第11話 謝罪は誠意を込めて
「やめてください、芦葉先輩っ! 私のために争わないでっ!」
「おふっ!?」
俺が席を立ちあがったところで、俺の腰に絡みつくようなタックルを余語がかまして来やがりました。 まったく予想外からの攻撃に、俺の反応は遅れ、見事に余語が俺の腰に纏わりついて動きを封じる形に。
「ええい、離せ、余語っ! こいつはここで殺す!」
「殺人はいけませんよ、殺人は!」
「言葉の綾だ、本当に殺さない! マックスで骨を折るぐらいだ!」
「他校の人の骨を折ったら、普通に警察沙汰で退学コースですよぉ!」
余語の説得を受け、久々の仇敵との再会に、瞬間沸騰してしまった俺の思考が、段々と冷やされていく。というより、思い切り俺の腹部を締め付けているので、普通に内臓が苦しくなってきた。不意を突かなければ、華奢な方である余語の腕力でもこの様である。おのれ、自分の貧弱さが恨めしい。
「……わかった、わかった! もう暴れない! 喧嘩はしない! だから、離せ」
「離した瞬間、暴れ回りそうなのでしばらくこのままです」
「男に抱き付かれる趣味はねーんだけど?」
「短気を起こした罰だと思って、我慢するんですね、ふふん」
今回ばかりは余語が完全に正しかった。
頭に血が上った俺の行動が愚かだったのである。だから、余語には感謝しなければならないだろう。さりげなく、人の腹部を擦っていたり、腰に頬ずりしている点も見なかったことにするしかないな。
「芦葉、お前は変わったな」
人が怒りを抑えていると、海木の奴が苦々しい表情でぶっきらぼうに言った。
恐らく、余語の制止は俺だけではなく、海木の奴にも刺さったのだろう。海木は俺以外と接する時は非常に気のいい奴になるので、余語という第三者が介入したおかげで冷静さを取り戻すことできるらしい。
「中学までのお前なら、そこから無理やり制止を振り切ってからの飛び蹴りだったろう?」
「さすがに落ち着いたんだよ、高校生になってな。それに、後輩にここまでされて、それでも馬鹿をやるほど俺は恥知らずじゃねーよ」
「は、それもそうだ。俺も、折角のバイト先を喧嘩でクビになるのは御免だからな」
海木は肩を竦めて、おどけてみせる。
その仕草はさりげなく、けれど、映画の中に出てくる俳優がやる様になっている物だった。
「とりあえず、海木。この場ではお互い出来る限り、当たり障りのない行動で怒りを濁していこうぜ。もう高校生なんだから、嫌いな奴ともうまく付き合えるようにならないと」
「言われなくてもそのつもりだ。というか、俺はお前以外とだったら、大体うまく付き合えているんだよ、舐めるな」
「舐めてねーよ、普通に凄いと思っているよ」
「うるせぇ、ありがとう」
「なんなのこいつ」
俺と海木は互いに妥協点を探り合いながら、何とか怒りを宥めていく。大丈夫、大丈夫、もう高校生になってお互いに成長したんだ。店に迷惑をかけるような喧嘩なんて、やってはいけないんだ。特に、春尾さんがブチ切れたら猛烈に嫌な予感がするから、堪えるんだ、俺。
「やー、話には聞いていましたけど、貴兄ぃと芦葉先輩はガチで犬猿の仲なんですねー」
「互いに改善しようとは思っていたんだが、こいつと向き合うとどうしても感情論になってしまってなぁ……んん? 貴兄ぃ?」
なんか凄く親しそうな呼び方だけれど、えーっと?
俺が疑問を込めた視線を送ると、海木はため息交じりに応えた。
「同じ地区の出身なんだよ。相変わらず、後輩の名前すら碌に覚えてないんだな、芦葉」
「クラスメイトの名前すら曖昧だからな、俺は」
「高校生になってもそれなのか、お前は全く……つーか、それよりも、悠月」
海木は視線を余語に移すと、疑わしげに余語の全身をじろじろと観察する。観察して、納得いかないように海木は首を傾げて、余語へ問いかけた。
「お前、その格好と髪はどうしたんだ? 罰ゲーム?」
「わーっ! うわーっ! た、貴兄ぃ、こっちに来て!」
余語は俺の拘束をやっと解放したかと思うと、今度は海木の手を掴み、店の奥の方へ引っ張っていく。
なんなんだろうか? いきなり騒いで。罰ゲームとか、意味不明だし。
「はい、お待たせしました、芦葉先輩! いやぁ、ちょっと昔話で盛り上がって!」
「…………マジかー」
数分後、何かを誤魔化すように満面の笑みの余語と、何かにショックを受けて項垂れている海木の姿があった。
「どうした、海木? 何か、うちの後輩が酷いことを言ったのか?」
「いや、どちらかといえば、酷いのはお前の方…………つーか、え? マジ? 俺の事をこっそり騙そうとしてない?」
「だから、何がだ?」
「…………うっわー、マジの反応だよ、これ」
一体、何なのだというのだ、こいつは? 人を見るなり、ツチノコでも実在していたかのようなリアクションを取りやがって。確かに、中学のクラスメイトと地元で会ったりすると、『やべぇ! 芦葉と会えるなんて、今日はツいてるな!』なとど、出現率の低い野生動物に遭遇したみたいなリアクションをされることもあるが。
「いいか? いいか? 芦葉、よーっく、この悠月の顔を見ろ、姿形を観察しろ?」
「お、おう?」
妙に海木が真剣に言ってくるので、仕方なく従う俺。
怒るでもなく、苛立つでもなく、まるで現実を信じられず縋りつくような目をされてしまえば、俺と海木の仲と言えど、従わざるを得なかった。
「何か、何か、気付くことは無いか? こう、根本的なことに!」
「…………ふーむ」
「え、えへへへ」
言われたので、改めて余語を観察してみる。
肩にかかる程度の黒髪に、大きな瞳。童顔。可愛らしい顔立ち。似合わない学生服。妙に柔らかな体つき。やはり、どこからどう見ても男の娘にしか見えないな。一体、海木の奴は何を問題にして…………あ、そうか。
「分かった、ようやくわかった」
「やっと、やっとわかったか? つまりだな、悠月は――――」
「髪を切っただろ、数ミリぐらい。全体的にこう、ふわっと軽くなった印象があるわ」
「わぁ、そこに気付くとはさすが芦葉先輩ですね! 後輩の細かな変化に気付けるとか、ポイント高いですよぉ!」
「そうか、そうか。ふふふ、俺も違いの分かる男になったか」
きゃいきゃいと、俺と余語は共にハイタッチなどをしたりしてはしゃぐ。
いやぁ、中学時代は全然他人の変化とかに気づけなかった俺だが、今では新入部員のちょっとした髪型の変化も見逃さない。これこそが成長って奴なんだな。
「つまり、先ほどから海木が俺に言いたかったのは、こういうことなのか。自分の後輩の変化ぐらい、きっちり気づいて拾ってやれ、と。そうしなければ先輩失格だ、と。なるほど、普段なら苛立つお前の言葉だが、確かに、一理あったと思うぜ」
「…………この、天然野郎」
ところが、人が珍しく感心しているというのに、海木の奴は顔を手で覆って『信じられないぞ、こいつ』みたいなリアクションをかましてやがりました。
だから、なんなんだよ? 喧嘩を売ってないことはわかるけど、それ以外がさっぱり意味不明だぜ、海木よ。
「まー、確かにまじりっけなしの天然生物であるが……いや、人間同士で作ったという意味なら俺も人工物か」
「俺はそんなくだらない下ネタの事を言っているんじゃねーよ! もう、いい! お前は行き着くところにまで行っちまえ、芦葉!」
「お、おう?」
「後、色々喚いて悪かったな! ここのメニューを一つお前らに奢るから、勘弁してくれ!」
「…………妙に律儀なところは変わってねーな、お前」
喧嘩をする時は必ず、一対一。友達も取り巻きも多い癖に、俺との喧嘩には絶対に手を出させない。女子が俺の机を勝手に焼却場に捨てた時は、俺よりも先に「余計なことをするんじゃねぇ!」とブチ切れる正義漢。
本当に、変わっていないな、そういうところは。
――――だから、ムカつく癖に、認めざるを得ないんだ、クソが。
「それはそうと、既にオーナーからカレーしか作らない宣言と、奢ってやるという話を受けたばかりなのだが、俺たちは」
「超絶イケメンコックの人で、目の保養になりましたよー」
「…………あ、あの、あの馬鹿オーナーァアアアアアアアアアアッ!!」
後は、変なところで苦労を背負い込むような気質も、変わってないなぁ。
そんなことを、厨房に怒鳴り込みに行くかつての同級生の背中を見て、しみじみと思ったのだった。
●●●
仇敵との再会も終え、俺は早々にその記憶を奥深くにしまい込んで、封印することにした。幸いなことに、春尾さんが作ってくれたカレーが超絶美味しかったので、そっちの記憶を前面に出して、上書きしていく方向で。
「いやぁ、カレー超美味しかったですよねー、先輩。ボク、あんなに美味しいカレー、生まれて初めて食べましたよ」
「あの人はガチで世界有数クラスの料理人らしいからな」
「しかも、超絶イケメンですし! いやぁ、神様は依怙贔屓が大好きですね!」
「……その代わり、それ以外がバイトに怒られるようなダメダメらしいぞ」
俺と余語は、駅のホームで電車を待ちながらだらだらと会話していた。
雑踏と、煩雑な周囲の会話をBGMにして、とりとめのないことを、まるで青春映画のワンシーンの様に、語り合っている。
「でも、あれですよ。ぶっちゃけ、よっぽど他が酷くなければ、美形というだけで全てが許される気がしません?」
「人それぞれ、許容範囲はあると思うがな。ちなみに俺は、美形だろうが駄目な人間は嫌いだ。同族嫌悪とかめっちゃする」
「ああ、だから東雲先輩の事が大好きなんですね、芦葉先輩は」
「いやいやいや、何を言いやがるのかな、この後輩は」
俺の隣で木製のベンチに座る余語は、にまにまと笑みを浮かべて言う。
「だって、そうじゃないですか。ボクと決闘した後の時とか、『東雲彩花以外は眼中に無い』なんて、あんな恥ずかしい言葉、相当大好きじゃないと素面で言えませんよぅ」
「お前は人が決意を形にした言葉をそうやって、茶化してやがって……」
「そりゃ、茶化したくもなりますよ、だって芦葉先輩はガチでマジなんですもん」
呆れたように、あるいは感心したような、よくわからない表情を浮かべて、余語は言葉を続けた。
「普通はそうですねー。思春期の少年少女なーんて、本気の言葉を口にしませんよ。誰かに『なに、マジになってんの?』と馬鹿にされるのが、怖いですからね。傷つくのが怖いんです。他の人がなぁなぁで生きているから、空気を読んで併合しているんですよ」
「はん、そんな死んだような生き方は御免だな。少なくとも、社会に出る前の学生生活ぐらい、好き勝手やらせてもらうさ。お前だって、そうだろう? 余語」
「…………そーですねぇ」
俺の問いに、余語はどこか遠くに視線を向けた後、小首を傾げた。
「ボクの恋情はあれですよ、東雲先輩のオーラに当てられたものですからね。そりゃ、お近づきになって、エロイことが出来れば万々歳ですが。がっつり、愛とか、恋とか、そういうのがあるかと言われると微妙じゃないですか?」
「俺に殴り掛かって来たくせに」
「一世一代の告白をあんな振られ方をして、ちょっと気が動転していたんですぅ。覚悟を形にして、不退転な状態でしたし。というか、実際には殴られていないですから、あんまり引き合いに出さないでくださいよ」
子供の様に、唇を尖らせて呟く余語が妙におかしくて、俺はつい笑ってしまう。
「はははっ、あの時は俺も大人気なかったからな、お相子だ」
「…………ぶっちゃけ、あの時は先輩が首絞めながら笑うから怖すぎて、ちょっとちびりました、責任を取ってください」
「わかった。さぁ、この自動販売機で好きなジュースを選ぶがいい」
「やっすいですね、責任の取り方!」
そうは言われても、男子がちびった責任なんてその程度の物だろうさ。これが女子だったら、まさしく土下座する勢いで色々やるかもしれんが。
「まったく、芦葉先輩のそういう所、減点ですよ!」
「個人的には初対面の印象最悪の時点から、ここまで来れた時点で奇跡かな、と思っている」
「それはわた――ボクも同じ感想ですけど」
てっきり俺は、気まずい空気が文芸部の中に多少なりとも生まれるんじゃないかと予想していたのだが、思いのほか余語が俺に懐く物だから、すっかり部室が和気あいあいとした空気になってしまっているのだ。これでは、真面目に活動している文科系の部活みたいではないか。いや、数人は真面目に活動しているけど、副部長からして幽霊部員だしなぁ、文芸部。
「ボクが思うに、先輩ってばあれですよねー。遠慮なく接することができる身内というか、年下相手には割と評判良いと思うんですよ。人見知りとかしなければ」
「人見知りはするなぁ、めっちゃするなぁ、俺。だって、三人以上の面子で会話とかできねーもん。他の奴らが会話していると、俺は別に話さなくてもいいんじゃね? とか思う」
「他人に厳しく苛烈で、身内に優しい癖にドライで……きっと、芦葉先輩はそんな感じの変人なんでしょうねぇ。やれやれ、付き合うこっちが大変ですよ」
「は、言ってろ」
余語はにやりと笑って見せて、俺もまた笑みで応えた。
俺としては、例え先輩として舐められているとしても、これくらい遠慮なく言ってくれた方がありがたい。何せ、他人の気持ちを察することが致命的に下手くそな俺だ。想いを言葉にしてくれなければ、俺という鈍感な阿呆は何にも気づけないのである。
「とりあえず、ボクが隣に居る時は先輩の事をフォローしてあげますから、感謝してくださいね! あ、それはそうと、プルタブ開けてください。苦手なんですよ、爪の間に挟まる感じが」
「だったら何で缶コーヒーを選んだんだよ、お前」
かしゅ、と小気味のいい音を立てて缶コーヒーの蓋を開ける。よく見ると、微糖だ。微糖の癖にくっそ甘い味がする缶コーヒーだっけか? しかも、初夏だというのにホットの缶コーヒーを買うあたり、何かこだわりがあるのかもしれない。
甘党なのかね? という疑問を抱きつつ、俺は開けた缶コーヒーを余語へ手渡す。
「それはもちろん、雰囲気ですよ、雰囲気。あ、それと早速アドバイスなのですが、後輩に何かを奢る時は、ちゃんと自分のも何かを買わないとだめですよー。気を遣わせちゃいますよー」
「む、それもそうか」
余語の指摘ももっともだったので、俺も習ってホットの缶コーヒーを買った。微糖はさすがに甘すぎたので、ブラックの奴を。
「お、いいですねー、いいですねー。他の人に合わせるってのは、中々印象はよろしいですよ。ただし、やり過ぎると真似っこみたいになるので注意です。まー、先輩には不要の注意ですけれど。団体行動とか、苦手ですよね?」
「それどころか、祭りの会場に行くだけで体調を崩すぞ、俺は」
「うっわー、筋金入りのコミュ障じゃないですかー」
「うるせぇ」
けらけら笑う余語からそっぽを向き、俺は缶コーヒーを啜る。
「あひゅい」
そういえば、俺はそこまで熱いのが得意では無かったと、口にしてから気づく。しかも、その場のノリで買ってみたが、そもそもコーヒーは苦手な方なんだよ、俺。ああもう、格好付けた癖に、格好悪いなぁ、俺って。
「ふ、ふふふふっ、なんですか、それ」
「うっせーよ、ちくしょう」
ムキになって缶コーヒーを飲み干そうとする俺と、それを愉快そうに見守る余語。
こんな俺たち二人が、周りからどう見られているのかはさっぱりわからないが、きっと、それは青春と呼べる物なんじゃないかと思う。
少なくとも、後輩と共に飲む缶コーヒーの味は不味くないと感じたから。
俺にとっては間違いなく、この時、この瞬間は青春だった。
●●●
さて、ここまで愉快に日常を楽しめたのも久しぶりだ。
多少なりともトラブルやイベントは会った者の、プラスマイナスすれば、大分プラスに残る具合の満足感である。
最初は面倒だと思っていた余語も、思っていたよりも話が合う後輩であり、共に居て気疲れがしない貴重な相手だ。きっと、他の後輩二人も含めて休日にでも遊びに行けば、それなりに楽しい時間を過ごせることは間違いない。
その光景を連想するだけで、錆びついていた俺の青春回路が動き始めるような錯覚すら起きるのだから、俺は今、相当浮かれているのだろう。
――――もっとも、その日常全てを賭け金にしたのは、俺なのだが。
どこまでが東雲さんの仕込みなのかはわからない。全てが掌の上という可能性もあるし、東雲さんの干渉は全くなかったのかもしれない。
ただ、どちらにせよ、俺の日常が充実していくにつれて、俺の双肩に圧し掛かってくるプレッシャーも増大することは確実だ。
東雲彩花は、契約を履行する。
どれだけ情にほだされようとも、どれだけ俺が懇願しようが、俺が敗北すれば命を刈り取っていくだろう。
さながら、人の命運を司る運命の女神の如く。
俺如きの命など、朝飯前で奪い取って、我が物とする。それだけは天地が逆転しても、変わらない真理であると、俺の本能が確信していた。
だが、だからこそやりがいがある、と思うのだ、俺は。
充実していく日常に背を向けてでも、後悔に胸が押しつぶされそうになったとしても、決して逃げ出すことだけは俺はしない。
「馬鹿か、お前は。馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿とは思っていなかった」
そんなことを、翌日の放課後に、隼人先輩へ報告したらガチ説教が待っていました。しかも、態々人気のない廊下へ移動してからの、ガチ説教である。普段は人の目なんて気にしない隼人先輩が、ガチの対応をしているのだ。これはやばい。
「いいか? お前の行動は英断でも、決意でも、覚悟でもない……ただ、流されただけだ。あの女の感情に流されて、仕方なく首を縦に振っただけだ。ちょっと頭のおかしい奴の感情に当てられて、『もしかしたら自分も特別かもしれない』と勘違いしているだけの大馬鹿野郎だ」
「はい」
「さらに最悪なのは、それをお前自身が自覚してなお、それでもいいと納得している所だな、クソが。この、思春期真っ只中の馬鹿野郎が」
隼人先輩の声は荒々しいが、内容は全て俺への心配である。本当に、本当に、この先輩は口が悪い癖に、人情に厚いのだ。
「命ってのはな、一時の場のノリで消費していいような安物じゃねーんだよ。命を軽く使う奴が格好良く見えるのは、舞台上の道化師を羨むような愚かさだ。いいか? 例えな? 現状に不満を持って、死んだように生きていたとしても……生きてさえいれば、少なくとも前を向いて生きていれば、その内なんとかなるんだよ、案外な」
不思議と、カエル顔の先輩が、今は群れの仲間を案じる狼のようにも見える。本当に不思議だが、そう思うととてもしっくりくるのだ。今、先輩の顔が狼でないことが、逆に違和感を覚えてしまうほどに。
「ったく、道徳の授業じゃねーんだぞ? いいか? 契約だの、約束だの、そんなのは関係ないんだ。テメェが助けてと言えば、俺が道理を曲げて、無理を押し通す」
「……ありがとうございます。でも、隼人先輩、それは――」
「知ってるってーの、馬鹿が」
がりがりと乱暴に頭を掻くと、隼人先輩は大きなため息を一つ。そして、舌打ち混じりに俺の胸へ、どんと拳を押し当てた。
「お前がもう、後戻りしないってことは知っている。お前がそういう馬鹿野郎だってことも知っている。だから、俺が先輩として言えることは、後はたった一つだけだ」
ぎろり、と隼人先輩の眼光が俺の眼球から、そのまま脳を貫くような錯覚を受ける。それほどまでに、苛烈で、焼き切れるほどの感情が、その視線には込められていた。
「絶対に、勝て」
「はい、必ず」
しっかりと隼人先輩の言葉を受け取り、頷いた後、俺は言葉を付け加える。
「これでも俺、文芸部の部長ですから」
「はっ、そりゃそうだな。これで負けたら、部長失格だぞ、お前」
「それは勘弁してほしいですね、折角育て甲斐のある後輩が入ったのに」
「部活動でそれなりに親しい先輩がいきなり死ぬとか、普通にトラウマ案件だな」
「…………絶対に負けられねーですわ」
後輩三人の顔を思い浮かべ、さらにプレッシャーの重みが増したような気がする。そうか、当たり前だけれど、俺の命は俺だけの物では無いんだよなぁ。
「それはそうと、芦葉。実際に、あの東雲彩花という怪物に勝つための勝算……いや、作戦はあるのか? 当たって砕けろ、なんてほざいたら、この場で心臓を殴るぞ」
「勘弁して下さい」
隼人先輩は見かけによらず、随分と鋭いハートブレイクパンチを放ってくるので、これは慎重に答えなければならない。隼人先輩の目がマジな時は、余計な冗談を言うとガチでやばいことになるのである。
だから俺は、元々考えていた作戦と、そのために必要な事を隼人先輩へ話す。話して、説明して、頼み込む。
那由他の彼方にしかないような、かすかな勝利を掴むために。
「なるほどな、この方法は確かに賭けだ。だが、そうだな。お前にはこれしかないな」
「ええ、俺が勝つ可能性があるのは、これだけかと」
「…………言っておくがな」
隼人先輩にしては珍しく言い淀んだ後、吐き捨てるように俺へと告げる。
「お前には高校卒業後も、色々手伝わせる予定があるんだ」
「わぁ、なにそれ、全然聞いてないです」
「今言った。だから、あれだ…………俺の予定を台無しにするんじゃねーぞ?」
まったく、なんて不器用な激励だろう? けれど、これ以上なく、隼人先輩らしい激励だ。ああ、本当に…………こんな人がいるのに、ほいほい東雲さんの誘いに乗ってしまう俺と来たら、大馬鹿野郎だ。
そう、本当に大馬鹿野郎だから――――せめて、本気で水面の月すら掬い取ってしまえるような、そんな馬鹿になろうと思う。
●●●
隼人先輩と話をして、俺の心は定まった。
さぁ、後は思う存分執筆に没頭するだけだ。書くための準備は、ずっと前から出来ている。必要なインスピレーションは最初から得ていた。書くべきテーマは、俺の胸の中に。
だから、俺はまようことなく文芸部の部室へと赴き、意気揚々とその扉を――
「んんん?」
開けようとして、扉に鍵が掛かっていることに気付く。見れば、東雲さんが来客した際に作った、廊下からの覗き防止用の暗幕がドアの窓に掛かっている。不思議なこともある物だ、部室内に誰も居ない時は、極力暗幕を掛けないようにと、顧問からの注意を受けているし。
「余語の奴、まだ来てないのか?」
高橋と姫路の奴は、昨日に引き続き、実家の道場関係で部活に来られないと連絡を受けている。俺も、隼人先輩に諸々の報告をしに行くので、部室の鍵は予め余語に預けておいたのだけれども、ふむ。
「まぁ、こういうこともあるか」
余語にも何か緊急の用事があったのかもしれない。それで連絡を忘れていたり、遅刻したりしているのだろう。
俺はこういう場合も想定して、スペアキーを所持しているので、それを使って部室の施錠を解除。垂れさがる暗幕を潜って、薄暗い部室内へと入っていく。
ん、んんん? 薄暗い?
「おっかしーなぁ。カーテンは普段、閉め切ってないはずなんだが」
見ると、部室内の窓ガラスには全て白のカーテンが掛かっていた。完全な遮光カーテンでないので、割と日光が入ってきて視界もそれなりに効く。
そう、少なくとも、部室内で固まっている状態の余語を見つけられる程度には。
「…………え?」
「ん?」
いや、こちらを見て驚く様にして固まっているのは、別にいい。別にいいのだが、問題は、その余語の格好だ。
いつもの学生服は何故か、机の上に畳んで置いてあり――――代わりに、余語が女子のブレザーを着ていた。そこでもう意味不明なのだが、さらによくわからないことに、余語はちょうどブレザーのスカートを脱いでいたところで固まっていて、こう……明らかに女子の下着が、水色のショーツが俺に丸見えなのだ。
「あ、あ、ああああ」
余語は目を丸くしたまま、口をぱくぱくと動かす。何かを言おうとして、言葉にならず、ただ喉から呻き声を出している状態のようだ。
ふむ、つまりこの場において俺の第一声こそがこの後の展開を決めるらしい。
故に、俺は落ち着いて、落ち着いた、とてもクールな思考で、冷静で論理的な思考の下、微笑みと共に余語に告げる。
「下着まで込みの女装とか、レベル高いな、お前」
俺が言葉を言い終わった直後、俺の腰へ鈍く、重い衝撃が。同時に、俺の視界がぐるんと反転、そのまま腹部へ、ずしんとした重みを受ける。
どうやら、余語にタックルされた後、馬乗りされてしまったようだった。
「よ、よりにもよって、あの瞬間に言うことがそれですか、貴方はぁーっ!!」
「ちょ、いたっ、やめっ、普通にグーで体の柔らかい部分を殴るのは、やめっ」
「そりゃ、私のも悪い所はありましたよ!? ずっと面白がって隠してましたしぃ! 今日だって無断に部室で着替えてましたっ! それは本当にごめんなさい! でも、それでも、それを込みでも! さっきのあれはあんまりですよっ!!」
「ご、ごめ、ごめんって!」
半泣きになった余語に殴られながらも、俺は辛うじて部室のドアを閉めることに成功。
ふぅ、下半身パンツ丸出しの女子が半泣きになって男子に馬乗りになっている光景なんて、誰かに見られたら一発で部活動停止の案件だからな。
「ちゃんとこっちを見るのですよ、先輩!」
「わ、わかったから! 悪かったって!」
保身のための行動だったが、そのために対価は決して安くない。以前、俺がやったように両足を器用に使って、俺の両腕を拘束。そのまま、余語は俺の頭をがっしりと両手でホールド。そのまま無理やり俺を己へと向き合わせる。
「見てください! ほら、私!」
「み、見た! 見てるって!」
「見ているなら、何か言うことがあるでしょう!?」
「…………はしたないから、ちょっと落ち着いて、下を履いて――――」
「んんなぁああああああああああああっ!!」
「ら、むりらり、ほほほをひっはるのは、らめれ」
心からの忠告をしたつもりだったのだが、何か余語の琴線に触れてしまったらしい。俺は頬を縦横無尽に弄ばれて、さらにはその後、ぐりぐりと無理やり余語の胸元へと顔面を押し付けられてしまう。
「ほら、柔らかいでしょう!? 小さいけど、ちゃんと私にだってあるんですよ! というか、普段の学生服姿だって、別に胸を抑えてなかったのですが!」
「わかった、わかったから、これ以上の自爆はやめろぉ!」
「だーかーらーっ! 今、言うべきことは、違うのですってば! ええい、そこまで疑うのならば、下を脱いで見せて――――」
「わかった! わかったから、俺もいい加減分かった!」
余語の暴走を止めるため、俺はふにふにとした部分を押し付けられながらも、俺は声を絞り出して、言う。
「余語悠月は、本当は男子じゃなくて女子なんだろ!?」
俺の言葉に、ようやく余語の動きは止まり…………そのまま、虚ろな動きで俺を解放。のそのそと、生気を失った動きで、スカートを履き、そして、そのまま部室の隅で体育座りになる。
「…………普通は、初日で気づきますよ」
顔を膝に埋めたままの、余語の恨み言が俺の胸に突き立てられた。
いや、俺だって九割ぐらいは気づいていたのだ。ただ、確証が持てない内は、本人の希望通りに男子として扱おうとしていただけで。確かに、それが過ぎるあまりに、先ほどのあれは我ながらあんまりな言動だと思ったが。
「…………別に、着替えを見られたのは別にいいんですよ」
「えっ?」
「その後に、あんなことを言うなんて……確かに、髪も今は短くて、胸だって小さいですけど、私だって女の子なのに…………だから私、あんなことをしちゃって……うぅ」
膝に埋めたままのぐぐもった声に、湿り気が増して……やがて、すすり泣くような声も混じり始める。
ああ、やばいなこれ、駄目な奴だ。
「あ、あの、余語? 余語悠月さん?」
「…………先輩の、馬鹿」
「…………うぐ」
これは、これは駄目だ、駄目駄目だ。
今まで数多くの女子を泣かせて、その心をブレイクさせてきた実績のある俺であるが、これは駄目だ。だって、部活の仲間であり、後輩である余語が泣いてしまったのだ。どれだけ言葉を尽くそうが、正しかろうが、何の意味も持たない。
今の俺はクソ野郎だ、だから、その責任を取らなければならない、今すぐに。
「……余語、悪かった」
俺は体育座りしている余語の近くまで行くと、額を床に擦り付けて土下座する。土下座して、誠心誠意を込めた謝罪を行う。
「俺のデリカシーの無さか、お前を追い詰めて、こんな風に泣かせてしまったんだと思う。本当に、本当に悪かったと思っている」
「…………」
「だから、俺は……俺が、俺に出来る範囲で、なんでもするから、どうか許して欲しい」
「…………んんっ?」
許してくれるまで土下座を続けるつもりだったのだが、何か俺の言葉が余語の興味を引いたらしい。余語は震える声で、俺へ問いかける。
「なんでも?」
「ああ、出来る範囲で」
「…………本当に? 例えば、私の足を舐めろ、とか言ったら――」
「舐めるよ、それだけのことを俺はしたんだから」
「…………」
互いに視線を合わせない会話の後、短い沈黙があった。
「顔を、上げてください、先輩」
言われた通り、顔を上げると、そこには赤く充血した目で微笑む余語の姿が。どうやら、体育座りの自閉状態を解除させることができたらしい。
「先輩の、芦葉先輩の誠意と覚悟は分かりました。ええ、私も先輩をからかって遊んで、よく考えればただの自滅で凹んでいましたし。それで、先輩を攻めるのはお門違いでしょう」
「余語……」
罪人を許す天使の如き余語の笑みに、俺は心を打たれる。
確かに、ほとんど自滅で勝手に泣いた感じはしたが、最初が俺の無神経な言葉だったことは間違いないというのに。その過ちよりも先に、自分の過ちを認めるなんて、誰にでもできることじゃないぜ。
「だから、仲直りしましょう、芦葉先輩。私は、貴方と仲違いするのは、嫌です」
「ああ! 俺もそうだよ、余語! 俺が悪かった、悪かった……」
「いいんです、いいんですよ、先輩。私たち二人とも、悪かったんです。どちらか一方だけが悪かったわけじゃないんですから。さぁ、仲直りの握手です」
「おう、喜んで」
俺は余語から差し出された右手を、何の疑いも無く受け取る。俺の右手を重ねて、握手する。すると、俺の右手に余語の左手が重ねられて、がっしりと握られた。
…………え?
「それはそうと、芦葉先輩。さっき、なんでもすると言いましたよね?」
「う、うん、言ったけど」
「私の足を舐めることだってできるって、言いましたよね?」
「それで許してくれるなら、喜んでやるけど……あのー、余語悠月さん?」
「ふ、ふふふふ」
俺の右手をがっしりと握って離さない、余語。
おかしいな、天使に見えた微笑みが、今はまるで違うように見えるのだが?
「それじゃあ、有言実行として――――私の家に来て、誠意を見せてください」
そういえば、そうだった。
冴えない俺の下に、天使なんてやってこない。
もっとも、余語の微笑みは悪魔というには可愛らしく、けれど、男である俺には抗えなくて、そう、まるで――――小悪魔の様だった。




