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第〇一話 仮想と現実と

 ただいま、と小さく呟きながら、無人の自宅に入ってゆく。閑静な住宅地に立つ一軒家は、内部まで静寂に包まれている。

 足音だけを響かせてリビングを素通りし、階段を上がり、二階の洗面所で手洗いうがいのワンセットを行うと、掛けてあったタオルをわしづかみにしたまま自室のドアを開けた。


 タオルをつかんだ手でドアを閉めて口元を拭うと、思いっきりドアに向かってそのタオルを投げつけた。


 鈍い音が響き、それっきりまた静かになる。


「何が半セレブだよ……!」


 言い捨てて首筋の携帯端末を取り外してベッドに放り捨てる。


 ドア横のスイッチを入れて電灯を灯し、その足でドアと反対側の部屋隅にある安楽椅子形ブースター端末まで行き、スイッチを足の指で叩き込むように入れる。


 ファンが唸り、ハードディスクがカリカリと読み出しを開始する。机と接した壁にかけられたディスプレイに灯りがつき、OSのロゴが輝く。


 数秒の後、ブースター端末使用準備完了のサインが出たことを確認してから端末に座り、首筋に端末から伸びたプラグを差し込んで体を椅子に預ければ、壁のディスプレイに接続完了のポップアップが表示されて電源が落ちる。


 ナオキは大きなため息を一つ吐いてまぶたを閉じる。すると視覚にブースター端末の画面が介入し、視界と画面が一体化する感覚を得る。


 身体機能の大半を電脳に預けて待機状態にし、身体感覚までブースター端末の物と共有することで、ブースター端末の作る仮想空間へと入ってゆく。


 仮想空間の中は非常に快適だ。例えばインターネットに繋いで情報サイトにアクセスすれば脳に直接情報が飛び込んでくるし、喫茶店のサイトにアクセスすれば香しいコーヒーの香りを楽しめる。


 廉価ながら有料サービスを利用すれば、満腹感こそ無いものの一流のフルコースを仮想的に堪能することも出来る。

 違法だが、それらの食事データを無料でシェア出来るサイトも存在している。ナオキもそこからモカ・マタリの味覚・嗅覚・触覚の統合データをブースター端末にダウンロードして保管してあったりする。


 木製の小ぢんまりしたテーブルとロッキングチェアのデータを展開し、真っ白な仮想空間に設置する。

 梅雨時特有の湿気とも無関係な仮想空間内にお気に入りの家具を設置することでナオキの機嫌も甚だ良くなった。


 さらにナオキは保管してあるモカ・マタリのデータを、ウェッジウッドの白地に銀縁のコーヒーセットで展開して、テーブルの上に設置した。


 ロッキングチェアに着座し、当たり年と言われた二〇三二年のコーヒーを堪能する。


「やっぱり場末の喫茶店の物とは違うなぁ……」


 呟きながらコーヒーの香りを楽しみ、一口啜る。


 ふわりと気持ちが解きほぐされてゆく。鼻から抜けてゆく空気までコーヒーに染まり、香ばしさにうっとりする。


 鳥のさえずりとクラシックのデータを適当に見繕って再生すれば、仮想空間はナオキにとって最高の安らぎの場所となった。


「コーヒーと音楽があるだけでこんなにも安らげるのに……」


 満たされないのは何故だろう。ナオキにとってわかりきった疑問を仮想空間内で口にする。


 労働していないこと。それが満たされない原因だった。ナオキは労働自体好きではない。働かずに食えるなら万々歳なのは万人にとって統一された思考だが、ナオキも例外ではないのだ。


 ただナオキは誰かに負担を掛けることを良しとしない。自主独立を旨とし、人に与えることで喜んでもらうことを好む。


 もちろん聖人君子というわけではなく、与えたものに対しての対価は要求する、そういう人間性だった。ゆえに、彼の好む職はサービス業で、事実二年前までホテルのレストランで給仕をしていた。


 セレブな人たちが足しげく通うレストランで、相応の対価を貰い、全力でサービスする。まさにナオキの理想とする職だった。


 しかし体と心がナオキの理想について行けず、うつ病にかかり、一切の仕事を放棄せざるを得なくなった。人生のよりどころを失った気分を味わったのだ。

 以来、一切の自信を失ってしまった。日常における行動でさえ、正しいことをしているのかと家族に問うほどに。


 二年間の空白は、ナオキにとって地獄だった。医者にはそろそろ働いても良いといわれても自信が持てず、一歩を踏み出せずにいる自分に、さらにフラストレーションがたまる。


 カップを呷ってコーヒーを一気に飲み干す。しびれるほどに熱い舌、苦味と酸味が胃に落ちてゆく感覚。


 ……急に、カラスが鳴いた。


 現実世界の自室、その窓の外で大きな音が鳴ったため、電脳が自動的に意識を現実に引き戻したのだ。


 嗅ぎなれた紙とインクのにおいで満たされた自室。コーヒーの香りはどこにもない。


「くそっ」


 何もかもが上手くいかず、イライラする。机の上に乗せられた薬袋から抗不安薬を取り出して三錠を口に放り込む。

 部屋に置かれた給水機から水をマグカップに入れてのどに流し込んだ。ため息一つ。


 ナオキは気分を変えようと、ネットに接続することにした。


「エヌ、だっけ。例のゲーム」


 壁に掛けられたディスプレイにポータルサイト・セージを表示させる。検索窓にキーボードで『エヌオンライン』と手入力し、検索を掛ければ最上位に公式サイトが表示された。


 マウスでクリックしてサイトを開く。


「えーっと、必須環境は~と……」


 先ほどの会見でジョージから必須環境を尋ねることをすっかり忘れていたため、電殻の対応型番、ブースター端末の必須環境などを調べてゆく。


 そもそも電脳とは、肉体を補助する目的で開発された物だ。電脳本体と脊椎ユニットを併せて電殻と呼ばれるが、これらは義肢のマネジメントや視聴覚データを電子的に処理するための物に過ぎない。


 よって、各種の機器を接続することで拡張性を高めているのだ。例えば、電脳を介したデータ通信には首筋に掛ける携帯端末が必要になるし、より高機能なゲームや情報処理、機器操作にはブースター端末と呼ばれる固定型の処理装置が必要となる。


 ブースター端末の形は様々だが、ナオキが使用している物は安楽椅子形で、長時間の使用でも体が痛くならないような物だ。


「えーっと、俺が使ってる電殻が『豊和HWL四二LT』だから……」


 リストから豊和を選択して検索を掛ければ対応電殻リストが表示され、そこに『HWL四二LT』があることを確認する。


 ブースター端末の方は、グラフィックボードと通信ポート規格、CPUのスペックが要求値以上であることを確認した。


 すべきことはしたかな、と思い、ブラウザを閉じようとした時、電脳内のスケジューラーがアラームを鳴らす。確認するとテスター募集開始の合図だった。


 ページを切り替えて応募フォームを表示させる。


 フォームトップにあるのは住民基本台帳番号入力欄だ。そこに暗記している自分の番号を入力してゆく。フォーム隣の確認ボタンを押すと総務省サイトに自動アクセスし、二十四桁のパスワードを要求してくる。入力すると自分の個人データが新しい窓に表示された。


 指定された企業に個人情報を提供してよいか問う窓がポップアップし、それにOKで答えるとエヌの登録フォームに自分の個人情報が自動入力されてゆく。内容に不備が無いか確認して次のデータ入力へ移る。


 希望ID、パスワード、希望ユーザー名などを続けて入力してゆけば、必須アンケートと書かれた項目で最後だ。

 そこには『直近の就業状況』とあり、説明書きには『厚生労働省のデータベースに登録されている就業状況データを提供してくださる場合にはゲーム内にて各種特典を差し上げます』とあった。


「見るからに怪しいなぁ……」


 言いつつ、万が一情報漏えいなどがあればすぐに調査する体制が国によって整えられていることを思い出し、『就業状況:無職』を選択して『データベースを提供する』にチェックを入れた。


 すぐさま厚生労働省のページが立ち上がり、データベース提供の是非を問う窓にOKで答え、住民基本台帳番号とパスワードを入力することで本人確認を行った。


「就業状況なんて聞いてどうするんだかなぁ……」


 テスター応募申請完了のメールが届いたことを確認して、すべての窓を閉じた。


 ベッドに倒れこみながら、


「当選するかな……」


 と、呟きを残して。

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