね。少しだけ火照りを冷ましたら、床へ参りましょう」


 されるがまま、為すがままに俺は秋名さんに連れられて。


「今日は貴方様がよからぬ物に囚われないように、私が傍で添い遂げましょう。ええ、なのでご安心してお眠りくださいませ」


 結局、俺は靄が掛かったような思考のまま、秋名さんに抱きしめられる。

 柔らかな抱擁と、温かな感触、そして、檜に似た匂いが優しく、微睡と共に俺を包んでくれて。ゆっくりと、俺の意識は穏やかに闇の中へ沈んでいく。


 ――――夢は、見なかった。


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