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第4章 過去そして現実

 日曜日の朝。

 街外れの海岸に面した小高い丘に並ぶ墓石の間を、僕は歩いていた。

 海から吹く湿った風。寄せては返す波の音。

 海の向こう、細長い陸地は、はやぶさⅡを打ち上げた宇宙センターのある種子島。それと大隅諸島の島々に、かなたには九州・薩摩半島の開聞岳かいもんだけがうっすら見える。

 空は晴れていた。もっとも背後の山はさっき見た時は雲がかかっていたから、きっとその下は雨だろう。

 屋久島は海岸部と内陸部の高地との高低差が激しいのが特徴だ。

 標高1936メートル、九州最高峰の宮之浦岳ほか標高1800メートル級の山々が数多くそびえ、洋上のアルプスと称される。海からの湿った風がこれらの山々にぶつかることで年間10000ミリにも達する大量の降雨がもたらされ、他の土地では類を見ない多様な植生が育まれてきた。

 雨量の多さと湿度の高さに適応し木が腐りにくいよう樹脂を通常より多く分泌するようになった結果、長い樹齢を獲得した屋久杉はその代表格であり、とりわけ樹齢3000年以上といわれた縄文杉は、かつてこの島の象徴だった。

 その縄文杉も、島に2000本以上が自生していた屋久杉の大半も、5年前の戦災で失われてしまったそうだが。


 『糸川いとかわはるか』、そう刻まれた墓石の前で僕は足を止める。

 僕の姉が眠るこの島は、彼女の出生地でもなければ最期の地でもない。

 両親の仕事の都合で生まれた時から引越しを繰り返してきた僕達姉弟に、そもそも故郷なんてなかった。姉がこの地に埋葬されたのも、ここが父親の所属する屋久島大学の関係者のための墓地だからに過ぎない。

 僕は墓石に向かって手を合わせ、瞼を閉じた。

 瞼の裏で、5年前のあの日の光景が鮮明に蘇る。

 一日たりとも、忘れたことはない。

 あれから何もかもが変わってしまった。変わり果てた。

 姉弟の団欒は、もう戻らない。

 姉のマイペースな話を呆れたり笑ったりしながら聞くことも、鍋料理の締めの雑炊にポン酢をかけるか塩をかけるかで口論することも、もう二度とできない。

 仕事で家にいない両親の代わりに僕を育ててくれた姉へ感謝の気持ちを言葉にして伝えることも、かなわない。


 ごめん、姉ちゃん。


 心の中で、そう詫びる。

 僕はあまりに無力だ。あの日も、そして今も。

 墓石の下、誰が供えてくれたのだろう。僕が持ってきたのではないまだ新しい花束が、風に揺れていた。




 墓参りからの帰り道。


「ヘイ、パス!」

「こっちこっちー!」


 公園のグラウンドから、元気なかけ声が聞こえてくる。

 通り過ぎようとした時、サッカーボールが勢い良く飛び出して、歩道に転がってきた。


「すみませーん、ボールとってくださーい」


 年齢は小学生くらいだろうか、子ども達が僕に手を振ってくる。

 ボールを拾い上げ投げ返そうとして、ベンチに座っていた保護者と思しき人物が、立ち上がってこっちを見ているのに気付いた。


「……糸川さん?」


 左目に花の眼帯を付けたDOLL。瑠璃るりだった。




「ねえねえ、ルリお姉ちゃん! 今のシュート見た?」

「うん、見た見た! すっごいきまってたよ!」


 誘われるままベンチに腰かけ、子ども達のサッカーを観戦していくことになった。

 瑠璃はさっきから僕の隣で、子ども達に声援を送っている。


「キーパーびびってる!」


「ルリお姉ちゃん、それサッカーのかけ声じゃないって!」

「あはは、ごめんねー」


 休みの日の瑠璃は、なんだかいつもとは違っていた。

 まず、学園では常に周りを取り巻いて無言の威圧感を与えてくる黒服のSP達の姿が今日は見えない(どこかに隠れているだけかもしれないが)。これだけで受ける印象がかなり違う。

 本人の服装も学園の制服ではなく、Tシャツにパーカーを羽織り、下はデニムのショートパンツ。靴も革靴でなくてスニーカー。

 いつもはゆったりとウェーブさせている白銀の髪も、今は後ろをゴムバンドで留めただけのポニーテールで、快活な感じだ。

 何より、笑っているその横顔は学園で見せるような、指導者らしく振る舞うためにどこか計算されたものではなく、心から楽しそうにきらきらと輝いていて、とても新鮮だった。


「お姉ちゃんだなんておかしいですね、製造されてから3年も経っていない私の方が本当はこの子達よりずっと年下なのに。あ、お茶いかがですか?」

「……頂きます」


 子ども達のために持ってきたのだろう、大きな水筒から植物由来樹脂製のカップに麦茶を注いでもらう。よく冷えていて美味しかった。


「瑠璃さん、この子ども達は?」


 気になっていたことを訊ねてみる。


義父ちちの会社のCSR活動の一環で設立された保護施設の子ども達です。私がつくられたばかりの頃、ヒトの子どもに関する知識を身につけるためにお世話をすることになって、今でも週末は一緒に遊んだり勉強をみてあげたりしています」


 最近は色々忙しくて時間を作るのが大変ですと、瑠璃は笑った。


「保護施設?」

「ええ。……5年前の西南事変で親をなくした戦災孤児達です」


 僕ははっとなって、無邪気にサッカーに熱中する子ども達に視線を戻す。

 瑠璃は子ども達に明るい笑顔を向けたまま、淡々と続けた。


「空襲で身体に障害を負った子も多いんです。さっきボールを蹴った子は左足が義足、追いかけている子は両足が、そして今パスを受けた子は右腕が義手です。あっちでディフェンスをしている女の子はクラスター爆弾の破片で片目を失明しましたが、義眼で視力を補っています。義父の経営するミサキドール社とミサキバイオニクス社では、DOLLの駆動技術と生化学を応用した医療・介護用のパワーアシストスーツや、四肢を失ったヒトの脳と神経接続できる筋電義手きんでんぎしゅ義足ぎそくの開発を行なっていて、テストも兼ねてこの子ども達に無償で提供しているんです」


 目を凝らすと、子ども達の手足にかすかに継ぎ目が見える。

 デジタル四肢と呼ばれ、近年は装着者がパラリンピックばかりかオリンピックにも選手として出場して話題になっている最先端の技術だが、装着しているのをこの目で見るのは初めてだった。

 ヒトの脳から身体の筋肉に発せられる微弱な電気信号をセンサーで感知し義手や義足を制御することで、物を掴む、離す、走る、蹴るといった動作が頭の中でイメージするだけで可能になっており、さらに、義手・義足で物に触れた時の感覚も脳にフィードバックされるようになっている。

 慣れてくれば鉛筆で字を書く、ミカンの皮をむくといった高度な作業もできるようになるという。


「神経接続による機械の制御は、元は強化外骨格によって兵士が重たい装備を持ちつつ迅速に行動するための軍事技術から派生したものです。戦争のために進歩した技術が、戦争で傷ついた人々を助ける……皮肉なものだとは思いませんか、糸川さん」

「技術は使う人次第ですからね。包丁が料理にも犯罪にも使えるのと一緒です」

「……ふふ、確かに」


 僕の例えに微笑むと、瑠璃は話題を変えた。


「糸川さんは、今日はどうしてここに?」


 瑠璃なりに、重くなってしまった空気を変えようとしたのだろう。

 だが運の悪いことに、僕に明るい返事ができるわけではなく、むしろその反対だ。誰かに進んで聞かせたい話でもないし、少しの間躊躇ったが、隠すことでもないので結局正直に答えた。


「すぐそこの墓地へ、墓参りに行った帰りです。僕の姉が……その、やはり5年前の西南事変で」


 瑠璃は黙した後、静かに頭を下げた。


「お姉さんのご冥福を神に祈ります。もっとも、私達のようなDOLLの祈りが神様に届けば、ですが」


 かすかな苦笑とともに出た言葉は、二重の意味での自嘲だろう。

 例えば先進国でも宗教の力が未だに強いアメリカでは、DOLLの人格を認め人権に準ずる権利を与えるDOLL条約への抵抗が根強く、批准が遅れている。そのDOLLである瑠璃あるいは蛍は、バイオテクノロジーの研究者として『神の領域』に踏み込んでいる。宗教の緩い日本でなければ、過激派に狙われてもおかしくない。


「お姉ちゃん危ない! よけて!」


 不意に子どもの叫び声。

 瑠璃の顔面左側に、コントロールを誤ったサッカーボールが飛んでくる。

 瑠璃は動かない。

 右側に座っていた僕は咄嗟に瑠璃の身体を掴んで、こちらにぐいっと引き寄せた。


「きゃっ……」


 際どいところをボールが通過する。


「ごめんお姉ちゃん、大丈夫?」


 ボールを取りに来た子どもの一人が心配そうに声をかけてくる。瑠璃によれば、片目が義眼だという女の子だ。とてもそんな風には見えないが……。


「もう~、びっくりした!」


 起き上がった瑠璃が、怒ったように頬を膨らませてみせる。女の子は泣きそうな顔になる。


「ふふ、嘘嘘。サッカー上手になったね」


 破顔して、女の子の頭を撫でてやる瑠璃。彼女にこんな一面があることを、学園の生徒達が知ったら驚くだろう。


「どうして瑠璃さんは、左目に眼帯を?」


 子ども達がグラウンドに戻ってサッカーを再開した後、僕は瑠璃にそう訊ねた。

 先ほどサッカーボールが迫った時、明らかに反応が遅れていた。初めて会った時はファッションで付けているのかと思っていたが、今日はカジュアルな格好をしてきているのに、眼帯だけ外さないのはおかしい。


「……。学園の誰にもおっしゃらないと、約束できますか?」


 瑠璃にしては珍しく、ためらいがちな返事だった。聞いてはまずい質問だったかと後悔しかけたが、ここまできたのだからと頷いて答えを促す。


「さっきの義眼の子、あの子の片目は、実は私のパーツだったんです。わからないように色は変えてありますが」

「……」


 予想できない答えではなかったはずなのに、僕は言葉を失った。

 思い出したのは、小学校の頃に課題図書で読んだオスカー・ワイルドの『幸せの王子』。


「視神経を繋いで視覚を回復させる義眼は、制作に莫大な費用がかかります。それに、両目の失明でなく片目だけの失明の場合、日常生活を送るのに支障は無いということで、義父の会社も無償での治療は行なっていないんです。だから、義父に無理に頼んだんです。初めて親に我侭を言ってしまいました」


 瑠璃は、恥ずかしそうにそう言った。

 僕はDOLLではなくヒトだから、DOLLと同じ気持ちにはなれない。それでも、ヒトと同様に心をもった存在が自分のパーツの一部、それも大切な目を差し出すことがどれだけ大変な決断か、想像はできる。

 それなのに瑠璃には、自己犠牲を自慢する様子など微塵も無かった。

 ただ恥ずかしそうに、顔を伏せていた。


「義父からは随分叱られました。そんな考え方をするようにプログラムした覚えはないと。公正でないのは私もわかっています。あの子と同じ、いやあの子よりもっとひどい境遇の子が日本中に沢山いるはずなのに。糸川さんのお姉さんのように、もう戻ってこない人も……こんなことをしても、何ら根本的な解決にはなりません。それでも私は、仲良くなった子ども達の身体を、少しでも元に戻してあげたくて。私って、おかしいですよね」

「瑠璃さんのしたことは、尊いと思います」


 僕が強くそう言うと、瑠璃は顔を上げて、小さく微笑んだ。


「ありがとう、糸川さん」


 その表情に、暗い影が差す。


「あの子ども達は、私が出会ったばかりの頃は、今みたいに笑うことも遊ぶこともできませんでした。夜、施設のお布団で一緒に寝る時も、ずっとすすり泣きや呻き声がするんです。目の前で死んでいった家族や友達の名前をずっと呼びながら」


 瑠璃の話を聞きながら、僕は気がつくと拳を固く握り締めていた。他人事ではなかった。


「もし将来、技術がさらに進歩して欠けた身体の一部が完全に復元できるようになったとしても、戦争で受けた心の傷は決して元通りになりはしない。ですからやはり、根本的な解決にはなりません。根本的な解決は、それとは別のところにあるのです」


 一瞬、瑠璃の右の瞳が、強い意志を放ったように見えた。

 次の瞬間には瑠璃は立ち上がり、今までの会話などまるでなかったかのような様子で、明るく手をぱんぱんと叩いていた。


「はーい、そろそろ休憩! おにぎりがありますよー!」


 子ども達が歓声を上げながら集まってきた。




 翌日。


「いいこと実、志戸子学園の教員は、全員がもうどこかの部活の顧問をしているわ。顧問になれるのは教員一人につき二つの部活までと決まっているから、まだ掛け持ちをしていない何人かの先生を回ってみましょう。これがそのリストよ」


 桜に手を引っ張られて歩かされているのは部室棟ではなく、本校舎の階段だ。

 結局僕はあの後、顧問がいないと新団体も絵に描いた餅に過ぎないことを正直に皆に打ち明け、すったもんだを経て、園芸部チームと探偵部チームでそれぞれ手分けして顧問を探すことに決まった。

 というのはあくまで表面上の合意で、少なくとも桜は植物探偵団ではなく探偵部としての顧問を獲得することしか頭にない。


「……でも、大多数の教員は掛け持ちしてるんだろ。新しい部活を立ち上げたい生徒はずっと前から大勢いたわけで、そんな中で一つの部の顧問しかしてない先生って、何か掛け持ちしない、あるいはできない理由があるんじゃないか?」


 転ばずに桜の早足についていくのに難儀しながら僕が疑問を呈すると、桜は階段の途中で唐突に立ち止まり、危うくぶつかりそうになった僕を緋色の瞳できっと睨みつける。


「そうやって自分の頭の中のネガティブ思考で完結させて動こうとしない。引きこもりの典型ね。実際には予想と違った展開が待ち受けているかもしれないじゃない。行動あるのみよ」


 ご立派な意見だが、こいつにだけは言われたくない。


「ポアロやミス・マープルみたいな安楽椅子探偵を目指してるんじゃなかったのか?」

「それはそれ、これはこれよ」


 億面も無くそう言ってのけると、再び僕を引っ張って階段を上っていく。

 本校舎の最上階にたどり着くと、廊下の奥からかすかに音楽が聴こえてきた。

ひょっとして、この先にあるのは……。


「音楽室?」

「そうよ。一人目の候補は、管弦楽部の顧問をしている諏訪之瀬すわのせとり先生」


 音楽は聴こえ続けている。高く澄んだ音色だ。弦楽器か何かだろうか。

 桜が平常運行の非常識ぶりを発揮して音楽室の扉にずんずん迫りノックもせずにノブに手をかけようとした時。内側から扉が開き、後ろ髪を束ねた背の高い女性教諭が現れた。彼女がその諏訪之瀬先生だろうか。


「ひょっとして入部希望の人かな? ごめんなさい、今年はもう定員いっぱいで、入部試験の申込期間も過ぎちゃってて……あら?」


 身につけているかっちりしたスーツに似合った事務的な口調で僕にそう話していた女性教諭は、開けた扉の反対側にいた桜が顔を出すと、目の色を変えた。


「わあ、なんて可愛いの! ねえ貴女、中島技研のDOLL? 管弦楽部に入部しに来てくれたの?」


 アンダーリムの眼鏡をかけ鼻の上にうっすらそばかすが残る顔を喜色満面にして、桜ににじり寄る。しかしちょっと待て、僕には定員いっぱいだとか入部試験の申込期間は終わったとか言ってなかったか、この人。


「い、いえ、そうではなくて……新しく探偵部という部活を作りたいので顧問になって下さる先生を探しているんです。諏訪之瀬先生は管弦楽部の顧問しかなさっていないと伺ったので、掛け持ちをお願いできないかと……」


 凄い、あの桜が、相手が教諭とはいえ敬語を使って、それも後ずさっている。諏訪之瀬教諭、恐るべし。


「探偵? そうそう、探偵といえばプリティホームズのコスプレあるんだけど着てみない?」


 桜の話を冒頭の一部しか聞いていない、しかも話の飛躍の仕方が常軌を逸している。


「ホ、ホームズ? いえ、私が尊敬しているのはエルキュール・ポアロなので、せっかくですがホームズはちょっと……」


「エルキュール? エルキュール・パートンのコスがいいのね! わかったわ、すぐに用意するから着てみて! そして写真を撮らせて!」

「よ、よくわかりませんが遠慮しておきます」

「え~! そんなこと言わずに……あ」


 童心にかえっていたのか常に童心なのかはさておき黄色い声を上げていた諏訪之瀬教諭が、急にしまったという顔になった。


「ごめんなさい、ちょっと静かにしててね……今レン、いえ、れんさんが練習中だから」


 扉を指さしてひそひそ声でそう囁く。

 いや、騒がしかったのは主にこの先生一人だけだと思うんだが。


「……れん?」


 何故か桜が嫌そうな顔をする。


「そうだわ、せっかくだから蓮華さんの演奏を聴いていかない?」


 今度はそう言うと、諏訪之瀬教諭は僕達の返事も聞かずに、一度閉めた扉を少しだけ開けた。

 開いた扉から、さっきからかすかに聴こえていた、あの高く澄んだ音色が零れてきた。諏訪之瀬教諭のご厚意に甘えて覗いてみると、広々とした音楽室の窓際で、一体のDOLLが目を閉じて、肩に乗せたヴァイオリンをひいている。

 瓜実の清楚な顔に高い鼻梁。髪はエメラルドグリーンで、前髪と後ろ髪がそれぞれツーテールになって、くるくると縦ロールしている。一般に出回っているDOLLには見られない、やけに凝ったデザインだ。


「あのヴァイオリンは……グァルネリ・デル・ジェス!」


 諏訪之瀬教諭の攻勢にたじたじだった桜が、部屋の中を覗くや否や目を見開いた。

 女性教諭は得意げな顔をして頷く。


「よくわかったわね。あれはデル・ジェスのオリジナルよ」

「信じられない……」

「何なんだ、そのグァルネリ・デル・ジェスって?」


 一人会話から取り残されてしまったので、仕方なく桜に訊ねる。恐らくはヴァイオリンの種類だろうが、何か驚くようなことでもあるのか。


「実、まさか貴方知らないの? 18世紀の名匠バルトロメオ・ジュゼッペ・アントーニオ・グァルネリの作ったヴァイオリンのことに決まっているでしょう。ストラディバリウスと並び称される逸品よ。でも、世界に200挺しか存在しない幻のデル・ジェスを、何故彼女が……」


 お、おう。そっち方面は悪いがさっぱりだ。確かに立派なヴァイオリンだと思うが。


「ふふ、彼女は特別なの。なんてったって、あの琴吹グループが世界一のヴァイオリニストDOLLとして中島技研に特注して生まれたんだから。デル・ジェスも琴吹のコレクションから貸与されているのよ」


 琴吹なら僕でも聞いたことがあった。世界的に有名な楽器会社の名前だ。


「彼女には過去の著名なヴァイオリニスト達の演奏パターンが全てインプットされていて、そこから高度演算によって究極の演奏が生み出されるの。卒業後はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に招聘されることが決まっているわ」


 諏訪之瀬教諭が小声で囁く間にも、DOLLの右手の持つ弓が激しく上下し、左手の指が弦の上を踊る。躍動感のある動きと、対照的に繊細な音色、空気の震える感触に思わずとりつかれてしまいそうになる。

 その旋律は優雅で高貴で、それでいてほろ苦く悲哀を感じさせるものだった。


「……彼女が今ひいてるのはパガニーニの『二十四の奇想曲』。高音域が急ピッチで重なる、プロでも難度の高いと言われている曲よ。弦を指ではじいて音を出すのをピッツィカートというの、普通弓を持つ右手ではじくんだけど、彼女は今、右手じゃなく弦を押さえている左手で弦を弾いてるのがわかる? あれがパガニーニ流の左手ピッツィカートよ」


 諏訪之瀬教諭の説明の内容はさっぱりわからなかったが、諏訪之瀬教諭があの蓮華というDOLLに心酔していることは伝わってきた。

 演奏が終わる。

 諏訪之瀬教諭が情熱的な拍手を送り、僕も思わず手を叩きそうになった時、音楽室に怒声が響いた。


「ぜんっぜんなってませんの!」


 蓮華がつかつかと歩いていったのは、グランドピアノで伴奏をしていた他のDOLLのところだった。


「テンポも強弱もまるで私と合ってないじゃありませんの! 電子頭脳を初期化して、ルバートをゼロから学習し直して下さいませ!」

「す、すみません、部長」

「鍵盤を押してから音が出るまでの時間を計算して、常に先取りして私に合わせるようにと、何度言ったらわかるんですの!」

「そんな、私には部長みたいにメトロノームが内蔵されてるわけじゃないですし……」

「はあ? また言い訳ですの? これだから低スペック機は嫌ですの!」


 後輩のDOLLに罵詈雑言を浴びせると、蓮華は肩を怒らせこっちへ向ってきた。


「小鳥、どうしてあんなゴミとアンサンブルをやらなきゃならないんですの? 私は小鳥に伴奏して欲しいんですの!」


 ついさっきまで美しい旋律を奏でていたとはとても思えない。幻滅というか驚愕だ。ギャップがあり過ぎる。


「ごめんねレン、でも私以外の伴奏を経験しておくこともレンにとって大切なことだし、それにレンとアンサンブルを組むことで下級生達も上達するから……」

「この部は私と小鳥がいればそれで十分ですの!」


 後輩が聞いているにも関わらず平然とそう言い放った蓮華の濁った緑色の目が、僕と桜に向けられる。


「誰? ……ああ、桜さん。まだ諦めてなかったんですの。探偵部でしたっけ? どうでもいいですけど、この学園と中島技研、つまり私の経歴に泥を塗るような活動は、絶対に認めるわけにはいきませんの」

「……っ」


 無言で桜が歯噛みする。

 蓮華の言葉で僕も思い出した。彼女は確かND-113-2蓮華、中島技研製第2世代型の三年生で、この学園で部活動の許認可を司る自主研究活動管理委員会の委員長だ。

 桜は僕のところに来る前、この蓮華に探偵部の話をしに行って門前払いされているはずだ。

 よりによって彼女が部長をしている部活に来てしまうとは、桜も運が悪い。というか、どうでもいいことにはやたら詳しい癖に、肝心なことはいつもリサーチ不足だな、桜。


「あのね、レン、この人達が私に、顧問の掛け持ちをして欲しいって言ってて、私は構わないんだけど……」


 場の空気を読めていないのか、諏訪之瀬教諭が呑気に口を挟む。一応、桜のさっきのお願いは聞こえていたようだ。蓮華は、きっと僕達を睨み付けた。


「掛け持ちだなんて許しませんの! 小鳥は私だけのものですの」

「わ、わ、私だけのものだなんて、きゃーもうレンったらっ!」


 直後、諏訪之瀬教諭が蓮華に飛びついて、身長差を武器にそのまま一気に押し倒す。


「もう、小鳥! いけませんの、せめて人目の無いところで!」


 自由を奪われた蓮華が嫌がっているのか判別が難しい悲鳴を上げる中、僕と桜は、そっとその場を後にした。


「……ダメそうね」

「……ああ、色んな意味でダメそうだな」


 最初に桜の言った通り、確かに、予想とは違った展開が待ち受けていた。




「軽音楽部でーす」

「土曜日の放課後に新歓ライブやりまーす」


 校舎の外に出ると、グラウンド校舎寄りの普段は朝礼台があるところに仮設のステージが組まれ、動物の着ぐるみが何人かでビラを配っていた。

 桜に付き合わされて部の立ち上げに奔走しているからだろうか、素通りするのも悪い気がして、馬の着ぐるみからビラを受け取ってしまった。


「あ、ありがとうございます!」


 着ぐるみの中のくぐもった声で、女子だとわかる。ビラにも、ギター、ベース、キーボード、そしてドラム、全て女子だけで構成されたバンドと書いてあった。


「へー、ガールズバンドか」


 この学園にそんなものがあったとは。しかしどうして動物の着ぐるみで配っているんだろう。ビラから顔を上げると、桜が不機嫌そうな目でこっちを見ている。


「どうした、今からでも軽音楽部に転向したくなったか?」


 てっきりいつものように蹴ってくるかと思ってからかったが、桜はその元気もない様子だった。


「……この学園は不条理だわ。なんで管弦楽部や軽音楽部は認められていて、探偵部はいけないの? 音楽は遊びなのに。証拠に『音を楽しむ』と書くじゃない」

「いや、なんでって言われてもなあ……」


 強いて答えるなら、文化として広く世の中に認められているかどうかの違いだろうが、また探偵を侮辱したとか騒がれるのも面倒なので言わないでおく。


「ねえ、どうしてなの実? 私、気になるわ!」

「木になる? ああ、緑化都市らしくていいんじゃないの。なれるんだったら是非なってくれよ」

「……。次よ、次に行くわよ」


 本校舎を出て、桜が向かう先は部室棟のようだ。空には探偵部の前途を暗示するかのように、重く厚い雲がたれこめている。また一雨きそうな気配だ。


「ちなみに、お次の候補は誰なんだ?」

「生物のほたる先生よ」

「へー、蛍先生か……って、おい!」


 適当に訊ねたら、とんでもない答えが返ってきた。


「? 何を驚いているの、実。蛍先生は生物部の顧問しかしていないから、掛け持ちしてくれる可能性は十分あるわ。さあ行きましょう」


 お前は何を言っているんだ。そりゃあ可能性はゼロではないかもしれないが、掛け持ちしてくれない可能性の方がはるかに高い。少なくとも二つの大きな理由がある。

 理由その一。学園の超有名人で人気者の蛍が顧問の掛け持ちをできる状態でいて、これまで誰からもオファーが無かったわけがない。むしろ引く手数多で、蛍が全て断ってきた可能性が高い。大体、DOLLとして世界で初めて教鞭を執り、助教授にまでなった蛍は全DOLL生徒の憧れの的で、学園内にファンクラブもあると言ったのは桜のはずだ。それを知っていて、どうしてこんなことに気付けないのか。

 理由その二。蛍が顧問をしている生物部は、かつて園芸部の一員だった瑠璃が他の部員達を引き連れて集団で転部して部長をしており、朝菜の園芸部とは浅からぬ対立関係にある。これは桜の知らないことだが、しかし桜と僕が最初に立ち聞きした瑠璃と夕菜の会話だけでも、何かしらの因縁があることくらいは容易に察しがつくはずだ。その園芸部と一緒に行動している僕達が、部活絡みのことで蛍に接触するのはトラブルのもとになるだけで掛け持ちなどとんでもないと、何故気付けないのか。


「なあ、桜、前から薄々わかってはいたんだが、お前って探偵の素質が皆無だとかそういうこと以前に……いてっ!」


 久々に容赦の無い蹴りが足首に入って、僕は思わず悶絶しそうになった。

 桜はさっさと部室棟に入ると、迷わず真っ直ぐに生物部に向かっていく。どうやら本気のようだ。


「蛍先生は講堂ですわ」


 幸いというべきか、蛍も瑠璃もおらず、僕達を出迎えたのは副部長だった。


「今日は政府関係者や海外の方もお招きした『ミスティルテイン』計画のプレゼンテーションがありまして」

「ミスティルテイン計画?」


 園芸部の部室とは比べ物にならない、まるで半導体製造工場のクリーンルームのような塵一つ無い清潔な空間に高そうな機材が整然と並んでいる様子にどこか居心地の悪いものを感じながら、聞いたことのない単語に思わず訊き返す。


「ええ、ミサキバイオニクス社、環境省、それに私ども志戸子学園生物部が産官学合同で進めている、かつてないアプローチで緑化を行う計画ですわ」


 日本人形のような容姿をしたDOLLの副部長は、嫣然と微笑んでそう言った。


「どうする?」

「こうなったら講堂まで行くしかないわ」


 先ほどの理由からどうせ無駄足に終わるとは思っていたが、蛍と瑠璃がどんな研究をしているのか正直興味があったので、桜について行くことにした。


「ふふっ、感心ね。貴方も初めの頃からすれば探偵部長であるこの私への態度がだいぶ身についてきたじゃない。苦労して躾けてきた甲斐があったというものね」

「今すぐ帰りたくなってきたぞ」

「ご褒美にヘイスティングスと呼んであげる」

「人の話を聞け。ちなみになんだそのヘイスティングスってのは」

「はあ、そんなことも知らないの? ヘイスティングスはエルキュール・ポアロに登場するポアロの助手で、そうね……シャーロック・ホームズにとってのワトソンの立ち位置かしら。まあワトソンと違ってお人好しで美女に弱いけど」

「それひょっとしなくても僕に喧嘩売ってるよな」

「さあ、行くわよヘイスティングス」

「だから人の話を聞けって」


 そんな不毛なやり取りをしながら講堂の前までやって来た時、僕の目にあるものが飛び込んできた。

 講堂の前に黒塗りの高級車が沢山停まっている。そのうちの数台、青いナンバープレートの外交官車両。バンパーには、赤地に複数の黄色い星が入った国旗が掲げられていた。


「『外務省・環境省協賛、日蒙友好事業・蒙古連邦タクラマカン砂漠緑化支援プロジェクトにおける導入が検討されている革新的環境技術を紹介するシンポジウム』…?」


 桜が、講堂の入口にかけられた垂れ幕に眉をひそめている。


「まあいいわ、とにかく入ってみましょう」


 突っ立っていた僕は、桜に手を引っ張られて講堂へと足を踏み入れた。




「本日は蒙古連邦大使閣下を始め、多数の日蒙両国政府関係者の方々のご臨席を賜りましたことに心から御礼を申し上げます」


 檀上に立って話をしているのは、瑠璃だった。

 同時通訳と合わせて、そのよく通る声が会場に反響している。


「二酸化炭素排出削減が地球温暖化に対処する唯一の手段ではありません。現在、自動車など工業製品に対して先進国では環境への配慮を求める厳しい規制が課せられ、非関税障壁として問題になっています。また市民生活に目を向けると、例えばこの緑化実験都市では全てのオフィスや住宅が省エネ設計で、環境家計簿などと呼ばれるBEMSの導入が義務付けられています。『低炭素社会』の名の下に、人々は日々の暮らしの中で常に二酸化炭素の排出量を意識し、エネルギーの使用を抑制するようになりました。しかし、排出削減を強いるばかりの温暖化対策は、経済活動を停滞させ、人々の快適な暮らしを犠牲にしてしまいます。とりわけ蒙古連邦をはじめとして今後もめざましい成長を続けていく新興国にとって、温暖化対策のコストは重い負担となり、発展の妨げというネガティブな側面をもっていることは無視できない現実です」


 声に抑揚をつけ身振り手振りも混じえ、自信に溢れる口調で語りかける瑠璃。

 その傍らに立つ蛍が、立体投影を操作するリモコンを天井にかざした。

 聴衆の頭上に3Dで蠢く細胞が映し出され、徐々に拡大されて二重螺旋構造をしたDNAの鎖になっていく。


「従来の環境配慮、人類が自制することで地球温暖化に対処するパッシブエコロジーに対し、今回私達が開発した『ミスティルテイン』は、最先端のバイオテクノロジーを駆使して自然界のシステムそのものを人類にとって好ましい形に書き換え、温暖化問題の解決を目指すアクティブエコロジーという新しい理念に基づいています。『ミスティルテイン』、この遺伝子組換微生物は、在来植物に寄生して細胞レベルで変性を促し、植物の繁殖力を強化させ、同時に植物が持つ二酸化炭素の吸収効率も大幅にアップさせる、大気中の二酸化炭素の削減と砂漠化防止の切り札となる画期的な細菌です」


 檀上の左右には、十数名の男達が用意された椅子に腰かけていた。

 片側には日本政府の関係者達。ダブルスーツの胸に議員バッジをつけた有名な親蒙派の大物政治家に、こちらは官僚だろうか、色白で目の細い男が耳元で何かを囁いている。

 そして檀上のもう片側には、深緑色の人民服をあふれんばかりの勲章で飾った男達。


「現在日本政府は日蒙友好事業の一環として蒙古連邦においてタクラマカン砂漠緑化支援プロジェクトを進めていますが、単純な植林よりもはるかに効率的に二酸化炭素を削減できる『ミスティルテイン』の採用を、この場にお集まりの皆様に提案させて頂きます」


 瑠璃が力強くそう締めくくると、万雷の拍手が鳴り響いた。

 檀上の左右に座っていた日蒙両政府の関係者達が立ち上がり、瑠璃と握手を交わす。プレゼンテーションは大成功の様子だった。蛍は少し離れたところに下がって、舞台で脚光を浴びる教え子を見守っている。

 不意に、あの子ども達と一緒に過ごしていた時の瑠璃の、素朴で柔らかな微笑が僕の脳裏に甦って、今のこの異様な光景に重なった。

 5年前の戦災で家族を失い身体の一部も失った子ども達を、愛おしそうに悲しそうに、ラピスラズリの片目で見つめていた瑠璃。僕の姉の冥福を静かに祈ってくれた瑠璃。

 あれはいつのことだったのか。つい昨日のことではなかったのか。

 僕は今、悪い夢でも見ているのか。それとも昨日見たものが夢幻で、今目の前で起きていることこそが現実なのか。

 瑠璃は最後に、蒙古連邦の大使と思しき人物から社会主義国家の流儀である抱擁を求められ、上気した笑顔でそれに応じた。


「マシ・イへ・バヤルララー(ありがとうございます)!」


 瑠璃は蒙古連邦語でリップサービスをしながら、昨日あの子ども達の頭を優しく撫でていたのと同じ華奢な手を、でっぷりと太った蒙古連邦大使の腰に回し、深く抱き締める。会場の拍手が大きくなる。

 瞬間、僕は耐えられなくなって、会場を飛び出した。


「あっ、待ちなさい、実!」


 後ろから桜が呼び止める声が聞こえたが、僕は走るのを止められなかった。

 これ以上、あんな光景を見ていたくなかった。だが、蒙古連邦の大使と抱擁する瑠璃の浮かべていた艶やかな笑みは、僕の目に焼き付いて離れなかった。

 講堂の外に出ると、いつの間にか降り出した雨が路面を叩いていた。次第に強くなっていく雨の中を、濡れるのも構わずに歩く。

 ふと雨の音に混じって、遠くからシュプレヒコールのような声が聞こえるのに気付く。

 辺りを見回すと、講堂から一直線に坂を下った学園の門の外、日の丸やプラカードを持った何十人かの人の群れが、雨に打たれるのも構わずに声を上げながら、警察官や学園の警備員達と押し合いをしていた。


「イチから各局へ、マルタイが会場を出る。デモ隊を門から遠ざけろ」


 いつも瑠璃の警護をしている、イヤホンをつけた黒服が横を駆けていく。

 人々が叫んでいる言葉の断片が、かすかに聞き取れた。

 

 屈辱的な朝貢に断固反対、売国奴、同じ日本人として恥ずかしくないのか……


「彼等は人殺しです! 私の家族をかえして!」


 デモ隊の中から、女性の一際高い叫び声が、不意に僕の耳朶を打った。

 心臓が、ドクンと跳ね上がる感覚。

 そうだ。あいつらは人殺しだ。

 5年前のあの日、何の罪も無い大勢の人を、僕の姉を殺した。




 2022年。

 ユーラシア屈指の軍事力を誇る超大国・蒙古連邦は、かねてより領有権を主張していた日本の西南諸島を手に入れるために、日本南西部への大規模な奇襲攻撃を実行した。


 2022年は、西南諸島の施政権がアメリカから日本に返還されて50年目にあたる。一説によれば50年間実効支配すると領有権が認められるとの独自の国際法解釈から蒙古連邦はこの年の武力行使に踏み切ったとされているが、それ以前から世界中の国を相手にその広大な版図を拡げる侵略戦争を繰り返してきた蒙古連邦はそもそも国際法という概念から逸脱しており、むしろこの年、日本の同盟国アメリカが中東で起こった紛争への介入に戦力を集中させていた間隙を突いたとの見方が主流だ。


 後に西南事変と呼ばれた、戦争と呼ぶにはあまりに一方的な暴力の行使で、憲法上の制約から専守防衛に徹することを余儀なくされた日本の自衛隊は、その優れた装備と練度の高さにも関わらず先制攻撃を許されないという致命的なハンディキャップにより初動が遅れ、さらには蒙古連邦軍の圧倒的な物量による飽和攻撃を前に壊滅的な打撃を受けて防衛力を喪失。

 同盟国のアメリカは、自国の財政難でこの頃既に在日米軍を撤退させており、蒙古連邦軍の動向を事前に察知していたものの中東情勢に忙殺されて日本への援軍が間に合わなかった。


 蒙古連邦軍は、自衛隊基地を攻撃する名目で福岡をはじめとする人口密集地へも容赦の無い空爆を行い、一般市民に大量の犠牲者を出した。

 後に蒙古側は、空爆は軍事目標に狙いを絞ったものであり、市街地への着弾は誤爆だったと発表している。しかし、蒙古連邦軍が攻撃に使用した巡航ミサイルのCEP(平均誤差半径)は、旧式のタイプでも10~15メートル。GPSに慣性航法と地形照合を合わせた誘導システムで、蒙古連邦軍は十分な精密爆撃能力を持っていたはずだ。誤爆ではなく、事実上の無差別爆撃だった。


 停戦の条件として、日本政府は西南諸島の領有権主張を放棄。以前から蒙古連邦の移民が大量に流入し日本人の人口を上回っていたこれらの島々は蒙古連邦の占領軍が実施した住民投票の結果、日本から分離独立し、間を置かず蒙古連邦の自治区に編入された。


 戦争に勝利した蒙古連邦は、いわゆる第一列島線を突破して西太平洋における海上優勢を確立。

 これによって蒙古連邦の戦略原潜に搭載された弾道ミサイルがアメリカ本土まで核攻撃可能になり、アメリカは軍事的優位を失って勢力圏をハワイ以東に後退させ、前世紀から日本の平和を守ってきたアメリカの核の傘に基づく日米安保体制は崩壊した。

 

 以後、敗者の日本が勝者の蒙古連邦に対して様々な形で屈従を強いられる、暗い闇に閉ざされた時代が始まった。




 頭の上に、誰かがそっと傘をかかげてくれて、僕は我に返る。


「……風邪引くぜ、眼鏡」

 

 朝菜だった。


「たく、傘もささずに何してやがる。ほら、こいつで拭きな」


 朝菜は自分の肩半分が濡れるのも構わず僕を傘に入れたまま、タオルを貸してくれた。

 また濡れ鼠になってしまっていたようだ。


「ありがとうございます……朝菜さんは、どうしてここに?」

「てめえらと同じ、顧問探しだよ。緑化建築設計部の顧問をしてる松島に、植物探偵団の顧問を掛け持ちしてもらえないか頼みに行ったんだが……」

「げっ、松島先生?」


 思わず変な声を出してしまい、朝菜に怪訝そうな顔をされる。


「あ、いえ、何でもないです。続けて下さい」


 それはそうと、朝菜は取り決め通りちゃんと「植物探偵団」の名義で顧問を探してくれているようだ。園芸部は部室の使用継続が目的だから当然といえば当然だが。それに引き換えうちの桜ときたら。


「それがよ……松島いわく、一つの部の指導に命をかけるのが部活の顧問のあるべき姿で、掛け持ちなんていい加減なことは自分には絶対にできないとか……。後、どういうわけか滾滾と説教をされたな。どうすれば部活を存続させられるかなんて後ろ向きなことを考えてるからダメなんで、やるんだったら富士山みたいに一番を目指せだの、もっと熱くなれよ熱い血燃やしてけよとか。熱い血も何も、あたし達はDOLLだっつの……」

「あー……わかります。なんというか熱血ですからね、松島先生は」


 年中身に着けているジャージがトレードマークの松島教諭は、今年から僕の学年と一緒に高等部に持ち上がったが、去年まで中等部で僕のクラスの担任だった。

 よく言えば熱血漢で親身になって生徒の面倒をみてくれるタイプなんだろうが、悪く言えば感情的で暑苦しく、話が長くて、空気が読めない。

 彼はこの学園に来る前は大手ゼネコンの建築監理部にいた経歴の持ち主で、中等部の教諭だった頃から高等部で環境配慮型の建築を研究する緑化建築設計部の顧問を務めていたが、生徒の自主性を重んじる高等部の中で例外的にその部だけが、顧問が先頭に立って部員達に熱い指導をする部として有名だった。


「困ったな……部活の掛け持ちをしてない教師には、やっぱりそれなりの事情があるみてえだ。そういや、てめえらは誰のところへ?」


 恐れていた質問に、何と答えていいかわからず僕が黙っていると、朝菜は後ろの講堂をちらりと見て、察したように頷いた。


「……なるほど、あれを見ちまったのか」


 講堂から、要人達を乗せた黒塗りの高級車が次々と発進していく。

 門の前では両手を広げた警察官が「この身体に触れたら公務執行妨害ですよ」と怒鳴りながら、デモ隊を車から見えない場所へ排除していく。


「『ミスティルテイン』……散布した細菌が既存の植物に寄生して細胞レベルで変性させる『宿り木』。光合成速度5倍で繁殖力アップ、さらに二酸化炭素吸収効率が2~3倍アップ、温暖化問題と砂漠化問題を一挙に解決する夢の細菌。どうせまた奴は、そんな話をしやがったんだろ?」

「大体そんな感じでしたが、具体的な数字までは。お詳しいんですね」


 それよりも、朝菜が自分から瑠璃の話を始めたのが意外だったが。


「当然だ。奴ははじめ、あれを園芸部でやろうとしてたんだからな」


 朝菜は苦々しげな顔をしてそう言った。


「奴が最初から日蒙友好事業の参入目当てで蒙古連邦のお偉方と日本政府内の親蒙派に露骨に擦り寄っていたのも勿論気に入らねえ。あたし達の代は西南事変の年にはまだ生まれてねえが、あたしと夕菜を発注してくれた二木製紙は、あの戦争で防衛関連でも何でもない製紙工場を爆撃されて、大勢の社員が亡くなってる。蒙古連邦はあたしと夕菜にとっても、いわば親の仇だ。だがな、それ以上に許せねえのは、奴が学問を詐欺まがいの商売の道具にしやがったことさ」


「詐欺?」


「いいか眼鏡、温暖化対策の即効薬なんてねえんだよ。ランツベルク議定書で2040年に本格始動が決まった国際排出権取引市場に一枚噛もうと、新興国も含めた全ての主要排出国が気候変動枠組条約に加入したが、新興国にとって厳しい排出削減義務は下手すりゃ経済成長を鈍らせかねない諸刃の剣。簡単に削減できる方法があるなら、いくらカネを出してでも喉から手が出るほど欲しい。そこに奴が提唱して蒙古連邦が飛びついたのが『ミスティルテイン』だ。一見魅力的な話だが、奴は二酸化炭素の一時的な吸収と、二酸化炭素の削減という全く異なる二つの言葉をわざとごっちゃにして説明してやがる」


「よくわからないんですが……二酸化炭素の吸収と削減はそんなに違うんですか?」


「二酸化炭素の削減には、吸収された二酸化炭素が分解されにくい形態で長期間蓄積される必要があるってことだよ。奴がセールストークで使う瞬間的な吸収効率はまやかしだ。昔、ケナフって植物が二酸化炭素の吸収効率が高いために『地球温暖化の救世主』なんてマスコミにもてはやされて日本のあちこちでケナフを植える運動が起きたが、一年草のケナフは一年経つと枯れちまう。吸収した二酸化炭素のほとんどは空気中に放出されて、何の意味もなかった。むしろ植えるために余分なエネルギーを消費したばかりか、外来種のケナフによって既存の生態系が破壊されたんだ。現に気候変動枠組条約でも、大気中の二酸化炭素を減らすために重視すべきは個々の植物体の吸収効率よりも森林生態系全体での蓄積、つまり植物体と土壌中に炭素が長期間固定されることが重要だと明言してる」


 ケナフ。子どもの頃に聞いたことがある。

 魚でいうとブルーギルやブラックバスのような存在で、二十年ほど前に誤った認識から広められたが、日本の在来植物の生態系を脅かすということで、学校で駆除が呼びかけられていた。


「じゃあ『ミスティルテイン』は……?」

「奴とは途中で縁を切ったからあたしも計画の全容は知らねえが、恐らく絵に描いた餅どころか危険な麻薬だ。環境に与える影響の評価も十分に行われていない細菌を広範囲にばらまいて、生態系に大きな改変を加えてまで二酸化炭素を一気に吸収しようだなんて、長期的に二酸化炭素が削減できる保証が全くないばかりか、地球規模でどんな副作用があるか誰も予想がつかねえ」

「……」


 頭の中で、今聞いた話を懸命に整理しようと試みる。

 かつては親友だったという朝菜と瑠璃が仲違いし、結果的に瑠璃が園芸部を去った理由はおおよそわかった。

 園芸部の基本的な考え方は、前に野菜アート大会で夕菜が述べていた通りだ。温暖化対策も、自然界のポテンシャルを活かす形で時間をかけて二酸化炭素を吸収・蓄積していくべきだというのが園芸部のスタンスだとすれば、瑠璃が先ほど講堂で提唱していた「アクティブエコロジー」のような考え方では路線対立が生じるのは当然だ。

 僕は植物や環境には門外漢だが、それを専門に研究している朝菜がここまで言うからには、『ミスティルテイン』には何らかの問題があるのだろう。

 そこで一つの疑問が生じる。朝菜が気付いた問題点に、瑠璃は何故気付かないのだろう? 先ほど朝菜はわざと、と言ったが……。


「目先のカネさ」


 僕の思考を見通していたのか、朝菜は吐き捨てるように言った。


「日蒙友好事業、まあ要は戦争に負けた日本が勝った蒙古連邦に貢がされる賠償金の方便だが、事業は日本側の全面的な資金援助という形で巨額のカネが動く。その利権に群がる連中は、日本にも蒙古連邦にも大勢いる。蒙古連邦の党と軍の上層部は、汚職と権力闘争で腐敗しきってて、数十年先の環境がどうなるかなんて考えちゃいないらしい。それが例え見せかけの排出量削減であっても、短期の目標を達成することで、排出権取引で私腹を肥やしたいんだよ。そして、日本の側にも『ミスティルテイン』を売りつけることで得をする奴がいる」

「……それが、瑠璃さんだと?」

「奴はお偉方に愛想を振りまくマスコットさ。生物部も、学生が主体の研究ということにしておいた方がクリーンに見えるからという理由の隠れ蓑に過ぎねえ。バックについて『ミスティルテイン』を主導しているのはミサキグループ。5年前の戦争でほとんどの日本人が痛手を被った中で、唯一戦争を利用して急成長した、死の商人だ」


 確かに、そういう見方もできるだろう。5年前の西南事変は、この都市の誕生、及びDOLLの普及とも密接に関係している。

 戦後、中東へのシーレーンを絶たれたことで石油の安定供給に危機感をもった日本政府は、エネルギーを原子力に依存する方針に転換したが、国民の根強い反原発感情への配慮を迫られた。そこで政府は、自然エネルギー及び省エネに関する研究開発を促進する姿勢を国民に示し将来への希望を与えるため、自然遺産の屋久杉が戦火で焼失したここ屋久島に、復興の象徴という意味もかねて、最先端の環境技術を結集させた緑化実験都市を建設したのだ。

 また、かねてからの少子化に戦災が拍車をかけた人口減少を補うため、日本政府は2020年に宇宙探査機はやぶさⅡが持ち帰ったイザナミウムで個性と感情を発現させる完全自律型ロボットDOLLに市民権を与え、社会システムの維持を試みた。

 戦後この国の国策となった環境技術とDOLL、前者の恩恵を被った筆頭はミサキバイオニクス社であり、後者の恩恵を被った筆頭は今や国内シェアで中島技研を上回りトップに躍り出たミサキドール社。どちらも、ミサキグループの傘下企業だ。

 だが、しかし。


「企業だから、利潤追求を第一に動いている部分はあると思います。でも……瑠璃さん個人がお義父さんの会社と同じ目的で行動しているかどうかは、わからないんじゃないでしょうか」


 朝菜に対して、出過ぎたことを言っているのはわかっていた。

 でも、ミサキグループが開発し無償で提供した義手や義足をつけて元気に遊んでいる子ども達を愛しんでいた瑠璃を、僕は見ている。

 それに。


『さっきの義眼の子、あの子の片目は、実は私のパーツだったんです』


『それでも私は、仲良くなった子ども達の身体を、少しでも元に戻してあげたくて。私って、おかしいですよね』


 顔を伏せた瑠璃の、胸の奥から絞り出すような言葉。

 講堂での光景を目の当たりにした後でも、瑠璃が、朝菜の思っているような考え方のDOLLだとは、僕には信じられなかった。


「へっ、眼鏡が何を見たのかは知らねえが、周りに優しく振る舞う政治家じみたパフォーマンスは奴のプログラムのなせる技さ。奴の本質は義父とそっくり、ビジネスが最優先の小汚い守銭奴だよ。あの講堂で眼鏡が見たのが、正真正銘の奴の姿だ」


 僕の問いかけを朝菜がそう一笑に付した時だった。


「負け犬の遠吠えほど聞き苦しいものはありませんね、朝菜」


 はっとして後ろを振り返る。

 瑠璃がそこにいた。降りしきる雨の中、付き従う黒服に傘をささせて、朝菜に鋭い隻眼を向けている。その視線は、僕が見てきた瑠璃とは別人と思えるほど冷ややかだった。


「私と私の義父を侮辱しましたね。では尋ねますが、貴女のつくった『ユグドラシル』が苗木から貴女の吹聴する大きさに成長するまで、一体何十年、何百年かかるんです? 排出権取引はビジネスです。四半期で結果を出せない事業を投資家が本気で相手にしてくれるとでも?」

「……うるせえ」

「貴女も本当は気付いているのでしょう? 貴女の『ユグドラシル』に興味がある素振りを見せているのは、貴女のオーナー・二木製紙の取引先の企業ばかり。結局のところ、未熟な貴女が粗末な設備でつくった中途半端な遺伝子組換植物が、コネと貴女の自己満足で生き長らえているに過ぎない。貴女が卒業すれば消えてなくなる運命にあります。そのことに耐えられなくて、私も他の部員達も園芸部を辞めました。残ったのはどこまでも貴女に忠実な、可哀想な夕菜だけ」

「うるせえ、黙れ!」


 朝菜の怒声が空気をびりびりと震わせる。しかし瑠璃は意に介さず、底冷えのする声で淡々と続けた。


「それに、海外植林事業によるカーボンオフセットという考え方自体が、気の毒ですが既に時代遅れです」

「はあ? 寝言いってんじゃねえぞ、2040年の排出権取引市場始動に向けて、各国では植林が盛んに……」

「植林は二酸化炭素を吸収するための手段に過ぎません、それも極めて非効率的で原始的な。そんな事業にエネルギーを浪費するよりも、今ある植物を改変して二酸化炭素の吸収効率を高める方がはるかに有意義です。貴女の『ユグドラシル』も、従来の単純な植林の延長線に過ぎない、パッシブエコロジーです」

「なんだよ、そのパッシブエコロジーってのは!」

「今後100年で世界の平均気温は4度上昇します。これ以上の気候変動を食い止めるため、国連は2070年までに温室効果ガス50%の削減目標を掲げました。でも、その実現のために、凡人達は何をしてきましたか? この緑化実験都市もそうです。低炭素社会への転換、ゼロカーボン生活、建物は壁面緑化に屋上緑化のエコハウス、節電節約、廃物の再利用……そうやって不自由な生活をして必死に二酸化炭素の排出を減らし、よその国にせっせと植林までして自然に媚びへつらう。軽蔑すべきパッシブエコロジーです」


 僕は驚いた。瑠璃が言っているのは、この緑化実験都市、そして彼女が生徒会長を務めるこの学園の常識・価値観を根本から否定することだったからだ。


「卑屈な発想を転換させる時が来ています。人類は王者なのです。この惑星の万物の頂点に君臨する存在としてもっと傲慢に振る舞うべきです。私達DOLLを創り出した、神に等しい存在なのですから。『自然保護』なんて安っぽい感傷でしかありません、自然に意志なんて無いのですから。自然を跪かせ支配する、それが、私達がこれから生きる新しい時代の考え方、アクティブエコロジーなのですよ。私がそれを、タクラマカンで実証してみせます」


 瑠璃は次に、視線を僕へ動かした。


「……糸川さん。どうして、朝菜と一緒に?」


 朝菜に対するような棘は無かったが、どこか機械的な口調だった。


「朝菜さん達の園芸部と僕達の探偵部の4名で、新しい団体を立ち上げることにしたんです。植物探偵団という」


 遠慮して朝菜の方を見たが反応が無かったので、仕方なく正直に答える。瑠璃は特段驚いた様子もなく、無表情のまま目を細めた。


「なるほど。……良かったですね朝菜、優しい下級生達に恵まれて。これで園芸部は、貴女が部長になってから何ら部としての成果も上げず新入部員も確保できていないにも関わらず、部室も安泰、貴女は卒業まで自己満足の研究に没頭できるというわけですね」


 朝菜の歯ぎしりの音がここまで聞こえてきそうだった。


「違います瑠璃さん、これは僕達探偵部の方から頼んだことです」


 慌てて僕が口を挟むと、瑠璃は小さく肩をすくめた。


「ところで、顧問の先生はどなたに決まったのですか? 規約では確かに4名以上の団体なら部室を借りる資格はありますが、監督者である顧問が必要です。園芸部の幸村先生は、ご病気でまだ退院の目処は立っていないと聞いておりますが」

「それが、まだ顧問を引き受けて下さる先生が見つかっていないんです」


 これも、隠してもどうせすぐばれることなので正直に答える。

 そうでしたか、と瑠璃は静かに頷いた。一拍の間を置いて瑠璃の口から出た言葉に、僕と朝菜は揃って目を見開いた。


「我が生物部の蛍先生は、学園内で顧問の掛け持ちをしていない数少ない先生の一人です。蛍先生は、屋久島大学でも助教授として複数の講義をもたれ、さらに屋久島生命工学研究所の首席研究員として研究の中核を担うなど大変ご多忙な方で、この学園での生徒の指導に割ける時間は限られていますから、顧問の掛け持ちは原則断っておられます。ですが、あくまで名義貸しということでよろしければ、私が特別に蛍先生に口添えをさせて頂くこともやぶさかではありません」

「……どういう意味だ?」


 朝菜が、警戒の色を剥き出しにして詰問する。


「言葉通りの意味ですよ。蛍先生がそちらの新団体の顧問を掛け持ちして下さるよう、私が取り計らいます。ちなみに、新団体を認めるか否かの審査を行うのは生徒会ではなく蓮華先輩の自主研究活動管理委員会ですが、顧問になられるのが蛍先生ということになれば、これを認めないという判断を下すのは政治的に難しいでしょう」


 瑠璃は淡々とそう言って、最後にこう付け足す。


「ただし、条件が一つ」

「条件?」


 朝菜が訊き返す。


「今度の志戸子エコプロダクツ、園芸部は『ユグドラシル』で生物工学部門に出るのでしょう? 我が生物部の『ミスティルテイン』も出展します。自慢になってしまいますが、出展する研究の中で『ミスティルテイン』が金賞受賞の最有力候補です。その『ミスティルテイン』に勝って金賞を受賞すること、それが蛍先生をそちらの顧問にして差し上げる条件です。そして」


 瑠璃の瞳に、挑発的な色が宿った。


「負けた時は朝菜、貴女が私の生物部に入るのです」


 朝菜は唖然とし、それから激高した。


「な、な、なんであたし達が、てめえの部なんかに!」

「どうしました朝菜、まさか勝つ自信が無いのですか?」

「そっ、そんなわけねえだろ! そこまで言うなら」

「後、貴女は『あたし達』と言いましたが、入部してもらうのは朝菜、貴女だけです。夕菜には気の毒ですが、私の生物部に必要なのは才能のある生徒だけですから」


 朝菜の身体がびくっと震え、口元が硬直した。それきり何も言えない。


「そう……それが貴女の答えですね、朝菜」


 瑠璃の声はどこまでも冷淡だった。


「……瑠璃さん、僕から一つ訊いてもいいですか」

「なんでしょう、糸川さん?」

「瑠璃さんにとって『ミスティルテイン』とは……いや、テクノロジーとは何のためのものですか?」


 昨日の彼女を見て、今日の体験をした僕には、何を信じたらいいのかがわからなくて、だから僕は確かめたかったのかもしれない。彼女の行動の哲学を。

 だが、瑠璃の答えは、拍子抜けするほど淀みなかった。


「環境技術が純真な一握りの学者の占有物だったのは、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を書いた20世紀までです。先進国が脱工業化社会に移行した21世紀から、環境技術は国と企業のものになりました。そこでは、求められる結果を出すことが全てです。結果を出せないテクノロジーに、価値などありません」


 恐らくは、今まで瑠璃の口から幾度となく出てきたのと同じ、理想の経営者に相応しい人格としてのプログラムが、ピーター・ドラッカーやカルロス・ゴーンや孫正義その他大勢の言動を蓄積したデータベースから用意したのであろう答え。

 その酷薄な言葉の刃が、僕の記憶に残る昨日の瑠璃を決定的に切り裂く。

 頭が熱くなった。気付いた時には、僕の口が勝手に動いていた。


「朝菜さん。受けましょう、この勝負」

「ちょ、ちょっとおい、眼鏡?」


 朝菜が慌てて手をばたばたさせるが構わない。


「悔しくないんですか、瑠璃さんにここまで言われて引き下がって。顧問や部室なんて関係ありません、ここで戦わないと本当の負け犬になる。朝菜さんが夕菜さんと一緒に今日まで頑張ってきたことを、自己否定するのと一緒です!」


 瑠璃は無言のまま、まず僕を、次に朝菜を見て、視線で問いかける。

 朝菜は、拳を固く握って、瑠璃を睨みつけた。


「……上等だ。やってやるぜ」

「ヤッテヤルゼ?」

「てめえとの勝負、受けてやるって言ってんだよ!」


「きっと、後悔しますよ」


 瑠璃が、かすかに笑った気がした。




「えっ……それでまさか朝菜は、その条件を呑んじゃったの?」


 園芸部室。戻ってきた僕と朝菜の話を聞いて、部室の掃除をしていた夕菜は、しばらく立ったまま固まった。


「文句ならそこの眼鏡に言え! たく、生意気にしゃしゃり出やがって……あそこで受けて立たなかったら、DOLLが廃るってもんだ」

「……すみません、カッとなってやりました。今は反省しています」


 僕はもう頭を深く垂れるしかない。

 あれから時間が経って、頭が徐々に冷却されてきていた。勢いに任せて大変なことをしてしまった。主に園芸部の2名に対して。特に夕菜は、完全なとばっちりである。


「安い挑発にまんまと乗せられたわね、貴方達。あの生徒会長の思う壷じゃないの」


 僕達より一足先に戻っていたらしく、部室の奥で何やら園芸部のパソコンを立ち上げている桜が、こっちを見向きもせずに他人事といった感じの口調で言った。


「あはは……まあ朝菜が決めたことなら、ボクはそれで良いよ。志戸子エコプロダクツ、金賞を目指して頑張ろう!」


 夕菜は結局いつものように朝菜の「偉大なるイエスマン」(マンではないが)として振る舞うことに決めたようだったが、さすがに表情は複雑そうだった。

 複雑にもなるだろう。この勝負にもし負けた場合、夕菜にとっては、部活動において朝菜と離れ離れになることを意味する。姉妹で守ってきた園芸部が廃部になるのも避けられない。

 だがそれと同時に、朝菜と瑠璃との復縁を願ってきた夕菜の想いは、少なくとも形の上では叶うことになる。瑠璃の出してきた条件は、要するにそういうことだった。


「仕方ないわね。そういうことなら、この部室と備品の夕菜は、植物探偵団改め我が『血盟探偵団』が仕方なく譲り受けてあげるわ。生物部でも落ちこぼれないよう達者でね、朝菜」


 桜がしれっと言う。新団体がいつの間にか物騒な名前に変えられていた。


「ってなんでうちが負ける前提なんだよ! それに夕菜をてめえなんかにやるか! いいか、あたしと夕菜が離れ離れになるなんてあり得ねえ、故にあたしがこの勝負に勝つのは確定的に明らかだ!」


 朝菜が驚異的な論法で言い返す。どうでもいいけど、夕菜が備品だという発言に全く反論しない時点で、この先輩も色々とおかしい。


「ありがとう朝菜、嬉しいよ。ボクも朝菜とずっと一緒がいいな。……あ、そういえば朝菜、今度のエコプロダクツで『ユグドラシル』と一緒に出す論文って、もう書き終わってるんだっけ?」


 夕菜が爽やかな笑顔で訊ねる。瞬間、朝菜の頭上に「ガビーン!」という文字がでかでかと浮かんだ。さすが夕菜。全く悪意が無いだけに、その破壊力たるや凄まじい。


「うーわー! わーすーれーてーたー!」


 床をごろごろと転がり出す朝菜。


「ひゃあっ? ダ、ダメだよ朝菜、そんなところ汚いよ!」


 夕菜が台詞だけだと誤解を招きかねないリアクションをしながら慌てて止めに入る。


「実」


 朝菜と夕菜の様子を呆れて見ていると、不意に桜が僕の名を呼ぶ。


「今日は一体どうしたの? なんだか、貴方らしくないわよ」


 桜は相変わらずパソコンに向かったままだったが、その声はいつになく静かだった。

 僕らしくないという桜の感想は、僕が冷静さを失って瑠璃の挑発に乗ってしまったことに対するものか。それともあのシンポジウムを飛び出したことに対するものか。

 恐らくはその両方に対しての感想だろう。

 その二つに共通する答えは、一つしかなかった。


「……僕の姉は蒙古連邦に殺されたんだ。5年前の西南事変で」


 敢えて、直接的な表現を選んだ。

 世間一般で暗黙のうちに推奨されている『戦災の犠牲になった』というような加害者を故意にぼかした婉曲的な言い回しではなく。

 僕は政治家になりたいわけでもプロ市民になりたいわけでもテレビに出てくるような知識人になりたいわけでもない。食事中はおろか人生の大半において政治や歴史に関する話題を避けて過ごすこの国の大多数の人間と元は一緒だ。他者に積極的に自分の考えを明らかにしたいとは思わない。

 でも、無関係とはいえなくなってしまった彼女達に、僕の感情を説明するためには、5年前のあの日の出来事に対する僕の立ち位置を、ごまかすべきではないと思った。


「ぱっとしない姉ちゃんだった。ドジな癖に世話焼きで、食べ物の好みは妙に年寄り臭くて、お人好しで。今思えば運動神経も大して良くなかったのにラクロスなんかに夢中になって、練習の後はいつも膝とかどっかに絆創膏貼ってた。あの日もいつもみたいにどっか怪我して、『でも楽しかったよ』って笑って帰ってくるはずだったんだ」


 5年前、僕達が住んでいた旧福岡県春日市の閑静な住宅街は、自衛隊の関連施設が集中する地域でもあった。

 陸上自衛隊の福岡駐屯地と春日駐屯地があり、福岡駐屯地には第4師団司令部が置かれていた。

 そして、僕の家の目の前にあったのが、航空自衛隊の春日基地。

 基地といっても航空機も飛行場も無い地味な施設だった。基地の真横には市民が利用するスポーツ施設を備えた春日公園があり、他にも市役所、福祉センター、小中学校、そして住宅が隣接していた。

 そんな、市街地に埋没していた地味な春日基地こそが、九州・中国・四国地方から東シナ海に及ぶ日本南西部の防空の要、西部航空方面隊司令部だったのだ。

 基地の中には防空指令所が置かれ、対領空侵犯措置の主力だった新田原の第5航空団及び築城の第8航空団の計2個戦闘航空団、レーダーサイト7個警戒群からなる警戒管制団、それに芦屋・築城・高良台にそれぞれ配備された高射隊が隷下にあった。

 福岡空襲における蒙古連邦軍の第一攻撃目標が、この春日基地だった。春日基地に隣接する春日公園で、僕の姉は所属していた女子ラクロス部の仲間達とともに、空襲の犠牲となった。その日行われていた練習試合に参加していた他校の生徒も含む24人全員が死亡した。それすらも数万人の死者のほんの一部だった。

 戦後、世論の非難の矛先は自衛隊に向けられた。民放マスコミは、無防備都市宣言運動を行う活動家をはじめ、かねてから自衛隊の存在に批判的だった市民団体の代表や知識人を連日テレビにゲスト出演させ、彼等の主張を公共の電波に乗せてお茶の間に流し続けた。

 曰く、


『自衛隊の基地があったから空襲を受け、国同士の揉め事とは何も関係ない一般市民が巻き添えにされた』


『自衛隊は人殺しのための軍隊であり、攻撃されても仕方がない。その危険な自衛隊基地を市街地に置き、自衛隊が平和を守っているなどというまやかしを広めていた日本政府に全ての責任がある』


『自衛隊の基地さえ無ければ、一般市民が犠牲になることはなかった』


『そもそも自衛隊が存在しなければ、戦争など起こらなかった』


 実際には蒙古連邦軍の一方的な奇襲攻撃は日本南西部の広範囲に及んでおり、自衛隊基地から相当距離のある地域が、誤爆と言うには無理のある激しい空襲を受けていたが、客観的な検証は置き去りにされた。

 瓦礫の山もしくは火の海と化した市街地の映像は繰り返し使用されたが、自衛隊の必死の救援活動に命を救われた多くの市民の感謝の声は、何故かほとんど報道されなかった。

 西南諸島の分離独立からの蒙古連邦への編入は、あくまで地元住民の自由意思に基づく選択として尊重し受け入れるべきであるとの論調が開明的とされ、国土を奪われたという見方は、右翼的で過激な少数意見として扱われた。

 代わりに、危険な自衛隊基地は要らない、自衛隊は街から出て行けという反自衛隊運動が日本中で始まった。空襲の被害にあった人々が日本政府に賠償を求める訴訟や、自衛隊は憲法違反だと主張する訴訟が始まった。

 僕の姉と一緒に死んだラクロス部員の遺族の中からも、何人もが反自衛隊運動に加わり、記者会見でマイクを握って、『危険な基地が子ども達の遊ぶ公園の真横にあったのに、住民に対し危険性を十分に説明せず、基地を市街地から遠ざけることを怠ってきた』政府の責任を、涙を流して糾弾していた。

 でも僕は、そうしたこの国特有の奇妙な潮流には全く同調できなかった。

 他の普通の国なら、幼児でもわかる簡単な話だ。

 あの日の加害者は誰か。

 憎むべきは誰か。

 罪を償わせるべきなのは誰か。

 決まっている。攻撃してきた蒙古連邦だ。


「だから貴方は、自衛官になろうとしていたの」


 桜が小さく呟いた。話していないことだったので僕は驚く。


「どうしてそのことを? まさか名探偵桜様とやらがついに降臨したのか」

「そうなのと言いたいところだけど……種明かしすると貴方の部屋にお邪魔した時、陸上自衛隊高等訓練学校の採用試験合格通知が床に落ちているのが目に入ったのよ」


 ああ、こいつが住居侵入罪を犯して僕の部屋に押し入ってきた日か。

 あれからまだ何日かしか経っていないのに、随分昔のことのような気がする。

 あの時、僕の部屋はお世辞にも片付いていたとは言えないから、床に散らばった雑多な書類の中から一枚の合格通知に気付いていたのなら、DOLLであることを差し引いても大した観察力だ。無駄に行動力があることも合わせると、アガサ・クリスティ作品に出てくる『灰色の脳細胞』が強みの安楽椅子探偵より、シャーロック・ホームズタイプの探偵の方がまだ向いているのではないかと思ったが、口に出すとまた面倒なことになりそうなのでやめた。


「まあ、中学を卒業して高等訓練学校に入るのが、自衛官になる最短ルートだからな。高校まで普通の学校に通って、そこから防衛大学校を目指すことも考えたけど、できれば一日も早く自衛官に、それも幹部自衛官じゃなく、敵が攻めてきた時に第一線で戦えるチャンスの大きい曹クラスの自衛官になりたかった」


 高等訓練学校は、名称こそ学校だが文科省管轄の高等学校ではなく防衛大臣直轄の教育部隊であり、入校すると自衛官の身分を与えられる。

 公務員だから月々の棒給も出るし、学校の施設で寝食するので親からは完全に独立できる。3年間の間には一般高校と同様のカリキュラムに加え、火器・車輌・航空機・通信電子機器など自衛隊装備に関する専門的な知識や技能を身につけるための座学、そして戦闘のプロフェッショナルになるための本格的な戦闘訓練・戦技訓練がある。

 採用試験の倍率は20倍以上で、結構な難関だった。

 中学時代はクラスメイトともろくに遊ばず、とりつかれた様に勉強した。入校した後の厳しい訓練についていけるようトレーニングして身体も鍛えた。それまで身体が丈夫ではなくどちらかといえばひ弱な部類だった僕には正直きつかったが、決意は揺らがなかった。

 そうして何とか無事に合格できたのが今年の2月のこと。


「でも、僕の親は許してくれなかった。僕にはこのままエスカレーターで屋久島大学まで行けと。散々揉めて、中等部の三学期の授業は全部ボイコットしたし高等部の進学に必要なはずの試験も何も受けなかったのに、親はこの学園にコネがあるみたいで、高等部には無理やり進学させられた」

「それで気力をなくして、あの腐海みたいな部屋に引きこもっていたのね」

「まあな」


 僕は頷く。みっともない話だが、嘘をついても仕方がない。


「自衛隊に入れば、殺されたお姉さんの仇を討てると思ったの?」

「……ああ。そうだ」


 僕は、もう一度頷いた。これもまた、嘘をついても仕方がないことだった。


「個人的な復讐が目的で自衛隊に入りたいなんて、正当化できるとは思っていない。それに自衛隊は専守防衛だ。でも、蒙古連邦はこの先必ずまた日本の領土を力ずくで削り取りにくると、僕は思っている」


 アメリカが西太平洋から後退した今、蒙古連邦の膨張に際限は無い。

 現に蒙古連邦は西南諸島の併合に飽き足らず、今度はここ屋久島から目と鼻の先にある奄美群島に対しても、西南諸島の時と同じ「核心的利益」という表現を使って領有権の主張を始めている。


「国を守りたいだなんて綺麗事は言わない。ただ姉を殺した連中にこの手で一矢報いてやりたかった。それだけだ」

「そう」


 桜はそっけなく返事をして、キーボードをカタカタと叩き始めた。

 朝菜と夕菜は、とっくに騒ぐのを止めて、僕の話に聞き入っていた。


「……お聞きになった通りです。僕の私情で瑠璃さんに反発して、朝菜さんと夕菜さんを巻き込んでしまいました。申し訳ありません」


 僕は彼女達に改めて頭を下げた。

 朝菜はそっぽを向いて「あーもう!」と髪をがりがりかいた。


「眼鏡が謝るこたあねえ! 勝負を受けるって最終的に決めたのはあたしだ。それに、感情で動くのがそんなに悪いことかよ。眼鏡のお姉さんのことは……その、本当に気の毒だ。瑠璃の奴が蒙古連邦とくっついてることや奴の『ミスティルテイン』が気に食わなくてムカムカしてたのはあたしだって同じだぜ。ましてや過去にそんなことがあったのなら、許せなくなるのは至極当然じゃねえか」

「朝菜の言う通りだよ。それに『巻き込んだ』なんて思わなくていいよ。ボク達はもう、同じ植物探偵団の仲間じゃないか。糸川君の提案が無かったら、朝菜とボクがこの部室で園芸部の活動を続けることはどの道難しかったんだし。だから、糸川君が自分の思いを話してくれて良かった。思いを受け止めて支えるのも、仲間の役目だよ」

「そういうこった。いいか、これは植物探偵団として受けた勝負だ!」


 夕菜が優しく微笑み、朝菜が胸をどんと叩く。


「……ありがとうございます」


 不覚にも声がかすれた。

 もうこの学園に来るつもりはなかった。それが、色んななりゆきでこの部室のご厄介になることになった。

 僕の問題は、まだ何一つとして解決していない。でも、彼女達に出会えて良かった。


「盛り上がっているところ水を差すようで悪いのだけれど、貴方達、真面目に部活を続ける気あるの?」


 訂正。朝菜と夕菜の優しさに胸がいっぱいになって、約1名の存在を完全に忘れていた。おいお前空気読めよ。


「どういう意味だ赤いの! あたし達がふざけてるとでも言いてえのか!」

「私は植物とか生物とかのことはよくわからないけど、朝菜の、えーっと、確かヨルムンガンドでしたっけ? その残念な盆栽で生徒会長の研究に勝とうとするのは、織田信長が桶狭間でなく視界の開けた平野で今川義元の軍勢に正々堂々と決戦を挑むようなものだと思うわ」

「盆栽じゃねえ! 後『ユグドラシル』だ、なんだヨルムンガンドって、『ド』しか合ってねえぞ!」


 朝菜がいきり立つのも無理はない。僕もどこから突っ込んでいいのかわからない。

 桜は自分の間違いに一切悪びれる様子なく続ける。


「向こうは人数、財力、権力、それに指揮官の能力、全てにおいてこちらに勝っているのよ。一昔前のスポ根物や、120分で巨大な敵を倒して終わるハリウッド映画の脚本じゃあるまいし。精神論でどうにかなるほど、現実は甘くないわ。だから……」


 桜はそこで一拍置き、ずっと向き合っていたパソコンのエンターキーをたーん! と叩くと、椅子ごと僕達に振り返って不敵な笑みを見せた。


「ここからは探偵団の流儀で戦いましょう。生徒会長の弱みを握り、それをネタにゆすって不戦勝に持ち込むのよ」


 期待を裏切らない外道っぷりだった。


「ほうら見ろ! あたしが思ってた通り探偵は卑怯者がやる下賎な仕事だったんだよ! この赤い奴の下衆な振る舞いが何よりの証拠だ! やっぱり植物探偵団は解散だ!」


 これで探偵という職業への朝菜の偏見をなくすことは恐らく半永久的に不可能だろう。


「ま、まあまあ朝菜。桜さんも今のは取り消した方がいいよ、瑠璃にも失礼だし……」


 ついに日頃大人しい夕菜までもが桜をたしなめ始めたが、桜はどこ吹く風だった。


「呆れた……そんなおめでたい思考だから貴女達は廃部寸前なのよ。いいこと、大きな組織を率いていて財力や権力があるということは、裏を返すと叩けば必ず埃が出てくるということよ。決定的な不正の証拠を掴んで学園内の敵対派閥に売ると脅してやれば、あの生徒会長は必ず取引に応じるわ」

「百歩譲って仮に後ろ暗い何かがあったとしても、瑠璃さんがお前と取引するとは思えないけどな。それに、学園の中にそんな派閥とかないだろ、本物の政治じゃあるまいし」

「いや……それがね糸川君。全くないわけじゃないんだよ」


 申し訳なさそうに僕にそう言ったのは、夕菜だった。


「ボク達DOLLには『製閥せいばつ』といって、製造したメーカーによって仲間意識というか、まとまりがあるんだ。メーカー毎にクラスや授業を分けてる学校もあるしね、DOLLはメーカーの企業秘密の塊みたいなものだから情報管理上の理由とか、後は互換性みたいな技術的な理由とか。この学園はそういう区分けはしない方針だし、基本メーカーに関係なくみんな仲良くやってるけど……ただ、三年生で中島技研製筆頭格の蓮華先輩は『製閥』に結構こだわってるみたいで。特に蓮華先輩が新学期の生徒会長選挙で瑠璃に負けてからは、三年生のフロアはちょっと空気が悪いかなって感じることもあるよ」


 蓮華というと、あの管弦楽部の部長で自主研究活動管理委員長もしている、いかにも出自と能力を鼻にかけていそうな感じのDOLLか。悔しいが納得せざるを得ない。


「ほら見なさい! 私が正しかったわ」

「いや、瑠璃さんに一種の政敵がいるのはわかったが、お前の話で一番肝心な瑠璃さんの不正ってのはどうなんだ? どうせまた適当な思いつきだろ」

「ふふふっ、そこでこの情報が役に立つのよ」


 桜はパソコンの画面を得意げに指差す。先ほど桜が開いたウインドウには、何やらコミュニティサイトの掲示板のようなものが映っていた。


「おい、まさかそれは」

「この学園のいわゆる裏サイトよ」


 しれっと言ってのける桜。朝菜が嫌悪感をはっきり顔に出す。


「裏サイトって、あの一部の生徒が学校内の噂とかを匿名で書き込む非公式なサイトか? ネットいじめの温床になってるやばいところだって前にニュースでやってたぞ。つうか、園芸部のパソコンで変なサイト閲覧してんじゃねえ! アクセス履歴であたしや夕菜が学園から後で説教されちまうじゃねえか!」

「あら、これって学園にチェックされるものだったの? 知らなかったから、既に『名探偵ポアロ』を落とすためにファイル共有ソフトをダウンロードしてしまったわ」

「なんだってぇ! てめえ、何勝手なことしてやがる!」


 桜に掴みかかろうとする朝菜、椅子から跳躍しひらりと回避する桜、慌てて止めに入ろうとする夕菜を横目に、僕はパソコンの画面を覗き込んだ。この学園にも裏サイトがあったとは。興味がないからこれまで調べたこともなかった。


「どれどれ……学園の研究施設で米軍が密かに実験をしている? 後は、DOLLの生徒達の間で機体の不正改造が流行っている……うーん、いかにもな与太話ばっかりだな」


 恐らくどれも信憑性の乏しい噂話の類だろう。


「違うわ、私が見て欲しかったのはもっと下の、そう、これだわ」


 朝菜の追撃をかわした桜が、マウスを僕の手ごと動かしてスクロールさせる。

 桜がマウスを止めたところのスレッドのタイトルを、僕は声に出して読んだ。


「……『学園及び生徒会が隠蔽するDOLL生徒の連続失踪事件』?」


 僕は首をかしげながら、そのスレッドの最新の書き込み50件をとりあえず表示させた。

 並んでいるコメントに、順番に目を通していく。




『俺のクラスでも昼休み何も言わないで消えたDOLLがいて、翌日担任から転校したって説明があった。入学してまだ一週間も経ってないのに』


『うちの部に入部したばかりの一年生のDOLLが急に来なくなって、他の後輩に聞いたらやっぱり転校って言われた。新歓でも全然そんな素振りなかったからびっくりした。こういうこと言いたくないがDOLLって転校する時に黙っていなくなるのが仕様なの?』


『それ本当に転校なんでしょうか。私も仲の良かったDOLLの子が学校に来なくなって、先生から転校したって言われたんですけど、どうして何も言わないでいきなり転校しちゃったのかなって気になって。それで、その子の転校先のDOLL専門校でたまたま知り合いのお父さんが職員をしてるので調べてもらったら、そんな転校生来てないって』


『私の知ってるDOLLの子は、移動教室の時間に忘れ物を取りに行ったっきり授業が始まっても戻ってこなかったんですね。それで心配になって様子を見に行ったんですよ。そしたら途中、中庭に面した渡り廊下の窓が全部割れてて、ガラスの破片とかよくわからない緑色の汁とかが飛び散ってて、生徒会の人達が渡り廊下を通行止めしてるんですよ。それで、その子はそれっきりどこに行ったかわからなくて、翌日の朝のHRで担任の先生から転校したって言われました。今思えばあれって何かの事件だったんじゃ?』


『確かに普通窓ガラスが割れただけなら来るのは用務員や業者だよな。生徒会がわざわざ出張ってくるとか、事件の匂いがするわな』


『てことはやっぱり誘拐か。ミサキドールがライバルメーカーのDOLLをバラして技術をパクってんじゃねえの? 現生徒会長の●●はミサキの跡取りだし』


『そこ伏せ字にする意味ないだろwww』


『ありえるな。ミサキグループはこの学園にかなりの出資をしてるっていうし、学園内で起きたことなら簡単に揉み消せるはず』


『どこのラノベの世界だよ、陰謀厨乙』




「なんだよ、これ……?」


 気付いたら読むのに没頭していた。

 このスレッドだけ、書き込み件数が異常に多い。書き込みの内容も妙に具体的だ。


「スレが立ったのは今年度の一学期に入ってからよ。この時期にそんなに大勢転校者がいるなんて、怪しいと思わない?」

「うう、気味が悪いぜ……」


 いつの間にか後ろから覗き込んでいた朝菜の顔が引きつっていた。

 それを見た桜が意地の悪い笑みを浮かべる。


「あら朝菜、ひょっとして貴女怖いの?」

「な、な、な、何馬鹿言ってやがる、こんなもんこ、こ、怖いわけが」


 相変わらずわかり易すぎるだろ、この先輩……。


「あっ、窓の外にチェーンソーを持った機械油まみれの男が!」

「ひいいいっ! 助けて夕菜ぁ!」


 窓の外に人影などいないし第一ここは建物の2階であるにも関わらず、朝菜は桜がそう叫ぶや否やひしっと夕菜に抱きつく。


「よしよし、大丈夫だよ朝菜。こら、桜さん!」


 夕菜が朝菜の頭を優しく撫でつつ、桜を怒る。普段とは関係がまるで逆だった。


「ほ、ほ、ほんとに大丈夫か、夕菜」

「大丈夫だって。その裏サイトの話はきっと、何か機体にトラブルがあってメーカーに送り返されたのを、先生達が内緒にしてるだけなんじゃないかな。ボクは中島技研のDOLLのことしか知らないけど今年入学してきた第4世代型は初期不良が多いらしいし、学園の保健センターでは簡単な処置しかできないしね。元は些細なことだったのに尾ひれ背びれがついて話が大袈裟になる、時には全く事実と異なる情報が混ざっていたりもする。ネットではよくあることさ」


 夕菜の落ち着いた感想を聞くと、なるほどそれもそうかと思えてくる。

 考えてみれば、ここに書かれた情報の中で辛うじて事実と言えるのは複数のDOLLが転校したということだけで(それすらも裏付けをとらないとわからないが)、後はどれも根拠のない憶測ばかりだ。一瞬、少し本気にしてしまった自分が恥ずかしい。


「ほんとのほんとに大丈夫か、夕菜」

「よしよし」


 しかし、この姉妹の意外な一面を見ることができたな。


「ふふふ、朝菜の新しい弱点を見つけてやったわ……」


 桜はぶれずに外道一直線だが。


 その時だった。

 部室の扉が強くノックされると、こちらの応答を待たずに勢い良く開けられた。


「糸川君! 糸川君はいますか!」


 入ってくるや僕の名を呼んだのは、見知った顔だった。


御所浦ごしょうら?」

 クラスメイトの御所浦ごしょうら深月みつきだ。何故か剣道部時代の竹刀を持ち、走ってきたのか息を切らしている。


「糸川君、大変なの! 琥珀が、琥珀がっ……」

「落ち着け御所浦。何があったんだ」


 こんなに取り乱した御所浦を見るのは初めてだった。

 植物探偵団の面々も、突然の闖入者に驚いて顔を見合わせている。

 御所浦は呼吸を整える間も惜しいのか、上ずった声で言った。


「……農学部に行ったら、部室が滅茶苦茶になってて、それでっ、琥珀がどこにもいないの!」




 先日、野菜早食い選手権と野菜アート大会が盛大に催されていた農学部室は、今はまるで嵐が通り過ぎた後のような有様だった。


「今日は私と琥珀がプラントセラーの当番で、私はクラス委員の用事があったから、琥珀より遅れて部室に行ったの。そしたら、こんなになってて……」


 御所浦に案内されて部室に入ると、まず強烈な青臭さが鼻をついた。

 プラントセラーは横倒しになり、野菜が苗床ごと飛び出して散乱している。割れた窓ガラス、引きちぎれたカーテン。差し込んだ西日が、農学部室の惨状に陰影を刻んでいた。


「……桜、これ」


 僕は後から部室に入ってきた桜に、思わず囁く。


「ええ」


 桜は僕の連想したものが何か、さすがにすぐわかったようだった。


「裏サイトの掲示板にあった書き込みとそっくりだわ」


 遅れて朝菜と夕菜も部室に入る。


「い、一体何があったっていうんだよ……」


 夕菜の背中に隠れるようにして入った朝菜は、変わり果てた農学部室にショックを受けた様子だったが、何かを見つけたのか、視線を止めた。


「あれ……この床に飛び散ってる汁は、プラントセラーの養液とはちょっと違うような……それにあの窓枠にひっついてるのは……つる植物の付着ふちゃくこん?」


 朝菜が、窓枠に近付こうとした時だった。


「触らないで!」


 背後からの鋭い声に、僕達一同は振り返った。


「危険ですから、落ちている物に触らないで下さい」


 生徒会の腕章をつけた生徒達、それに何人かの大人がぞろぞろと部室に入ってきた。


「農学部の御所浦深月さんですわね? 生徒会風紀担当役員のMD-233黒曜石こくようせきと申します」


 この場には不似合いな慇懃な口調で御所浦に話しかけたDOLLに、僕と桜は見覚えがあった。

 古風な日本人形のように綺麗に整って、しかしどこか冷たい顔立ち。確か生物部室で僕達に応対した、生物部の副部長だ。

 どうやら瑠璃は自分の部の側近を、他の学校なら風紀委員長に相当する要職につけているようだった。


「このたびは災難でしたわね。野球の硬式ボールを校舎に向かって投げた生徒がいて、農学部室の窓ガラスが割れてしまったと生徒会に通報がありました。お見舞い申し上げます」

「ちょっと待ちなさい!」


 風紀担当役員・黒曜石の説明に、懐疑の声を上げたのは桜だった。


「野球のボールが飛び込んだくらいでこんな滅茶苦茶になるわけないこと、誰にだってわかるわ。どうしてそんな嘘をつくの? 大体ボールなんてどこにも……」

「黒曜石さん、ありました。ボールです」


 桜の口上の途中で、部室の奥を調べていた生徒会メンバーの一人が、手袋をした手で野球の硬式ボールを掲げてみせた。


「……そう、いいわ。ちなみにボールを投げた生徒は誰か教えてもらえる?」

「プライバシーの問題がありますので、お答えできません」


 黒曜石は冷たくそう言うと、御所浦に向き直った。


「破損した機材等は学園で包括的に契約している損害保険の対象となりますので、請求書を自主研究活動管理委員会ではなく私ども生徒会の方に回して下さい。通常なら部室棟内で起こった事故は委員会の事案ですが、本件は生徒会が対応致します。また、これから業者の方が清掃と、保険会社に損害保険の請求を行うための記録作りを行います。ガラスの破片があって危険ですから、申し訳ありませんが一般生徒の皆さんは部屋を出て頂けますか」


 黒曜石の事務的な通告と同時に、数名の大人が無言で進み出た。

 その中で一人背広姿の男を見て、僕ははっとした。

 不健康に見えるほど白い顔、カミソリで切りつけたような細い目、何を考えているのかわからない仮面を貼り付けたような薄笑い。

 間違いない、講堂で開かれていた瑠璃の『ミスティルテイン』を紹介するシンポジウムで、壇上の日本政府関係者達と一緒にいた男だ。こいつは清掃業者なんかじゃない。政府の関係者が、何故ここに?


「……あ、あのっ!」


 これで話は終わりだと言わんばかりの黒曜石に、御所浦がとりすがる。


「琥珀がいないんです! 今日はあの子がここで野菜の世話をする当番だったんです!」


 黒曜石の対応は、洗練の度合いは若干劣っていたが、一般有権者を安心させようとする時の瑠璃によく似ていた。


「琥珀さんは、ここにいらっしゃらないということは、きっと今日はもうお帰りになったのではありませんか? 御所浦さんと入れ違いになったのでは?」

「で、でもっ……」

「大丈夫、明日になったら会えますわよ」




 翌日、琥珀は転校したと発表された。

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