第一章
連投しました。
三日間の逃走劇の話をする前に、俺が河原にいた理由を話そう。
逃走を始めた日の午前八時に話は遡る。俺が藤山小豆に出会い、逃走劇の幕が開いたのが午後四時頃だったから、だいたいその八時間前のことだ。俺はその時、校門の前で、大きな溜息を吐いていた。
ああ嫌だ、こんな高校――。俺は心の中で憎々しげにそう呟き、校門をくぐる。その瞬間、幾つかの視線が、目敏く俺を捉える。流行りの服やドラマの間を行き来していた話題が大きく方向転換した気配を、そこら中で感じる。声のトーンが低くなる。うわさ話をするときの調子。
俺は走った。まとわりつくような視線を全て断ち切りたかった。だから走った。けれど、そうした不愉快な存在が俺の周りから途絶えることは無かった。下駄箱でも同じ。階段でも同じ。廊下でも同じ。ただ背景が変わるだけ。同じ境遇が、常に俺を待ち構えていた。誰かの視線が、いつでも絡みついてきた。俺は廊下を早足で踏破し、教室の扉を開けた。これが一日の生活の中で、最も嫌いな一瞬だ。逃げ場のない牢獄のような空間で過ごす、不愉快な一日の始まりだから。嫌悪と倦怠に心が揺れた。
ああ嫌だ――。今度は確かな呟きとなって、実際に口から零れた。
「ねえ、後藤君。この前のテスト、どうだった?」
しかし、誰も俺の呟きには気付かない。誰も俺の本心を知ることはない。
「期末テストのこと?上出来……だったかな。悪くはなかった」
なぜなら、俺自身が自分の本心を悟られないように、細心の注意を払っているから。さっきの独り言は……迂闊だった。反省しよう。
「悪くなかった、だって!成績上位者が発表されたのは知ってる?」
「いや、知らない」
「連覇よ。後藤君の二連覇!また学年トップだったのよ」
俺に話しかけてきた同級生と、その周りでウロウロしている金魚の糞みたいな連中が嬌声をあげた。ああ、なんて面倒くさいのだろう!しかし、その感情は心の中に止めておく。俺は当たり障りのない笑顔を浮かべ、柔らかい口調で言った。
「まぐれだよ。まぐれ。別に大したことじゃないさ」
そして自分の座席に向かった。これ以上あの連中と会話を交わせば、きっと俺は自分の本音をさらけ出してしまうと思ったから。でも、金魚と金魚の糞の一同は、そう易々と俺を解放してはくれなかった。
「ねえ、私思うんだけどさ、後藤君って、本当に完璧だよね?」
さっきと同じ金魚さんが、上目遣いで言ってきた。軽く茶色がかった、尾ひれみたいな後ろ髪が揺れる。俺は席に座りながら答えた。
「……完璧?俺が?そんなはずはないよ。出来ないことばかりで嫌になる」
例えば、あんたを波風立てないで追い払うことができない。
「そんなことないよ。ねえ?」
金魚さんは後ろを振り返って同意を求めた。取り巻きは示し合わせたように首肯する。金魚さんは満足げに何度か頷き、再び俺を見つめてきた。
「校内でも五本の指に入る成績。初対面の人なら誰もが二度見するルックス。そして資産家の息子。これ以上ないくらいのステータスだって」
「俺は運動が出来ない。ほら、完璧じゃないだろう?」
「それ、嘘でしょう?運動が出来ないんじゃなくて、ただ真面目に運動をしようとしていないだけ。私は知ってるんだから」
俺が体育の授業で手を抜いていることなんて、知っている奴はたくさんいるだろう。それなのに金魚さんは、「私だけがそのことを知っている」かのような口ぶりで話す。俺はそういうところが大嫌いだ。
だが、その思いが俺の口から零れることはない。俺の口を突いて出てくるのは、当たり障りのない穏やかな言葉だけだ。
けれど、もうそれも限界が近い。俺は少々強引に、金魚さんとの会話を断ち切ることにした。
「あのさ、実は俺、朝飯まだなんだ。悪いけど購買まで買いに行ってくる」
そう言い残して席を立ち、急いで廊下に出た。建て付けの悪い教室のドアを閉めて、俺は購買に向かって歩き出す。その時だった。金魚さん達の雑談が、教室の窓から漏れ聞こえてきた。別に盗み聞きするつもりはなかったが、金魚さんの声は必要以上に大きくて、廊下にいた俺にも良く聞こえた。
――好感度上がったかな?後藤君の――
――上がったんじゃない?彼も結構楽しそうにしてたよ――
――やった!私の玉の輿計画も、少しは前進ね――
ああ、すこぶる不快だ。嫌な会話を聞いてしまった。俺は記憶から、その会話を抹消しようとした。けれど、そう意識すればするほど、記憶の中に金魚さんの声が深く刻み込まれていく。もう駄目だ。俺は諦めた。取りあえず購買部に行こう。本当は、金魚さんの一団から解放されるための方便だったけれど、気晴らしにジュースでも飲もうか、そう思ったときだ。
「お、おはよう、亮二くん」
聞き慣れた声が、俺を呼び止めた。振り返るとそこには、俺が予想した通りの女子生徒が佇んでいた。首の辺りで切り揃えられたショートヘア。丸みを帯びた穏やかな顔。小柄な体躯。やや下向き加減で、もじもじしている。
「ああ、みどりか。おはよ」
俺は簡単に挨拶を返して、購買へと向かった。正直言って、あまり今はみどりと話したい気分ではなかったからだ。
小柄な女子生徒、豊沢みどりは、俺がまだ小学生だった頃からの知り合いで、いわゆる「幼なじみ」という存在だ。小・中・高と同じ学校に通ってきたし、同じクラスになったことも少なくない。お互いの家も、自転車を使えばすぐに行き来できるくらいの距離にある。だから、そこらの女子生徒よりは断然仲が良かった。しかし今は違う。今から三年くらい前に起きたある事件がきっかけで、俺とみどりとの間には深い隔たりが生まれてしまった……いや、この表現は少し間違っている。より正確にいうなら、俺が一方的に距離を置いたのだ。
「ち、ちょっと待って!少し用事があるの!亮二くんに」
用事?何だろう。大したことじゃないのは分かっていたが、かといって、あまり邪険にするのも気が進まない。俺は立ち止まって振り返った。みどりは俺を追いかけてきたせいなのか、顔が火照っていた。汗も掻いている。俺は言った。
「用事って、何だ?」
みどりは下を向いて「えーっと」と呻いた。適当な言葉を探しているように見える。
「……実はね、私『イダヤ百貨店』でバイトしてるの。それで、少しお金が貯まったから……」
ようやく口を開いたかと思うと、また黙り込んでしまった。沈黙がしばらく続いたのち、みどりは決意に満ちた力強い顔で言った。
「私と亮二くんの二人で買い物に行く、というのはどうかな?」
俺は戸惑った。「用事」というのは、もっと他愛のないことだと思っていた。しかしなるほど、そういえばみどりの態度は妙に落ち着きがなかったし、不自然だった。俺を買い物に誘おうと計画していたからこそのぎこちなさだったのか。なかなか厄介なことになった。本音としては、全然行きたくないが、しかし、どうも断るのは苦手だ。どうしよう。
「……そうだな。もし行くとしたら、いつになる?」
「うーん、私は来週の週末を考えているんだけど……どうかな」
「来週の週末か。まあ、考えておくよ」
「本当に!?じゃあ、今日の放課後、返事を教えて。お願いね!」
みどりはにっこりと破顔し、スキップするような歩調で去っていった。俺が「考えておく」と言っただけで、みどりはあんなに嬉しそうにしている。けれど――。
心の底では、何を考えているかなんて分かったもんじゃない。俺は知っている。実際に見たのだ。みどりの「裏」と「表」を。三年前のあの事件の時に。みどりは俺を裏切った。俺は、少なくともみどりだけは心の底から信じていたのに。それなのに……。
俺を取り巻く全ての人間は、打算で動いている。金魚さんがいい例だ。あいつは俺を何だと思っているんだろう。金魚さんだけじゃない。俺が教室に入ってくるまで、好奇の視線を浴びせかけてきた奴らも同じだ。あいつらはいかにも善人面で近付いてくるくせに、心の底では醜い打算が渦巻いている。そんな連中をどうすれば信じられる?俺にはとても信じられない。
けれど、それは仕方のないことだ。誰にだって「裏」と「表」は存在する。本音と建て前は存在する。金魚さんの取り巻きだって、金魚さんの親友を装ってはいるが、実際はどうだが分かったものじゃない。気が強く、立ち回りの上手い金魚さんはとても「便利」だから、金魚さんの下に付いているだけじゃないだろうか。
俺は廊下をぐるりと見回してみた。仲の良さそうなグループが固まって談笑している。とても仲が良さそうだ。けれど、あのグループを結束させる要素の中には、きっと打算が何割かは含まれているに違いない。そう、金魚さんに限った話ではなく、ほぼ全ての人は、誰かと打算で繋がっているのだ。
便利だから。有利だから。お得だから――打算。打算。打算。
そんなこと、もうとうの昔から分かっていたことだ。親父が事業に成功して、莫大な資産を勝ち取った頃から。自分には勉強の才能があることに気が付いた頃から。自分の容姿が他人の目にはどう映っているかを知った頃から。それでも俺は、みどりだけは信じていた。純粋に友達同士だから、お互い仲良くしているんだと思っていた。それなのにみどりは……。
ああ嫌だ、こんな社会――。
早くも三度目を数える呟きを漏らしながら、俺は購買に辿り着いた。人混みを掻き分けながらジュースのコーナーに近付くと、俺の好きな「ミルクマンゴー」は、すでに売り切れていた。
五限目の終了を告げるチャイムの音が、睡魔の漂う午後の教室に鳴り響く。俺は鞄に荷物をまとめ、そっと教室を後にした。「サボり」というやつである。次の授業が、「催眠術師」との通り名を持つ山田先生の化学であることもその一因だが、何よりの理由は、みどりに返事をするのが億劫だったからだ。
俺は廊下に出ると、非常階段に通じるドアに向かった。こんな中途半端な時間に、鞄を抱えて廊下を歩いていると、どうしても目立ってしまう。教師に見つかると厄介だ。健康そのものの顔色で「先生、実は体調が……」と嘘を付いても、信じてもらえるはずがない。だから非常階段からこっそり帰る。それなら誰にも見つからないはず。
そう考えていた俺は甘かった。
「やっぱり。駄目だよ、授業サボったりしちゃ」
非常階段には誰もおらず、悠々と降りることが出来た。それで油断していたのだろう。一階の廊下に出るドアを、何の警戒もせずに開けてしまった。それが失敗だった。扉の先にはみどりが立っていた。しかめっ面で、俺を睨んでいる。
「いや、実は体調が悪くてさ、これから早退するんだ」
「嘘ばっかり。そんな元気そうな顔に、その嘘は似合わないよ」
しまった。咄嗟に口走ってしまった。言ってはいけない嘘だと分かっていたのに。
「ねえ、そんなに私と買い物に行きたくないの?」
「別に、そういうわけじゃ……」
「じゃあどうして授業サボるの?」
「それは……」
みどりは大きく息を吐き出して、それから哀しそうに微笑んだ。
「いいよ。亮二くんが行きたくないなら、私も買い物なんか行きたくない」
俺の心に安堵が拡がった。これで買い物にいかなくて済む。けれど俺は、素直に喜べない。安堵と同時に、棘のある何かが心に突き刺さるような感じがしたからだ。
何だろう、これは罪悪感か?
「そ、ぞれじゃあ、また」
取りあえずこの場から立ち去ろう。俺はみどりに背を向けて、前に歩き出した。みどりと俺との距離が、どんどん開いていく。
「あのさ、最後に一つだけ、私の話、聞いてくれる?」
俺は脚を止めた。振り返りはしなかった。前を向いたまま、みどりの話を聞いた。
「どうして亮二くんが私のことを嫌いになっちゃったのか、よく分からないけど、でもその理由が私にあるなら私は謝りたい。それで出来るなら仲直りをしたい。だって今でも……亮二くんは私にとって大切な幼なじみだから」
振り返らなくて良かった――。俺は再び歩き出した。
みどりは今でも、自分の本音が俺に悟られていることを知らないのだろう。だからこそ恥ずかしげもなくあんな台詞を口に出来る。計算高い本性を隠し、清潔な表の顔で俺に接してくる。そのうえ、ぬけぬけと誘いまでかけてくる。
断って当然だ、あんな誘惑。
俺が後ろめたい思いをする道理なんて何もない、何もないはずだ。それなのにどうして俺は、心に痛みを感じるのだろう?悪いのはみどりだ。俺の言動がみどりを傷つけていたとしても、俺に責任はない。いや、それどころか、そもそもみどりは傷ついているのか?
いいや。きっと今頃は、舌打ちをして、次の策を考えているに違いない。そうだ。あの狡猾なみどりのことだ。俺を裏切ったみどりのことだ。何も心配する必要はない。
校門を抜けて、俺は立ち止まった。胸の中のモヤモヤした気分が晴れることはなく、どうも家に帰る気にはなれない。かといって、他に行く当てはどこにもない。さて、どうしよう。カラオケにでも行こうか。いや、今は歌う気力が出ない。ゲームセンターも駄目だ。何時間も時間を潰せるほどの金を持っていない。となると……河原にでも行くか。あそこは時間を潰すのに打って付けの場所だ。
こうして俺は、ただ何となく河原に向かい、藤山小豆と出会う。そして物事は過酷な逃走劇へと雪崩れ込んでいくのだ。
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