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第13話 闇の中だって、進むんだ

 後から思い返せば悶死確実のイベントを終え、俺は原付を駆って夜風を浴びる。

 夕暮れはとっくに落ちて、空は蒼と黒が混じったような、奇妙なグラデーションに。生暖かい夏の空気も、段々と涼しい物へと変わっていく。


「うへぇあええあえあああぁ……」


 原付を走らせながら、俺は小さな呻き声を漏らしていた。そのエンジン音でかき消されてしまうような、小さな呻き声。それは腹の底から湧き上がるような、胸の中のもどかしさをそのまま吐露したような、情けない俺の声だった。


「マジか、マジかぁ」


 先ほどの出来事を思い出すだけで、顔が赤くなる。

 辛うじて、後輩である余語の前では虚勢を張って、それなりの態度をしていたつもりだが、その目が無くなれば、もう、後はヘタレオブヘタレである俺のターンである。というか、俺のライフは既にゼロなのだが、ここからさらに自問自答でダメージが入るのだ。


「なにしてんだ、俺……何してんだ、俺!? つーか、え? え? えぇえええ?」


 ほとんど誰も通らない田舎道を走らせつつ、俺は声を上げる。

 どうせ、誰もいないし、誰も聞いていないので、喚く様に、エンジン音に混ざるほどの声量で、呻く。


「なんで俺はあんな変態行為を……いや、あれは仕方ない、仕方ない。だって、余語からの頼みだったし、あの空気じゃ断れない。うん、そこまではいいんだ。そこまではいいんだけど、問題はその後というか……はぁ、マジか」


 なんか俺が格好つけて、泣く余語をあやしていたところまでは分かる。だが、その後が分からない。確か、余語に抱き付かれて、首筋にキスされたような気がする。いや、おいおい、まさか、落ち着けよ、俺。そんな、出会って一週間で、そんなイベント起きるわけが、いやいやいや、落ち着いて確認してみよう、うん。


「…………マジだぁ」


 原付を道路脇に停車して、そのバックミラーで首元の確認。すると、確かにそこにはありました。あからさまなまでに確かな、痣というか、キスマーク。

 いやおいこれ、明日の学校どうすればいいんだ、おい。お前のあれこれは隠せる部分だからいいかもしれんがな、余語。これは言い訳が効かないというか、ああ、もう、いいよ、絆創膏を張って誤魔化すからぁ!


「というか、何? え? 余語って俺の事、好きなの? いやいや、待てよ、あいつは東雲さんに骨抜き状態のはずだ。なのに、何故、俺に? つーか、好きというよりは、あれじゃね? 性欲のままに行動しているんじゃねーの? あー、でも、行動の全てが性衝動とか、そういうのじゃないような気もするし。それなりに仲良くなった自負もあるしぃ」


 ヘルメット越しに頭を抱えて、俺がぐにゃん、ぐにゃんと体を捻じらせる。しかも、原付に跨っている状態なので、傍から見たら突然狂ったようにしか見えないだろう。

 だが、仕方ないんだ。

 生まれて初めてクラスの青春イベントが、俺の脳を混乱させてくるのだ。そして、俺は基本的に阿呆だし、青春イベントへの耐性はゼロに近い。むしろ、その場で暴走してわけわからないことを口走らなかっただけ、上等な対応をしたとも言える。


「うーがー」


 おのれ、あの小悪魔的後輩め。

 普通だったら、俺は女子との距離感を意図的にかなり離す人間なのに、最初に、最初に男装して俺を騙してくるからぁ! その上、なんか泣かれて――俺の言動も悪かったけど――責任を取る流れになったし。これがもしも、全て余語の手のひらの上だったら、今の俺はさぞかし良い転がり具合の男なのだろうさ。


 でも、あれだよな? 仮に全てを転がしているのが余語だったとしたら、その動機として考えられる可能性として……うん、止めておこう。これ以上胸の中の甘酸っぱい苦しみを長引かせると、創作活動に支障が起きそうだ。


「……一体、君は何をやっているんだね、芦葉君」

「おう?」


 悶々と小悪魔的後輩の事を考えていると、本物の悪魔が現れた。


「最近、君はちょっとたるんでいるんじゃないかと思うよ、まったく」


 悪魔――もとい、東雲さんは何故か、俺の下校ルートに待ち伏せていたかのように現れて、不服そうに腕を組んでいる。


「君の生活に刺激が出て、恋愛関係の描写力アップを狙っていたのに、あの後輩に骨抜きにされちゃってさ。そういうの、どうかと思うよ? いや、別にいいんだけどね? 別に、私は君が誰を好きになろうとどうでもいいんだけど、ほら、一応は私と契約したわけじゃないか。生涯最高傑作を書くと言ったわけじゃないか。それなのに、後輩とのいちゃこらにうつつを抜かしているのはどうかと思うよ?」

「その前にまず、何で東雲さんがここに居るかを説明しようぜ?」

「偶然通りすがりました」

「隠すつもりすらない、見事な嘘だなぁおい」


 明らかに無理がある言い訳だった。

 東雲さんの家はこっちの道とは逆方向だし、ここから先の道には田んぼと民家しかない。そう、コンビニすら碌に存在しない田舎が待っているだけだ。そんな場所にわざわざ足を運ぶほど彼女は暇じゃない。

 そして何より、俺が東雲さんの存在を事前に感知できなかったということは、気配を最初から隠していたということだ。いくら、さっきまでの俺の頭が緩んでいたとしても、本能的に危険を感じる相手の察知を怠るほど愚かではないはずだから。


「それで、俺に何の用だよ、東雲さん?」

「…………別に。ただの通りすがりだよ」

「えー」


 東雲さんは美しく微笑んでいるが、明らかにその微笑みは怒りを示していた。初対面の人間であれば、東雲さんの美しさに圧倒されて感情を読み取れないであろうが、ある程度まで踏み込んだ関係である俺ならば、何となくその感情を察することも可能……であってほしいと思う。

 とりあず、現状、俺が読み取れる限りでは東雲さんはふて腐れているようだった。

 嫉妬ではない。

 東雲彩花は俺相手に恋愛感情を抱いていないので嫉妬ではなく――そう、お気に入りのおもちゃをそこら辺の野良猫に横から掻っ攫われたような気分なのだろう。


「拗ねないでよ、東雲さん」

「拗ねてないけれど? いやもう、こっちが色々イベントを考えている脇で、後輩といちゃいちゃする人なんて知らないけれど?」

「……面倒くせぇ」

「あっ! 今、今、私の事をひどく言ったなぁ! いいのか、こらぁ! 君の日常を愉快なパニックホラーにしてやってもいいんだぞ!」


 人の命すら、契約内容に組み込むような悪魔なのに、どうしてこんなにポンコツみたいなリアクションをしているのだろうか、東雲さんは。

 というか、あれだ。出会った当初は完全無敵の超人であると思っていたのに、意外と探せば抜けている所もあるんだな。まぁ、それでも人間とは言い難い超越存在だけれども。


「落ち着いて、東雲さん。さっきの発言は謝るから」

「ふん、どうせ私との契約だってこけおどしだと思っているのだろう? 可愛い後輩が出来たから、引き延ばしに引き延ばすつもりだろう? 知っているんだぞ、君たちはいっつもいっつも、契約したかと思えば……」


 唇を尖らせたままの東雲さんは、ぶつぶつと俺にはよくわからない愚痴を呟く。

 やれ、確かにそうだ。あんな契約をした後に、呑気に後輩といちゃいちゃしていたら、その真剣さに疑問を持っても仕方ないのかもな。

 例え、当人である俺の覚悟がとっくに決まっていたとしても。


「東雲さん」

「なんだい、言っておくけどさ、散々文句を言っている私だけど、今更後付けに君に、締め切りを要求したりするほど恥知らずじゃないから安心して――」

「夏休みが終わるまでに、書き終える予定だ」

「…………え?」


 きょとん、と目を点にして驚く東雲さんへ、俺は続けて言う。


「俺はもう、お前に読ませる予定の小説を書き始めている。鉄は熱いうちに打てって言うだろ? それに、折角貰ったバイタリティーを無駄にするなんて真似ができるかよ」


 結局のところ、そうなのだ。

 俺のような人間が、時間をかけたからと言って凄い作品が生まれるわけが無い。例え、人生一つ分の時間をかけた作品があったとしても、それはひどくつまらない代物に仕上がるだろう。恐らくは、今が、東雲彩花と契約した直後である今こそ、最も俺が文章で貶めず、頭の中で描いたストーリーを書き下ろすことが出来るのだから。


「そ、そうか、そうだったのか。ふふふ、君も人が悪いな。そうなら、最初からそうと言ってくれればよかったのに」

「聞く耳を持っていなかった癖に」

「そんなことは、無いよ?」


 絶対に嘘である。

 その微笑みが完全に大衆向けの愛想笑いになっているので、誤魔化していることは確実だ。


「ああ、それと東雲さん」


 意外と調子が良い人だと思いながら、俺は東雲さんの碧眼を見つめる。

 見つめて、焦点を合わせて、ささやかな悪戯心を胸に秘めて、言葉を紡ぐ。もちろん、口元には不敵な笑みを浮かべて。


「俺の生涯最高傑作は、『長編小説』になる予定だから、楽しみにしとけよ」


「はい?」


 俺が告げた言葉に、今度こそ理解できていないという様子で、半口を空けていた。

 完璧超人の如き東雲さんの間抜け面を堪能すると、俺は追及されない内に原付に乗って、エンジンをかける。


「あ、ちょっと――」

「じゃあ、また学校で」


 何かを言われる前に、気さくに手を挙げて、さぁ、発進だ。原付ぐらいの速度ならば、東雲さんは追いつけるかもしれないけど、あの東雲さんがそんな無様な真似をするはずがない。

 だから、この場のちょっとした悪戯は成功した、というわけだ。俺だってやられっぱなしは性に合わないので、これでいくらか東雲さんに対する意趣返しになっただろう。

 と、そこまで考えたところで、俺は先ほどまでのやり取りの不備に気付く。


「…………そういえば、ヘルメット被ったままだったな」


 不敵な笑みとか格好付けたの、全然意味ないじゃん。

 うわぁ、格好付けたつもりで格好悪いとか、ダメダメだなぁ、俺は。阿呆にも程があるだろうが。


「でも、俺らしいっちゃ、俺らしいんだよなぁ、くそ」


 やはり人は簡単に変われないのだな、と再認識して、俺は原付を走らせる。

 見慣れた薄闇の中を、胸の中に灯された闘志が消えないうちに、走り抜ける。

 既に、契約は交わした。

 再度の宣戦布告も、先ほど済ませたばかり。

 だからきっと、残り少ない今日の俺は、絶好調になるはずだ。ならなきゃおかしい。

 宿敵の姿を見たら――――魂が震えなければ、おかしいだろう?



●●●



 俺の長編小説の出来が、ゴミクズと評されるほどひどいのには理由がある。

 書いている途中に思い浮かんだアイディアで、プロットを変えてしまう。それによって、プロットが破たんして、物語の辻褄が合わなくなる。無理やり合わせた結果、道筋が曲がり、見るに堪えない駄作が出来上がる。


 推敲を面倒臭がってほとんどやらない。

 そもそも、短編小説ほど『本気』になり切れていない。『本気』が持続しない、集中が続かない、長く文章を書いていると、その出来の悪さにさっさと打ち切ってしまいたくなる。

 などと、大半が神代先輩の指摘や、己が自覚している悪癖が原因だったのだが、ここにきて新たに、今までの長編小説の出来がゴミクズだった原因を、俺は発見した。

 それは、『読ませる相手』を仮定せずに長編小説を書き進めていたことである。

 短編小説の場合は、少なからず神代先輩の存在を意識して、きっちりと作品として認められるように仕上げようと努力していたから、認められるだけの作品を書き上げることが出来ていたのだ。


 だが、長編小説の場合は違う。

 俺はただ、己の内から湧き上がる妄想と空想を、適当に書き下ろしてすっきりするだけの行為として、長編小説を書いていた。自己満足と、自己否定と、ともかく、見せる第三者も想定しない、クソッタレなキャラクター設定。しかも、下手に気取って最近の流行を取り入れようとするから、余計にひどくなる。


 今から思えば、生きていることが恥ずかしくなるレベルの自慰行為だ。

 自分だけが気持ちよくなるだけの癖に、さらに『俺はこの程度の凡才だ』などとほざいて、己の不出来さに酔っていたのである。

 なんと、気持ち悪い男だっただろうか、俺は。

 酔いが冷めれば、悪酔いしていたことを思い出し、吐き気を催す。そんな、そんな苦痛を無理やり飲み下して、目を逸らしていた無様を受け入れて。

 ようやく、俺は長編小説を本当の意味で書き始めたのである。


「もっとも、こんなのは『今まで面白くなかったのは何かの間違いだから、次はきっとうまくいく』なんて、都合の良い妄想かもしれないけどな」


 自問自答の最後は、己が出した答えを自ら否定することだ。

 自分が正しいと思ってはいけない。そうなってしまえば、たった一つの道しか見えない。それに拘って、正しさに囚われて面白さを失ってしまう。

 そんな作品を、東雲彩花が好ましく思うわけが無い。

 そう、東雲彩花だ。俺が何故、俺の短編小説を愛する彼女に対して、長編小説で挑むのか、それには当然の如く理由がある。

 俺の長編小説がゴミクズだったのと同じように、理由がある。


「短編小説は、東雲さんに向けてじゃなくて、神代先輩や不特定多数に向けて書いてきたスタイルだからな。きっと、今までのやり方だと現状の作品の出来を大幅に更新することはできない。スタイルを変えようにも、脳に染みついたそのスタイルを変えるには長い時間が必要だ。そう、少なくとも、今まで短編小説を書いてきた時間はかかる」


 今までのやり方を変えるには、己の熱が持続する時間を考えれば、それは難しくて。ずるずると、無数の小説を書き上げて、けれど死の恐怖に負けて傑作を選べないでいるだろう。そんな未来を、容易く俺は予想できる。

 なにより、今までのやり方でも、それを変えたやり方でも、東雲彩花の超然とした才能を超えられる気が全くしない。

 だから、まったく未知の長編小説へと賭けたわけである。


「もっとも、下手をすれば『逃げ』の選択肢になる悪手の上に、書き上がった作品は傑作どころか、生涯最悪の駄作になるかもしれないけど」


 本気を出して長編小説を書き切ったことが無いから、それならもしかしたら、東雲彩花に体うちできるかもしれないという――未知に対する『逃げ』と『甘え』……それは、確かに、俺の心の中に存在する。弱い部分は、確かに存在する。

 加えて、当たり前のように、確立されたスタイルよりも新しく作り出したスタイルの方が、既存の読者から見れば不評であることが多いのだ。

 望んでいた物と違う。

 ここは変えて欲しくなかった。

 期待していた主人公じゃなかった。

 天才肌で、より狂信的に俺の作品に拘っている東雲さんだからこそ、それはより顕著な物になるだろう。

 東雲さんのお望み通りの作品を書くのならば、スタイルを変えずに、短編小説を書くしかない。それが定石。

 だが、同時にそれは敗北宣言だ。確実に、絶対的に、俺の作品は東雲さんの才能の前に蹂躙され、俺は失意の中で命を刈り取られる。

 絶対に、確実に、間違いなく。

 それならば、長編小説に新しく挑む方がまだ可能性が――――いいや、違うな。


「違う、今までの思考は、結局、全部言い訳だ」


 命を賭けるのだから、勝たなければならない。

 勝たなければ、死ぬのだから、当然如く勝つために全力を尽くさなければならない。

 だから、長編小説を選んだと、言い訳したかったのだ。俺の選択には確固とした理由があり、それは勝利に繋がっていると、己と周囲を納得させるために。

 でも、違う。

 違うんだ…………長編小説を書こうと思った本当の、理由は。


「東雲彩花――お前に、読ませたい物語があるんだ。ああ、それを読ませるためならば、きっと命も惜しくないと思えるほどに」


 思いついてしまったからだ、東雲彩花に読ませたい物語を。

 俺が、東雲彩花へ届けたい物語を。

 そのためならば、命を燃やし尽くしても構わないと思えるほどの物語を。


「いやまぁ、死ぬ気はないし、当然、生涯で一番面白くするつもりだけど、な」


 自分の言い訳に苦笑して、俺は改めて、書きかけの原稿へと向き合う。

 さぁ、つまらない自問自答はもう終わりだ。さっさと、己の為すべきことを再開するとしようか。


「ああ、そうだな。少なくとも、俺が命を乗せられるだけの作品にしよう」


 己の身を焼くような錯覚を覚えながら、俺は、再びキーボードに指を置く。

 東雲彩花との契約を果たすために。

 己の矜持を、貫くために。



●●●



「んなぁああああああああああっ! かーけーねーえぇええええええっ! ああああああああああああっ! 畜生ガァ! いい感じに心の中でモノローグを入れれば、書き進められると思ったのに、くそがぁ!!」


 自問自答したり、格好付けたモノローグを原稿用紙に書きなぐっての気分転換。後は、思い切り水を飲んだり、ベッドの上で転がって呻いてみたり。

 そう、一切妥協無く挑むと決めた長編小説は、冒頭の二ページ目ぐらいから既に書き進めるのが苦痛になって来た。いや、違う、そうじゃない。苦痛になっているのではなく、まだ躊躇っているのだ、己の中の全てを小説の中にぶちまけることを。


「ぐががが、ぐがががが!」


 溺死寸前の獣の如き呻き声を上げながら、俺は眼前のディスプレイへと――小説の原稿へと向かい合う。

 俺が書こうとしている長編小説のジャンルは伝奇系ジュブナイルだ。

 小説の舞台は俺の地元をモデルとして、コンビニすら碌に無い田舎村出身の主人公に。通う学校も、交友関係も、色々と自分自身から材料を吐き出して、継ぎ接ぎにして、何とかそれっぽく整えた。


 そんなうだつの上がらない冴えない主人公が、とある美少女転校生と出会う所から物語は始まる。

 その美少女は何でもできる完全超人で、カリスマも高く、瞬く間に学校の人間を教師まで従わせてしまう。何も出来なくて、冴えない主人公とはまるで正反対な存在。本来であれば、まるで交わらないはずの主人公とその美少女は、とある事件をきっかけに関わり合うことになってしまう。

とまぁ、大雑把に言えば、こんな感じのストーリーだ。その後は異能バトルやら、怪奇事件などが巻き起こって、なんやかんや物語が進むのだが、それはさておき。

 問題はその主人公と美少女が出会う冒頭のシーンである。


「ぬ、ぬぬぬぬぅ」


 退屈で平穏な日常を送っていた主人公が、ある日、ざわつく教室内に入って来た美少女に視線を奪われる。一目見て、その異常さに気付いてしまうシーンだ。それが、何よりも俺が書こうとしている物語の最初に来なければならない。

 しかし、だ。

 ぶっちゃけて言えば、この美少女のモデルは東雲さんである。もう、金髪美少女の完璧超人にしている時点でお察しかもしれないが、東雲さんだ。そして、主人公のモデルは俺だ。ならば当然、俺と東雲さんが初めて出会った時を思い出して、そのまま書けばいいだろうと思っていたのだが、書き始めて俺は気づく。


「それじゃあ、つまんねーんだよなぁ」


 つまらない、そう、つまらない。

 あの現実をフィクションに貶めるのならば、俺の腕では再現しきれない。昇華できない。

 あの時の感動を、恐怖を、畏怖を、何もかもを書き記すには俺の腕は未熟過ぎて、そして、彼女と対決すると決めた今の俺では、それを再現しきれない。


 ならば、どうする? ならば――――どうするんだよ、芦葉昭樹。


 こんな序盤で立ち止まっている暇なんて無いだろう? こんなハードルなんて蹴飛ばして、物語の続きを書きたくてたまらないのだろう?

 さぁ、恐れず、躊躇わず、己の全てを吐き出して書き進め。


「…………うっし、決まった」


 たった一つだけ、大切なことを決めてしまう。

 それだけで体中が腐り果てたような倦怠感が失せて、仮初の全能感が俺の体を満たしていく。


「再現しきれないのならば、再現しなければいい。そうだ、創造だ。新しい出会いを、新しい因縁を想像して、妄想して、創り上げればいい」


 かつての俺では無く、今の俺の心境を削り出して。

 逆に、ヒロインからは東雲さんの俺に対する執着を失くして。

 物書きですらなく、何者でもない主人公と、そんな彼を路傍の石ころとしか見なしていない超人の出会いを書いていこう。


「今の俺が東雲さんから路傍の石ころみたいに見られたらどうする? 決まっている。ああ、決まっているともさ」


 熱を入れられたエンジンの如き思考で、思うが儘に指先を躍らせる。

 誤字? 脱字? そんなものは後で直せばいい。今は、この熱量を昇華させて、真っ白な画面を俺が打ち出して文字で埋めていくんだ。


「『その澄ました面が、無性に気に食わなかった。何もかも思い通りで、俺の事なんて路傍の石ころ程度にしか見ていないその碧眼も、気に入らなかった。そうだ、俺は気に入らない。美しさに心が震える以上に――――俺は湧き上がる苛立ちによって、心が奮えているのだ!』」


 吐き出される言葉と共に、文章を打ち込む。

 過程の選択に、仮想の出会いに、もしもの邂逅に思考を沈めて、物語の主人公と己の心を同期させて。


「『やがて、美しい少女は俺の隣の席へやってくる。さながら、ラブコメディの定番のような流れであるが、今の俺は主人公ではない。彼女に恋をしているわけでもない。ただ、気に食わないから、彼女に目に物を見せてやりたくなっただけの愚か者だ。何がそんなに気に食わないのかもわからず、蛮勇を振るおうとしているだけの愚者だ』」


 物語の中で、美しき金色の少女が静かに歩いてくる。

 その視界の中に、俺は――主人公は居ない。この出会いには、運命なんて存在しない。仕組まれた必然も存在しない。本当に、ただ偶然に主人公の隣の席が空いていただけの、ただそれだけの出会いだ。

 されど、この主人公は俺に負けず阿呆だ。

 この偶然に勝手に意味を見つけて、頼まれもしないのに圧倒的な存在へと挑もうとしているだけの愚者だ。

 それでも、この主人公は己の存在を美少女へと刻み付けたいと思うのだろう。

 さながら、俺がどうしても東雲彩花という超人に勝利したいと足掻くように。


「『隣の席に座った美少女が、ふと、こちらに微笑みを向ける。それは、世界中の宝石を集めてもなお足りぬほどの輝きを感じたが、俺は知っている。その微笑みは決して、俺に向けられたものではないと。大多数の有象無象に向けて微笑んで、俺などはその中の一人に過ぎないのだと。だから、だからせめて、俺はこの場でささやかな宣戦布告を済ませることにした』」


 きっとこの主人公もこうするのだ、と俺は文章を打ち込む。


「『初めまして、転校生。俺の名前は芦葉昭樹だ。どうぞ、これからよろしく』」


 ありきたりな自己紹介に込められた、ささやかな稚気と意地は、まさしく宣戦布告だった。

 そう、俺があの時、東雲さんへ立ち向かうと最初に決めた時と同じく。


「……と、おいおい、主人公の名前が俺になってるじゃんか。ちょっと、熱を入れ過ぎたみたいだな、ふぅ」


 最後に俺の名前のまま書きこんでしまった文章を、主人公の名前に直して。

 ようやく、実に二時間以上の時間をかけて冒頭の四ページぐらいを書き終えた。ページ数の割にはかなり時間がかかった方だが、これからは大分書きやすくなるだろう。


「問題は、これ以上の山場がこの先にもたくさんあるってことだ」


 されど、いつかまた指先がキーボードの上で止まり、悶えるような苦悩を味わうはずだ。それは確定された未来であり、俺が乗り越えるべき試練でもある。


「……先は長いな、まったく」


 ぎぃ、と椅子の背もたれに体を預けて、俺は大きく息を吐いた。

 長編小説を本気で書くことは、ゴールの見えない暗闇の中を歩いていくような物だ。少なくとも、俺はそんな心持ちでこの小説に挑んでいる。

 この創作の闇を照らす術はたった一つだけ。

 己の身を切り落とし、それを松明のように燃やすことだけだ。あるいは、己の身を松明にして、灼熱の苦痛に耐えながらゴールまで走り抜けるか。

 どちらにせよ、楽は出来ないし、するつもりはない。


「だが、きっといつかは辿り着く。辿り着いて見せる。それが亀の歩みだとしても、眠らずに進めば月の兎にだって負けないはずさ。そうだ、負けないとも」


 果ての見えない闇の中だって、俺は進むんだ。

 その先に在る、勝利を求めて。

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