第二章
あまりにも字数が少ないと思ったので、予定変更してもう一話連投しました。
大きく空に舞い上がったフライは、外野手のミットに吸い込まれた。打者の悔しそうな顔、外野手のガッツポーズがグラウンドに映える。そういえば今日は土曜日だ。俺は対照的な二人の顔を眺めながら、ふと、そんなことを思い出した。河川敷の運動公園で野球に精を出す小学生にとって、今日は休日なのだ。
芝生に覆われた河川敷は、太陽の光を浴びて青く爽やかに光る。俺はその上に、手足を大きく伸ばして横たわっていた。熱気の塊を孕んだ午後の微風が、俺の前髪を撫でる。
そよぐ芝生。地鳴りのような蝉の鳴き声。額から汗が噴き出る。
河川敷にやって来て、もう半時間になる。それでもまだ、心のモヤモヤは続いていた。俺はそのモヤモヤを解消しようと、色々なことを考えた。でも結局は同じ堂々巡りで、もはや自分が何を考えているのかさえ、よく分からなくなってきた。この暑さのせいかもしれない。そうだとしたら、もうここに止まっているのも潮時だ。
透き通るように青い大空を、綿菓子みたいな雲がゆっくりと横切る。呑気なものだ。俺はどうしようもない悩みを抱えているというのに。俺は心の中で愚痴った。それでも綿菓子雲は、進むペースを速めない。のんびりのんびり、大空を渡っていく。まるで海を漂流する一隻の筏みたいに。
海……か。
もし、あの大空が海だったとしたら。俺はその海に飛び込みたい。そしてあの雲みたいに、ぷかぷかと浮かんでいたい。もっとも、俺はそんなに泳ぐのが得意じゃないから、すぐに溺れるかもしれないけれど。でも、それはそれでいい。そんな気がする。ぷかぷかと浮いて、疲れたら溺れる。そして死ぬ。なかなか悪くない。
野球少年達の歓声が聞こえて、俺はふっと、現実に返った。ホームランでも飛び出したのかもしれない。俺がそう思っていると、審判らしい野太い声がゲームセットを宣言した。試合が終わった事に対する歓声だったようだ。ふと運動公園の方に目を移すと、グラウンドを整備していたり、鞄の中に自分の荷物を詰めていたりする子供の姿が見える。少年達は、もう帰り支度を始めているのか……俺もそろそろ帰ろう。これ以上ここに寝転んでいても、なんにもならない。せいぜい熱中症のリスクが高まるだけだ。俺はここに長居しすぎた。
大空も、微妙に変化を見せている。透き通るような青に、オレンジ色が混ざり始めているし、のんびり者の綿菓子雲もずいぶん移動したらしく、始めに見たときとは位置が違う。そう思ったときだ。俺の顔に影が差し、その直後、肌色をした二本の柱が視界の端に現れた。その二本の柱が細くしなやかに伸びる先には、純白のパンツが――。
パンツ?俺は上半身を起こし、後ろを振り返った。
艶のある長い黒髪、銀色のカチューシャ。流れるようなシルエット、凹凸のはっきりしたボディ。他校の制服。そこには一人の見知らぬ美少女が、腰に手を当てて立っていた。この謎の美少女こそが、例の藤山小豆だったのだ。
「後藤亮二。おまえは私が守ってやる」小豆は言った。とても頼もしげな口振りで。
しかし、この時の俺は、この美少女の名が藤山小豆であることは知らないし、そもそも自分がどういう状況に置かれているのかも知らない。だから当然疑問に思うことがある。
「守る?何から?そもそもあんた……誰?」
河川敷に再び微風が吹き、小豆の長い黒髪がさらさらと凪いだ。彼女は少し溜息を吐き、右手で髪の毛を抑え、そして俺の質問に答えを返した。
「間もなく、この日本で暮らすほぼ全ての人々が、おまえを恐れ、おまえを敵視し、おまえを捕まえ殺そうと躍起になるだろう。私はそれからおまえを守りたいんだ。自己紹介は後でも構わないだろう?私たちは今すぐに逃げなければならない。時間がないんだ」
なんて面白くない冗談なんだ。俺は呆れた。俺は幻覚を見ているのかもしれないと思った。あり得る。あまりの暑さに、俺の脳みそはカスタードプリンみたいになってしまったのかもしれない。けれどこれは現実だった。
「さあ、行こうか。逃走劇の始まりだ」
そう言って、小豆は俺の手を取り走り出したのだ。その手には確かな力が籠もっていた。幻覚じゃない。紛れもない現実。俺は困惑した。いきなり電波的な話を聞かされて、それについての説明もないままに走り出されて戸惑わないはずがない。俺は立ち止まった。立ち止まったはずだった。しかし止まらない。俺の体は動き続けている。脚を動かしていないのに。足元を見た。ガリガリ。靴がアスファルトに擦れている。
「……嘘だろ?」
俺は小豆に引きずられていたのだった。いったいこの華奢な体のどこに、そんな力が秘められている?俺の困惑は一層深くなった。解せない。不可解だ。納得できないことが多過ぎる。
「ちょっとストップ!冷静に話し合おう。そして少しでいいから俺の疑問に答えてくれ」
「さっき言っただろう?『私たちは今すぐに逃げなければならない、時間がないんだ』と。立ち止まっている暇はない。今日の午後四時から、お前はもう追われる身となるんだ。行くぞ」
小豆は俺に顔を向けることもなく答えた。愛想の欠片もない対応。これじゃあ駄目だ。とりつく島もない。とにかく、この引きずられている状況を何とかしよう。情報収集はそれからだ。
俺は小豆のスピードに合わせて脚を動かし始めた。よし。何とか喫緊の課題はクリア。情報収集に移行しよう。大きな成果は期待できないけれど。
「あのさ、俺達はどこに向かって走ってんの?」
「駅だ。ここから最寄りの駅」
なるほど。確か小豆は「逃げる」と言っていた。逃げるための交通手段として、鉄道は欠かせない。そういうイメージはある。何から逃げているのか、俺にはよく理解できないが。
「駅からどこに行くの?結構遠くまで?」
「ここから先は作戦内容に抵触する。傍受されると面倒なことになるから、今は教えられない。まあ、いずれ分かることだから、心配はするな」
どうやら俺は墓穴を掘ってしまったようだ。謎が一層深まってしまった。作戦内容?傍受?俺は007の世界に紛れ込んでしまったのだろうか?
「ところで、さっき日本に暮らす全ての人々が俺を追いかけるようになるって言っていたけど、あれってどういう意味?俺を追いかけているのは何者?まさか一億数千万の人々が、俺の後ろを付けてきているわけじゃないだろ?」
俺はまくし立てるように質問を繰り返した。小豆はうんざりしたように溜息をはき出し、そして言った。
「走りながら説明するのは難しいな。お前や私を取り巻く環境は、それほど簡単じゃないんだ」
そこまで言い終えると、小豆は少し考え込んだ。簡単に説明するための切り口を探しているのだろう。そして小豆は、とても端的に尋ねてきた。
「『犯罪予防法』って、知っているか?」
「まあ、何となくなら」
「何となく、か……。まあいいだろう。かいつまんで説明してやろう。お前は三日後、犯罪者になる予定なんだ。だから警察は、お前を捕まえようとしている」
俺は、今の説明を理解することができなかった。小豆の台詞が細切れの断片となって、頭の中に浮き沈みしている。犯罪者。三日後。警察。はあ?
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺はそんな警察に捕まるようなことをするつもりなんて……」
「実際に、お前がどう考えているのかなんて、私には分からない。ただ、少なくとも警察は、お前を『予定犯罪者』だと認識しているぞ」
落ち着け。慌てるんじゃない。俺は自分に言い聞かせた。冷静になって、状況を見極めろ。
犯罪予防法。俺がまだ小さかった頃、ニュースで話題になったことがあったから、ある程度の知識は持っている。事件の事後処理だけではなく、事件の事前処理を容認するこの法律の誕生により、警察のスタンスは大きく変化した。犯罪が起きる前にその加害者を、「予定犯罪者」として逮捕する。それが警察の主な仕事になったのだ。
この法律が適用され始めた当初は、多数の批判が寄せられた。当然だ。犯罪者が犯罪者にならないうちに捕まえるので、その人が犯罪者にならない可能性も捨てきれないのだから。犯罪予防法は冤罪の巣窟だ、という声が大きかった。しかし、警察がある画期的なシステムの存在を公表してからというもの、非難の声は急激に小規模化した。
その装置の名は「犯罪予知装置」。
いかんせん俺の頭脳では、そのメカニズムを完全に理解することは出来なかったから、詳しい説明は省略させてもらうが、どうやらそれはその名の意味する通り、犯罪を予知する装置らしい。そして、その装置の的中率は99パーセントを超えている。ほぼ確実といっても間違いではない数字だ。よって冤罪は起こらない。警察はそう主張したのだった。
だが、仮にそうだとすると、小豆の話は矛盾する。
「なあ、あんたの話によると、俺は今、予定犯罪者なんだよな?」
「そうだ」
「でも、俺は犯罪を起こすつもりなんてない。俺は潔白だ。こんなのおかしいだろ?冤罪だ」
「二度も同じ事を言わせないでくれ。お前がどう考えているかなんて、私には分からない。だからお前がいくら冤罪だと主張しても、それは真実かもしれないし、デタラメかもしれない。ただ、間違いなく言えることが一つある」
「間違いなく言えること?」
「警察と政府が一丸となって隠蔽していることだから、知っている人間は限られているが……」
小豆はそう前置きをした。俺は思わず生唾を飲み込んだ。唾液の塊が、一際大きな音を立てて喉を通過していった。
「犯罪予知装置は、それほど正確じゃないんだ」
「……え?そんな馬鹿な!」
「本当のことだ。去年の一年間、私たちは予定犯罪者として逮捕された人々のことを調べ上げたんだが、その時に得られたデータが、そのことを物語っていた」
「どうだったんだ、その調査結果は?」
「一年間に逮捕された予定犯罪者は五千名を超える。その中から無作為に千人を抽出し、各人の人柄、生活環境などを徹底的に調査した。結果、千人のうち、明らかに冤罪と思われる事例が十件見つかった」
「十件……的中率は九十九パーセントか。警察が発表した通りじゃないか」
「早とちりするな。明らかに冤罪だと思われる事例だけで十件なんだ。冤罪の可能性が高いおと思われるケースを加えれば、軽く百件は超える」
「百件!?十パーセントじゃないか」
「もちろん、これら全てが冤罪だとは思わない。なかには警察が事前に逮捕したことで防がれた犯罪もあるだろう。正確なことは何も分からない。なにせ、起きていない犯罪が冤罪かどうかなんて分かるはずがないんだ。私たちは推測にすがることしか出来ない。とにかく私が言いたいのは、犯罪予知なんて当てにならない、だから、おまえが冤罪を背負わされている可能性は充分にある、ということだ」
「いやいや、だから俺は無実だって!」
俺は叫んだ。けれど小豆は相手にしてくれなかった。なんて素っ気ない態度。けれど仕方がない。事態は逼迫しているという自覚が、俺の中にも芽生えてきた。無駄口を叩いている暇はない。知りたい情報は山ほどある。どんどん尋ねていこう。
「俺はどの程度ヤバいんだ?」
「どの程度ヤバい?どういう意味だ?」
「つまりその……俺はどんな罪を犯すことになっているのか、ってことだよ。ほら、犯罪の規模が大きければ大きいほど、警察も力を入れて追跡をするだろう?そこら辺を知りたいんだ」
小豆は納得したように、首を何度か縦に振った。
「確かに、それは知る必要があるな。けれどもその情報は私たちでさえよく分かっていないんだ。今日の午後四時から始まる記者会見で明らかになるだろうから、それを待とう」
「……おかしくないか?あんたは俺が予定犯罪者だってことを知っている。けれど、俺がどういう予定犯罪者なのかは知らない。なぜだ?」
走り出してから初めて、小豆は後ろを振り向いた。目を丸くして俺を見ている。
「どうやら『拘束可能日』の規定を知らないみたいだな」
「何だよ、その拘束可能日って?」
小豆はすぐ前に向き直った。ずっと走り詰めの俺たちは、もう駅前の繁華街に辿り着いていた。この街が本当の姿を現す時間にはまだ早いが、それでも人通りは多い。後ろを向きながらこの通りを走り抜けるなんて芸当は、とても出来るものではない。
「犯罪予知装置は、最大で一週間先の事件を予知することが出来る。ただし、一週間前の段階で得られた予知は、正確性に乏しいんだ。思わぬハプニングが起きれば、未来が変わってしまう場合があるからな。そこで、罪を犯す予定の者が正式に予定犯罪者となるのは、事件が起きる三日前からに限ると、法律で決められている。したがって、予定犯罪者を逮捕できるようになるのも、事件が起きる三日前からなんだ」
「なるほど。それで?」
「三日前まで、予定犯罪者を正式に予定犯罪者だと認められない以上、公表することはできない。おまえの場合もそうだ。犯罪予知装置はお前の犯罪を以前から予知していたが、規定に阻まれた警察は、そのことを今でも公表できていない。だから私たちも、詳しいことは何一つ知らないんだ。お前がどこで、どういう罪を犯すのか、全て謎に包まれたままだ」
「それじゃあどうして、俺が予定犯罪者になるってことを知っている?警察は何も発表してないんだろ?その情報はどこから仕入れたんだ?」
「警察が最近、奇妙な動きを見せ始めた」
「奇妙な動き?」
「気付かなかったのか?お前、ここしばらく警察に監視されていたんだぞ」
気付かなかった、全然。俺はいつも通りの、平凡で退屈で苛立たしい毎日を送っていたつもりだったのに、その裏側ではそんな動きがあったのか。そう思うと、俺はこの一週間、激動の毎日を過ごしてきたような気もする。不思議なものだ。
「それで私たちは気が付いたんだ。おまえが――高校二年の後藤亮二が、予定犯罪者の容疑をかけられていると」
「じゃあ、今日の午後四時から俺が追われる身になる、っていう情報は?」
「ああ、その話か。私がさっき、午後四時から記者会見が始まるって言ったのを覚えているか?」
「そう言えば、そんなことを言っていたような……」
「今日の正午、警察は宣言した。午後四時に緊急記者会見を開催すると。恐らくその時に、全てが公表され、お前が正式に予定犯罪者であると認定されるのだろう。それはつまり、今日の午後四時からは、警察がお前を逮捕できるようになるということを意味している――。私たちはそういうふうに推理して、あの情報を導き出したんだ」
随分たくさんの情報を得ることが出来た。分からないことはまだたくさんあるが、それでも、俺が置かれた状況の輪郭くらいは掴むことが出来た。アウトラインは見えてきた。後は地道に空白のピースを埋めていこう。
「ところで、ずっと尋ねようと思ってきたんだが、どうしてあんたはそんなことをしているんだ?警察の動きをいちいちチェックしたり、こうして俺を助けに来たり。何のためなんだ?」
空白のピースを一ついただこう、俺はそう思って尋ねた。しかし俺の思惑は、時間の制約に阻まれた。
「申し訳ないが、質疑応答の時間はいったん休止だ。もう駅に着いてしまった。警察の追跡を振り切って、私たちのアジトに帰ってから、再び続きをしようじゃないか」
アジト?現実感のない言葉をまた聞いてしまった。現状の輪郭を掴めてきたと思ったが、どうやら早とちりだったらしい。まだ俺は何も分かっていない。輪郭さえも。
「ただ最後に一つだけ言っておこう。おまえが三日後に引き起こす事件は、そこらのチンピラが遊ぶ金ほしさにやらかすチンケな事件と格が違う」
背筋を悪寒が駆け抜けた。弾丸のようなスピードで。
「どうして分かる?そんなこと」
「各都道府県の警察本部が動いている。たぶん包囲網の準備をしているんだろう。重大犯罪の発生を食い止めるために。こんな警備体制は滅多にない」
「そ、そうなのか?」
「ああ。ついでに言うと、今も百人体制の尾行が、おまえと私を監視している」
すぐさま後ろを振り返った。しかし、夕刻が近付き、徐々に人が増え始めているこの時間帯に加え、ここは人の往来の激しい駅前ときた。尾行を見分けるのは至難の業と言える。ましてや俺は素人だ。誰も彼もが怪しく見える。
「大丈夫。おまえにもすぐに分かる。どれだけの尾行が私たちに張り付いているのか」
後ろをただ呆然と眺めている俺の心を見透かしたように小豆はそう言うと、券売機の方へと歩き出した。すっかり脚が固まっていた俺も慌てて付いていく。また引きずられるのは御免だ。
「午後四時まではもう時間がない。さあ、行くぞ」
俺は駅舎に備え付けてある時計に目を遣った。現時刻は三時五十分。あと十分で俺は、正真正銘の予定犯罪者になる。警察が俺に容赦なく飛びかかってくる。そう考えると、心の底から緊張と恐怖が湧き上がってきた。
「ほら、聞こえなかったのか。早く行くぞ」
小豆はまるで緊張していないように見える。券売機から切符を抜き取り、釣り銭を財布に仕舞う所作はとても泰然として見えた。けれど実際はどうなのだろう。本当に緊張していないのかもしれないし、あるいは――。
目の前に切符が差し出された。小豆は切符を二枚買ってくれたらしい。俺がそれを受け取ると、小豆は先に改札を抜けて、プラットホームへと歩いていった。俺もその後に続いて改札を抜ける。その時だった。懐かしい音を聞いた。昔はよく聞いた音だった。
俺は出てきた切符の印刷面を眺めた。中央には「160円」の表記。そのそばに「小人」の印字を見付けた。やっぱり思った通りだった。
まだ出会ったばかりの小豆の人柄について、詳しいことは何も知らない。けれど、感情を軽々しく顔に出したりはしない少女だということくらいは分かる。
どうやら小豆も、緊張していないわけではないようだ。
時刻の針は三時五十五分を差している。時刻表によると、次の電車は、あと二分でこの駅に着くそうだ。俺たちは古ぼけた椅子に座って、その電車を待っていた。
火照った体が冷える。汗が引いていく。夏の午後四時の割には随分涼しい。少し天気が崩れてきたからかもしれない。どんよりとした鈍色の雲が空を覆っている。
「おまえの携帯はテレビも見られるのか?」
「ああ。見られる。記者会見はテレビ中継されるのか?」
「たぶんな。もし中継がなかったとしても大丈夫だ。これがある」
小豆は長い横髪を掻き分けて、耳元を指差した。イヤホンだ。そこらで簡単に手に入る市販のタイプではなく、SPが付けているような透明のイヤホン。
「これで仲間から逐一情報が入るようになっている。心配ない」
小豆はそう言うと、線路に目をやった。そろそろ電車がやって来る頃合いだ。
アナウンスが響き渡る。遠くの遮断機が赤く明滅する。警報が唸る。俺たちは椅子から立ち上がり、ホームに出来た待ち人の行列に加わった。
家並みの影から電車が顔を出し、蛇のような車体を露わにしたかと思うと、そのまま駅に滑り込んできた。甲高い金属音をプラットホームに轟かせ、電車は止まった。シュッ。息を吐くような音。その直後、扉が開く。人の群れが勢いよく吐き出される。俺たちは流れに沿って電車に乗り込む。汗、体臭、香水の匂いが鼻をつく。車内はすし詰めだ。自由に動き回れない。
そうか、これが狙いか。急に閃いた。午後四時を過ぎても、こんな車内では俺を捕まえられない。いや、けれどそれは俺たちにとっても同じ事。電車の中には逃げ場がないし、逃げ回ることが出来ない。小豆の狙いは何だ?俺が首を傾げたその時だ。小豆が動いた。俺の右手を強く握りしめながら。
「今だ!出るぞ」
うごめく乗客を押しのけて、小豆は電車から飛び出した。咄嗟のことに反応できなかった俺は、また引きずられる羽目になった。右腕の関節が痛い。
「亮二、見てみろ。あれが尾行の連中だ」
乗降口の扉は開いたままだ。俺は肘をさすりながら、小豆が指差す方向を見た。
「こ、これは……」
ホームにはたくさんの人が立っている。少なく見ても、五十人はいるだろう。荒い息を吐き出しながら、俺を睨んでいる。獲物を狙う鷹のように鋭い目つきで。明らかに不自然だった。肘の痛みをすっかり忘れてしまうほど、それは壮絶な光景だった。
「あの全てが尾行なのか?」
「ああ。これで分かっただろう。おまえの置かれた状況が」
携帯電話の時計によると、今は五十七分。あと二分で、あそこの五十人が一斉に飛びかかってくる。本当に大丈夫なのか?不安が急激に膨らんでいく。
「今が危機的状況だってことは分かった。分からないのは、その状況をどうやって乗り越えるのかってことだ。なあ、策はあるのか?五十人以上の警官をどうやって振り払うんだ?」
乗降口がようやく閉まった。電車がゆっくり動き出す。小豆はイヤホンに手を当てて、虚空を睨んでいる。
「おい、今すぐテレビをつけろ!記者会見が始るぞ!」
「……俺の話は無視かよ」
「早く!」
「わ、分かったよ!」
俺は携帯電話のワンセグサービスを起動した。チャンネルを調節する必要はなかった。警察の制服を着た五十台の男性が三人、夥しいほどのフラッシュを浴びながら部屋に入ってくる映像が真っ先に映ったからだ。三人の制服男性は黙したまま、席に鎮座した。記者会見はまだ始まっていないようだ。
「ほら、これでいいだろ?」
携帯の画面を小豆に向けた。小豆は体を寄せて、携帯電話の画面を覗き込んできた。
汗を滴らせた小豆の顔が近付く。甘い香りが鼻腔をくすぐる。制服の隙間から、豊かな谷間が少しだけ覗いている。俺は思わず、視線を上空に逸らした。
どんよりとしたネズミ色の雲が見えた。つい今しがた見たときよりも雲は厚みを増している。ほんの短時間の間に、ますます勢力を伸ばしたようだ。
俺はまた視線を変えた。小豆との距離が近すぎるせいで、どうも落ち着かない。
加速していく電車が見えた。車体の先端を、ホームの端から半分ほど突き出している。
と、その時だった。俺の二の腕が柔らかなモノに触れた。視線を向けずとも、その柔らかなモノの正体は分かる。小豆の胸だ。俺は頭の中にカイロを放り込まれたような気分になった。
いや、駄目だ!どうしてこんな時に、こんな邪な感慨に耽っているんだ!
己の愚かさに呆れていたせいで、小豆の異変に気付くのが遅れた。いつしか小豆の顔に動揺が浮かんでいたのだ。もしかして、俺の心の中のいかがわしい妄想を悟ってしまったのか。
「悪い。不謹慎だったよな」
「……取りあえず、この場から逃げようか」
「えっ?」
「走れ!」
俺の手を握りしめながら、小豆は電車と同じ方向に走り出した。バランスを崩して前傾姿勢になりながら、俺も懸命に付いていく。俺たちはホームを疾走した。
「どこに行くんだよ。線路伝いに逃げる気か?」
「違う。そんな効率の悪いことはしない」
「じゃあどうするんだ?空でも飛ぶ気か?」
「私はただの人間だ。そんな能力、持ち合わせていない」
「おい、この先はホームの端だ、袋小路だぞ!どうしようもない!」
「早まるな。まだアレがあるだろう?」
小豆の視線の先を辿る。そこには電車の最後尾があった。さっき俺に付いた尾行を炙り出すために使った電車だ。もう車両のほとんどが、ホームの端から外に出てしまっている。あれに乗るというのか?どうやって?
「電車はタクシーじゃないんだぞ。いくら止まってくれって叫んでも、止まってくれない」
「おまえに言われなくても、そんなことは分かっている」
「だったらどうする?」
「少々荒っぽい手段を使う。亮二、息を止めて、覚悟を決めろ……行くぞ!」
言われたとおりに息を止めると、小豆はすかさず俺の襟首をひっつかみ、大きな掛け声と共に持ち上げた。首に大きな力がかかり、風邪を引いた蛙の鳴き声のような声が喉から漏れる。脚が宙に浮く。重力が消えたような感覚。浮遊感。下半身がきゅっと引き締まる。俺の体は宙を舞う。そして一気に落ちる。失ったはずの重力を、突如取り戻したかのように、俺の体は崩落する。金属製の固い何かに、体を受け止めてもらうまで。
「無茶苦茶だ。まさか電車の屋根に乗るだなんて……」
「問題ないだろう。天井に乗るのが流行っていた時代もあったくらいだ」
小豆も後から屋根に飛び乗ってきた。無駄のない跳躍だった。無邪気な笑みを浮かべた子供が、ひょいと水溜まりを飛び越えるような、そんな余裕すら感じさせた。『私はただの人間だ』とのたまっていたが、本当は化け物か何かの末裔かもしれない。
「大昔の話だよ、そんなのは。しかもそれ、別に流行っていたワケじゃないと思う」
ホームの端に集まって、悔しそうに地団駄を踏んでいる警官の姿が、どんどん小さくなる。
「細かいことは気にするな。電線に触れたり、線路へ落っこちたりしなければ死ぬことはない。そんなことよりもテレビだ、テレビを見せてくれ」
「ああ、そうだったな」
俺は携帯電話をポケットから取り出して、再びワンセグサービスを起動した。あと二十秒で四時になる。記者会見がこれから始まるところのようだ。俺は小豆の顔を見た。少し紅潮した顔に、やはりさっきと同じ動揺の色が浮かんでいる。
「なあ、どうしたんだ?この記者会見に、何か変わったところがあるのか?」
小豆は俺の方に向き直った。とても神妙な表情で、こくりと頷く。
「……この中央に座っている偉そうな男は警察庁長官だ」
警察庁長官。三十万人を超える警察官を統帥する男。
「そしてその隣に座っているのが、警視総監」
警視総監。首都東京を守る警視庁の頂に立つ男。
「つまり、警察のツートップが一同に介しているというわけだ。たった一つの予定事件を公表するためだけに」
「こんなことって、あるものなのか?」
「ない。ありえないことだ。少なくとも私の記憶にはない。異例の事態だ」
「しかし、その異例の事態が実際に起きている。これはどういうことなんだ?」
「つまり……おまえは史上最悪の予定犯罪者に認定されてしまったということだ」
電車はさらに加速する。向かい風が体を叩く。髪が激しくなびく。吹き飛ばされそうだ。俺は電車にしがみつく。
「……全てはこれからの記者会見で分かることだ。刮目しよう」
小豆はそう呟いて、携帯を凝視した。画面の中の長官が、記者会見の開始を宣言した。
『これより、緊急記者会見を開始します。本日より三日後の午後四時に重大な犯罪が発生することを我々は予知しました。その犯罪とは……』
淡々と原稿を読み上げる長官。その顔にはやや緊張が浮かんでいる。
「爆弾テロです。東京、大阪、横浜、名古屋、札幌で、大型のプラスチック爆弾が各所同時に爆発するという事件になると思われます。被害規模についての詳細は不明ですが、事件の性質上、甚大な被害が予想されます。我々は何が何でも、この事件の発生を食い止めなければなりません」
会見の場が俄然ざわめく。嵐のようなフラッシュが、三人に浴びせかけられる。画面は白い明滅を繰り返す。カメラのシャッター音がうるさい。
「なお、当該事件の予定犯罪者は、東京都内在住の後藤亮二、十七歳。高校生です。未成年ですが、予想される事件の規模を考慮し、通常通りの事前逮捕を行います」
記者席がざわめく。フラッシュが一層強くなる。机に鎮座する三人は目を細める。長官の手元の原稿が、新しい原稿と差し替えられる。
「拘束開始時刻は本日の午後四時五分です。その時刻を以て、予定犯罪者の後藤亮二に保証された権利を全て剥奪し、事件の阻止を最優先事項とします」
長官はそこで言葉を切って、自分の手首に巻かれた腕時計を見つめた。俺も画面の右上に目を移す。時刻は四時四分五十秒。あと十秒だ。俺は小豆を見た。小豆も俺を見ている。強い光を宿した瞳が、俺を捉えている。覚悟を決めた目だ。あと八秒。
記者会見場は異様な雰囲気に包まれていた。前の三人は沈黙したまま腕時計を眺めているし、記者席の記者も、本能的な情熱を剥き出しにした面持ちで、ノートPCに向き直っている。あるいはやはり、腕時計を睨み付けている者もいる。あと五秒。
「いよいよだな」
俺はぼそりと呟いた。呟かずにはいられなかった。小豆はこくりと頷いて言った。
「プロローグが終わった。本当の逃走劇が、これから始まる」あと二秒。
腕時計を見つめていた長官が、むっくりと顔を上げた。キーボードを叩いていた記者が手を止めた。シャッターの明滅が止んだ。不気味な静寂が訪れた。時間の経過が止まった気がした。現在、四時四分五十九秒。拘束開始時刻まで、あと一秒。
天から一粒の滴が降ってきて、俺の頬を濡らした。雨だ――。
「予定犯罪者確保に全力を尽くします。以上!」
四時五分。警察幹部の三人は、席から立ち上がり、背筋を伸ばして礼をする。そして、その綺麗な姿勢を維持したまま会場を後にした。俺は携帯を閉じて、ポケットに突っ込んだ。
突如降り始めた雨は見る間に勢いを強めて、俺たちを無慈悲に濡らしていく。地平線の手前に見える都心のビル群が雨に煙る。土の湿っぽい匂いが漂う。水を遣ったばかりのプランターに鼻を突っ込んだような匂い。全ての色が濃度を失って、モノクロに近付いていく。
そんな世界に異変が起きた。
灰色に沈む街並みに、うっすらと赤が滲んだ。それはみるみる濃度を増していく。みるみる面積を拡大していく。色を失った景色の中で、その赤だけは確かな存在感を保ち続けていた。
嫌な光景だ。俺は耳を澄ませた。やや甲高いサイレンの音が、遠くから聞こえてきた。その音は段々と大きくなって、右からも左からも、前からも後ろからも、まさに四方八方から轟いてきた。まるで命を宿したこの街が咆哮しているようだ。俺は震撼した。小豆は眉を顰めて、荒々しい息を吐き出していた。
「何だこの光景は……。予想を遙かに超えた事態だ」
東京は誰に対しても寛容で、誰に対しても冷徹な都市だった。しかし今は違う。東京の街全体が、俺に牙を剥いている。改めて実感した。俺は予定犯罪者になってしまったのだ。小豆の言うとおり、俺は日本のほぼ全ての人々を敵に回したのだ。
「こんな包囲網、突破できんのかよ。警察は本気だぜ?」
「どうにかするしかないだろう。どうにも出来なければ、おまえは死ぬ」
「……え?」
俺が死ぬ?これほど現実感の湧かない言葉も珍しい。
「当然だろう。警察に捕まれば死刑は免れないだろうし、無理に逃げようとして失敗すれば、その場で殺される」
「ここはアメリカじゃないんだぞ。日本の警察がそんな強引なやり方をするのか?」
「『予定犯罪者の後藤亮二に保証された権利は全て剥奪し、事件の阻止を最優先事項とします』長官が会見で言った言葉だ。覚えているか?」
「そういえば、確かにそんなことを言っていたな」
「おまえ、勉強は得意だろう。ここまで言えば、自ずと分かるんじゃないか?」
俺は小豆の言い草に違和感を覚えた。お互い自己紹介なんてほとんどしていない。何せこの時点では、俺は小豆の名前さえ知らなかったのだ。それなのに、学校での俺の成績を知っているかのような表現。事前に調べたのだろうか。俺がどういう人間なのかを。
「……警察の目的は事件の阻止。俺を捕まえることは、数ある手段の一つに過ぎない。俺を捕まえることが叶わなければ、別の手段を使えばいいだけだ。その別の手段とは、俺を殺すこと」
「そうだ。万一の場合、つまり、おまえを生きて捕まえるのが困難な場合、警察はおまえを殺す。その行為を合法化するために、おまえが有していた全ての権利は剥奪された」
「生きる権利。今の俺には生きる権利すらないってことか」
「残念だがその通りだ。だから、どうしても逃げなければならない。おまえがこの先も生き続けたいと願うのだとしたら」
この先も生き続けたいと願うのだとしたら――か。
雨はさらに勢いを増した。怒濤の如く地面を叩き、電車を叩き、俺と小豆の体を叩いた。まさに土砂降りの雨だ。アナログテレビの砂嵐のような音と、電車が線路を駆け抜ける音、それに混じってパトカーのサイレンが聞こえる。ぼんやりとした赤の塊が、確実に近付いてくる。
「俺はこの先、ずっとこうなのか?ずっとこうやって警察に追われなければならないのか?」
ずっと誰かに追われる生活。ずっと誰かから逃げる生活。想像しただけでも憂鬱だ。
小豆は首を横に振った。ほんの少し、唇に微笑みを湛えて。
「大丈夫だ。逃走劇は長くは続かない。三日間。今日から三日後の午後四時まで逃げ延びれば、おまえの無罪は証明できる。それまでの辛抱だ」
「そうか。予定された犯罪発生時刻を過ぎても何も起こらなければ、犯罪予知装置の予想はデタラメだったことが証明されて、俺の無実が確定する。そういうことだな!?」
「そう。ちなみに私たちの組織の目的も、実はそこにあるんだ」
「えっ?それはどういう……」
『後藤亮二!次の駅で大人しく投降しなさい!そうすれば危害は加えない』
後方から響いてきた大声が、俺の言葉を途中で遮った。拡声器特有の、くぐもった声。俺は急いで後ろを振り返った。声の主に目星は付いていた。
「予想より随分早いな。もう駆けつけてきたか」
傍らで小豆が呟いた。言葉の割に、あっけらかんとした顔をしている。
線路沿いの道路をパトカーの大群が猛追してくる。凄い数だ。星の数ほどの赤い光を瞬かせ、サイレンを唸らせ、追い上げてくる。周りの車は次から次へと脇に退く。まるで海が割れた大昔の伝説を、直に見ているようだ。
「だが、私たちの逃走計画を潰すには、少し遅刻だ」
「そうなのか?」
「そうだ。なぜなら私たちは、今すぐここから飛び降りるからな」
「……おい待て、それはいくらなんでも無茶だ!」
「どうして?」
「どうしてって……。ここから飛び降りた先には何がある?アスファルトの道路だぞ!着地に失敗すればお陀仏だ!いや、おまえの化け物じみた身体能力のことだ、それくらいの芸当は難なくやってのけるかもしれない。しかしだ!着地に成功したとしても、車に轢かれるだろう!」
「失礼な奴だな。私がそんなドジを踏むはずがないだろう」
「……そ、そうだな、俺はおまえを過小評価していた。よ、よし。仮に、仮にだ、着地に成功し、さらに迫り来る車も全て避けたとしよう。しかし!あのパトカーがその後に控えているんだ!いくらおまえが超人的な身体能力の持ち主だとしても、駆け足で車の追走を振り切るのは不可能だろう?」
「……まったくウダウダとうるさい奴だ。男なら素直に覚悟しろ!行くぞ!」
「い、いや、俺は別に怖がって駄々をこねているワケじゃないんだ、ただ純粋に成功率が低いから、それに対して文句を言っているだけで……ってうわあ!」
小豆の両手が、俺の脇腹にすっと入ってきた。何かと思ったときにはすでに遅かった。大蛇に巻き付かれたかと思うほどの強い力で、俺は小豆に抱えられた。いくら足掻いても逃れられない。こうなってしまうと、もう諦めるしかなかった。俺は体から力を抜いた。直後、小豆は電車から飛び降りた。
凄まじい風圧が、容赦なく襲いかかってくる。俺たちは嵐の前の木の葉のように、呆気なく吹き飛ばされた。視界が回る。目まぐるしく景色が変わる。コンクリートが真上に、どす黒い雲が真下に見える。何が起こっているのか理解できない。俺にはもう為す術がなかった。ただただ小豆に全てを託し、俺は目を閉じた。
地面に降り注ぐ雨の音。電車が走り抜ける音。雨に濡れた道路を、車が駆け抜ける音。サイレン。警官の怒声。低く唸るエンジン音。それらがスローモーションのようにゆっくりと聞こえたあと、俺は弾性のある柔らかい物の上に落ちた。……何だか少し、甘い香りがする。
「それ、いわゆるラッキースケベってやつだよな」
聞いたことのない声だった。男の声ではあるが、それにしては少し甲高い。俺はゆっくりと目を開いた。ぼやけてよく見えない。
まず視界に映ったのは、赤いネクタイ。見覚えがある。少し顔を後ろに引いてみた。ネクタイの下にはブラウス。お椀型に大きく盛り上がっている。目を凝らして見てみると、何だかそれは透けて見える。白いブラウスの奥に、うっすらと花柄の……。
「おい、何をジロジロ見ているんだ。早く降りろ、バカモノ」
「あ……。悪い」
俺は赤いオープンカーの後部座席に寝転がっていた。小豆の上に、のし掛かるような形で。俺はハッとした。さっきの柔らかな感触は小豆の体だったのか。特に、あの何とも言えない弾力のある部分は、間違いなく……。いや、これ以上は伏せておこう。俺の名誉に関わる問題だ。
「あっはっは。そこは『バカモノ』より『ケダモノ』の方がいいと思うな」
「どういう意味だ、それ」
「つまり、後藤君は小豆ちゃんに欲情していたってことだよ。ねえ?」
「……そうなのか、亮二?」
「……まあ、そう言えなくもない」
「今すぐこの車から蹴落としてやろうか?私はいっこうに構わないが」
「遠慮しておく。運転席のあんたも、余計なこと言わないでください。……ってそういや、あんた誰ですか?何で俺、この車に乗っているんですか?」
運転席の男が後ろを振り返った。ウニの殻みたいに逆立てた茶髪。彫りの深い顔立ち。原色をふんだんに用いたド派手なアロハシャツ。あまり関わり合いを持ちたくないタイプの男だ。ハンドルを握る立場にいるのに、前方を気にする様子はない。
「俺のこと?俺は小豆ちゃんの仲間さ。君の逃走作戦の手伝いをするために、こうして車を運転している」
「逃走作戦?何ですか、それ?」
「俺たちが勝手に練り上げたんだよ。君を警察の追跡から逃がすためのね。まず、小豆ちゃんが君を拾って駅まで連れて行き、電車の屋根に乗る。そしてたった今みたいに、電車から飛び降りる。飛び降りてきた君たち二人を拾う。予め全部決めていたんだよ」
「もっとましなやり方はなかったんですか?色々と無理がありましたよ」
茶髪男は大袈裟に肩をすくめた。相変わらず後ろを向いたままの姿勢で。いいから前を向け。
「警察も必死だからね。相当なリスクを覚悟して、生死のギリギリを潜り抜けなきゃ、逃げ切ることは出来ない。そう思うでしょ?」
「確かにそうだが、無意味なリスクは避けるべきだと私は思う。違うか?」
後部座席にいたはずの小豆が、いつの間にか助手席に座っている。
「ほら、早く運転を代われ。おまえでは心許ない」
小豆はそう言うと、助手席からハンドルに手を伸ばした。運転席の茶髪は深く溜息を吐き、わざとらしく首を横に振る。そしてハンドルから手を離し、素早く後部座席に滑り込んできた。いちいち気障な奴だ。挙げ句の果てに、降りしきる雨と前から吹き付ける風で乱れた髪型を気にしている。人選ミスじゃなかろうか。
「あーあ、俺は運転手失格だってさ。なんて可哀相な俺!後藤君、慰めてよ」
「気にするな、亮二。こいつは車の運転が大の苦手なんだ。私に代わられて当然だ」
ハンドルを握る小豆が言った。後部座席に茶髪が移動してきたとき、入れ替わる形で運転席に着いたのだ。
「それは誤解だよ、小豆ちゃん。確かに俺は、車の運転が得意ではないけど、だからって苦手なわけでもない。ただ君が上手すぎるんだ」
「そうなのか?」
「そうさ。後藤君も俺の意見に賛成だろう?」
「いや、俺は小豆の運転を知らないから、何とも言えませんね」
「ああ、そうだったね。それなら目を大きく見開いて、これから始まるカースタントをしっかりと堪能することだ。そうすれば君も、俺と同じ感想を抱くようになるだろう」
小豆の左手が動いた。ギアが激しく切り替わる。エンジンが高らかに吼える。
「……あのさ、一つ質問があるんだ。あんたいくつ?高校生だろ?」
「そうだ。おまえと同い年の十七歳、高校二年だ。それがどうかしたのか?」
「車の運転は出来るのか?まだ十七歳だろ?」
「愚問だ。運転できるからこそ、今ハンドルを握っているんだ」
「出来るっていうのは、法律的な意味で?」
「分かり切ったことをいちいち聞くな。技術的な意味で、だ。行くぞ!」
小豆はアクセルペダルを蹴り付けた。怒濤のような重圧が、体に押し寄せる。
オープンカーはぐんぐんスピードを上げていく。速度計が目まぐるしく動く。車と車の間に空いた微妙な隙間を、縫うようにして突き進む。前を走っていたはずの車が、あっという間に後方へと流れていく。ハンドルさばきに無駄がない。減速をほとんど行うことなく、右に左に車体は流れ、空いたスペースに滑り込む。サイレンを轟かせて走るパトカーの群が、どんどん小さくなっていく。
「す、凄い……!これが高校生の運転か?」
「ほらね。俺の言ったとおりでしょ?小豆ちゃんは上手すぎるんだって」
「ええ……でも、凄く酔う。あー、気持ち悪くなってきた」
「それはどうしようもないねえ。まあ、この荒い運転が続くのも、あと少しだから我慢して」
「え?アジトってこの近くにあるんですか?」
「いやだなー。ゴールはまだ先。逃走作戦が次のフェイズに移行するってだけ」
次のフェイズに移行する。何か嫌な予感のする言葉を聞いてしまった。
「ねえ、小豆ちゃん。目標ポイントまであとどのくらい?」
「そうだな……」
小豆は前方から少し目を逸らして、左斜め前方を眺めた。視線の先には大きな河川が流れていて、その上には、両岸を結ぶ立派な橋が架かっている。
「この道路状況だと、最短経路は無理そうだ。少し迂回する必要があるから、大体十分前後か」
「十分か……。それだけあれば、警察の包囲網が完成しちゃうんじゃない?」
「大丈夫だろう。私たちが橋に差し掛かる頃、ようやく橋の対岸を封鎖できるくらいじゃないか?私はそう推測している」
俺は釈然としないものを感じた。小豆は「橋の対岸を封鎖できるくらい」と言った。しかしその状況は、ちっとも「大丈夫」ではない。橋の対岸を封鎖されていては逃げられないのだから。俺たちは橋の上に追いつめられることになる。大丈夫どころか、むしろ絶体絶命の危機だ。
「なるほど。じゃあ俺はその推測が現実になることを、のんびり祈っておくとしようか」
「駄目だ。おまえは酸素ボンベ、ゴーグル、水中ドリルに異常がないか、この十分の間にしっかりチェックしろ。亮二は何もしなくてもいいから、心を落ち着けておけ。ラジオ体操をしておくのもいいかもしれないな。とにかく、これから作戦の成否を握る一番の山場を迎える。わずかな失敗が命取りだ。二人とも、万全の準備をしておけ!」
「おい、今度はいったい何をするつもりだ!また無茶なことをやるつもりか!」
「また?無茶?おまえは本当に失礼な奴だ。私は今までに無茶なことをした覚えなどないし、今後も無茶なことをするつもりなどない。あまり私のことを馬鹿にしないでくれ」
「……分かった。なら改めて聞こう。今度の作戦はどういう内容なんだ?」
「あの橋から飛び降りるんだ。ガードレールを突き破って、車もろとも河の中に」
「……嘘、だよな?そんなことしたら流石に死ぬぞ!」
「残念ながら、本当なんだよね。生存率は七割くらいだから、たぶん助かるんじゃない?」
嫌な予感は当たってしまった。俺の予想の遙か上を行く形で。最悪だ。
「教えてくれませんか。どうしてそんなことをする必要があるんです?」
オープンカーは止まることなくひた走る。土砂降りの雨に濡らされた道路はひどく滑り易い。それなのに、どれほど急なカーブでも、全速力で曲がりきる。信号機に赤の灯火が点っていようと、他の車が前方を走っていようと関係がない。小豆は巧みにハンドルを繰り、障害物を避けていく。橋はどんどんと近付いてくる。命がけのダイブは、すぐそこまで迫ってきている。
「後藤君、君は馬鹿ではないよね?それなら覚えているはずじゃないかな。俺がさっき言ったことを。警察も必死なんだよ。だからこちらもそれなりのことをやらないと、彼らをまくことは出来ない。車で河に飛び込むくらいのことは必要なんだよ」
「けど、そんなことしたら、いくらなんでも死にますよ!死んだら元も子もない」
「まさにそれだよ。その意識を利用してやるのさ」
茶髪は俺に指を差して言った。よくできた、と言わんばかりの笑顔を浮かべて。
「河に車ごと飛び込む様子を見たら、警察はどう思うだろう?俺たちは溺れて死んだ。そう思う。そうなれば、捜索は打ち切りになる」
「そんなに上手くいくはずがないでしょう」
「これは最善のケースだよ。俺だって頭の中がお花畑の楽天家じゃないんだ、こんなに都合良く事が進むと本気で信じているわけじゃないさ。ただ、間違いなく言えるのは、俺たちの生死を確認するために人員が割かれるってこと。そうなると追跡に回る捜査員が減る。さらに、捜査対象の生死がはっきりしなければ、捜査員の志気が下がる。努力すれば確実に成果を残すことが出来ると言われればやる気になるけれど、努力しても成果を残せるとは限らないと言われれば、どうしてもやる気は下がってしまうものさ」
「要するに、捜査の攪乱、ですか」
「そう。心理的に、そして実際的に、警察を惑わすことが水中ダイビングの狙い。納得した?」
「まあ、だいたい納得しました」
「……橋の入り口が見えてきた。そろそろだ。飛び込みの準備はできたか?」
「俺は準備完了。酸素ボンベ、ゴーグル、ハンマー、水中ドリルには異常なし。いつでもいける。……さて、後藤君。君は酸素ボンベの使い方は分かるかい?」
「いえ、今まで使ったことがないから分かりません」
「簡単さ。この吸入口を口と鼻にあてがえばいいのさ」
茶髪男は、自分の足下から黒いビニール袋を引っ張り出し、その中から酸素ボンベを一つ取り出した。だいたい二リットルのペットボトルと同じくらいの大きさだ。黒い塗装が施されている。茶髪はボンベの使い方をごく簡単に説明し、それを手渡してきた。俺は手を伸ばして受け取る。固い。金属製だから当然か。しかしその割には随分軽い。この中に大事な酸素が入っていると思うと、とても不思議な気分になる。
「これは、君の生命線だ。絶対に離したら駄目だよ。そしてもう一つ、絶対に意識を失っちゃ駄目だ。常に気を強く持ち、頭を衝撃から守れば、気絶することはない。分かった?」
「分かりました」
俺は頷いた。すると茶髪はまた、袋の中をごそごそと漁り始めた。俺はゴーグルを頭の位置に付けた。そしてボンベをしっかりと抱えた。
「何とかなりそう?」
「まあ、何とかしなくちゃ俺たちは死ぬわけですからね。何とかしますよ、絶対に」
「へえ。威勢のいい言葉だね。今の聞いた?小豆ちゃん?」
「ああ。しっかり聞いたとも。亮二の口からそんな言葉が聞けるとは思っていなかった。私は嬉しいぞ。これで思い残すことなく飛び降りられる!」
「……それ、なんか誤解を招きそうな表現だね」
橋の出口には警察の姿が見える。橋の対岸の封鎖は完了しているようだ。
「よし!予定通り、作戦は順調に進んでいるぞ。あとは飛び込むだけだな!」
小豆は橋の入り口に差し掛かると、小豆はアクセルペダルを限界まで踏み込んだ。鶏の首を絞めたような奇声を上げるエンジン。サスペンションの効果も虚しく、シートが激しく振動する。速度計は振り切れる。重力が押し寄せる。内蔵が圧迫されるような感覚。吐きそうになる。
前の車をすいすいと追い抜き、あっという間に車は進む。あちこちで轟くクラクション。飛び交うドライバーの怒号。前からは警察の警告が響く。
「直ちに止まりなさい!でないと発砲する!」
はっぽう?俺はその言葉を咄嗟に変換できなかった。そのせいで対応が遅れた。小豆が機転を利かせて叫んでくれなかったら、俺は蜂の巣になっていたことだろう。
「伏せろ!早く!」
俺は何も考えず小豆の言葉に従い、シートとシートの間に体を潜り込ませた。その直後だ。乾いた轟音が連続して耳を劈き、ガラスの砕ける音、さらには皮をバットで強く叩いたような音が間近から聞こえたと思うと、上から柔らかい物体がたくさん降ってきた。羽か、あるいは綿か。そんな感触だった。俺は伏せていた顔を起こし、上を向いた。助手席に大きな空洞が穿たれていた。
「まさかこの局面で撃ってくるとはな。周りには一般人も大勢いるというのに……」
小豆が憎々しげに呟いた。俺は隙間から顔を出し、前を見た。拳銃を構えた警察官が見えた。銃口からは硝煙がゆらゆらと、まるで毒蛇のように立ち上っていた。
俺はその光景を見て、初めて気が付いた。銃撃を食らったのだ。目を凝らしてよく見ると、蜘蛛の巣のような弾痕がフロントガラスにくっきりと刻まれている。俺の体から力が抜けた。
「まあまあ。向こうも焦っているんだよ。予定犯罪者は一人、しかもただの高校生。あっという間に片が付くと、高を括っていたんだろうね。でも実際はどうだい?こうして正体不明の第三者が介入してきた。しかもその第三者が普通ではないときた。焦るのも無理はない。けれど残念ながら、その焦りが裏目に出るんだよね」茶髪が言った。
「……?どういうことだ。説明しろ」
小豆はハンドルを大きく右へ切りながら、茶髪男に尋ねた。茶髪男はニヤニヤと笑いながらその質問に答えた。
「橋の上で包囲されていることに気付いた俺たちは、焦ってハンドル操作を誤り、海に転落。そして全員溺死した。警察がこういうシナリオを思い描いてくれたら、俺たちの大勝利なんだ。だけど、このシナリオって少しだけ不自然じゃない?だって、包囲されていることに驚いたくらいで、川に落ちるものなのかな――。ここまで言えば、もう分かるよね?」
「なるほど。警察の封鎖に驚いて河に転落したっていうより、銃撃に驚いて川に落ちたっていうほうがもっともらしいな」
小豆は笑った。そしてハンドルを、今度は左に切り返した。車の軌道が大きく左に逸れる。遠心力で左の車体が宙に浮き、俺は右のドアにぶつかる。それでも酸素ボンベは離さない。当たり前だ。これくらいの衝撃に負けるようでは駄目だ。まだ飛び降りてさえいないのに。
車はガートレール目掛けて突き進む。まるで猛り狂ったように、スピードを落とすことなく。
「側壁にぶつかるぞ!衝撃に備えろ」
小豆が叫んだ。俺はゴーグルを目の位置に合わせ、ボンベを小脇に抱えて、助手席のシートにしがみつき、歯を食いしばり、目を瞑った。時間の経過が、ひどく緩やかに感じられた。
ドン。耳のすぐそばで爆弾が炸裂したような、壮絶な音。もはや音というよりは、衝撃波に近かった。空気の振動を全身で感じる。ついにこの時が来たか。そう思った刹那、猛烈な衝撃が俺の体を貫いた。何も考えられなくなる。何が起きているのか分からなくなる。意識が掠れる。まるで頭の中身を、全て洗濯機の中に放り込まれたような感覚。唯一はっきりしているのは、自分の体が宙を舞っているということ。色々な物が瞳に映り、すぐに通り過ぎていく。俺はその様子を淡々と眺めていた。縁側に座って庭を見つめる老人のように。
橋を埋め尽くさんばかりの赤色灯と、紺色の制服。子供に悪戯された針金のように、大きく歪んだガードレール。バラバラと河に落ちていくナット。赤い塗料。ガラス片。フロント部分がひしゃげたオープンカー。小豆の無謀な運転に耐えてきたあの車も、それが嘘のように大破している。
どす黒い雲。したたかに降り注ぐ雨。遠くの高層ビル群に瞬く光。水面に映る川岸の景色。俺は吸い込まれるように落ちていく。為す術もなく、何一つ抗うことも出来ず、ただ重力に身を任せて墜落していく――。
そんな俺の虚ろな目に、小豆の姿が映った。俺の目は止まった。小豆は右手にドリルを、左手に酸素ボンベを携えている。――酸素ボンベ。酸素ボンベ?
ハッとした。大事に抱えていたはずの酸素ボンベが見当たらない。
意識が急に覚醒していく。まともな脳みそが頭の中に戻ってきたみたいだ。酸素ボンベはどこだ。俺はぐるりと周囲を見回した。あった。俺のすぐそばを、俺と同じように落下している。
ぐっと手を伸ばした。届きそうで届かない。体が熱くなる。煮えたぎった熱い血液が、どくどくと頭の中に流れ込む。下を見た。水面は、すぐそこまで迫ってきている。時間がない。俺は焦った。
「焦るな、冷静になれ!そうすればきっと届くはずだ!」
小豆の声が聞こえた。俺は小豆を見た。とても熱心な眼差しで、小豆は俺を見つめていた。
そうだ、小豆の言うとおりだ。俺は冷静になる必要がある。一刻の猶予も許されない今だからこそ、焦らず冷静にならなければならない。俺は息を止めた。そうすれば落ち着くことが出来る。下は見ないことにした。下を見たって、なんにもならない。恐怖と焦燥が膨らむだけだ。
よし、いける。俺は全ての意識をボンベへ傾けた。ただ、ボンベを掴むことだけを考えた。
そして再び手を伸ばした。
指がボンベの黒い表面をかすめる。それではボンベを抱き寄せることはできない。俺は精一杯手を伸ばした。それこそ肘の関節が外れるくらいに。けれど、それでも駄目だった。指の腹が表面を撫でるばかりで、何の成果も上げられない。
こうなったら、いっそのこと……。俺は腹筋にありったけの力を込めて、脚を振り抜いた。つま先がボンベに接触し、落下の軌道が少しだけ逸れる。これでいい。再び手を伸ばした。今度はボンベをしっかりと握りしめることが出来た。よし。俺はボンベを引き寄せて、体全体で抱きしめた。それから、ぐっと体を丸めた。ちょうどアルマジロのような姿勢だ。こうすれば、着水したときのダメージを、少しでも殺すことが出来る。俺はようやく下を見た。水面は真ん前にあった。あっと思った。噴水のような水飛沫を上げて、俺は着水した。視野が無数の泡に覆われた。
想像していたよりも遙かに強い衝撃が、俺の体に突き刺さった。そういえば聞いたことがある。高いところから落下したとき、水面はコンクリートのように感じられる、と。その表現は流石に大袈裟だ。もしそうなのだとしたら、俺は即死しているはずだ。水面に接触した時点で。だからといって、決してデタラメな与太話ではなかった。死ぬ一歩手前のような激痛が、俺の体中で疼き始めたのだ。これほどの痛みが世の中に存在するだなんて、思いもしなかった。
体全体が熱を孕み、思い通りに動かない。まるで死に際の昆虫のように、手足をばたつかせながら、俺はぶくぶくと川底に沈んでいく。酸素ボンベの吸入口をくわえるだけで精一杯だった。
やっぱりこんな作戦は無謀だったんだ。諦めかけたその時だ。何かが襟を掴んだ。沈む一方だった体が重力に抗って動き出す。襟を掴む何かの方に首を向けた。まるで人魚みたいに飄々と泳ぐ人影が見えた。水中は暗くて顔がよく見えないけれど、この人影の正体はすぐに分かる。水中とはいえ、片手に男を抱えながら泳ぐのは難しい。そんな芸当を難なくこなす女性なんて、この世に一人しかいないだろう。小豆だ。
小豆は俺を片手で掴んですいすい泳ぐ。飛び込んだ瞬間に方向感覚を失ってしまったから、どこを目指して進んでいるのかまるで分からない。もちろんここは水中だから、問い質すことも出来ない。言葉を発した瞬間、それは泡となって消えてしまう。だから俺は体から力を抜いて、小豆の誘導に身を任せていた。
それからどのくらい移動したのだろう。正確な時間は覚えていない。とにかく、少し息苦しさを感じ始めた頃合いだった。
酸素を使い果たしつつあるのかもしれない。不安が募る。もしも酸素がなくなったらどうしよう。水面から顔を出せば、息は好きなだけ吸える。けれどそんなことをすれば、作戦は失敗に終わる。警察に俺が生きていることを知られてしまうからだ。ならばどうする。どうやって息を吸う?自分なりに策を考えてみたが、妙案は何一つとして浮かんでこなかった。このままではまずいことになる。
けれど実際は、まずいことにはならなかった。俺の危惧は全て杞憂だったのだ。そもそも小豆がボンベの容量を考慮していないはずがなかった。
護岸まで辿り着くと、小豆は水中で静止し、懐からドリルを取り出した。そして緑のコケに覆われたコンクリートに、その鋭利な先端を突き刺し、トリガーを引いた。
ドリルが唸りを上げて回転する。まるでジャクジーの噴出口のように、その周りが泡に包まれる。さらに削られたコンクリートの欠片が激しく飛び散って、水中が白く濁る。護岸が削れる音が響く。水中でもよく聞こえるほど、大きな音だ。俺は警察に気付かれるんじゃないかと焦った。この大きな騒音と、派手な泡、コンクリート片は目立つのではないか。しかし小豆は気にしない。脇目もふらずに掘削を続け、呼吸が本格的に苦しくなり始めた頃、ようやく小豆は手を止めた。護岸には大きな穴が空いていた。
小豆はドリルを懐にしまい、その穴の中へと入っていった。俺もその後を追う。さらに、どこからともなく現れた茶髪男が、俺の後に続く。
穴の中はトンネルになっていた。水はない。しかし入り口から怒濤のように流れ込む川の水のせいで、すでにくるぶし辺りまでが水に浸かっている。あまり悠長にしていると、頭上まで水に浸かるかもしれない。まだボンベを捨てるわけにはいかないようだ。容量は残り少ないが、全てなくなったわけではない。役に立たないわけじゃない。俺は吸入口を口から外し、ボンベを担いだ。
「ボンベは邪魔だ。もう必要ない。ここに置いて行け」
小豆が言った。見ると地面には、二つのボンベがうち捨てられている。小豆と茶髪の分だ。
「このトンネルが水浸しになったらどうするつもりだよ?」
「大丈夫だ。そうなる頃には、私たちはここにはいない」
俺は半信半疑だったが、二人にならってボンベを捨てた。そして奥に向けて歩き出した。トンネルは結構広い。俺たち三人が横一列に並んでも圧迫感は感じなかった。
変化の乏しい道のりを、俺たちはひたすら歩いた。水位は膝のやや上くらいまで上昇してきている。しかし、道に変化はない。トンネルの出口も見つからないし、分岐点もない。一直線の平坦な道がずっと続いている。この先もそうなのだろうか。分からない。何せここは地下だ。光源が何もなく、暗くて先を見通せないのだ。トンネルの入り口から差し込む日光が、この空間を照らす唯一の明かりなのだが、水中を通り抜けてきている分、それの心許なさは否めない。
「あのさ。あんた、懐中電灯とか持っていないのか?」
「悪いが持っていない。本当はきちんと用意していたんだが、この馬鹿は……」
「馬鹿はあんまりだよ、小豆ちゃん」
「うるさい!懐中電灯を忘れたおまえが悪いんだ!あれほど準備には気を付けろと言ったのに」
「いや、別に忘れたワケじゃないんだって。ただ間違えてしまっただけだよ」
「間違えた?」
「ほら」
そう言って茶髪男は、アロハシャツのポケットからペンのような形をした、小型の懐中電灯を取り出した。
「おい……。こんなものを持ってきて、いったい何に使うつもりだったんだ!」
「だから言ったでしょ。間違えたんだって」
「まあいいじゃないですか。使いましょう」
俺は茶髪男から懐中電灯を受け取り、前に向けた。弱々しい光が、前方数メートルをぼんやりと照らし出した。しかしトンネルの奥は相変わらず暗闇に覆われたままで、何がどうなっているのか分からない。それでも何もないよりはマシだった。足下くらいははっきりと見えるようになった。これまでは、すぐ真下の地面の状況でさえ目を凝らさなければ判別できなかったくらいだ。俺たちは再び歩き出した。さっきよりも少し速いペースで。
「お、あれだ。ようやく到着だな!」
安堵を滲ませた口調で小豆が呟いた。そして太股の辺りに達した水をザブザブと派手に掻き分けて、奥の方へと進んでいく。俺は目を細めて、じっくりと地下道の先を観察した。しかし何も見えない。飾り気のない無骨な地下道が、これまでと同じように拡がっている。
「お、本当だ。やっとここまで来たのか」
俺の背後から茶髪の声が聞こえた。俺は振り返る。茶髪は、一仕事終えたサラリーマンみたいに、背筋をぐっと伸ばして大きな欠伸を浮かべていた。
「いったいどこに到着したんだ?何も見当たらないんだけど」
俺は両手をメガホンのように口元に添え、大声で尋ねた。俺と茶髪男よりもずっと前を進む小豆は、脚を止めてこちらを振り向いた。そして大きく溜息を吐いた。
「お前の目は節穴か。よく見てみろ。この先に鉄の扉があるだろう」
小豆は奥を指差した。俺は目を細め、奥をじっと見た。一見、暗闇が漠然と広がるだけのようにも見えるが、言われてみれば、確かに鉛色の存在を感じることができる。黒っぽい色だったから、闇と同化して識別しにくかったのだろう。
「本当だ。扉……みたいなものが見える。あんたの言うとおりだ」
「そうだろう」
小豆はそう言うと、くるりと身を翻し、またジャブジャブと水を掻き分けながら、奥へ奥へと進んでいく。俺と茶髪もその後を追いかけるが、俺たちの歩くペースがあまりにも遅いからなのか、小豆との差が縮まることはなかった。ようやく追いついたときにはもう、小豆は扉を開けて待っていた。
「遅い!何をちんたら歩いているんだ」
「悪いけど、俺はあんたみたいに人間離れした体力は持ち合わせていないんだ」
「……まったく。まあいい。入るぞ」
最初に扉の先へと足を踏み入れたのは、さっきと同じく小豆だった。次に俺、茶髪男の順で、扉を抜ける。それを見計らって小豆が扉を押した。蝶番が重々しく軋んで、鉄扉は閉まった。
「これで水の心配はない。ほら、私の言ったとおり、酸素ボンベは必要なかっただろう?」
耳を澄ませば、扉の先からごうごうと、水の音が聞こえる。水の音。水が流れ込む音。今もなお水位はどんどん上昇している。今し方まで歩いていた空間は、直に水没することだろう。しかし俺たちには関係がない。この扉が水の侵入を拒み続ける限り。
「それにしても……、この空間は何なんだ?さっきのトンネルと全然違うな」
俺は周りを見回した。道幅が随分と狭くなっている。さっきは横一列に三人が並んでも、圧迫感はなかった。しかし今回は、三人はおろか、一人で歩くにもひどく窮屈だ。おまけに少し腰を屈めなければ頭をぶつける。
異なるところはそれだけではない。トンネルの作りが複雑になっているのだ。扉から出てきた俺を出迎えてくれたのは、四本の分かれ道だった。あのトンネルに分岐点が一度もなかったことを思えば、このトンネルはかなり複雑な構造であるといえる。
「まるで忍者屋敷だな、このトンネルは」
「ほう。なかなかおもしろいことを言うな」
俺が呟くと小豆がそれに反応した。言葉の割に、ちっとも面白そうな顔はしていない。むしろ眉間に皺を寄せている。機嫌が悪いのか?
「もちろんここは忍者屋敷ではない。ただ作られた目的はそれに良く似ている」
「誰かから逃げるために作られた、ってことか?」
「そうだ。先の戦争の時に作られたんだ。米軍から逃れるためにな」
「防空壕ってことか。しかしそれなら、こんなに複雑な作りにする必要はないと思うが」
「おい、勝手に防空壕だと決めつけるな。これはもっと他の目的で作られたものだ」
「他の目的……ああ、あれか!地下壕か。大戦末期に各地で建設された、本土決戦用の」
「そう。これは連合軍の上陸に備えて作られたシェルターの跡だ」
「へえ、知らなかった。小豆ちゃんは物知りだねえ」
茶髪が言った。小豆が呆れ果てたような目で茶髪を見ているが、当の本人はその視線に気付いていない。もっとも、本当は気付いていないふりをしているだけかもしれないが、俺にとってはどちらでもいい。それよりも、他にもっと気にしなければならないことがある。
「このトンネルの正体は分かった。そこで一つ質問があるんだが」
「何だ?」
「これは戦時中に作られた地下壕なんだから、政府はここの存在を把握しているはずだ。だったらここも危険なんじゃないか?警察がいずれやって来る」
「いいや。大丈夫だ。ここは政府の記録に残っていない」
「どうして?政府が作ったんだから、当然ここの存在も記録に残っているはずだろう」
「ここはそもそも、政府が作ったんじゃない。個人が作ったんだ。しかも、存在を政府に知られないよう、極秘裏に」
「極秘裏に?」
「本土決戦に備えた地下壕というのが表の顔。それとは別にもう一つ、裏の顔がここには潜んでいる。それが原因で、このトンネルの存在は隠匿された」
「その役割とは?」
「脱税だ」小豆は事も無げに言った。
「ここの主は、自分の莫大な財産を税の取り立てから守るため、私財の多くをこの空間に隠していたんだ。ちなみに、その主のひ孫に当たるのが私たちのリーダー」
「……へ、へえ。曰わく付きの場所なんだな、ここは」
俺はそう言って、改めて周りを眺めてみた。
終戦間際に建造された、この地下壕。自分の命と自分の資産を守るために建造された巨大な空間。そう思って見てみると、ここがただのトンネルだとは思えなくなった。
野心の塊。主の執念。そういったものが、この地下道全体に染みついているような気がした。
「ちなみに、川と繋がっていたトンネルは、私たちが事前に掘ったものだ。今日の作戦のために、何ヶ月もかけて……っと、こんなことをしている場合じゃないな。雑談はそろそろ終わりにして、アジトに向かおう」
「アジトはどこにあるんだ?」
「ここから二時間くらい歩くと、広い空間に出る。本来は隠す資財を置くために作られたスペースだったんだが、今はそこを改装して、アジトにしている」
そこまで言うと、小豆はくるりと身を翻し、前を向いた。そして一歩を踏み出したその時だ。小豆ががっくりと膝をつき、地面に倒れて込んでしまった。
「おい、どうしたんだよ!」
「……おかしいな。体が上手く動かない」
小豆はゆっくりと上半身を起こし、弱々しく呟いた。
「今日は頑張りすぎたんだよ、きっと。ここらで少し休もう、小豆ちゃん」
茶髪が優しげに微笑みながら、言った。小豆は首を横に振って、立ち上がろうとした。けれど少し腰を浮かしただけで、再び地面にへたり込んでしまった。
「……その言葉に甘えさせてもらおうか。すまないな、亮二」
「いや、気にすんな。ゆっくり休んで疲れを取って、それからアジトへ向かおう。道中はずっと、こんな感じの悪路が続くんだろ?」
「……ああ」
「だったら休まなきゃ駄目だ。どうせ警察は、ここには来ないんだから」
「――そうだな。おまえの言うとおりだ。じゃあ私は遠慮無く休む。お前達も休め」
小豆はそう言い残すと、おもむろに目蓋を閉じた。安らかな寝息が聞こえ始めたのは、その直後のことだった。
「俺たちは小豆ちゃんについて、一つ大切なことを学んだね」
小豆が眠りに就いてから暫くした頃、茶髪男が不意に話しかけてきた。
「大切なこと?何ですか、それ」
俺が尋ねると、茶髪男は気障な微笑みを浮かべて言った。
「小豆ちゃんも、俺たちと同じ、れっきとした人間だってことを、さ」
俺は小豆の顔を見た。長い睫毛。頬から顎にかけての引き締まったライン。荒事なんて、とてもこなせそうにない繊細な顔立ち。無防備で隙だらけな、子供みたいなこの寝顔。
「きっと、無茶していたんでしょうね」
俺は小豆の顔を見ながら言った。しかし、何も反応が返ってこない。茶髪男を見た。涎を垂らして寝ている。まったく。軽口を叩いていただけの癖に、どうしてこうも気持ちよさそうに寝られるんだ。
――まあいい。俺も少し寝よう。色々なことがあって疲れた。
俺は目を閉じた。あっという間に、俺の意識は眠りの中へと落ちていった。
薄暗い空間。ゴツゴツした岩肌。やや肌寒い空気。目を開けた俺は、状況が一瞬よく分からなかった。頭がぼんやりする。まるで脳みそがコンニャクになってしまったみたいな感じだ。今はっきりとしていることは、ずぶ濡れの制服がどうしようもなく不快だということくらいだ。
俺は取りあえず、むっくりと半身を起こし、周囲を一通り観察してみた。
地面に寝転がった茶髪男。ガタガタと震える鉄扉。
頭が覚醒するにつれ、色々なことを思い出した。そうだ。疲労困憊の小豆を休ませるためにここでいったん休憩を取ったんだ。その結果、俺たちは三人とも、ここで寝てしまった。
俺はさらに周囲を見回した。無造作に転がったペン型の懐中電灯を見つけた。電源は入っていた。ぼんやりとした光を投げかけている。岩の壁はその光を浴びて、明るく浮かび上がっていた。俺はその照らし出された壁に、一人の影を見た。動いている。何かを絞っているような動作。あれは小豆に違いない。もう起きていたのか。俺は影の元となる人物の姿を探した――。
「う、うわっ!」
俺は思わず叫んでしまった。俺の声がトンネルの中で反響し、山彦のように聞こえる。
下着姿の小豆の体がビクッと震え、手に持っていた制服で、素早く体を隠した。
「さっきまでは熟睡していたというのに、私が制服の水を絞ろうと脱ぎ始めた途端に起きるとは……。妙にタイミングのいいお目覚めだな、亮二!」
「お、おい、何を疑っているんだ。俺は無実――」
俺はあることに気付いて、言葉を切った。小豆の視線が妙な方向を向いているのだ。俺を見ていることは確かなのだが、俺の顔は見ていない。顔ではなく、それよりももっと下。具体的には下半身。さらにはっきりと、身も蓋もなく言うならば、股間。
「……や、やはりあいつの指摘は的確だったようだな。このケダモノ!」
「違う!おまえはきっと誤解しているぞ!これは一種の……」
「うるさいっ!弁解など聞きたくもない!とっとと後ろを向け!」
「は、はいっ!」
俺は急いで小豆に背を向けた。眠気はもうどこかへ行ってしまった。つい今し方まで眠っていたことが嘘のようだ。胸が激しく鼓動をうつ。顔が熱い。
地下壕の中は異様に静かだ。岩石の突起から滴が地面に垂れ落ちる音や、鉄扉の奥の、ゴウゴウと唸る水の音、そして茶髪男の呑気ないびきを除けば、全くの無音だった。だから少しでも音を立てれば、多少距離が離れていてもよく聞こえる。普段は気にしない物音がはっきりと聞こえる。例えば……制服を着る衣擦れの音とか。
制服と小豆の肌が擦れる音。それが淡々と続く。俺は生唾を飲み込んだ。
「も、もういいぞ。こっちを向いても」
衣擦れの音が止むと、後ろから小豆が言った。俺は振り返った。ぎゅっと水を絞ったせいか、制服の所々に皺がついている。
「もっと長く寝ても構わないんだ。疲れ、取れたのか?」
「ああ。おかげさまでもう大丈夫だ。アジトまで歩ける」
小豆は地面に転がる懐中電灯を手に持って、俺の隣にやって来た。頬がわずかに赤い。機嫌の悪そうな、恥ずかしそうな表情をしている。それは今日見てきた中で一番可愛い表情だった。
「嬉しかった」
小豆は腰を地面に下ろしながら、唐突にそう言った。俺は意味が分からなかった。
「何のこと?」
「さっきのことだ」
「……俺があんたの裸を見てしまったこと?」
小豆は不満げに頬を膨らませ、手に持っていた懐中電灯を俺の顔に向けた。暗さに目が慣れていただけあって、かなり眩しい。俺は年甲斐もなく叫んでしまった。
「うわっ!何すんだ!」
「……その件に関しては、またあとでしっかり責任をとってもらう。私が言いたいのは、それじゃない。私が寝る直前のことだ」
「……俺、何かしたっけ?」
「ほら、私の体調を気遣ってくれただろう」
「ああ、あれは茶髪の野郎が言い始めたんだ。俺はその流れに乗じただけだ」
「あいつは見た目通りの性格をしているからな、言うことを全て真に受けては駄目なんだ」
「俺だって同じだ。心にもないことを口八丁手八丁で言っただけだ」
「嘘だな。おまえはそんな器用なことが出来る人間ではない。私は知っているんだ」
「どうして?」
「……おまえ、やっぱり気付いてないんだな」小豆は残念そうに目を細めた。
「はあ?」
「……いや、いい。別に気にしないでくれ。とにかくありがとう。嬉しかったぞ。亮二」
「だから、俺はあんたに感謝されるような立場じゃないって」
俺は頭を抱えた。上手い言葉がなかなか浮かんでこなかった。
「……あんたがいたから、俺は逃げ切ることができたんだ。本当に感謝している」
俺は小豆に頭を下げた。だから小豆がそのときどんな顔をしていたのかは分からない。でも、困惑しているだろうことは気配で分かった。
「そんな、大袈裟だ」
「大袈裟じゃない。本当に感謝しているんだ。赤の他人のために、あんたは命を懸けてくれた。そんなことをしても、自分には何の得にもならないのに。むしろ損ばかりだ。警察に目を付けられるし、テレビの取材に追いかけられる。それでもあんたは、俺を助けてくれた。他人をどう利用してやろうかと考えている奴ばかりの世の中なのに。あんたは凄いと俺は思う」
俺は俯けていた顔を上げて、小豆の顔をじっと覗き込んだ。小豆は少し困ったような顔で、俺を見つめ返してきた。そして言った。
「私はちっとも凄くない。ただおまえを、亮二を救いたいだけなんだ」
小豆は笑った。とても綺麗な表情だ。何の衒いもないし、何の計算もない。本当に純粋で、そして無垢な笑顔。俺の周りをウロウロする、たくさんの人々とは違うと思った。常に打算を抱き、それに基づいて行動するような人々とは違う。俺を裏切った幼なじみとは違う。俺は小豆を信じた。尊敬した。少なくともこの時は。誰かを信じたり、尊敬したりするのは久しぶりの体験だった。
「――そういえば俺たち、まだはっきりとした自己紹介をしていなかったな」
俺は不意に、そのことに思い至った。突然出会い、突然逃走が始まったものだから、じっくり自己紹介をする暇がなかった。それに、小豆が俺に関する知識を何らかの方法で事前に得ていたから、自己紹介を交わす必要性があまり高くなかった。
けれど今は違う。この地下壕にいる限りはそれなりに安全だし、何より俺は、小豆に興味が湧いてきた。小豆についての細かい情報を知りたいと思うようになった。
「もうとっくに知っているみたいだが、俺は後藤亮二だ。年は十七、高二だ。よろしくな」
俺は小豆に手を差し伸べた。しかし反応がない。小豆はきょとんとして、俺を見つめている。
「いまさら自己紹介なんて、必要ないだろう」
「あんたはもう俺のことをよく知っているかもしれないが、俺はあんたのことをほとんど知らない。必要なくはないだろう?」
「……そうだったな」小豆は呆れたように肩を竦めた。
「おまえの言うとおり、確かに自己紹介も必要だ」
小豆は俺の手を取り、そして言った。俺は小豆の手を、ぎゅっと握った。
「私は藤山小豆。十七歳だ。小豆と呼んでくれ。『あんた』と呼ばれるよりは、名前で呼ばれる方が嬉しいからな。ちなみに、お前とは同じ学年だ」
小豆もそう言って、俺の手を握り返してくれた。
藤山小豆。俺は小豆の名を心の中で呟いた。この時点での俺は、まだ小豆のフルネームを知らなかった。それどころか「小豆」という名前さえ、俺は本人の口から聞かされていなかった。茶髪男がそう呼ぶのを聞いて、何となく知っていただけだ。……茶髪男?
「そういや、あの茶髪アロハ男の名前も知らないな」
俺は件の人物に目を向けた。相変わらず気持ちよさそうに寝ている。起きる気配がまるでない。睡眠薬でも飲んだのか?
「あいつか?あいつは北山圭介。年は知らん。ただ、あんな派手な身なりをするには、少し年を取りすぎているという話は聞いたことがある。もし興味があるなら本人に聞け。あとは……そうだな、おまえもすでに分かっていることだと思うが、なかなかの馬鹿だ。ただし、頭の回転は速い。その点に関しては頼りになる。それ以外はまるで駄目だ。特に――」
小豆は両手を腰に当てて、眉を顰めた。
「必要以上によく寝る。昼でも夜でも緊急時でも、容赦なく寝る。さらに厄介なのが、一度寝入るとそうそう起きない」
そして、茶髪男――もとい北山の元へツカツカと歩み寄り、土手っ腹を蹴り上げた。
「おい、起きろ。そろそろアジトへ向かうぞ」
「……ちょっと、余りにも乱暴すぎるんじゃない?もうちょっと穏やかな起こし方してくれないと、俺も困るんだけど」
「穏やかな起こし方だと、私が困るんだ」
「どうしてさ?」
「おまえが起きないからだ」
「身も蓋もない言い方だねえ。まあ、いいさ。とっととアジトへ帰って、床に就こう」
目を半分閉じたまま、北山は歩き出した。右手でぼさぼさに乱れた頭を掻きむしっている。
「これからアジトに帰る。私たちからはぐれるなよ」
俺の方を振り返って、小豆が言った。そして先に歩き出した北山をあっさりと追い抜かし、また先導を切ってトンネルを進む。俺は二人の後を駆け足で追いかけた。心の中を漂う、ある奇妙な感覚について考えながら。
小豆のフルネームを聞いたときから、その奇妙な感覚は始まっていた。俺と小豆はお互いに初対面のはずだ。それなのに、「藤山小豆」という名前を、俺はどこかで聞いたことがある。
同姓同名だろうか。その可能性もある。何しろ東京には千二百万人が暮らしているのだから、同じ名前の一人や二人、存在していてもおかしくはない。ましてや「藤山小豆」という名前は、ありきたりとは言えないものの、決して珍しくもない。
けれど、何か引っ掛かる。何か。その「何か」とは何だ――。
「おい、早く来い。置いていくぞ!」
いつの間にか、ずっと奥まで進んでいた小豆が、俺の方を振り返って叫んだ。俺は手を振って応えた。思考はうやむやのまま、そこで断ち切られた。そして俺は、しばらくこの感覚を忘れることになる。思い出すのは翌日のこと。そういえば、あの時も俺は地下にいた――。
こうして俺たちの逃走劇は、第二幕へと突入する。そう、これまでは所詮プロローグ。長い逃避行の始まりに過ぎない。本番はここからだ。
俺たちに仇成す全ての存在は、鋭く研ぎ澄まされた爪と牙を突き立てて、この地下空間に来襲する。その先に待っているのは血風吹き荒ぶ死闘。しかし地下壕の複雑なトンネルを進む俺たちは、そんな未来を知る由もない。半ば事件の終結を確信し、淡々と歩を進めている。
そんな考えは甘い。甘過ぎる。俺たちは余りにも無知で傲慢で楽観的だった。そして何より質が悪いのは、自分達の慢心に無自覚であったことだ。死屍累々たる現実に直面し、ようやく己の甘さを知る。
それまでの、束の間の休息。
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