34. 水と、熱と
「あ、ちょっと待ってくださいね」
背を向けたアルさんにそう断ってから、僕はインベントリから水袋を取り出し、採取で汚れた手にかける。
数回かけて汚れを洗い落としてから、彼の隣りへと足並みを揃えた。
「んくっ……水、確かにいいですね」
「そうだろう? 俺も初めて飲んだときに実感したからな。例えアイテムとしての効果はなくても、精神への効果は馬鹿に出来ないとな」
歩きつつ水をひと口飲めば、それだけで不思議と冷静な気持ちになる。
そんな僕を見て、アルさんも思い出しているのか、少し笑いながら深く頷いた。
しかし――
「……アキさん、俺の後ろに」
多少の緊張を孕んだ声と共に、僕の前へ腕を出し彼は道を塞ぐ。
直後、気配を感じれていなかった僕にも届く音を、前方の落ち葉が鳴らした。
――なにか、いる。
音のした方へと僕らは視線を向ける。
同時にアルさんは背中に背負っていた大剣を抜き、両手で正眼に構え、足を開いた。
さっきまでの彼の雰囲気から一変して、まるで触れば切れてしまいそうなほどに張り詰めた空気。
近づいてくる、一歩ずつ、少しずつ……。
緊張しているのか……潤したはずの喉の奥が乾き、思わず唾液を飲み込む。
その音が、とても大きく聞こえ、より強い緊張となって僕を襲う。
しかしそのたった一瞬を狙ったかのように、茂みの奥から突如飛び出してくる影。
一直線に、真っ直ぐに僕らへと――
「ッ!」
刹那、重たい音が響き、僕の耳を貫く。
小さく息を吐くアルさんは、右手で柄を持ち、左手は刀身を支えるようにして受け止めていた。
そして、それを無理矢理に押し返し、右下から左上に抜けるように斬り返す。
ブォンと力強く風を斬る音が鳴るも、魔物は素早く転身し、彼から距離を取った。
攻めに少しの間が空いたことで、見えてしまった。
黒い体に、顔の左右から伸びる角……。
「あ、ああ……」
瞬間、脳裏によみがえる死の瞬間。
踏み降ろされた足、吹き飛ばされ見えた空。
わかっていた、わかっていたはずなんだ……森に来ればこいつが出てくる可能性があることなんて。
でも、だからこそ、アルさんに――
「、ひゅ。は」
頭は動く、動くはずなのに、僕の身体は全く動いてくれない。
目は勝手に鹿を捕らえ、呼吸もままならない。
耳の奥に響くシルフの声が、なんども反響して――
「いい加減に、しろ……ッ!」
どれほどの時間が経ったのか、あるいは全然経っていないのか……唐突に冷たいものが顔にかかった。
結果、ぽとりと僕の前髪から水滴が落ち、意識が現実へと戻される。
「……あ、れ?」
「聞こえるか! 動けるか!?」
現況に追いつかない頭へ、低くも通る声が突き刺さり、僕は顔を上げる。
そうして見えた先では、鹿の角を大剣で受け止めるアルさんの姿が見えた。
「動けるなら、立て! 身を隠せ!」
その言葉に、僕は自分が地面へと座り込んでしまっていたことに気付く。
急ぎ立ち上がろうと目線を下へ動かせば、投げ捨てられた水袋が見えた。
僕の水袋じゃない――つまりさっきのは……。
「……ッ!」
前方から、鉄を弾くような音が聞こえてくる。
今はそんなことを考えてる場合じゃない、動かないと!
未だ震える足をなんとか奮い立たせ、ゆっくりとながらも近くの木の陰へと。
「……ようやく本気が出せそうだ」
僕が木の陰へと身を隠した直後、アルさんの構え――そして、表情が変わる。
今までの耐える顔じゃなく、獰猛な獣のような笑み。
「終わらせるッ!」
腰を低く落とし、大剣の切っ先を前へ。
まさに突くことしか出来ないような構えを見せながら、彼は息を吐く。
そんなアルさんの雰囲気に何かを感じたのか、鹿も後ろ足に力を溜めるように体を折り曲げ――
「ハッ、アァァ――ッ!」
地面が割れるほどの踏み込み。
直後に放たれる黒色の暴力。
それが鹿とすれ違う瞬間、硬質な音が響き……舞い上がる砂埃に、僕は目を閉じた。
◇
「アル、さん?」
数秒ほど経ってから、僕はゆっくりと目を開いた。
すでに砂埃も消えていて、視界を遮るものは何もない。
だからこそ余計に……そこに立つアルさんの姿がよく見えた。
「……」
アルさんは何も言わず、背中へと武器を戻し、インベントリからポーションを取り出す。
そして、あおるように瓶を傾けた。
「……ごふ。まず」
台無しだよ、本当に……。
獰猛な獣のような雰囲気はすでに消え、そこにいたのはいつものアルさんだった。
というか、ちょっとだけかっこ悪いアルさんだった。
「ああまずい……。もう飲みたくない……」
戦っていた時の表情からはうってかわって、今となっては……人に見せては駄目な顔になっている。
そんなアルさんをこれ以上見ているのもかわいそうで、僕はゆっくりとアルさんに近づき、インベントリから水袋を差し出した。
「アルさん。これ、使って」
「ああ、すまない……」
「それと、ありがとうございました……」
思い出せば思い出すほどに酷い。
僕がもっと早くに動き出せれば……アルさんもここまでダメージを受けることはなかったんだろう。
「さっきのがアキさんの?」
「はい」
「そうか。なら仕方ないな」
そう言って彼は僕の頭に手を乗せ、ゆっくりと撫でてくる。
「頑張ったな」なんて言いながら、ゆっくりと……。
「死ぬなんてことは、現実世界では最期の一瞬でしか経験しないことだ。だが今回のアキさんは、その原因となったものに対して立ち上がり、動くことができた。なら充分過ぎるほどに、頑張った」
「でも」
「確かにアキさんがもっと早くに動けていれば、俺がこんな不味いポーションを飲む必要もなかったが……いいじゃないか。俺はタンクだ」
彼はそう言って僕の頭から手を離し、自分の胸を叩く。
「守ることが俺の仕事だ。だから、守るべき人が今生きているなら、それでいい」
言って笑う顔がとても清々しくて。
僕はお礼と共に、顔を隠すように頭を下げた。




