第15話 神隠しは霧の中で
夢を見ていた。
恐らく、夢だと思う。
あいつとはこんなことを話した覚えなんて、なかったから。
「本当にムカつく話だよな。こんな土壇場になって、お前の事しか思い出せねぇなんて。この状況をどうにか出来る可能性があるのが、お前だけなんて」
目の前で一人の男が倒れている。
見覚えのある顔だ。出来れば忘れてしまいたい顔だったが、どうにも忘れられない顔。無駄に整ったイケメン。
海木貴志が、倒れていた。
「いいか、芦葉。よく聞けよ? これから話すことは手の込んだドッキリでも、性質の悪い冗談でもない。この世界を左右する重大な話だ」
海木の整った顔が、苦渋に満ちて歪んでいる。右手で抑えた左脇腹からは、どんどん赤く温かな液体が流れて、止まらない。
当然の如く、俺は慌てて救急車を呼ぼうとするけれど、
「やめろ、そんなことをしても無駄だ。これは致命傷で、もう手遅れだ……俺は、助からない」
淡々とした忠告に、俺の手が止まる。
素人目でも海木が言っていることは『事実』であると理解できてしまったし、それよりも、何よりも、今は海木から目を離していけないと思ったからだ。
とても気に食わない奴だったけれど、死の寸前で伝えようとする言葉を受け入れないほど、俺は捻くれていなかったから。
「いいか? よく聞け、芦葉。俺は一度しか言えないから、ちゃんと聞けよ。もうすぐ、世界を賭けた戦いが始まる。その時、お前は何もできないエキストラになるか、あるいは舞台すらもぶち壊すほどの活躍を求められるだろう。俺としてはどちらでもいい。ここで死んでしまう俺にとっては、お前がどうなろうとも知ったことじゃない」
俺もお前が目の前で死にかけてなければ、似たようなことを言っただろう。
海木もそれを分かっているのか、苦悶の表情を無理やり変えて、笑みを作って見せる。
「だが、恐らく『これ』はお前じゃないとできない事だから。運命から外されて、それでもなお、空気を読まずに舞台に上がれる資格を持つお前だけが――この『箱』を所有する権利を持つんだ」
血塗れの手で、海木は懐から何かを取り出す。
それはまるで、指輪でも入れておくような小さな木製の小箱だった。古ぼけている上に、海木の血で汚れてお世辞にも綺麗とは呼べない箱。けれど、その時の俺には、何故かそれが『とてつもない価値のある何か』だと理解できてしまった。
「この箱を開けるかどうかは、お前の自由だ。だが、俺からお前に託す所までは強制だ。頼む、俺には選択することが出来なかった……いや、『逃げる』という選択をしてしまった。だから、お前に、これを」
震える手で差し出された小箱を、俺は呆然と受け取る。
渡された小箱は血で濡れて、体温の名残りで少しだけ温かい。まるで、残り少ない命を海木が俺に託してきたかのように。
「ははははは、サンキューな、芦葉。ああ、ようやく……ようやく、お前の気に食わない顔が、少しは好きに……なれ、そう、だ…………」
否、本当に命を託されたのだろう、俺は。
小箱を渡した後、海木は清々しい笑みを浮かべて、そして、そのまま死んだ。
何度声をかけても、反応が返ってこなかった。
あの憎たらしい声は、もう二度と聞こえなくなった。
「――――だから、俺はお前が嫌いなんだ」
吐き捨てるような言葉と共に、俺はその場から立ち去る。
逃げるように、使命を果たすように。
背中を蹴り飛ばされたかのように、駆け出す。
右手で、血塗れの小箱(運命)を強く握って。早鐘を打つ心臓を無視して。荒れる呼吸のまま、俺は走り出す。
悲しいんだか、苛立っているのだか、わからないままに。
今はただ、その場から早く離れなければならない。それだけを、愚直に実行していた。そうしなければならないと、俺の本能が叫んでいたから。
走って、走って、大きく息を吸って吐いた時、初めて俺は己の居る場所に気付く。
そこは学校だった。
そこは俺が通っている高校だった。
俺が通っている高校の、誰もいないような空き教室の中で、海木は死んでいて。
俺は、誰もいない学校の中を、血塗れの右手を隠さずに走っていた。
廊下を走っている最中、夕暮れが綺麗で、眩しくて、鬱陶しくて。
そこで、夢は終わる。
●●●
嗅ぎ慣れない匂いで、目が覚めた。
檜に似ているような、もっと優しいような、そんな木製の匂い。俺の家も木造住宅であるが、古臭い木の匂いではなく、もっと重厚に、とても大切に時を重ねた木材の匂いがする。
「……う、あ?」
微睡から浮かび上がるように、目を開けた。
けれど、俺の視界はぼやけたまま。寝ぼけ眼をこすると、手の甲に温かな雫が付く。思ったよりも、結構涙が両目から流れていて、頬にも伝わっていた。
悲しい夢でも見ていたのだろうか? 覚えてないけれど。どちらかと言えば、とても苛立たしいような、認められないような、そんな夢を見ていた気がするけれど。
「つーか、どこだよ、ここは?」
木目調の天井に見覚えは無く、体を柔らかく包む高級そうな羽根布団も記憶に無い。ついでに言えば、寝間着がいつもの甚平ではなく、何か肌触りの良い藍色の浴衣になっている。
「…………んん?」
まだ夢の途中だろうか?
とはいっても、明晰夢にしてもこれはさすがに、視界が鮮明過ぎる。
「おっ、やっと起きたか」
「んお?」
かぐわしい匂いが鼻腔を擽り、どこかで聞いたことのある凛々しい声が耳朶を打つ。
布団から半身を起こして振り返ると、そこには割烹着姿の銀髪美青年――東雲春尾の姿があった。いや、何故ここに?
「事情は後で説明するから、さっさと着替えて、身支度を整えて来い。その間に、俺は飯の準備をしておくから」
「…………えーっと?」
「ほら、さっさと行け」
「えー?」
俺がもたもたしている間に布団を捲られ、ごろごろと襖の外へと追い出されてしまう。
「くそ、最近は急展開にも慣れてきたつもりだってのに、流石にいきなり見知らぬ場所に放り込まれるのは予想外だ」
とりあえず、辺りを見回して状況を確認だ。
床は磨き上げられた美しい木造仕立て。ささくれ一つ見当たらない。周囲の襖には霧中の竹林の絵が密やかに、けれど美しく描かれている。
ここはどうやら、どこからの宿らしい。しかも、廊下一つ見回しても綿埃一つも見つからないような掃除の行き届き。はっきり言って、かなり高級そうな宿だった。しかも、その高級さが嫌味にならない、敷居が高くならないような、心休まる場所。
正直、こんな状況でなければテンションが上がって舞い上がってしまいそうだ。物書き志望の俺としては、こんないい雰囲気の宿でのんびりと作品を書き貯めたいと思ってしまう。
「お客様、こちらへ」
「うぉおおっ!?」
唐突に声をかけられて、俺はびくりと震える。
見ると、いつの間にか俺の傍らには着物姿の幼い少女が。年は十歳程度だろうか? 赤い着物とアンバランスな銀髪のおかっぱに、美しい金眼。日本人離れした、人形のような顔立ち。どこか春尾さんを彷彿させるその姿に、俺は首を傾げる。
「えっと、春尾さんの妹さんかな? あ、この場合は東雲さんの妹さんってことに?」
「サイカ様から、最上級の客人として扱え、と聞いております。どうぞ、こちらに」
「…………おはようございます」
「はい、おはようございます。どうぞ、こちらに」
「…………うっす」
リアクションが虚空を掴む如し。
お、おかしいな、妙に反応に人間味が無いというか、機械っぽいというか。
「こちらが洗面所になります。着替えはこちらに用意してあります。サイカ様より、着付けを手伝うように、と仰せつかっております」
「あの、普通の……というか、俺の服は?」
「ありません」
「あの」
「お手伝いします」
この幼女、とても押しが強いぞ、おい。
はい、そんなわけで俺は妙に気恥ずかしい想いをしながら、幼女に着替えを手伝ってもらい、半端ない着心地が良い着物を着ることに。
歯磨きとか、洗面とかには普通に現代の代物があるというか、洗面所も結構最新式の良い奴なのに。水回りも現代的なのに、どうしてこういう所だけ古めかしいのだろうか?
「今、髪を整えますのでこちらの椅子に座ってください」
「いやー、そこまでは流石に。ほら、なんといか、自分よりも年下の女の子に手伝ってもらうのは、こう、ね?」
「私は現在二百四十四年の稼働年数となっております。問題ありません」
「わーい、問題しかない言葉を聞いちゃったぞー」
これが愉快な冗談でなければ、俺はめでたく人外との遭遇を果たしてしまうのだが? いや、東雲さんも大概人外だけど、自己申告はしてなかったし!
「年長者の言葉を聞くということでは、私の言葉を聞くのが正しい論理になるかと」
「あ、はい」
「それでは、失礼します」
洗面所の鏡の前で、俺は髪を整えられる。
自分よりも幼く、小さな外見の少女に、妙に手際よく、綺麗な木櫛を使われて。
不思議な物だ。奇妙な気恥ずかしさは最初の内だけで、いつの間にか懐かしさが胸の中に浮かんでいた。そう、これはずっと昔、小さな頃。妙に世話好きだった姉が、毎日俺の髪を整えてくれていた時のような、そんな気持ちだ。
「お待たせしました」
「ん、ああ。その、ありがとう」
「もったいないお言葉です」
無表情で礼をする銀髪幼女。
その様子はこの宿に相応しい所作だけれど、どこか不自然を感じる。まるで、人間でない物が人間であるように精一杯装っているような。
「では、春尾様の所までお連れします」
「いやいや、流石に来た道を戻るだけだし」
「いえ、油断すると死にますので」
「また、死に直結する建物か!」
薄々感じていたけれど、絶対これ、東雲さんの仕業だろ! むしろ、それ以外に考えられない。人の人権とか、そういうのを無視して拉致するとか、東雲さんならやりそうだ。いや、家の姉もつい最近やりやがったけれど、あれはまぁ、俺が呼んだ災厄みたいな物だし。
「死にたくなければ、私の手を握ってください」
「…………死にたくないです」
「はい、ありがとうございます」
震える手で、幼い少女に差し出された手を握る。
小さくて、柔らかくて、ほのかに体温を感じる生暖かい手。人の体を感じる。よかった、当然の事ではあるのだが、この幼女はちゃんと人間らしい。稼働年数とか、そういうのは小粋な冗談なのだろう。
「そういえば、あの」
「なんでしょうか?」
幼女に手を引かれながら、戦々恐々と歩く俺。
そんな中、俺は恐怖を紛らわすように目の前の幼女へと尋ねかける。
「貴方のお名前を、聞いていなかったなぁ、と」
「私の名前はアキ……秋名とお呼びください。それが恐らく、一番呼びやすい名前ですので」
「あ、はい」
まるで複数名前があるみたいに言うんだな、この幼女――もとい、秋名さんは。
まぁ、例によって例の如く、深く突っ込めば藪蛇しかならないような気がするので、無難な会話に留めるとしよう。
「じゃあ、部屋までよろしくお願いします、秋名さん。俺は芦葉、芦葉昭樹です」
「はい、存じ上げております」
「だろうね。でも、短い間でも世話になったから、自己紹介ぐらいはしたかったのさ」
「…………そうですか」
「うん、そうなんです」
特に意味のない会話に、意味のない問答。
しかし、秋名さんは何が不可解なのか小首を傾げた後、俺へ問いかける。
「昭樹様とお呼びした方がよろしいですか?」
「いや、芦葉って呼んでくれ。名前で呼ばれるのは慣れてないんだ」
むしろ、諸事情により名前よりも苗字の方が自分自身を指しているような気さえするのだ、俺は。
これは別に特別な事情があるわけでもなく、語るにも及ばない過去があるだけなので割愛させていただくとして。俺は家族以外であれば、名前よりも苗字で呼ばれる方がしっくりくる人間なのだった。
「わかりました、では、芦葉様」
「おう」
「ここから先は難所になりますので、私に抱き付いてください」
「おおう!?」
自己紹介を終えたら、なんかよくわからない展開になったんだけど? というか、見る限りでは普通の廊下なのだけれど? 階段ですらない、普通の板張りの床だ。そもそも、来る時はそんなこと言われなかったが、うーん?
「油断なさっていますと、窓から霧が入って攫われてしますので」
「霧?」
秋名さんは淡々と説明しつつ、廊下の窓を指差す。
確かに窓の外は霧が立ち込めている。しかも、普通の霧じゃない。廊下の窓から、数メートル先も碌に視線が届かない、ミルクに沈められたような濃霧である。
しかも、じっと視線を向けているとこちらの意識が薄れていくような、ぼやけるような違和感を覚えてしまうような始末だ。これは大人しく秋名さんの指示に従った方が良いな。
「わかりました、秋名さん。抱き付かせていただきます」
「はい、お願いします」
「…………すみません、その、中腰が結構辛いんですが、身長差で」
何しろ、実年齢はさておき、外見は十歳程度の幼女である。その幼女に背後から抱き付くのだ。いくら俺の身長が高くない方とはいえ、結構きつい体勢になってしまう。後、なんか絵面が犯罪っぽい。
「それではプランBで」
「プランB!?」
「お姫様抱っこです。大変申し訳ありませんが、私をお姫様抱っこしていただけませんか、秋名様? それで、問題は解決します」
「解決するのか……」
真顔で淡々と告げる秋名さんの言葉に、今の俺が逆らえるわけが無い。
俺は気合いを入れると、秋名さんの手と足に腕を回して、お姫様抱っこを敢行する。大丈夫だ、問題ない。これは必要なことなんだ、きっと。
「重くはありませんか、芦葉様?」
「むしろ、軽すぎて心配ですぜ。いや、本当に大丈夫ですか? インドア派の俺でも、全然余裕とか、大丈夫ですか?」
「問題ありません、私の体重はその場の気圧によって変わりますので。今の気圧では軽いはずです」
「気圧!?」
どんな不思議生物だよ! とツッコミしたいところであるが、秋名さんはどこまでも真顔なので、本当にツッコミ辛い。ボケ殺しならぬ、ツッコミ殺しだ。あるいは、全部が全部、真実なのかもしれないが。
……ええい、考えるだけ無駄だな、まったく。
「お姫様抱っことか、人生で三度目ぐらいですよ。ちなみに、一回目と二回目は身内……というか、姉ですね。どちらとも、お姫様抱っこからの海へ投棄しましたが」
「中々愉快なご家族だとお察しします、芦葉様」
「愉快すぎてはた迷惑な時もあるけれどね?」
「それもまた、家族です」
「ん、そうかもね」
それは奇妙な数分間だった。
銀髪の美しい着物姿の幼女をお姫様抱っこして。
どことも知れぬ宿の廊下を、歩いていく。
窓から覗く景色は、白濁とした濃霧で。
耳朶を打つのは、どうでもいい世間話と、自分の足音のみ。時折、相槌を打つ秋名さんの涼やかな声が、心地良い。
抱きかかえる小さな体の柔らかな重さと、檜に似た清涼な匂い。
ひょっとしたら自分は、何かとてつもないことをしているんじゃないか、と思ってしまう。俺からしたら不思議な幼女をお姫様抱っこして、歩いているだけなのに。別の誰かからすれば、湖の上を歩いているような奇跡を起こしているような、奇妙な感覚だった。
「あ、春尾さん」
そんな奇妙な数分間が終わったのは、ちょうど部屋の前で春尾さんと出くわした時。
「芦葉様、私はここまでです。後の事は、春尾様に」
するりと、いつの間にか秋名さんは俺の手の中から抜け出ていて。出会った時のように、淡々と、お行儀よく礼をしていた。まるで、先ほどまでの数分間が嘘のように。
「ああ、うん。わかったぜ、どうもありがとう、秋名さん」
「それが私の職務ですので……それでは」
素っ気なく応えて、秋名さんは踵を返して立ち去って行った。
なんというか、気まぐれな飼い猫を相手にしていたような気分である。先ほどまでわりと親しく雑談していたと思ったら、急に素っ気なくお澄まし顔でお別れ、だ。
最後に一度ぐらい、愛想笑いでも見せてくれたらよかったのに。
「…………あー、珍しいこともあるもんだなぁ、おい」
「へ?」
俺が奇妙な名残惜しさに浸っていると、春尾さんが驚いたような声を出した。
見ると、春尾さんにしては珍しく、間抜けというか、狐に化かされたような顔をしている。折角のイケメンが、台無しだ。
「どうしたんですか?」
「どうしたもなにも、お前……なぁ、芦葉昭樹。そもそも、なんであいつをお姫様抱っこしてたんだ?」
「はい?」
心底不思議そうに尋ねられたので、俺は戸惑いながらも答える。
「え、だって、そうしないと危ないからって……秋名さんが」
「…………なるほど、よりにもよってその名前をお前に教えたわけか。それで、お姫様抱っこか、うん。なんつーか、お前は本当に妹様に気に入られる人間だよなぁ」
「なんですかその、失礼なんだか光栄なんだかわからない評価」
一転して、春尾さんは納得したように頷いていた。
そればかりか、俺の顔を見るとおかしそうに笑って、非常に愉快な事でもあったのか、俺の背中を馴れ馴れしく叩いてくる。
まったく、一体、何だというのだろうか?
「くくくっ……いいか、芦葉昭樹。お前が不思議に思っているだろうから、色々とばらしてやるけど、あんまり怒ってやるなよ? あいつがこんなことをするのなんて、随分久しぶりなんだからな」
「はぁ、よくわかりませんが、多分、怒りませんよ」
今の所俺には戸惑いばかりで、怒る要素は皆無だ。むしろ、何をどうしたら俺が怒ると思うのだろうか? それこそ不思議だぜ。
「だろうな、お前ならそう答えると思ったぜ。だから、わざわざ無粋に教えるんだが」
戸惑う俺へ、春尾さんは愉快そうに告げる。
まるで、誰かがやって見せた手品の種をこっそり教えてしまうように、稚気に満ちた笑みで。
「この宿に居る限り、お前によって危ないことなんて何もないんだぜ。何せ、そういうように出来ているんだからさ、ここは」
告げられた言葉をしっかり受け止め、噛み砕き、理解して、納得する。
なるほど、詳しい理屈や動機はさっぱり不明な訳だけれど。
分かったことが、一つだけ。
「えっと、俺ってからかわれていました?」
「ああ、これ以上なく」
どうやら、秋名さんは俺が思っているよりも人間らしくて、お茶目な人らしい。
●●●
ご飯は炊きたてで、一つ一つのご飯粒が美しく銀色に輝いている。味噌汁は大根と油揚げが入った奴。おかずはアジの開き、その干物を焼いた物。そして、浅漬けの白菜がそっと小皿に盛られている。
あまり豪勢な朝食ではなく、むしろ質素と呼んでもいいメニュー。けれど、俺は知っている。春尾さんという料理人が出す物は全て、全身全霊が込められた一品。例え、質素に見えていたとしても、美味だけは確実に保証されていると。
いや、だってもうすでに、匂いからして美味そうだもん、これ。
香ばしい味噌の匂いと、甘いご飯の匂い。そして、生臭さのない魚の匂いに、俺は我慢しきれず箸を取った。
「いただきます」
俺は着慣れない着物の所為か、背筋を伸ばして妙に姿勢を正した状態でゆっくりと食事を始める。
「ん! んんん……んまいなぁ」
味噌汁を啜っただけ、それだけなのに、自然と頬が緩んで笑顔になってしまう。味噌の味と煮干で丁寧に取った出汁、それと大根、油揚げ、それらの旨みの調和。どれも平凡な食材なはずなのに、春尾さんのような料理人が扱うだけで知らなない美味を感じさせてくれる。しかも、心を温かくさせてくれるような、そんな美味だ、これは。
「…………っ!」
そして、このアジの開きだ。
恐らく一度、干物にしたおかげで旨みが凝縮され、一口摘まむだけで涎がどんどん出て来てしまう。しかも、魚特有の嫌な生臭さがまったく感じられない。素晴らしい。
そうなると当然、ご飯をかきこむわけだが、これがまた実に分かっている。炊き立てのご飯という物は、水分量を間違えると柔らかすぎておかゆのようにべちょべちょになってしまう。逆に、足りなくなると固くなって美味しくない。だが、春尾さんが炊いたであろうこのご飯は、絶妙な調整によって、ふっくらもっちりとした甘みのある仕上がりになっている。
「ふ、へぇ」
結局、何度もご飯をおかわりしてしまった。ついでに味噌汁も。まったく、朝っぱらからこんなに幸せな満腹感を味わえるなんて。
と、ここでうっかり忘れていた漬物の存在に気付く。しまった、こいつがあったかと、内心で己の不手際を嘆く。あまりにもご飯、味噌汁、焼き魚のトライアングルが鉄壁過ぎて存在を忘れてしまったのだ。
俺は申し訳なさを感じつつも、最後に白菜の漬物を口にして、そして、思わず目を見開く。
「な、なんだこれ?」
それは、俺の知っている漬物とは別次元の漬物だった。
漬物と聞いたら、大抵の人間は『しょっぱい』や『臭い』ということを思い浮かべるかもしれない。仕方ない、発酵食品だから、それも含めて美味いという人が居るのだから。
だが、この漬物は違う。完璧だった。なんというか、白菜を口に含み、ぱりっとした歯ごたえが伝わった後に、舌の上に清涼な旨みが広がっていくのだ。こんなに上品な美味しさの漬物、俺は今まで食べたことが無かった。
しまった、これがあればまだもう少しだけご飯を食べられたというのに。ううん、失敗したぜ。まさか脇役と思っていた漬物が、ここまで素晴らしい物だったとは。
「…………ご馳走様でした。とっても、おいしかったです」
きっちりと漬物まで食べきって、お椀にはご飯粒一つも残さない。んでもって、姿勢を正して『ごちそうさま』と言う。食事が美味しいと、自然に感謝の気持ちというのは生まれて来てしまう物らしい。
例え、今がよくわからない拉致状態にあったとしても。
「はん、当然だ」
春尾さんは俺の感想を至極当然の物として受け取りつつ、さりげなくお茶を淹れてくれる。珍しい、はと麦茶だ、これ。
「妹様の玩具になっている存在だからな。せめて、美食を味わってから死なないと哀れ過ぎる」
「やめてくれませんかね、その後ろ向きな憐憫」
「前向きな憐れみなんぞ、俺は知らん」
相変わらず、口が悪い人だな、春尾さんは。
ただ、まったく優しさが無いわけではなく、優しいからこそ、口が悪くなっているような難儀な人なんだと思う。
事実、言葉の割には俺へと向ける視線の中に、敵意や害意が全く感じられない。
「えーっと、それで、春尾さん。幸せな朝食も終わったことなんで、そろそろ説明していただけるとありがたいのですが?」
「そうだな、そうしよう。しかし、説明、説明な……」
ふむ、と顎に手を当てて何か悩んだ後、諦めたように春尾さんは肩を竦めた。
「ぶっちゃけ、妹様がお前に構って欲しいために拉致して来たような物だな、うむ」
「…………平日なんですけど、学校なんですけど、俺」
「そこら辺は妹様が上手くやるだろ。安心しろ、欠席扱いにはならない」
「もうすぐ、テストが待っているんですけど」
「残念だが、諦めろ。ここに勉強道具は存在しない。あるのは、お前の小説のために用意された物だけだ。ちなみにインターネットも繋がるからな、ここ」
「いや、そもそもここはどこなのか聞きたいんですがね、俺は」
見知らぬ宿に、窓の外は数メートル先も見えないほどの霧。しかも、俺が起きてからある程度時間が経っているというのに、窓から覗く外は、まったく霧が晴れていない。
そう、ここはまるで雲の中に沈められたような場所だった。
「ここがどこなのか。当然の疑問だが、ある意味、無意味だな。何故なら、お前はここから単独で出ることはできないし、俺も妹様の許可が無く出ることはできない。だから、場所を知ったとしても意味はない」
「おっと、当然のように拉致監禁の疑惑が浮かんできたぞー」
「疑惑では無く、事実だ。ついでに言えば、俺も巻き込まれた側だから、脱出の手助けは出来ない。つーか、出来るのなら俺が真っ先にお前を担いで脱出しているからな」
「……うへぇ」
朝食の幸せ気分が吹き飛ぶような、割としんどい事実だった。
寝ている間に拉致されるだけならともかく、その上、逃げられないように監禁されるとは。一体、東雲さんは何を考えて…………あー、分かったわ、ちくしょう。
「春尾さん、あの、もしかしてなんですが。これって、あれですよね? 俺へ絶好な創作環境を与える名目の監禁というか、いわゆる『缶詰』ですよね?」
「喜べ、世界最高峰の料理人と、女中が付けられているぞ」
「うわーい、泣きたいほど嬉しいぜ、くそが」
一体どうして、こんなことになってしまったのだろうか? これも東雲さんのイベントだろうか? しかし、今まではこんな唐突で理不尽な展開になったことは、あまりなかったはず。そう、何かきっかけが……あったな、うん。
「その、つまり、あれか? 東雲さんはその、俺の小説が早く読みたくてこんな真似を?」
「ま、あ。よっぽど嬉しかったみたいだからな、妹様」
春尾さんはどこか遠い目をして言葉を続ける。
「夜遅くまで俺に色々と自慢しているんだか、惚気ているんだかわからない話をして、結果、こういう結論に至ったらしい」
「深夜テンションで物事を決めちゃいけない」
「だよなぁ」
他人事のようにへらへら笑う春尾さんだが、貴方も関係者だからな?
けれど、だからと言って真剣に脱出方法を考えても無駄だろうし。
「あー、その、俺の家族とかへの連絡は大丈夫なんですかね?」
「そこら辺は妹様の独壇場だ、安心しろ」
「安心したけど、納得できねぇ」
どう考えたところで、俺程度が、東雲さんが作った閉鎖環境から逃げ出せるわけも無し。よって、自然と俺が出来ることはたった一つに絞られるのだ。
「……はぁ。春尾さん、俺のノートPCを持ってきてください」
「いいのか? 妹様の思惑にまんまと乗ることになるが?」
「そこら辺は仕方ないです、もう」
どうせ、俺に出来ることは最初からそれしか無いのだから。
「小説を書きます。どうせ、こんなことをしなくても書き進める予定だったけど、折角時間があるんだから、書きますよ。なんか、釈然としないけど」
「嫌がらせで、駄作を書き上げるなよ?」
「駄作かどうかは、書き終わってみなければわかりませんし。それに、好き好んで己を貶めるような真似はしませんよ、流石に。命がけながら尚更だ」
きっと、多分、誰にも頼まれなくてこれから先、ずっと俺がやり続けていくことだろうし。
今は、出来ることをやろう。
「例え、東雲さんが俺に『書かなくてもいい』と言われても、俺は最後まで書き終えるつもりですし、ね」
小説を書こう。
面白いかどうかは、東雲さんの判断に委ねられるのだけれど、せめて。
そう、せめて、俺にとって命を賭ける価値のある物語になるように。




