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第〇三話 邂逅の食事

 天井に埋め込まれた蛍光管型の電球がおぼろげに見える。


 次第に焦点があってゆく感覚があり、深呼吸を一つして瞬きすれば綺麗に焦点が合う。天井は木目調のパネルで構成されていて、酷く垢抜けて見える。

 もう一つ深呼吸をして、体の感覚を点検する。背中がベッドに接しており、腹にはブランケットが掛けてあるようだ。


 部屋の匂いを嗅げば、ほのかなラベンダーの香りがしている。


「病院……じゃなさそうだ」


 声に出してみれば、なんとなく声が反響していることに気づく。


 小部屋なのだろうかと思いながら、上体を起こしてベッドの上で胡坐をかいた。

 起床して数度目の深呼吸を行い、脳を睡眠モードから活動モードに切り替える。


 胡坐をかいたままゆっくりと見回してみれば、部屋の広さは四畳間程度で、ベッドの他には狭い通路と壁から出っ張る形に設置された観音開きのクローゼット、ベッドのヘッドボードのあたりには申し訳程度の広さしかないデスクがあった。


「個室なんだ」


 振り返ってみれば、ブラインドの下ろされた窓と出窓のように広い窓枠がある。

 そこに、透明のA4サイズほどの透明な板が、黒いプラスチックのスタンドで立てられていた。


 なんだろう、と思って手に取ってみると、板のバックライトが点灯して明るくなり、6/3(Sat)と書かれた大きな文字とアナログの時計が表示されている。時刻は十一時ジャストだ。


「時計?」


 問うたのと同時にアナログ時計が消え、右側から文字が流れてくる。


【こんにちは、織田ノブカズさん! 一件のメールをお預かりしていますよ】


「織田ノブカズってどっかで聞いた名前だな……」


 そう呟く間に、文字がすべて左側に流れていった。


 再びアナログ時計が表示され、右下にメールのマークが点滅し始める。

 マークをタップすれば、画面が消えて文字が再び流れてくる。


【指紋認証に成功しました】


 文字が流れきる前に画面をタップすると、メールが即座に表示された。



     ▽



>>Title:【重要】昨日発生したガス中毒事故について

>>Date:03/06/82

>>Body:

学院指導部より全学生へ


昨日野外実習中に発生した大規模なガス中毒事故についてご報告します。


==発生時間および場所======

時間:十三時四十分ごろ

場所:静寂の森F地区


==発生事案======

モンスター退治実習中発生したガスにより、付近に居た高等部の学生が多数意識不明となった。

全員指導員により保護され、学院へと送致されるが、容態は安定しており、全員自室へ移送を行った。


==対応======

本日に入り気がついた複数の学生に事情聴取を行った結果、全員記憶に大きな欠落が見られた。

このため、ガス中毒に遭った学生については、このメールを確認後医務室に出頭すること。

健常者はガス中毒に遭った学生に対してフォローを欠かさないよう周知のこと。


以上、取り急ぎ連絡まで。

======

アヴィディタ学院指導部



     ■



「記憶に大きな欠落って、記憶喪失ってことだろ?」


 何だよそれ重篤じゃん、と笑って、はたと気づく。


「アヴィディタ学院指導部……?」


 聞き覚えの無い学院名に、顔中の血液が降りてゆく感覚。


 待て待て待て落ち着け俺!


「そうだ、名前から順に落ち着いて思い出そう。名前……名前……? 誰……?」


 嘘だろおい、


「生年月日! そうそう生年月日は…………うっ……」


 やめて!


「住所と郵便番号程度なら………………」


 こらこらこら、


「電話番号……ああっ……!」


 嘘ぉ……、


「他に何か……何か……何も…………」


 ない、と言い掛けて手元の画面を見れば、右下にポップアップが出ている。


【お困りですか? Touch Me】


 慌ててポップをタップする。


>>トラブルシューティングQ&A

>>ガス中毒事故に関して何か知っていますか? Y/N

>>>No


>>学院生活について記憶はありますか? Y/N

>>>No

>>医務室へ行きましょう


 最後にそう表示され、ナビゲーションモードと書かれた地図に画面が切り替わる。


「ナイス親切!」


 ベッドから飛び降りてサンダルを履き、クローゼット横のスライドドアから部屋を出ようとする。ふと、クローゼットの扉に姿見が取り付けられていることに気づく。


 正面に立ってみれば、そこには水色の柄物Tシャツとカーキ色のカーゴパンツを着た人が写っている。


「本当に……無いんだ……」


 見知らぬ人、だった。寝癖の付いた髪の毛は茶色で右耳にピアスをしている。顔はというと、


「イケメンだなぁ……」


 言ってから頭を抱えてぶつぶつと呟き始めた。


「俺はナルシストじゃない……客観視しただけで決してナルシストじゃないんだ……」


 ひとしきり呟いてからがばりと身を起こして気を取り直す。

 ため息一つ。


「医務室に行こう……」


 扉の取っ手に手をかけたまま、深呼吸一つ。持ったままのディスプレイにはナビが表示されたままであることを確認し、ゆっくりと扉を開いた。


 薄緑のカーペットと和紙のような壁紙が目に入る。落ち着いた雰囲気だ、という感想を覚えながら、ふと部屋の中を振り返れば廊下と同じ具合になっていることに気づく。


「余裕が無い状態って感じだなぁ……」


 またため息を吐く。息を吐ききれば、胸の中が何も無い感覚に襲われ、急いで息を吸った。

 廊下に出て後ろ手に扉を閉める。ナビを見れば自分が今向いている方向が画面上部に来るようになっていることに気づいた。


「予想外にハイテクじゃん!」


 思わず嬉々としてその場でぐるぐる回ってみる。しかし数秒もすれば飽きてきて、


「俺はいったい何やってんだ……、医務室行かなきゃ……」


 他人から見れば馬鹿みたいだよなぁ、と零しつつ、ナビだけを見て廊下を進む。カーペットが思ったより分厚く、足音はしない。衣擦れの音だけが廊下に響いている。


 進む先に一組のカップルが立ち話している。


 ……声掛けられたらどうしよう。記憶が無いんで分かりませんって答えたらいいのか? それとも、あ、急いでるんでごめんなさいって答えたら良いや。


 少し距離を取りながらすれ違おうとした瞬間、男のほうがこちらに気づき、声をかけてきた。


「よおノブカズ、森で実習やってた組は悲惨だったらしいけど、お前大丈夫だった?」


 知り合いですかー!


「そこまで考えてなかった……!」


「え? 何だって?」


「あ、いや、ごめん今から医務室行って来ます……」


「……ああ? ……いってらっしゃい」


 男から視線をゆっくりはずしながら再び歩き始める。


 ……ですます調を使う間柄じゃなかったみたいだ。ああほんと、嫌になる……。


 女のほうが男の袖を引っ張っているのが目の端に映る。

 潜めた女の声が後ろから聞こえてきた。


「たぶん、メールにあった記憶喪失ってヤツじゃないかな……」


 間髪をあけずに男が返す。


「あいつが、か?」


 ……気遣われなきゃならない立場だなんて……。


 ノブカズは自分にも聞こえない程度の声で自分のことを呪いながら角を右折する。

 渡り廊下を通って地図によるところの本館に入る。本館二階の廊下で一度振り返って人が居ないのを確かめると、


「ちくしょう!」


 憎々しげに叫んだ。腹の底から頭のてっぺんまで満たすもやもやを吐き出すように。


 ため息一つ吐いてから、ナビに視線を戻す。


「この辺のはずなんだけど……」


 壁から突き出すように取り付けられた部屋名板を手近なところから読みながら歩く。


「多目的室、教務室、情報管理室、医療器具倉庫、……あった、医務室」


 ドアの前に立ってため息とも取れる深呼吸を一つ。

 ノックを三度してから、取っ手を握って扉をスライドさせる。


 ブラ紐があった。


 いったい何を見ているのかとっさに分からず、瞬きを数度行う。

 よく見れば半裸女子の後姿だった。いかん、と思い反射的にドアを閉める。


 呼吸を整えながら先ほどの情景を反芻する。

 グレーの短パン、脱ぎかけのオレンジのキャミソール、少し肌に食い込んだピンクブラの止め具、髪の毛は肩口より少し下のストレート。


「程よい食い込み具合だったな……」


 そう呟いてから、見なかったことにして出直すか、一拍空けて入りなおすかを悩みだした。


 ……待てよ?


 今彼女はキャミソールを脱ぎかけていた。つまりこれからさらに脱衣が行われるはずで、


「そうだもう一度覗けばさらにパラダイスが!」


 言って扉に手を掛けた瞬間、勢いよく扉が迫ってきた。



     ■



 頬をたたく音がする。しかし肉をたたく音というよりは骨を直にたたいているような鈍い音で、首から妙な音と角度になってちょっと痛い痛いいたたたた


「あ、気がついた?」


 ノブカズが目を開けると、ティーシャツ姿の少女が屈みこんでこちらを見ている。体の感覚はあまりはっきりしないものの頭痛が少ししている。


「ここは……?」


 だんだん体の感覚が戻ってくる。ベッドに寝ている感覚があり、腹にブランケットが掛けられている。天井は埋め込み式のランプではなく白色の蛍光灯だ。


 感覚が戻ってくるにつれ、定かでない記憶と裏腹に頭痛が酷くなる。


「うぁ、いた……」


「あ、あんまり動かないほうがいいよ。ここは医務室なんだけど、先生が今くたば……昼寝中みたいだから、先生に用があるならここで寝て待ってたら?」


「っ、うん、そうするよ。しっかし何で何がこうなったんだ……?」


 少女は頬をかきながら横を向き、


「検査衣に着替えようとしてたら、覗きがいてる気配があったの。で、横にあったパーティションを投げたんだけどはずれちゃって。ドアにぶち当たってドアが君に当たったみたい」


 なるほど、と未だにはっきりしない思考で聞いている。


「そりゃ俺に運が無かったのか……。それでその覗きは捕まえられたの?」


「うん、膝蹴りをわき腹に入れたら大人しくなったから、そこのソファに寝かせてるよ」


「ふぅん、覗きなんてするヤツいるんだなぁ……」


 少女は、あははーと軽く笑っている。

 なんだかそれ以上追及しない方がいい気がしたので話を変える。


「そういえば、さ。メールでガス漏れ事故ってのがあったって聞いたんだけど、君大丈夫だった?」


「うん、たぶん……」


「……たぶん?」


「記憶が、無いの……。でも体のほうは大丈夫みたい」


 寂しい笑顔を向けてくる。綺麗な小顔とぱっちりした目元が、酷く悲しく見える。


「あ、えとさ、俺もそうなんだ。そうそう、さっきなんかさー、友達っぽいカップルに同情されちゃってねー」


 あはは、と笑うと、彼女の方も優しく笑顔を向けてくれる。共通項を得られた、と思ったノブカズは、


「うん、あれだね、俺らってば記憶無い同士だよね!」


 少女は半目になり、


「それは嫌な関係だよ!」


「ああっごめん、そんなつもりじゃ……。あ、そうだ。俺織田ノブカズって言うらしいんだ。よろしくね」


 少女はきょとんとし、一拍空けてから、


「あたしは、あたしの名前は……、羽佐間ランって言うみたい。よろしくね」


 よろしくー、と笑顔で繰り返すノブカズは、しかし心中は複雑だった。

 何しろ、自分の名前を口に出しても馴染みも無ければ引き出される記憶も無いからだ。


 ……こりゃ思ったより重症かもな。


「自分の名前じゃないのかなぁ……」


 口に出すつもりは無かったが呟いてしまった。


「それは、違う人の名前と入れ替わってるのかもってこと?」


「ごめん、特に深い意味は無いんだ。でも自分の名前を口に出しても一切心当たりが無いから、本当に自分の名前なのかなって思っちゃって」


 うーん、と悩む二人。


「そういえば、あたしもそうかも……」


 考え込む二人に、急に声がかけられた。


 誰だろう、と思いノブカズは体を起こす。

 見れば白衣で白髪白髭の男性がいた。


「扉開く音しなかったのになぁ……」


「あ! せ、先生大丈夫ですかさっき急に倒れたから心配しちゃって!」


 ほっほ、と先生と呼ばれた老人は笑う。


「なぁに、よくあることじゃよ」


「…………」


 ……そんなによく倒れるとか不健康か?


「…………」


 ……そんなによく覗いて昏倒させられてるの?


 そんな二人の思いを見透かしてか、ほっほと笑い、


「して、お二人さんは何用かな?」


 ノブカズが口を開く。


「今更ですけど、先生が医務室の?」


「そうじゃよ。だから白衣を着とる」


 愚問と分かっていても聞かずにおれなかった心境は伝わらなかったようだ。


「えと、昨日のガス事件に遭った人は医務室に行くようにってメールに書いてあったから俺たち来たんですけど……」


「ああ、例の、な。それじゃあ問診表に色々書いてもらわにゃならん。はて、どこに置いたかの……」


 言いながらデスクまで移動して引き出しを漁りだす。


 その姿にノブカズは疑問を得た。

 ……問診表が見当たらない?


「先生、昨日のガス中毒者ってそんなに少ないんですか?」


「いや、昨日の実習に参加して被害に遭ったのは七十四名に上るが、何せ広い学院内、医務室は複数あるし、メインの医務室は被害に遭った学生たちでごった返しておると聞いとるよ。

 じゃがここは僻地じゃからな、君たちが初めて訪問した被害者じゃよ」


 ふむ、と頷くノブカズとラン。


「おお、あったあった。デスクの上に乗せたままじゃった」


 ……大丈夫かなぁ。


 悩んでいる間に紙束と鉛筆をノブカズとランに手渡す。

 ノブカズが疑問を口にする。


「データ提出じゃないんですね」


「記録として残すには紙媒体が適切なんじゃよ。書く側の記憶にも残りやすい合理的な物じゃ。それに、データ分析するときはそのまま機械に飲ませてしまえばよいことじゃからな」


「二度手間では無いのですか?」


「自分の症状がどれほどのものかを理解するには、己の手で紙に刻み込んでゆくのがいい、とは考えられんか?

 手間を省くのはよいことじゃが、手書きという手法が現存している意味をよく考えてみることもまた重要なことじゃと、わしは思うがな」


「……勉強になります」


 そう答えてから、ノブカズは検査衣に着替える指示が無いことに気づく。


「先生、検査衣に着替えなくていいんですか?」


「いや、特に必要ないよ」


 ランが怪訝な顔つきで口を挟む。


「え、でも先生、最初は検査衣に着替えなきゃ駄目だって……」


「ほっほっほ」


 ランがそばにあったパーティションを片手で掴んで投擲した。


「ぢゃああああー!」


 老医の絶叫がドップラー効果をつけて老医ごと廊下に飛んでいった。扉とパーティションというオプションつきで。


 ランが拳を握り締めながら吐き捨てる。


「このエロ医者っ!」


「覗き目当てに検査衣着せようとしてただけだったのか……」


 なに考えてんだか。


 ノブカズとランは同時に吐き捨てて、近場のソファにどっかり腰をすえて問診表の書き込みに取り掛かった。



     ■



 二十分ほど掛けて問診表をすべて埋めた二人は、廊下でへばったままの老医を医務室の中に引きずって来た。ランが老医の頬を数度はたくと目を覚まし、


「おや、昼寝でもしてしまっておったかな?」


 ノブカズが顔を真っ青にして、


「先生記憶が」


 無いんですか、と言い掛けたところでランの肘がわき腹に刺さる。

 ランが取り繕った笑顔で、


「そんなところでお昼寝したら風邪引きますよ~」


「おおまったく以ってその通りじゃ。うむ」


 諦めの表情になったノブカズが、


「……先生、とりあえず問診表書き込みましたんでデスクに置いときますね」


「あたしも置いときまーす。もう部屋に戻って大丈夫ですか?」


「おお、書き終わったなら帰っていいぞ。ご苦労さん。何か問題があったらオリンポス経由でメールを送るからの、その時はまた顔出しておくれ」


 ノブカズとランが顔を見合わせ、


「オリンポス?」


 問われた老医は一瞬怪訝な顔を見せたが、


「ああ、そうじゃったな。オリンポスの説明をしておこうかの。

 オリンポスはこの学院内のシステムを制御するAIの名称じゃが、統御システムのそれ自体を指して言われることもある。

 広い学院じゃからな、色々なシステムが複雑に入り組んでおるし、情報伝達の手段も煩雑になりやすい。そこでこのオリンポスが学院内のネットワークを一元的に管理しているというわけじゃ。

 役割としては各サーバーのマネジメント、コミュニケーションツール、データサーバー利用者からの照会に応じたリファレンスなどが上げられる。自然語を理解するから会話するように情報を引き出すことも可能じゃぞ」


「……ハイテクっすね」


 呆気に取られたように答えるノブカズだったが、ランのほうはと言えば内容の一割程度しか理解が出来なかった様子で、目が泳いでいる。

 老医はランのために補足する。


「まぁ、ようするにネットワーク上に存在する事務マネージャーみたいなもんじゃ。オリンポスへのアクセスは、ほれ、織田君が手にもっとる」


 ノブカズは手に持ったままのディスプレイを掲げて見せて、


「これですか?」


「そう、それで行う。名前はアポロ。それぞれ固有のAIが搭載されておるから、オリンポスへのアクセスも容易じゃぞ」


 へぇ、と二人。老医は続けて、


「データサーバーから色々情報を引き出しておくといい。このままでは日常生活もおぼつかんじゃろ?」


 二人揃って頷く。最後に礼を述べてから二人は退室した。

 ドアの閉まる音が廊下に響く。それっきり静かになる廊下に耐えられず、ノブカズが口を開く。


「あのさ、」


「あ、あたし部屋に戻るね」


 ランがそのままノブカズが来た方向とは逆の方へと向かう。


「疲れた。俺も部屋に戻るか……」


 呟いてから、スリッパを床に滑らせながら肩を落として廊下を歩いてゆく。


 部屋に戻ったノブカズはそのままベッドに倒れこんだ。アポロを手に持ったまま、だ。

 そのまま転がって枕に頭を乗せ、天井を眺める。


 アポロを持った腕とは逆の腕で目を覆った。


「ねむ……」


 頭が熱い。考えることを拒否するけだるさが、冷たい枕に吸い込まれていく。


 ……目が覚めたら、全部無かったことにはならないかな……。


 意識まで枕に吸い込まれていった。



     ■



 雨音に定期的な電子音が混ざる。


 ……だるい。


 眠ったときと同じ体勢のまま目が覚める。目を覆っている腕が痺れている。

 体ごと向きを変えて腕をベッドに落とす。


 鳴り続けている電子音の元は何だろう、と呆けた頭で考えながら痺れた腕を反対の腕で擦ると、電子音の発生源が手に握られたままだということが分かった。


 アポロを正面に持ってきて握られた親指でタップする。バックライトが点灯し、アナログ時計が表示された。

 時計は六時を指しており、その時計の下に文字が流れてゆく。


【今晩は、織田ノブカズさん! 食堂の夕食第一部が開始されました】


 画面を覆うように窓が出、座席仮予約機能を使うかどうか問うて来た。

 Yesで答え、座席仮予約が完了したことと予約番号、座席番号が表示されて窓が消える。

 代わる様に、画面右下にポップアップが表示された。点滅するポップアップには


【食堂へのナビゲーションを開始するにはここをタップ!】


 と書かれており、ノブカズはポップアップをタップしてナビ開始要請の意思を伝える。

 アポロがナビゲーションモードに移行し、医務室に行くときと同じナビゲーション画面が表示される。


「メシの時間……? 俺そんなに寝てたのか?」


 体を起こして窓枠にアポロを乗せ、窓を覆うロールカーテンを上げる。


 窓の外を眺めれば雨が降っている。夕闇に覆われながらも、様々なもののシルエットが見て取れる。滑らかなアールのついた池、刈り揃えられた芝生、椰子の木。さらに遠くを眺めると、煉瓦敷きの通路と防風林が見えたが、それ以上は雨と夕暮れに遮られて見えなかった。


「雨降ってなけりゃ綺麗な景色なんだろうな」


 もっとも、これはこれで趣があって良いのだけれど。そう付け足してロールカーテンを下ろす。


 アポロを手にベッドを降りる。サンダルを履いてもう一度姿見の前に立つ。

 姿見に映る姿は昼間と違って日光が入らず電灯だけで照らされており、しかしアポロを握っている姿まで昼間と寸分も違わなかった。


「鏡よ鏡、あなたの写しているのは誰?」


 答えは当然無い。

 馬鹿らし……。

 呟いてから、そんなに都合よく記憶は戻らんか、とため息交じりに思う。


「メシ、行くか……」


 気持ちを切り替えるように呟いてから、ナビを見る。医務室とは反対方向の建物にあるようで、到着予想時間は三分後となっていた。

 扉を開けて外に出る。扉のロックされる音が小さく鳴った。


「医務室行くときは気がつかなかったな……、どうやって開けるんだろ?」


 言って取っ手を握ると再びロック音が鳴る。今度は解除されたらしい。


「アポロで認証してるのかな」


 便利なもんだなぁ、と呟いてアポロを見ると、電球のアイコンが点滅している。タップすると


【室内灯を消灯しますか?】


と表示され、Yesを選択すれば


【室内灯を消灯しました】


と表示されてアイコンともに消えた。


「……超便利」


 呟きながら食堂へと歩いてゆく。ナビの予想通りすぐに着いた。入り口から眺める食堂はすでに賑わっており、座席予約が無ければ空いた席を探すのに非常に手間が掛かるだろうことが見て取れるほどだ。

 急にアポロが鳴動したので見ると、


【座席予約を確定しました】


と表示されており、ダイアログの確認ボタンを押せば窓が消え、地図に座席のマーカーが表示された。


 もう驚かない、と思いつつ、食堂の様子を伺う。


 入り口から眺めた食堂の様子は非常に広大な印象を覚えた。

 その印象に圧倒されながらも様子見を続ける。間口は壁の中央に位置しており、そこから一直線に奥まで抜ける太い通路がある。


 通路左右には広めの長テーブルと長シートのセットが各四列あり、テーブルセット同士の間隔は人が難なくすれ違える程度取られている。テーブルは固定、シートは可動式のようで、入り口入ってすぐのテーブルにはバイキング形式の料理がところ狭しと並べられている。

 壁際にはトレイや大皿の山がワゴンに載せられて配置されており、バイキングに並ぶ列はそこが起点となっていた。


 視線を食堂の最奥に向ける。すると雛壇状に段が設けられており、最上段にはクロスの掛かったテーブルが横一列に並べられていた。食事会か何かの際には最奥のテーブルに学院のお偉いさんたちが座るのだろうな、と思う。


 最後に視線を料理に並ぶ人たちに向けてみる。既に長蛇の列となっており、最後尾はノブカズの辺りにまで迫っていた。彼らをそれとなく観察してみると、手にアポロを持っている人が半数ほど、そのうちの大半は表情がどこか不安気だ。


 観察をやめて、ノブカズは料理の載ったテーブルを眺める。



     ☆今晩のメニュー☆

アミューズ  長芋のたらこマヨネーズ和えイクラ載せ、ワカメときゅうりの酢の物

オードブル  カリフラワーとベーコンのチーズ焼き、海老の天ぷら、いわしと夏野菜のミルフィーユ仕立て

スープ   ポークビーンズ、赤出汁(麩・わかめ)

魚     鮭と鯛の刺身、バジルソース掛け生鮭、塩鯖の切り身

肉     牛タタキ、ローストビーフ、生ハム

揚げ物   中華風ダレのから揚げ、クロケット、カツレツ

煮物    筑前煮、鯖味噌煮、ロールキャベツ、ドルマ

サラダ  生野菜のサラダとフレンチドレッシング、バジルと生ハムのスパサラ、たこと鯛のカルパッチョ

デザート マンゴーとキウイのフルーツポンチ、洋ナシのタルト

主食   パスタ(カルボナーラソース・ミートソース)、白飯(カレー・牛丼)


※ それぞれ保温トレイ・蓋付き保冷トレイ入り



「どれも美味そう……」


 さらに奥を見れば、オーブントースター、大口の魚焼きグリルまでが設置されている。


「魚とかは自分で焼けってことか。その方が美味いからいいけど」


 呟いていると、急に背中をつつかれた。

 振り返ってみれば医務室で会ったランが居る。


「羽佐間さん、だっけ。今からご飯なんだ」


「うん。織田君もなんだね。……料理すごい種類あるよね、なんか目移りしそうだよ」


「和で統一するか、洋で統一するか。或いは和洋折衷か……。思案のしどころだね」


「主食をどうするかで決まっちゃわない? あたしパスタにしようかな。織田君は?」


「俺は白飯かな。牛タタキの和膳にすると思う。パスタだとそれ一品?」


「ううん、ロールキャベツとサラダつけるかな。隣のパプリカの肉詰めみたいなのってなんだろ?」


「ああ、あれはたぶんドルマ。香辛料で味付けされた米とかひき肉を詰めて蒸し煮したものだったと思うよ」


「へぇ、初めて聞いたよ。ロールキャベツやめてそっちにしようかな~」


 ランが鼻歌を歌いながらトレイを取ってプレートと小皿を載せる。あ、と気づいたランがそれをそのままノブカズに寄越してくる。


「ああ、忘れてたよ。ありがとう」


「ふふ、料理選びに夢中だった?」


 まぁね、と答えてトレイを受け取り、空いた列を詰めてゆく。


「そういえば羽佐間さん、座席の予約ってした?」


「うん、アポロでさっき予約確定したって表示されてたよ」


「よかったら一緒にって思ったんだけど、予約しちゃったんじゃ駄目かな……」


「あ、それなら大丈夫だよ。今アポロで確認したら織田君の向かいの席みたいだから。それにね、さっきアポロで日々の行動ログ見てたんだけど、いつも織田君と一緒にご飯食べてるみたいだよ」


 なるほど、と感心したノブカズだったが、そういえば、ともノブカズは思う。羽佐間は両手でトレイを握っているが、アポロを持っていない。


「羽佐間さん、アポロどこやったの?」


「ん? アポロなら着けてるよ。ほら」


 言って片手で額を指差す。よく見れば、左目じりから眉上に掛けてL字型の流線が特徴なアクセサリが着いている。

 ノブカズは小首をひねり、


「アポロってさ、これじゃないの?」


 言って手に持ったままのアポロを掲げてみせる。


「あれ、織田君バインダー持ってきたんだ? 私のこれは携帯型だよ。普通はバインダー型を部屋で使って外では携帯型を使うみたい」


 へぇ、と間の抜けた返事をしたノブカズは周りの人間を観察してみる。デザインはまちまちだが、確かに左目の付近に携帯型アポロが装着されている人が多い。だが、とノブカズは思う。


「バインダー型? ってのを持ってる人も結構いるね」


「たぶん、さ。あたし達と似たような境遇なんじゃない?」


 あ、と思い至る。バインダー型を持っている人の表情はどこか不安気だとついさっき思ったばかりだ、と。

 思いながらノブカズは牛タタキを大皿に載せてポン酢を掛ける。


「あたしはお昼に部屋に戻ってからアポロで色々調べてたから携帯型があるって知ってるけど、調べてなかったらバインダー持ってきちゃうかも。織田君もそうじゃない?」


 ランは何も取らずにノブカズの後に続く。


「俺あの後部屋でそのまま寝ちゃったからね。確かにそうかも」


 ノブカズが置いてある小鉢をトレイに載せて筑前煮を入れた。


「でしょ? 色々調べたからご飯の時にでもはなそ。また後でね」


 言ってランはドルマを小皿に載せ、テーブルの各所に積んである小皿の山から一枚取り、カリフラワーとベーコンのチーズ焼きも盛り付ける。そのままランは列を離れてパスタを取りに行った。

 ノブカズは海老の天ぷら、スパサラを小皿に盛り付け列を離れる。ご飯を陶器の茶碗に盛り、麩とワカメの味噌汁をよそう。

 テーブルにトレイを一旦載せてアポロを見る。座席番号とナビが相変わらず表示されている。座席はC52だ。視線で場所を確定し、トレイを両手で抱えて座席に移動。対象座席にC52と書かれたプレートが貼られていえることを確認して着座した。


「そういえば水入れてくるの忘れてた……」


 言って給水器を探して周囲を見渡せば、テーブルの各所にコックの付いた水道口があり、トレイに伏せられたグラスがセットで置かれていることに気づく。最も近い水道口は腰を浮かせば届く範囲にあった。

 ほんのりと紫色したグラスを二つ取り、水を汲む。

 シートに腰を下ろしなおして片方のグラスを置き、もう片方を一気に呷る。

 一息ついてもう一度汲み直したところへランがやってきた。


「お待たせ~って待ってないか」


「そんなことはないけど、意外と時間掛かってたね。どうかした?」


「うーん、パスタ取ったときにデザート系を盛ってるところ見つけてさ、色々見繕ってたら時間掛かっちゃった。ほら見て」


 トレイをテーブルに降ろす。トレイの上には、カルボナーラソースのパスタ、千切りキャベツとトマトの生野菜サラダ、ドルマ、カリフラワーとベーコンのチーズ焼き、マンゴーとキウイのフルーツポンチが載せられている。非常に彩り鮮やかだ。


「デザートなんてあったんだ、気づかなかったよ」


「主食系置いてあるテーブルの近くにあったよ。欲しいなら後で行くといいんじゃないかな」


「……食べてから考えるよ」


 軽く笑って見せて、じゃあ食べようか、と付け加える。


「あ、お水入れてくれたんだ。ありがと」


 いえいえ、と返しているところに、携帯アポロをつけたノブカズと同年代の青年がトレイを抱えてノブカズの隣まで来た。


「ども……。ここ、良い?」


 ノブカズが頷き、


「予約してあるなら大丈夫ですよ」


「ああ、それなら大丈夫。ただ、もし誰か来るようなら他の座席に予約しなおそうと思っただけだから」


 ああ、とノブカズが苦笑いし、


「俺たちそういうの、無いから」


 青年がC51の座席に座りながらばつが悪そうに言う。


「……昼過ぎに目が覚めたら、その、何にも無くてな。医務室でアポロとオリンポスのこと聞いて色々調べてるうちにメシの時間になったんで来たから、なんてゆーかホント何もわかんねぇ」


 ランが幾度も頷いて、


「うん、分かるよ。あたしたちも同じ境遇だから」


「やっぱり? 嫌な言い方だけど仲間が居てよかったよ」


 ノブカズがまた苦笑いを浮かべて、


「ホントに嫌な仲間だな。でもまぁ心強いのは確かだね。俺は織田ノブカズ、よろしく」


「あたしは羽佐間ランって言うみたい。よろしくね」


 安堵の表情を浮かべた青年が、軽く微笑みながら言う。


「俺は柴田コウヨウ……、名前がどうも馴染まないがよろしく頼む」


「俺たちも自分の名前に馴染みが無いんだ。まぁ呼び合ってるうちにお互い馴染んでくるかな」


「そーだなー、気楽にいきゃ良いんだな」


 コウヨウと名乗った青年が鷹揚に頷く。


「んじゃ冷めないうちに食べますか」


 ノブカズの一言をきっかけに、三人が同時に、いただきます、とお辞儀する。


 コウヨウのトレイには、牛丼と香の物、えびの天ぷら、生卵が載っている。

 コウヨウが生卵を溶いて牛丼に回し掛けた。


「やっぱり牛丼には卵と紅生姜だよなぁ。……紅生姜なんで無いんだよふざけんなよ」


 急な感情の発露にノブカズとランは戸惑う。鷹揚としていたところに激情が混ざったからだ。


 ……こだわりが強いだけか、感情の振幅が不安定なのか、それとも極度の「マイペースなのか……?」


 思考が強すぎて口に出る。あっと思ったときにはコウヨウが眉をひそめてこちらを見ていた。すぐに視線を牛丼に戻すが、しかしどこか遠くを見つめているように見える。


「マイペースね……。俺の嫌いな言葉だから二度と言わないでくれ」


 携帯アポロの着いた目元を一瞬歪ませ言い捨てた。すぐに表情をフラットに戻す。


「すまない……。あっ、ところでさ、柴田君のアポロって羽佐間さんのとデザイン違うんだね」


 ランのアポロは涙摘のような流線型だったのに対して、L字型という共通点こそあるもののコウヨウのアポロは直線的だ。

 非常に機械的で無機的な印象を与える。


 ランが軽く頷き、


「色々市販されてるみたいだよ。データベース見る限りじゃ生活必需品みたいだし、デザイン色々あるのも不思議じゃないんじゃない?」


「なるほどね、部屋に戻ったら調べてみるか」


 言ってからノブカズは視線をトレイに戻して茶碗片手に食事に集中する。牛タタキに乗せられているネギをタタキで巻き、白飯に載せて飯ごと口に運ぶ。


 ネギとポン酢の風味に混ざって白飯が香る。


 一口噛めばポン酢の混ざった肉汁がじんわりと染み出し、野生的で華やかな風味が口いっぱいに広がる。


 早く飲んでしまいたい衝動とまだ味わっていたい感情の鬩ぎ合いが始まり、咀嚼にさらなる力がこもってゆく。


 力強く噛まれたタタキから、ネギの繊維が断裂してツンとした青い香りと白飯に灰汁を吸われた肉汁の赤い香りが放たれ、それらが混ざって濃い橙色となり鼻から抜けてゆく。


 喉を力強い温かさがするりと抜けて、胃の腑にゆっくりと落ちてゆく爽やかな感覚が、体中に電気のように伝播する。


「ほぅ……」


 満足の吐息を漏らしながら、ノブカズは茶碗を一旦テーブルの上に置いた。ふと視線を上げてみると、ランもコウヨウもこちらを見て軽く微笑んでいる。


 はて、何だろうと思い、


「どうしたの、揃ってこっち見てるけど。なんか変だった?」


 二人ともかぶりを振って否定する。


「そうじゃねぇよ、あんたが幸せそうにメシ食ってるのを見てると微笑ましく思ってさ」


「うんうん、ホント美味しそうに食べてるからこっちまで幸せのおすそ分け貰っちゃったよ」


 そんなものか、とノブカズは思う。あくまで普通に食べているつもりなのだ。


「二人とも、見てるのは良いけどご飯冷めちゃうよ」


 そうだった、と二人も食事に戻る。


 コウヨウはえびの天ぷらをろくに咀嚼せずに飲み込み、牛丼に集中しだした。


 ランはパプリカの形状そのままのドルマをどう食そうか試行錯誤した挙句、箸で挟んでかぶりつくという選択を取った。

 出汁がところどころから溢れ出して皿に水溜りを作る。咀嚼して嚥下した後、テーブルに置かれた紙ナプキンを一枚取って口を拭う。


「ドルマ、美味しい?」


 ノブカズが感想を尋ねると、ランは口を拭い終わってから、


「うん、ちょっと食べ方難しいけど美味しいよ。カレー風味の出汁がひき肉とお米に染み込んでて噛めば噛むほどじんわり味が口の中いっぱいに広がっていく感じ」


「俺もそれ取ってくれば良かったなぁ」


「いいじゃん、取っておいでよ」


 ノブカズは苦笑しつつ否定する。


「や、たぶんここにある分だけでお腹いっぱいになるよ」


「そっかぁ、じゃあ仕方ないね」


 会話もひと段落し、黙々と食事を再開した三人のところへ、同じくトレイを抱えた少女が歩いてくる。迷うことなくランの隣へトレイを置き、


「やっほ~、昨日は散々だったらしいね。大丈夫だった?」


 明らかに、明らかに三人に対して話しかけてきている。一瞬視線を交わす三人組。


『ダレかわかる?』


『いやわかんねぇ』


『あたしも知り合いじゃないなぁ』


 ひょっとすると共通の知り合いで覚えてないだけなのかも、と三人とも思い至るが口には出さない。


 ……どうしよう。


 奇妙な沈黙が四人を襲う。

 ノブカズが愛想笑いをして凌ごうかと考え始めた時、正体不明の少女がぽんと両手を合わせて、


「わかった! みんなウワサの記憶喪失ってヤツだねっ!」


 ………………。


 ランが後に語ったところでは、沈黙が風になって吹き抜けていくようだったという。

 一拍遅れて皆のリアクションの波が続く。


 ノブカズが鼻水を噴き出し、


 ランが周囲をせわしなく見回し、


 コウヨウが爆笑した。


 リアクションの元凶が赤面して両手で頬を押さえ、


「ゴメンね、全然ウワサじゃなかったよね!」


 いや否定するべきところはそこじゃないだろ、と皆が一様に心の中でツッコミを入れる。


 そもそもウワサになっているのか、いやそもそもデリカシーの無さにツッコミを入れるべきなのか、いやいやそもそもだな……。


 ツッコミの無限地獄に陥ったノブカズをよそに、コウヨウがフォローを入れる。


「分かったような顔で頷かれるよりよっぽど良いさ。まぁ俺たちはそういうことだから、あんた自己紹介してくんねえ?」


「わかった! あたしは天神カエデ。変な言い方になるけど、よろしくね」


 よろしく、と声を揃える。カエデと名乗った少女が思い出したように言う。


「あ、あたしは記憶とかゼンゼン問題ないから自己紹介は無くて良いよ!」


 ビシッ、と親指を立てる。

 ノブカズが半目になって、


「自信たっぷりに言われてもなぁ……」


 ランがすかさずフォローに入る。


「ま、まぁいいじゃない。それより、ひょっとしていつも四人でご飯食べてるのかな?」


 カエデが表情を曇らせて、


「そうだよー。うぅん、本当に忘れられてるって軽くショックだね……」


 スミマセン、と三人でハモる。それに天神がウッと引いて、


「まぁまぁ大変なのはお互い様ってことでっ! ね!」


 ねって言われてもなぁ、とノブカズがぼやく。ランが慌てて口元に指を当てて、


「しぃーっ」


 まあまあ、となだめるカエデの声をバックグラウンドに、スミマセン、と小声でノブカズが小声で謝る。

 一拍あけて、あっと声をあげるカエデ。


「そういえば、明日記憶喪失者相手の説明会かねた集会があるみたいだよ。

 後、毎日の時間割もその人たち向けに大きく変わるってさっき先生言ってたから、みんなにはそのうちメールで連絡入るんじゃないかな」


 なるほど、と三者とも頷いた。ノブカズが、んじゃあ、と付け足す。


「今ここで天神さんに色々聞かなくても明日になったら説明してもらえるってわけだ」


 天神さん、と呼ばれて顔をしかめたカエデは抗議する。


「んー、その苗字で呼ばれるのは先生以外だと久しぶり過ぎて恥ずかしいね……。いつもみたいに……って言ってもわかんないか。じゃあさ、お互い下の名前で呼ぶことにしない?」


 うんうん、と頷く三人たち。各自、自分の名前を反芻するように呟き、しかし小首をかしげて、


「思い出せない……」


「ま、まぁ気にしなくて良いんじゃないかな? 名前なんて、ほら記号みたいなもんだしっ!」


「そりゃその通りだが人の名前を記号呼ばわりするんじゃねえよ!」


 一瞬の沈黙。そして噴き出す音が連続する。笑い声がしばらく続き、それが止むと各々顔を見合わせ、


「まぁ、よろしく」


「よろしくね」


「よろしくな」


「うん、よろしくねっ!」


 笑顔の絶えない晩餐が再開され、夜も更けてゆく。

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