救い人
ざーっざーっと箒をこまめに動かしながら、いつものように屋敷の落ち葉を掻き集めている老人がいる。この土地を長年に亘って見守り続けた番人は、一介の庭師に扮し、全く香川の存在に気づいていないように見えた。香川はそっと近寄った。
「すみません、この男に心当たりありませんか?」
香川は小さな写真と共に老人に話しかけた。老人は、んんっと気怠そうに体をひねり、ゆっくりと顔を上げた。背の高い香川を見上げる老人の目は、意外に澄んだ色をしていた。
「悪いが、知らんな。こんな男は見かけたことも無い。他を当たってくれ」
一言そう言って、再び箒を動かそうとする老人に、香川は丁寧にその手首を掴んだ。箒は音もせずに止まった。
「境のこの地で、何をしているんです、城屋さん?」
老人は逆に、香川が握った手の甲の上に冷たい掌を重ねた。老人はにやりと口元をゆがめ、なんだ、と呟いた。
「ばれてたのか。みすぼらしい格好をしてりゃあ、気づかれないと踏んでいたのだがな……。それにしてもまさか香川君がここに現れるとは」
老人は香川の手を振りほどいて、箒を掴み直した。
「なぜっ、ここにあなたが。境で何があったんですか。境には一体何が……」
「境は……桃源郷だと思っていたんだ」
香川の声は途中でぷつりと途絶えた。。老人の小さな体から発せられたその言葉に、香川が身を固めたからだ。これから恐ろしいことが語られる。そんな予感が自然と香川の動きを止めていた。
「私は様々なものを境で失った。光もその中のひとつだ。私にはもう目が見えない。さっき君は私の目を見て、気づいたはずだ。だからあえて自分の写真を見せたんだろう?自分の、女の写真を」
この男はやはり見抜いていた。香川由紀代。そう刻まれた自分の写真をぐちゃぐちゃに丸め、老人の次の言葉を待った。おそらくすでにこちらの思惑は全て筒抜けなのだろう。
「君の隣には、男がいるね?そうだろう?」
香川の横で、ひっそりと息を潜めていた男は、大きく息を吸い込んだ。
「上野と言います。公安調査庁の人間です」
「公安調査庁?てっきり警察の方だと思っていたんだが……。まあ、いい。それよりうまい考えだったな。この男を知らないか、と尋ね、女の写真を見せる。これではただ知らないと答えるのでは不自然だからな。香川君らしい、トラップだ。だが、なぜ君たちは境を知っている?誰から聞いた?」
香川は横目で上野の方を伺う。上野は辺りを見渡して、静かに頷くと老人の肩に手を置いた。
「この地に連れて来たのは私です。香川さんにはあなたが城屋雅人本人だという確認を取るために同行していただきました。これ以上無駄な考えは持たず、自白してください」
城屋は知っているはずだ。いずれ己が捕まってしまうことを。すべて、すべて彼の手の内だ。捕まることを見越して、城屋は今ここにいるのだ。それ以外、城屋がここに丸腰でいる理由は無い。
「私は救い人なんだよ。境に行き、私は歴史を見た。この世界の歴史をだ。光を失い、時を失った。そんな中で、唯一私は境の人間達の魂を奥底からすくい出し、救済できた。唯一、救い人として生きることができた。境を知っているということは、お前もどうせあっちの人間なんだろう?」
城屋の目は真っ直ぐ上野を睨みつけていた。香川がもし、あの殺人的な眼差しを向けられていたなら、耐えられていない。しかし、上野は物怖じひとつせず、その見えないはずの“目”を受け止めていた。
「救い人。もしあなたが本物の救い人であるなら、魂をすくう救い人であるなら、そうである証拠を見せられるのか」
香川は全てを上野へ託した。この老獪な城屋を倒すことができるのは、自分のような人間ではない。境と呼ばれる未知の国に関して、香川にはほとんど知識がない。境とは何なのか。救い人とは何なのか。
「証拠……この姿がその証拠だよ。私はこの仮の姿を纏い、案内者となるのだ。城屋という、仮の肉体を借りてな」
「仮だと……あなたは、まさか……越境者なのか……」
城屋は首を傾げる。
「救世主だ。境を抜け出した今となってはただの老いぼれだがな。それとも、私と共に、来るか、境へ」
「あなたは城屋ではない、ならば、一体、あなたは、誰なんだ」
「終わりにしようか」
二人の対峙するその空間にはこの世界の住人には認識することのできない別の世界の光景がひろがっているのだろうか。境という名の世界が二人をどこか違う場所へ導いていこうとしている、そんな気がしてならない。
「まずい、取り囲め!」
上野の一声で周りで待機していた警官隊が一斉に城屋のもとへ駆け出した。城屋は箒を手放し、目を閉じた。涙がこぼれ落ちる。
「とにかく城屋が救い人であるなら、注意が必要だ。救い人は境にいれば絶大な力を持つ。救世主だから。そのあまりにも強大な力故、境を抜けても一部はその能力を保持する。城屋の能力がどんなものなのか分からない。だが、その力を悪用し、境へ何人もの人間を誘拐しているのは確かだ。俺たちは、ただその犯罪者を取り締まるんだ」
上野はそう言った。この屋敷へ向かう最中、香川は聞いた。
「境って何ですか?」
「何も知らなくていい。誘拐犯のアジトだよ」
万が一、城屋が何か策を温存しているのなら、その救い人の能力だ。
警官隊が城屋に衝突する。刹那、世界が静止するのを感じた。
気がつくと、周りは穏やかな大都市の風景だった。大通りを何台も車が香川の横を通り過ぎて行く。香川は城屋が何をしたのかを悟った。ここは巣鴨だった。例の大事件が勃発するその前の巣鴨だ。ここで全てが始まった。城屋はすくい上げたんだ。全員を。時空ごとすくい上げ、そして救ったに違いない。境の人間を救ったように。もう一度チャンスを得た。私は、ふりだしに戻されたんだ。
後日、上野とはしばらく連絡が取れなかった。上野とたまたま会って、例のことを尋ねると、
「結局、城屋は俺たちを過去に戻した。それが意味することは一つしか無い。この国を救えってことさ。そうそう、救い人のくせに妙にあまいところがあるみたいでさあ、こんなものを落として行った。屋敷でこの前拾った」
上野が取り出したのは、キーホルダーだった。ユニークなデザインで、あの東大寺の大仏そっくりの形をしている。しかし、肝心の仏の顔がなかった。のっぺらぼうの仏。これは境のシンボルだと以前、上野から聞いた覚えがあった。
「裏にメモがあった。こっちへ来い、とさ。この時代にはまだ境にいるはずなんだ、城屋は。だからかな」
「行ったところで何ができるんです?巣鴨の事件までもう一ヶ月ですよ」
上野はそうだな、と不敵に笑ってそれ以来、上野とは会っていない。